内見デート、と茜が言い出したその日は、思った以上にあっさりとやってきた。
まずは茜の高校周辺の物件から探す事にし、アポイントメントを取っていた不動産屋へ向かう。一応、前日に通話をしながら物件の候補を絞っていたが、内見でどう見えるかだ。
不動産屋へ赴いて、マンションの一室へと案内される。
不動産屋の資料を片手に、茜は迷いのない足取りで部屋を見て回っていた。俺はというと、隣を歩きながら、未だにこの状況に現実感を持てずにいる。先週顔を合わせたばかりの、婚約者を名乗る少女と部屋探しをしている。普通に考えて、不思議な話だ。
「ここ、結構良さそうじゃないか。駅から近いし、日当たりも良さそうだ。」
茜のそんな言葉にレスポンスを返す。
「茜さん、やけに手慣れてるんだね。」
「お父さんに不動産の見方くらいは教わってるからね。あ、リビングが広い部屋がいいと思う。だって、一緒にいる時間が長い方が早く馴染めそうだろう?」
えへん、と言わんばかりに胸を張る茜。理屈自体はもっともだと思うが、妙に得意げなのが可笑しくて、俺はつい笑ってしまった。
「何、笑うことないだろう。」
「いや、ごめん。」
「むぅ…」
ちょっと拗ねたように頬を膨らませる茜に、俺はますます可笑しくなってしまうのだった。
その後、俺の大学への通学時間や路線の都合も加味し、二駅ほど離れた2LDKの部屋に決まった。茜の言う通り、リビングが広く、そこから各々の部屋に繋がる間取りだ。
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3月半ば、引っ越しの日。両家の手を借りながら荷物を運び込んだ。段ボールに埋もれたリビングで、茜は満足げに頷いている。
「よーし、これで今日から同居生活だね、慎くん。」
「そうだな、とりあえず自分の部屋の模様替え。そこからリビングにしよう。」
「賛成、寝るところファーストだね。」
昼過ぎに初めて自分の部屋、リビングの片付けが一段落して夕食時になった。キッチンに立とうとした俺を、茜が呼び止める。
「あ、待って。今日は私が作るよ。初日くらいは張り切らせておくれ。」
「え、茜、料理できるのか?」
「もちろん。……多分。花嫁修行というのはしたことがなかったけど慎くんに会ってからはすこしずつ勉強してるから…多分。」
多分、を2回も言っているという部分が妙に引っかかったが、本人がやる気になっているのを止めるのも悪い気がして、俺はキッチンを譲ることにした。
十分後、焦げ臭い匂いが部屋中に充満していた。
「……茜さん?」
「ちょ、ちょっと待って、今、何とかするから……!」
フライパンの中身は原形を留めておらず、茜は出会ってから初めて見るような狼狽えた様子でコンロの前に立ち尽くしていた。こんな姿、初めて見た。
「貸してみ。」
「う……ごめん……。」
肩を落とす茜の様子に、俺は少し驚きつつも、なんだか安心したような気分になった。何となく万能なような気もしていたけど、苦手分野がある事に人間味があるような感覚がする。
「気にすんな、俺が作るから。茜さんは座ってて。」
「……いいのか?」
「むしろそっちの方が、安心して食えそうだし。」
そう言って笑うと、茜は少し恥ずかしそうに、でもどこか嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、お言葉に甘えて。今度、ちゃんと習っておくよ。」
余談だが、それ以降茜が時折「練習」と称してキッチンに立つこともあり、その度にすこしずつ上達していった。2、3ヶ月もしたら美味しい料理を作れるようになっていたので聞いてみたら、本人曰く「トライアンドエラーが得意だから」という事らしい。
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同居してから初めての食事を終えて、ソファでくつろいでいた時のことだ。茜が何の前置きもなく、隣から俺の肩に手を置いた。
「わっ!?」
反射的に体が跳ねた。肩どころか、全身が椅子から浮きかけたと言っていい。
「……わ、すごい反応するね、慎くん。」
茜は目を丸くして、それから堪えきれないように笑い出した。
「い、いきなり触られたら誰でも驚くだろ。」
「そうかな? もう一回やってみていい?」
「待て、やるなよ。」
俺の制止も虚しく、茜は興味津々といった様子で、今度は腕に軽く触れてきた。またしても大袈裟に体が反応してしまう。
「ふふっ、ほんとだ、面白いくらい跳ねる。」
楽しそうに笑う茜を前に、俺はもう諦めの境地に達していた。この少女は、俺を揶揄うことに新しい趣味を見出してしまったらしい。
「お前な……。」
「ごめんごめん、でも本当に面白いんだもん。」
悪びれもせず、むしろ無邪気に笑う茜の顔を見ていると、文句を言う気も失せてしまうのだから困ったものだった。
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そんなふうに同居を始めて最初の数週間、俺と茜はできる限りリビングで過ごし、できるだけ話すようにしていた。お互い、それが「同居人としての礼儀」のようなものだと、どちらからともなく思っていたのかもしれない。
とはいえ、4月になれば大学の課題やら茜の勉強やらで、どうしても自室に籠らなければならない時もある。そういう時、俺たちはまだ、お互いの領域に踏み込むことを躊躇っていた。
「……慎くん、いるかな?」
5月頃、ノックの音とともに、扉越しに茜の声がした。俺は机に向かっていた手を止める。
「いるけど、どうした?」
「いや、大したことじゃないんだけど……明日の朝ごはん、何がいいか聞きたくて。」
「それ、扉越しに聞くようなことか?」
「ご、ごめん、入っていいものか迷っちゃって……。」
珍しくしどろもどろな茜の声に、俺は少し驚いた。あの自信満々な彼女にも、こういう遠慮があるらしい。
「別に、入ってくればいいだろ。」
そう言うと、しばらくの沈黙の後、扉がゆっくりと開いた。
「……お邪魔します。」
いつもより幾分か大人しい足取りで、茜が部屋に入ってくる。その様子に、俺はなんだか可笑しくなってしまった。
「そんな畏まんなくていいのに。」
「むぅ、慎くんがそう言うなら、遠慮なく。」
そこからはいつもの調子に戻り、どうでもいい話を小一時間ほどしていっただろうか。気づけば、扉越しの遠慮がちな声かけは、随分と気軽なものになっていた。
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こうして振り返ってみると、あの頃の俺たちは、まだ随分とぎこちなかったのだと思う。名前を呼ぶだけで照れ、触れられるたびに跳ね上がり、部屋の扉一枚を隔てるだけで遠慮し合っていた。
今の距離感からは、ちょっと想像がつかないくらいに。
もっとも、それがどう変わっていったかは、また追って話すとしよう。