ようこそクソボケ至上主義の教室へ 作:ダマラスカイ31世
福岡県立中学校の教室。入学式も学校案内も終わり、あとは荷物をまとめて帰るだけだ。そんな時、目の前に現れた生徒。真新しい上履きの色が赤いことから
視線を上履きから上げ、彼を観察した。春の凪いだ海を思わせる、柔らかな青い瞳。入学早々ブレザーを脱いで袖をまくっている姿は活発そのものなのに、端正な顔立ちと、中学生とは思えないほど様になったタイピンが、全体を引き締めていた。
「堀北さんだよね? これ、お兄さんから。渡されたらその場で確認しろってさ」
「兄さんが?」
彼が差し出したA4サイズの封筒を受け取った。
兄さんからの届け物を、彼が持っていたのは疑問だが、今は封筒の確認をしなければならない。彼の言葉が本当なら、兄さんが『その場で確認しろ』と言ったのだから。
はっきり言って怖かった。封筒の中身に怯えていた。絶縁状でも入っているのではないか、そんな嫌な考えが頭に充満する。
兄さんが中学生になってからは、私との関係は大きく変わった。
私に微笑んでくれた兄さんは、私の頭を撫でてくれた兄さんは、私を褒めてくれた兄さんは、いつしか常に憤るようになった。
しかし、それは全てにおいて私が悪い。兄さんの期待に応えられない私が悪い。兄さんのように成りたいと宣いながら、そのつま先にも手が届かない私が悪いのだ。
そんな、情けなく、怖く、認めたくない現実から逃避するように封筒の中に手を伸ばす。
封筒から出てきたのは1冊の小説と、メモと原稿用紙だった。
メモの内容は単純だった。『同封された中島敦全集の「山月記」を読み、感想文を書け』だ。ただ、条件があるらしい。目の前にいる彼とやり遂げろ、とのことだ。
この課題を彼と共に取り組ませる理由。私には兄さんの考えが少しも分からなかった。しかし、兄さんの行為に無駄があるはずもなく、私が実行に移すべきなのは明らかだろう。
「私と貴方は、これから山月記の読書感想文を書くことになったわ。不便だから名前を教えなさい」
「隣の席の米倉。よろしくおなしゃす。………………それにしてもいきなり山月記か……パイセンやってんなぁ」
どうやら彼は『よろしくお願いします』も、まともに言えないらしい。彼が読書を、ましてや感想文を書けるとは思えないけれど大丈夫なのだろうか。そんな困惑と不安を抱えながら私たちは図書室へ向かった。
「米倉くん。貴方は読まないのかしら?」
長机の向こう側で間抜けな顔をしながら、ペン回しをしている彼に、私は聞いた。仮にも兄さんから依頼されたのだから真面目にやって欲しい。不愉快だ。
「山月記なら読んだことあるんで。読み終わったならとりあえず感想言い合いましょ。どうでした?」
「どうと言われても……正直よくある話よ。自身の才能に振り回され、他者を見下し、戦いもせず勝ち誇る。その癖いざとなれば逃げ出す。プライドが高いだけで自己肯定感、自己認識力の低い人間の末路ね」
「はえー……なるほど……なぁ」
口をポカリと開き、指の間をスルスルと渡るペン回しをしている彼。そんな態度に眉間が寄る。
「随分とバッサリいくなー。李徴には、1mmも共感できません?」
「できないわ。少なくとも私は羞恥から逃げてはいないもの。テストや大会で、自身の実力を発表し、結果を受け自省する。健全な学生ならば誰でもやっていることよ」
私は人より努力している自信も自覚も在る。それでも常に頂きに立てるわけではない。兄さんに顔向けできない成績であれば酷く悔しく恥ずかしい。しかしそれは、努力から逃げる理由にはなり得ないのだ。
「んー……羞恥心って言葉が悪さしてるのか。もっと大きく括って恐怖心にしたらどうですかね?」
「恐怖心……?」
聞き返した声が、思ったより硬かった。彼は気にした様子もなく、ペンを指先で転がす。
「YES。羞恥心ってのは不安の一種なんだから恐怖心でまとめちゃってもいいっすよ」
「詭弁ね。本文で羞恥心と書かれているのだから、それに則るべきよ」
「詭弁で良いんすよ。
私は押し黙った。理由は分からない。ただ口が開かなかった。
「その感じなら、
そう言った彼は、ガラガラと耳障りな音を鳴らして図書室から出ていった。
手元に残った全集は、少し黄ばんでいて角が擦れていた。何度も開き、ページが捲られた証だろう。兄さんと父さんが使うボディソープの爽やかな香りが鼻を突くと、妙に指が力んだ。
「じゃあ今日は罪と罰っすね。どうです? 感想。面白くなかったでしょ」
「いえ、なかなか面白かったわ。無駄に性描写が多いのが嫌だったけれど」
週1回の読書感想文会も今回で15回目だ。4ヶ月近く付き合ってくれば彼の人となりも分かってきた。
授業中にペン回しを練習してみたり、ノートをちぎって折り紙をしてみたり。お世辞にも良いとは言えない授業態度。挙句、中間テスト1週間前の自習授業では、試験とは無関係の医学書を読み耽っていた。そんな彼を馬鹿にしていた私は、10点差をつけられ学年2位に叩き落とされた。
感想文会でも、本当に選書された物を読んでいるのか、怪しく感じ問い詰めてみれば諳んじたのだ。いくら短編とはいえ5000文字近くを暗記していた。
身体能力も凄まじい。体育の授業は男女別なため詳しくないけれど、傍目から見ても飛び抜けている。私は100m走で後続とあれほどの差が開くところを見たことがない。
彼は天才なのだろう。兄さんと同じ向こう側の人。だからきっと兄さんは私に寄越したのだ。兄さんはまだ私に期待している。それが感じられる人選で、嬉しかった。
「ところで米倉くん、罪と罰が相当に嫌いなようだけれど、読んで理由が分かったわ」
4ヶ月でわかったことの一つ、彼は表情が豊かだ。今週の選書が罪と罰だと知った時、そして今顔が引きつっている。
「貴方、主人公ラスコーリニコフに似ているわね。頭脳明晰、眉目秀麗。どちらかと言うと女顔」
「………………」
「ただ、決定的に食い違っている部分がある。貴方は自身の天才性を誇っていない。もしかしたら嫌悪しているのかしら。だから嫌いなのよね」
どうも彼と居ると私の性格は悪くなるらしい。彼の眉間のシワがたまらなく面白い。
「己を天才だと信じたい凡人。挙句、自身は天才だと証明するために殺人を犯す。何だかんだで人の良い貴方はそんな主人公が大嫌いなんでしょう? でも主人公も歪んだ思想を持っているだけで、根っこの部分は
「身内に甘いのはお前だろ……ブラコン女」
4ヶ月で分からなかったこともある。どうやら狭量らしい。ちょっとした軽口に対して侮辱で返すとは。
「撤回と謝罪を要求するわ。尊敬に足る人を敬っているだけよ。ブラコンなんて言う俗悪な表現をされる謂れはないわ」
「……話を戻しましょう。罪と罰のテーマとしては、エゴイズム、罪、愛と信仰の3つね」
「おぉ……ちゃんと読み込んでるっすね。本当に面白かったんすか」
今まで読んできた15冊の中で最も面白い作品だった。
かなり娯楽の要素が強いのもあっただろう。特に敏腕予審判事のポルフォーリーとの舌戦は、引き込まれるものがあった。
それに、主人公の妹ドーニャの存在もある。芯が強く逞しいが、心根は兄想いの少女。何も感じないと言えば嘘になるだろう。
「正直、この小説なら原稿用紙10枚でも書けるわ……でもその前に貴方の斜に構えた感想を聞きたいの」
「ひでぇ言い方っすね」
「事実でしょう。自分の都合のいい解釈ばかりしている。ただ、私とは違う側面から物語を読んでいるわ。貴方は」
彼は天井を見上げた。少し唸りながらより速くペンを回している。
「そうだなぁ……小説の最後。主人公とヒロインは流刑地シベリアで再起を思わせる感じで終わりますよね」
「そうね。愛と信仰があれば人は復活できる。この作品のテーマの1つよ」
「じゃあ、本当に再起できると思います? この後この2人は……」
それを疑ってしまえばテーマである『愛と信仰』の否定になるだろう。それは読書体験の完全否定に繋がるのではないだろうか。
「俺は無理だと思うんすよ。だってコイツら再起のための手順を無視してるんすよ。人は己の罪を識るには罰されないといけないんですよ。他者に罰され、自ら罰し、罪を識り、その果てに赦しを得るんすよ」
何故だろうか。彼の言葉はいつも私の喉を締め付ける。
「でも
「………………」
「まず、叱るんです。何故こんなことをしたのかと。己の罪を自覚させる。諭すんです。次も同じ過ちを犯すなと。反省させる。聞くんです。子供の懺悔と挽回の意志を。最後に赦すんです。しこたま愛を込めて」
「何が言いたいのかしら」
「んーむぅ……自分でわかってくれ、は酷か。なら……」
真っ青な瞳と目があった。
「パイセンは、なんで堀北さんに強く当たるのか……なんで感想文なんて書かせるのか。結局分からないままでしょう?」
「貴方が教えてくれはしないのね……」
「教えても解決しないなぁ……第一解決する必要がないと思うし。堀北さんのメンタルは健全度上がってきてるんで、それで満足。パイセンの望みは正直どうでもいいし……」
やはり彼は兄さんの目的が分かっている。その上で無視している、そのことに不思議と怒りは湧かなかった。
「んじゃ、自分はここで。
彼が去った後の原稿用紙は、いつも広く思える。
堀北遭遇編は次回で終わらせます。
次次回は櫛田遭遇編。櫛田はギャグ多めにします。