第7節 月の魔法
枝の折れる音が耳に響く。全身に衝撃が走った。
立ち上がる気力がない。木々の間から見える満月を眺めていると、身体を抱き起こされた。
「リア様! お怪我はありませんか? この場から離れますよ!」
クラルスに半ば無理やり立たされ、腕を引かれる。
城壁沿いに走り、外壁の中ほどを押すと隠し扉が現れた。
湿気の臭いがする狭い通路。
数年前に脱出路として教えられていたことを思い出す。
父上は「とりあえず覚えておきなさい」と苦笑していた。
ここを使うことなんて、ないと思っていたのに。
クラルスは扉の近くにあったランタンに火を点けると、僕の手を引いて走り出す。
「リア様。原石神殿へ向かいましょう。神殿内でしたら追手もしばらくは手出しできません」
原石神殿。たしか、争い事が禁止されている場所だ。
通路の突き当たりで、クラルスはランタンを床に置き、また壁を押した。
夜気が流れ込み、肌に刺さる。
「……周囲にミステイル兵はいません。今から近くの森まで走りますよ」
クラルスに促され、再び走り出した。
振り返ると、生まれ育った城が遠のいていく。からっぽの頭で、ただ流れる風景を見ていた。
森の中へ入ると、草木をかき分けて奥へ進む。
しばらく走ったところでクラルスの足が止まった。
足と肺が限界で、僕は地面に座り込んだ。肩で息をして、荒い呼吸を整える。
「リア様。少し……休憩しましたら、向かいましょう。おそらく走り去った姿は見られていないと思いますので……」
クラルスは異常に呼吸が乱れ、木の幹に爪を立てている。彼の身に何が起きているのだろう。
「クラ……ルス? どうしたの?」
「……何でもございませんよ」
クラルスは微笑むが、すぐに顔を歪ませた。うめき声を上げ、木にすがるように崩れ落ちる。
「クラルス!?」
「ご……ご心配には及びません。少し休めば……」
クラルスが足を庇っている。僕は靴を急いで脱がせる。
足首が腫れ上がっていて、肌が赤紫色になっていた。
バルコニーから僕を抱えて飛び降りた衝撃は計り知れない。
まずは怪我の処置をしないと。
「どこかに……川は……水場は……!」
深い森の中に広がっているのはうっそうと茂る草木しかない。
どうすればクラルスを助けられる。
「リア様。もし……追手に見つかってしまったら、私にかまわず逃げてください。原石神殿はこの森をまっすぐ東に行けば着きます」
「な……何言っているの!? そんなこと……できるわけ……」
「そう、おっしゃると思っていました。お傍にいることと、生きていただくこと。どちらかしか選べないのでしたら……。私は後者を選びます」
リヴとクラルスが重なる。僕は二度も、手を放さなければいけないのか。
「……最悪の場合の話です。ご理解いただけますか?」
「……それでも、だめだよ……! 僕がクラルスを……!」
『守る』と出かかった言葉を飲み込む。
今まで守られていたのに。自分のせいでクラルスが怪我をしたのに。
でも、守りたい。クラルスを守るにはどうすれば。
もう大切な人を失いたくない。
彼の額の汗を拭おうとしたとき、左手の爪の刻印が視界に入る。
「……あっ……」
月石には治癒の魔法がある。書庫の冊子にはそう書かれていた。
今まで魔法なんて使ったことがない。成功する保証もない。
それでも、今は可能性に賭ける。
「……リア様?」
クラルスの足首のあたりに左手をかざす。
月石。僕に力を貸してほしい。大切な人を守りたい。
何度も心の中で懇願する。
そのとき、左手が温かさに包まれた。手のひらから淡く青白い光が粒子となり、こぼれ落ちた。
「これは……魔法。それにその刻印は……」
クラルスは爪の刻印を見つめている。淡い光が消え、彼の足首を見ると腫れが引いていた。
肩の力が抜け、深く息を吐いた。
「……足、大丈夫?」
「えぇ。リア様のおかげで……」
クラルスに月石について問われることを覚悟していた。しかし、彼は靴を履くと僕に手を差し出す。
「……まずは安全を確保しましょう。いつ追っ手が来るかわかりませんから」
「そうだね。行こう」
クラルスの怪我を治せたことで安堵していたが、まだ追っ手から逃れられたわけではない。
僕たちは原石神殿のある東へと歩き出した。
森を抜けると、東の空はすでに青みがかっていた。
目の前には小さな森に抱かれているように建つ白い建物。原石神殿だ。
安全な場所が見えて緊張の糸が緩む。
念のため神殿の裏から敷地内へ足を踏み入れる。ひと気がなく、すべてが眠っているような静けさ。
ミステイルの追手はここへ来ていないようだ。
「宿泊施設のほうへ参りましょう。部屋が空いているといいのですが……」
神殿から伸びる回廊の先に、神殿と同じ石造りの建物が建っていた。
クラルスが扉を開けると、明け方にもかかわらず、受付に女性がくつろいだ様子で本を読んでいる。
僕たちに気がつくと会釈をしながら本を閉じた。
「ようこそ。宿泊のご利用ですか?」
「はい。部屋は空いていますか?」
「全室空いております。最大宿泊日数は三日ですので、お忘れなきようお願いします。それではご案内しますね」
部屋へ案内されている間、女性が施設の説明をしていたが、何も頭に入ってこなかった。
彼女はクラルスへ部屋の鍵を渡すと、受付に戻っていく。
室内には机と椅子、ベッドが二台。簡素な部屋だ。
近くのベッドへ歩み寄り腰を下ろす。クラルスは周りにひと気がないことを確認して扉を閉めた。
「ひとまずご安心いただける状況です。今はお休みになって……」
クラルスの言葉を聞いて深く息を吐くと、温かい雫が頬を伝った。
視界がにじんで揺らめく。
息が詰まるたびに流れだし、自分の意思では止められなかった。
安堵、悔しさ、悲しさ、絶望。胸の奥で混ざり合い、涙となってあふれ出る。
「……リア様」
あのとき、魔法が使えていたのなら、母上と父上を助けられたかもしれない。
素直にガルツへ名乗り出ていれば、二人は死なずに済んだかもしれない。
後悔の念だけが胸に降り積もっていく。
「何で……僕が生きているの。やっぱり僕は厄災の元なんだ……。生きている……意味なんて……なかった」
生まれたときから、僕には価値も意味もなかった。
『厄災の元』、『穢れを溜める子』と言われても、母上と父上が居場所を与えてくれた。前を向いていられた。
大きな手で頭をなでてくれた父上。優しく抱きしめてくれた母上。
二人の笑顔が浮かんでは消えていく。
今の僕に生きている意味はあるのだろうか。
クラルスは隣へ座ると、何も言わずにそっと抱き寄せる。
彼の温かさに包まれながら、嗚咽をもらして泣くことしかできなかった。