カーテンの隙間から差し込む月明かりが、隣で眠る茜の横顔を薄く照らしている。規則正しい寝息、時折寝返りを打つ拍子に伸びてくる腕。俺はそのすべてにまだ少し緊張しながら、天井を見上げている。
二十三になった俺が、二十歳になった婚約者――茜と同じ部屋で眠るようになって、まだ二週間と少ししか経っていない。それでこの隣の婚約者に慣れろというのは無理からぬ話である。
こうして意識して寝付けずにいる夜ばかりでここ最近は寝不足気味だ。彼女と同居を始めてから、五年大抵のことには慣れてきたと思うが、それでもこの変化はまだ受け入れるには時間がかかりそうだった。
俺と茜の婚約は、俺が十二の時、父と茜の父親の秀治さんが酒の席で勝手に決めたものらしい。もちろん当時の俺にそんな記憶はなく、自分の人生の一部がとっくに決められていたことを知るのは、今から五年前のことになる。
五年前――俺がまだ、婚約者である茜のことを何も知らなかった頃の話をしよう。
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「お前、茜さんのこと、覚えてるか?」
夕食の席で父が唐突に切り出した。俺は箸を止め、記憶を探る。茜さん。聞き覚えのない名前だった。
「誰だっけ、それ。」
「瀧本製薬の瀧本さんとこの娘さんだよ。お前が十二の時、酒の席で婚約を決めた相手だ。」
寝耳に水の話に、掠れた声を出してでも聞き返さずにはいられなかった。
「……は?」
父のおかしいな?とでも思うような顔。本当におかしいのはアンタだよ。
「言ってなかったか。まあ、正式な話がまとまったのは最近でな。向こうも茜さんが十五になって、そろそろ顔合わせをした方がいいだろうという話になったんだ。今度の週末、瀧本さんの家で懇親会がある。お前も来い。」
説明はそれだけだった。父はいつもこうだ、大事なことほど軽い調子で告げてくる。俺は反論の言葉を探したが、見つかる前に父は席を立ってしまっていた。
婚約者。十五歳。顔も知らない相手。
内向的な性格の俺にとって、それは天災のような知らせだった。今思えば、あの時点で少しくらい心の準備をしておくべきだったのかもしれない。もっとも、茜相手に「心の準備」というものがどれほど意味を成したかは怪しいところだが。
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週末、瀧本家の広い庭に面した座敷で、俺はスーツの襟を何度も直していた。高校を卒業し、大学の入学式のために買ってもらったスーツだが、その前に着る機会が訪れるとは思っていなかった。
自分は人の多い場所は苦手だ、まして初対面の相手と、それも自分の将来を左右する相手と会うとなれば、心臓の音がうるさいくらいに聞こえるような気がする。少なくとも、ふわふわと落ち着かない感覚は消えてくれなかった。そんな中、座敷に訪れた男女。40代くらいでフォーマルな格好に慣れているような雰囲気がある。
「山科さんのところの、慎くんだね。」
声をかけてきたのは恰幅の良い男性、茜の父・秀治さんだった。にこやかな笑顔の奥に、値踏みするような視線を感じて、俺は背筋を伸ばした。
「は、はい。山科慎です。今日はお招きいただき……」
「堅苦しいのはいいよ。それより、娘を紹介しよう。おーい、茜。」
呼ばれた先に、彼女がいた。
座敷に面した庭、大きな松の木の陰で本を読んでいた少女が、顔を上げる。制服のようなきっちりとした服装だが、着崩し方に妙な余裕があった。
「呼んだ?」
気だるげな返事とともに、少女――茜は本を閉じて立ち上がった。長い黒髪、切れ長の目。値踏みするような視線は父親譲りらしい。彼女は縁側から座敷にのぼり、俺の前まで歩いてくると、まっすぐに見上げてきた。
「あなたが、私の婚約者?」
前置きも何もない、直球の問いだった。俺は言葉に詰まる。
「あ、はい。山科慎、です。」
「ふうん。」
茜はしばらく無言で俺を観察していた。頭のてっぺんから足先まで、まるで実験対象を吟味するかのような視線に、俺は居心地の悪さを感じる。
「思ったより普通ね。」
「そ、それはどういう……」
「悪い意味じゃないわ。むしろ興味深い。」
茜はふっと笑うと、俺の手を掴んだ。突然の接触に、飛び上がりそうになった。心拍数が上がったのを悟られたのか、悪戯っぽく指を絡ませる。
「わっ!?」
「あら、そんなに驚くこと?」
面白いものを見つけたような顔で、茜が俺を覗き込む。真っ赤になった顔を隠すこともできず、絡められた指をどうすればいいのかわからずに固まっていた。
「ふふ、これは……なかなか反応がいいね。」
その呟きに、俺は何か大変なものに目をつけられた予感がした。今にして思えば、その予感は間違っていなかった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、いきなり手を……」
「あら、婚約者の手に触れるくらい、普通じゃない?」
茜は悪びれる様子もなく、むしろ楽しそうにしている。俺は必死に平静を取り繕おうとしたが、心臓の音はまだ収まらなかった。
「いや、父さんたちもいるし…恥ずかしいんだけど。」
そこで茜は周囲を見て、こちらに問い返す。
「もうみんな食堂に行ったみたいだけど?」
そう言われてこちらも辺りを見回すと確かに、いつのまにか両親たちはいなくなっていた。そういえば目の前の女の子に目を奪われている中、耳に先に食堂に行っているぞと言われた記憶が残っているような気もする。
「来年、あなたは大学に、私は高校に入学するのよね。」
「あ、ああ、俺はそうだし君もそうだって聞いているけど。」
「それなら、同居した方が良いんじゃないか?許嫁らしく、一つ屋根の下で暮らすのは大変に楽しそうだと思うのだけど。」
同居。その一言に、俺はまた別の意味で目眩がした。この、掴みどころのない少女と、一つ屋根の下で暮らす。想像もつかない未来が、急に現実味を帯びて迫ってくる。
「ねえ、慎くん。どうかな、同居。」
年下に君付けで呼ばれる、今まで無かったことだ。生意気な、とは不思議にも思わなかった。そして同居への誘いに鼓動はいよいよ落ち着くことを忘れた。
同居。
彼女のような女の子と暮らす、というのは不安要素が多い。ましてや今日出会った子となら尚更だ。でも、怪しげな笑みを浮かべる彼女にこの時点で惹かれるものがあったんだと思う。無条件で頷きそうになる事を何とか抑え、レスポンスを返す。
「い、良いけど部屋を借りるなら内見とか場所とかを決めなきゃだよね、それはどうするつもり?」
「そんなの一緒に行くに決まっているだろう。デートというやつ、やってみようじゃないか。」
そう言って、茜は初めてまともに笑った。値踏みするような視線が消え、代わりに浮かんだのは、どこか無邪気な、それでいて何かを企んでいるような笑み。
俺はその笑顔に見惚れながら、同時に、これから始まるであろう生活への漠然とした不安を感じずにはいられなかった。
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天井を見上げていた視線を、隣に戻す。あの日の少女は、今も変わらず俺の隣で眠っている。もっとも、あの頃の値踏みするような目つきは、今ではもうすっかり見せなくなったが。
五年という時間が、あの日の「初めまして」を、こんな距離にまで縮めるとは、あの時の俺には想像もつかなかった。
初対面で出会った時の彼女とは考えられないほど、茜の可愛いところを見られるようになった。
順を追って思い出そう、茜と俺がどのような同居生活をしてきたのかを。
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