ぼんやりと意識が戻ってくる。まだ半分しか開かない目に、石造りの天井が映った。
肌寒さを感じながら隣のベッドを見やると、クラルスが剣の手入れをしていた。
磨き上げた剣身を、じっと見下ろしている。
「……クラルス」
「リア様。お目覚めになりましたか」
「クラルスのおかげで眠れたよ」
天井からかすかに足音や声が聞こえてくる。酒場が開店しているようだ。
きっと夜だろう。
まだ眠りを求めている身体を起こす。
サイドテーブルの上に野菜のスープとパンが置かれていることに気がついた。
「この食事は?」
「リュエールさんが用意してくださいました。怪しいものは入っていなさそうです」
「クラルスは用心深いね」
「リア様の護衛ですから」
かくまってもらっているうえに、食事まで用意してもらえるなんて、ありがたい。
さっそく
野菜のうま味と控えめな香辛料の味がした。
朝から何も食べていなかったので格別においしい。
「クラルス。星影団のことをどう思う?」
「信頼するにはまだ早いですが、ミステイル王国とは関係ないでしょう」
「どうしてそう思うの?」
「スレウドさんが接触してきたとき、ミステイルの手先でしたら“セラ様を保護している”と言うでしょう。しかし彼は“知らない”と仰いましたので、そこで判断いたしました」
彼の言葉に頷く。
「
「……不可能に近いですね。手配書を疑っている貴族はいらっしゃるかと思いますが、現在の最高権力者であるセラ様の命には逆らえません。同盟国へ協力を仰ぎに亡命しても国際問題に発展しかねないので、支援にはかなり慎重になるでしょう」
「……そう……だよね」
それでも僕は戦争を起こすことなんてできない。何百、何千の民が苦しむことになる。
僕一人の犠牲でどうにかならないか。そんなことばかり考えてしまう。
残りのスープを流し込んで、ため息をつく。
今日は、何も決断することができなかった。
まどろんでいるなか、かすかに聞こえる話し声。
目をこすりながら身体を起こすと、クラルスとスレウドさんがこちらを向いた。
「おぉ、王子。やっと起きたか、もう昼過ぎだぞ」
「えっ!? そんなに……」
反射的にベッドから這い出る。
窓もない地下室なので時間の感覚がつかめない。太陽が恋しい。
「お疲れでしたね。ゆっくりお休みになれましたか?」
「う……うん。ありがとう」
「スレウドさんから現在の街の状況をお聞きしていたのですが、いまだに捜索されているようです」
あと数日は捜索されるだろう。それまで
「スレウドさん。リュエールさんは?」
「リュエールは用があって今日は帰らねぇよ。どうした?」
「食事まで用意してもらっているのでお礼を……」
「なんだ、そんなことか。気にするな! 保護すると言い出したのはリュエールだ」
ここにいると戦争をしなくてはいけない気がする。
それに、スレウドさんたちは戦争についてどう思っているのだろうか。
「スレウドさん。団員の方たちは僕の決断で戦争になることを知っているのですか?」
「まぁ、大体の奴は覚悟してると思うが……。本当にそうなったら逃げ出す奴はいると思うし、それを
「……僕が……ガルツに捕まれば……終わりますよね。みんな戦わなくて済みますよね……」
スレウドさんは目を丸くすると、頭をがしがしと掻いている。
「たしかにそうかもしれねぇ。けど、王子は死んでそこで終わりでいいが、残された奴らはつらいもんだぞ」
「……それでも」
「まぁ、そう死に急ぐな。命があればいいってもんでもねぇぞ、実際は……。俺らには王子の意見を曲げる権利はねぇが、よく考えてくれ」
軽く手を上げるとスレウドさんは立ち去った。
クラルスは少し眉を下げて僕の前まで歩いてくる。
「リア様、お食事を用意してあります。召し上がってください」
サイドテーブルにはまたスープとパンが並んでいた。
パンを手に取ったとき気づく。
自分の行動が矛盾していることを。
ガルツに捕まればいいと思っていながら、まだ
心のどこかでは、諦めたくないんだ。
「クラルス……。ごめん……。悩んでばかりで……」
「すぐにご決断なさるようなことではありません。ゆっくりお考えください。どんなお答えを出しても私は最後までリア様のおそばにいますから」
クラルスのあたたかい言葉に小さく頷く。
そして、スレウドさんから言われた“残された人はつらい”と“命があればいいということではない”。このふたつの言葉が頭の中をぐるぐると巡っている。
もしかして、僕は死んで逃げようとしているのか。
僕が命を差し出して、セラが解放されなかったら誰が助けてくれる。
しかし、僕がセラを助けたいという理由だけで戦争を起こしていいのだろうか。
「クラルス。僕は、セラを助けたい……。でも、考えても、考えても戦争を起こすしか方法がないんだ。僕の一言で、ルナーエ国が一変してしまう」
クラルスは静かに僕の隣へ腰を下ろした。
「……リア様が考え抜いて選んだ道なら、それが正しいのです。……私の考えや意見は、いくらでもお伝えします。ですが、選ぶのはリア様ご自身です」
僕は小さく「うん」と答えることしかできない。
選択という重圧に身も心も潰れてしまいそうだった。
目を覚ますと、また薄暗い天井が見えた。
今日も、自分が今後どうするべきか考えているが、答えが出せない。
ときどきスレウドさんが気に掛けて僕に話しかけてくれていた。
酒場が開店したころ、ひとつの足音が近づいてくる。
「王子殿下、失礼いたします。私にご用があると伺いました」
慌てて彼女の前に駆け寄る。
「リュエールさん。お食事まで用意していただいて、ありがとうございました。お礼をまだ言っていなくて……」
「いえ、質素なもので申し訳ありません」
「そんな……十分です。ありがとうございます」
リュエールさんは、僕をじっと見つめたあと目を細める。
「やはり、女王陛下と騎士団長様のご子息ですね。地位に驕らず謙虚でいらっしゃいます」
当たり前のことをしただけなのに、こんなことを言われるのはこそばゆい。
ここまで僕によくしてくれる。リュエールさんと母上の間には、きっと強い信頼関係があったのだろう。
「リュエールさん。すぐに決断できなくて……すみません」
「ごゆっくりで構いませんよ。ただ……機を逃してはいけません。それだけは忘れないでいただきたいです」
「……はい」
そのとき、突然ルフトさんが姿を現す。鋭い眼差しが、まっすぐ僕を射抜く。
「ルフト? どうしたの?」
「さっきから聞いていれば……。王子。俺たちは命をかけて挙兵する覚悟を決めている。だが時間がない。ガルツの嘘が民に浸透すればするほど、おまえの正当性は失われる。本当に反逆を企てた人間なら、普通は逃げるはずだ。挙兵すること自体が、おまえの潔白を示す証拠になる。早く決めろ」
「……ルフト、下がりなさい」
リュエールさんの静かな低い声が響く。
ルフトさんは身を翻すと隔壁の奥へ消えていった。
「どのようなご決断でも、非難するつもりはありません。お決めになったあと、私たちなりに最善を尽くします」
リュエールさんは一礼をすると去っていく。
クラルスに渡された、あたたかい紅茶を持ってベッドへ座る。
湯気が立ちのぼっているカップの中に映る自分と目が合う。
深い赤色の中には情けない顔が見えた。
リュエールさんはきっと僕のことを気遣って決断を急がせていないだけだ。ルフトさんの意見が正しい。
僕の顔を見て察したのか、クラルスが口を開く。
「答えをお急ぎになる必要はありませんよ。まだ私たちは捜索されているようですし……。どのみち外には出られません」
「……うん」
刻々と時間が過ぎていく。
こんなとき、母上と父上ならどう決断するのだろう。
ふと、サイドテーブルに置かれた護身用の短剣が目に入った。
父上から十歳のときに贈られた短剣。
「いつかこの剣で大切な人を守る日が来る」と伝えられていた。
そういえば、歴史の授業で教えてもらった十七年前の出来事。
先代の女王逝去直後を狙ったオリヴェート国との大規模国境紛争。
母上は即位する前にさまざまな決断を強いられていたはず。父上も騎士団長代理として戦場で的確な指揮を求められた。
今まで平和でいられたのはあのとき、母上と父上が愛する国のために戦ってくれたから。
たしかに、僕が命を差し出せば、戦争は始まらない。セラの命が助かる可能性もある。
しかし、それは本当の平和と言えるのだろうか。
僕が望んでいる平和は、人々が戦争や隣国の脅威に怯えることなく、笑顔で平穏に暮らせること。
もう、今までどおりにはいかないけれど、セラと笑い合える日々を送りたい。
僕だけ死んで逃げたりしたくない。
母上が別れ際に教えてくれた「可能性を捨てないこと」。可能性があるかぎり僕は立ち向かう。
それこそが、ルナーエ家が代々してきたことだ。
母上、父上、僕は選ぶよ。
「……クラルス。たくさん、考えたんだ。そして、わかった。困難なことがあっても選ばなければいけない。未来のために……」
クラルスを見据えると、彼は目を細めて頷いた。
「……ご決心がついたようですね」
「僕は
「リア様ならきっと成し遂げられます」
「さっそく、リュエールさんに……」
立ち上がろうとした僕を、クラルスがそっと手で制した。
「リア様。今、重要なご決断をなさいました。一晩お考えになってはいかがでしょうか? 明朝でも同じお気持ちでしたら、リュエールさんへお伝えしましょう」
「……そうだね、君の言うとおりだ」
深呼吸をして、再びベッドへ腰を下ろす。
紅茶を飲んで、冷静になるように何度も自分に言い聞かせた。
翌日、初日と同じ部屋へ通されると、リュエールさん、ルフトさん、スレウドさんが待っていた。
リュエールさんの菖蒲色の瞳が、まっすぐ僕に向けられる。
「リュエールさん。僕は……
「……きっと王子殿下ならそう決断してくださると信じていました。感謝いたします」
きれいな手が目の前に差し出される。僕は迷うことなくリュエールさんの手を取った。
「これで仲間よ。……王子殿下って呼び続けるのも堅苦しいわね」
「対等に接してくれるとうれしいです」
リュエールさんは小さな咳払いをしたあと、柔らかく微笑む。
「では、遠慮なく。リア、クラルス。