闇が満ちている廊下に、自分の規則正しい足音だけが響いていた。
執務室へ伸びている回廊には誰もおらず静まりかえっている。
いつもなら見張りの騎士が必ずいるはずだ。母上が下げたのだろうか。
静寂があまりに不自然で、まるで城全体が息を潜めているようだった。
背筋に冷たいものが走り、足音すら響かせてはいけないような気がして歩幅を小さくする。
執務室前まで辿り着くと、扉の前も無人だった。
ここへ来たのは間違いだったかもしれない。
そのとき、室内からかすかに聞こえる話し声。僕はゆっくり扉に近づいて会話に耳を傾けた。
「アエスタス女王。我が国に太陽石を貸すことを考え直してくれませんかね?」
「何かと思えば……もうその話は済んでいるはずです」
「最近、近隣国の動きが怪しくてね。抑止力のためにほんの数ヶ月でいいのですよ」
「国内でも
信じがたい内容に思わず息を呑む。
太陽石はルナーエ国の象徴であり、世界にひとつしかない
おいそれと他国に貸せるものではない。
僕たち王族や高名な宝石師でさえ、
そのくらい
少しの沈黙のあと、低く沈んだ声が響く。
「今まで散々戦争で宝石を使用していたルナーエ国が……平穏になればこの様か……」
「何と仰いましても、お貸しすることはできかねます」
「……そうですか。親善会というよい日だったのですがね。後ほどミステイルの礼節をもって改めてお話に参ります」
足音が扉へ向かってきたので、急いで反対側の回廊へ移動する。
柱の陰から執務室前をうかがうと、ミステイルの国王が立ち去る姿が見えた。
乱れている呼吸を整えて、柱へ寄りかかる。
まさか太陽石の貸借の話があるとは。
いまだに、最後のミステイル国王の言葉が耳に残っている。
「ウィンクリア王子。こんなところで何をしているのですか?」
肩がびくりと跳ねる。振り向くと、ガルツ王子が回廊の闇から現れた。
思いもよらない人物の出現に、言葉を失う。喉が締まって呼吸をすることすら困難になった。
彼がいつからそこにいたのか、どれだけ見ていたのか。最悪の想像が頭を駆け巡る。
真実を吐かせようとする彼の眼光が全身を貫いた。
ここで動揺してはいけない。態度が答えになってしまう。
早くなる鼓動を感じながら、口を動かす。
「……夜風に当たっていただけです。そろそろ会場に戻りますね」
とにかく離れたい。
足早に去りたい気持ちを抑えてガルツ王子の横を抜ける。
そのとき、ガルツ王子は僕の左手を掴んで壁に押しつけた。さらに、右肩を押さえつけ、逃げ場を塞ぐ。
「……本当は何をしていたのですか?」
「何のこと……ですか」
彼はゆっくりと手に力を入れ始めた。指が肌に食い込み、痛みが走る。
手を振り払おうとしたが、まったく抵抗できない。
ガルツ王子は表情を変えることなく見据えている。
足元から血液が凍っていくような感覚。
どうすれば。
「リア様っ!」
聞きなれた声が回廊に響く。そこには息を切らせたクラルスが立っていた。
ガルツ王子はゆっくりと手を離す。掴まれていた手首がずきずきと痛み、思わず顔が歪む。
クラルスは足早に僕の傍へ歩いてくる。
「お話中、申し訳ありません。ウィンクリア王子殿下、騎士団長がお呼びです。至急お戻りください」
「……わかった」
クラルスはガルツ王子に丁寧に礼をして、僕を庇うようにその場から離れた。
張りつめていた糸が緩む。
「リア様。お怪我はありませんか?」
「大丈夫だよ。クラルスありがとう、連れ出してくれて……」
「城内でも外部の者が来ているときは護衛をつけましょう」
「……そうだね。ごめんねクラルス」
彼は僕が何をしていたのかについては、言及しようとはしなかった。
クラルスが来てくれなかったら、今ごろどうなっていたのだろう。
嫌な考えを追い払うように頭を振った。
夜会の会場へ戻ると、お開きの流れになっている。セラは僕の姿を見ると頬を膨らませた。
会場を見渡すとガルツ王子はすでに戻ってきており、母上たちと談笑している。
不意にガルツ王子と目が合う。先ほどの気まずさがあり、反射的に目をそらした。
お見送りの際、ガルツ王子は何事もなかったような振る舞いだった。先ほどのことは悪い夢でも見ていたような感覚になる。
長い夜会が終わり深く息を吐き出す。
しかし、ガルツ王子の不可解な行動や太陽石の話が、ずっと心に引っかかっていた。
窓の傍に立ち、夜が満ちている大河を眺める。水面は月明かりを弾いて静かに輝いていた。
母上とミステイル国王の話が頭の中を駆け巡って、寝付けなかった。
いまだに寝間着へ着替えることなく、ただ静かな夜の風景を眺めている。
月石が宿っている証の爪は、月の光を弾いて淡い白藍色に染まっていた。
短くため息をついて、欠けていない月を見つめる。
僕がいくら考えたところで、
自分にどうこうできる問題ではない。
それに母上の態度からミステイル王国に貸すつもりはないはず。
時計を見やると零時が近づいている。
寝付けなくてもそろそろ身体を休めなくては。
ベッドへ腰を下ろし、着替えようと服の留め具に手をかける。
ふと、遠くから騒がしい声が聞こえてきた。なんだろう。
小さな疑問の泡を浮かべていると、自室に近づいてくる慌ただしい足音。
次いでクラルスが血相を変えて部屋に飛び込んできた。
彼の表情から深刻な事態と察し、全身に緊張が走る。
「ど……どうしたのクラルス!?」
「リア様! 起きていらしたのですね! 何者かが大勢で城に攻めてきています!」
「えっ……どうして!?」
「とにかく陛下と騎士団長様に合流いたしましょう!」
考える暇もなく、短剣を腰に差し長剣を手に持ち、自室から飛び出した。