同居を始めて三月ほど経った、六月のある夜のことだ。夕食の席で、茜が妙に楽しそうな顔でこんな話を切り出した。
「ねえ聞いてよ、今日クラスの男子に告白されたんだけど。」
箸を持つ手が止まった。
「……は?」
「いや、落ち着いて聞いてほしいんだけど。」
「い、いやいや落ち着けないよ、いや落ち着こう。」
動揺を隠せない俺とは対照的に、茜はどこか面白がるような顔でその日の出来事を話し始めた。
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放課後、人気のない渡り廊下で呼び出された茜。相手は同じクラスの男子生徒で、以前から何かと話しかけてくる子だったらしい。
「瀧本さん、俺と付き合ってください。」
開口一番、そう切り出されたという。茜は少し困ったような顔をしつつも、正直に答えたそうだ。
「ごめんなさい。私、許嫁がいるの。」
「……は?」
「婚約者。もう一緒に住んでる相手がいるんだ。」
相手の男子生徒は、しばらく言葉を失っていたらしい。そのうち、信じられないといった様子で聞き返してきたという。
「許嫁って、今どき……?いや、瀧本さんちょっと変わってるとは思ってたけど……。」
「うん、まあ、普通じゃないのは自覚してる。」
あっけらかんとそう返す茜に、相手はますます困惑した様子で、最終的には「そうですか……」とだけ言って去っていったそうだ。
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「――という話だったんだけど。」
茜は語り終えると、どこか満足げな顔でこちらを見た。俺はというと、複雑な感情がないまぜになって、何から言えばいいのかわからない。
「それ笑い話みたいに言うことか……?」
「だって面白かったんだもの。相手の子、最後まで信じられないって顔してたし。」
「俺は全然笑えないんだけど。」
正直、胸の奥がざわついていた。嫉妬、というには大袈裟な気もするが、それに近い感情だということは認めざるを得ない。茜がそれに気づいているのかいないのか、涼しい顔で夕食の続きに箸をつけていた。
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それから数日後のことだ。朝の天気予報では「夜から雨」とだけ言っていたはずなのに、昼過ぎから予報より早く雨が降り出した。
大学の講義の合間、スマホが震える。茜からのメッセージだった。
『傘忘れた。学校出れない。』
もう一通、追いかけるように届く。
『夜からの予報だと思って油断していたよ……。』
俺は少し笑ってしまった。普段あれだけ手回しの良いことを言う癖に、こういう抜けたところがあるのが茜らしい。
『今日の講義もう終わったから、迎えに行くよ。何時頃終わる?』
『……いいのか?』
『傘もなしに帰らせる方が心配だろ。』
そう返すと、既読のついたスマホの画面に、少し間を置いてから返信が届いた。
『ありがとう、慎くん。』
文面越しでもわかるくらい、素直な礼の言葉だった。
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夕方、傘を二本持って、茜の通う高校の正門前に立っていた。雨脚は相変わらず強く、校舎から出てくる生徒たちは皆、小走りで駆けていく。
その中に、雨宿りできるところで誰かと話している茜の姿を見つけた。
「おーい、茜さん。」
声をかけると、茜がこちらに気づいて駆け寄ってきた。傘に入り、ほっと息をつく彼女の制服は、少し雨に濡れていた。雨宿りしていた同級生に挨拶をし、俺たちは帰路に向かった。
「ごめんね、わざわざ。」
「いや、いいよ。それより、ちょっと濡れてるじゃないか。」
「あはは、これくらいじゃ風邪は引かないよ。」
そう言って笑う茜の横顔を見ながら、俺たちはゆっくりと歩き出した。雨音だけが響く、静かな帰り道だった。
「……なあ、茜さん。」
「ん?」
「この前の告白の話だけどさ。」
「ああ、あれか。」
「そういう場面で本当に何とも思わないのかい?その……俺のこと持ち出して断るの。」
茜は少し考えるように視線を上げた。それから、いつもより幾分か柔らかい声で答えた。
「何とも思わない、ってことはないよ。ただ、迷う理由がなかっただけ。」
「迷う理由が、ない?」
「だって、慎くんがいるのに、他の人のことなんて考えられないよ。」
あっさりと、けれど確かな口調でそう言われて、俺は何も言い返せなくなってしまった。雨音よりも鼓動がやけに大きく聞こえる。
「……それにさ。」
茜が続けた。
「ずっと気になってたんだけど。」
「な、なんだよ。」
「いつまで『茜さん』って呼ぶつもりなの?」
不意を突かれた質問に、俺は言葉に詰まった。
「え、いや、それは……。」
「私はとっくに慎くん、って呼んでるのに。慎だけ、まだ他人行儀だよ。」
少し拗ねたような、それでいて真剣な響きのある声だった。俺はしばらく言葉を探していたが、やがて観念したように口を開いた。
「……わかった。じゃあ、茜。」
「うん。」
名前を呼んだだけなのに、耳が熱くなるのがわかった。隣を見ると、茜も同じように、少し頬を赤くしてはにかんでいた。
「やっと、だね。」
小さくそう呟いた茜の声は、雨音にほとんどかき消されてしまいそうなくらい、小さなものだった。
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あの日から、俺は「茜さん」とは呼ばなくなった。たったそれだけのことなのに、何かが一段階、近づいたような気がしたのを覚えている。
もっとも、茜がそれで満足するような性格でないことは、この後すぐに思い知らされることになるのだが――その話は、また今度しよう。