あの雨の日から、一年が経った。
大学二年になった俺は、相変わらず教職課程の勉強に追われる日々を送っていたし、茜は高校二年になって、ますます理数系の成績に磨きをかけていた。生活のリズムというのは、積み重なるうちに随分と変わるものらしい。
その最たる例が、俺の部屋の扱いだろう。
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思えば、最初の変化は些細なものだった。
「慎、入ってもいい?」
律儀にノックをして、返事を待ってから扉を開ける。それが半年前の茜だった。
それがいつからか、
「慎、ちょっと聞きたいことあるんだけど。」
ノックと同時に扉を開けるようになり、さらにいつからか、
「慎、お邪魔するよ。」
ノックすらせず、扉を開けてから声をかけるようになっていた。変化は一足飛びではなく、気づけばそうなっていた、という方が近い。俺の方もいつの間にか、それを当たり前のように受け入れてしまっている自分に気づいて、少し驚くことがある。
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「慎、ちょっといい?」
その日も、ノックもそこそこに、茜が扉を開けて入ってくる。両手に自分のノートと参考書を抱えて、当然のような顔で俺のベッドに腰を下ろした。
「茜、一応ノックの意味、わかってる?」
「したじゃないか、ちゃんと。」
「したあと、返事も待たずに開けてるよね、いつも。」
「待ってたら日が暮れる。」
悪びれもせずそう返されて、俺はもう何も言う気が失せた。一年前は扉の前で遠慮がちに声をかけていたはずのこの少女が、今ではすっかりこの部屋を自分の勉強部屋か何かのように扱っている。
「それで、今日は何の用?」
「数学の問題集、ちょっと見てほしくて。」
「俺に聞くんだ。茜の方が理数系得意じゃないか。」
「得意だからこそ、人に説明できるか試したいんだ。教えるというのは、理解の最終確認だからね。」
もっともらしい理屈を並べながら、茜はいつの間にかベッドに寝転がって、問題集を広げていた。うつ伏せのまま足をぱたぱたと動かしている様子は、年相応の少女そのものに見える。
「……茜、人の部屋のベッドでくつろぎすぎじゃないかな。」
「くつろげる場所があるのはいいことだろう。それとも、慎の部屋には私がいない方がいいのか?」
試すような上目遣いで聞かれると、俺は言葉に詰まってしまう。
「……別に、いない方がいいとは言ってないよ。」
「ん、よろしい。」
満足げに笑って、また問題集に視線を戻す茜。こういう時の彼女には、どうにも勝てた試しがない。
結局、その日も気づけば日が暮れるまで、茜は俺の部屋に居座っていた。途中、俺の教職課程の課題を覗き込んできて「これ、こう説明した方がわかりやすいんじゃないか」などと口を挟んでくることもあった。意外にも的確な指摘で、俺は素直に感心してしまう。
「茜、教えるの向いてるんじゃないか?」
「ん?まあ、嫌いじゃないよ、人に教えるのは。」
そう言って、どこか満更でもなさそうな顔をするのが印象的だった。晩御飯の時間になって、ようやく自分の部屋に戻っていく後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息をついた。
悪い気はしない。それだけは、確かだった。
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休日、二人で出かける機会も、この一年で随分と増えた。
「今日、駅前に新しくできた本屋、行ってみないか?専門書のコーナーが充実してるらしい。」
朝食の席で、茜がそう切り出した。俺に断る理由はない。
「いいね、行こうか。」
支度を整えて、玄関を出る。駅までの道のりを並んで歩いていると、ふと、茜の手が俺の手に触れた。
「……茜?」
「ん?」
「いや、その……手。」
指摘すると、茜は特に気にする様子もなく、むしろ当然とばかりに指を絡めてきた。
「繋いだ方が早くないか?それに、こっちの方が歩きやすい。」
そう言われてみれば、確かにそうかもしれない。だが、理由はそれだけではないような気がしてならなかった。
一年前なら、この程度の接触で俺は飛び上がっていただろう。今はもう、手を繋がれても、多少の照れこそあれ、体が跳ねるようなことはなくなっている。
「……別に、嫌じゃないよ。」
小さくそう呟くと、隣を歩く茜が、ちらりとこちらを見た。
「ふうん。」
それだけ言って、茜は繋いだ手に少し力を込めた。何も言わないまま、俺たちは駅までの道を歩き続けた。
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本屋に着くと、茜は真っ直ぐに専門書のコーナーへ向かった。手を繋いだまま、棚の間を縫うように歩く。
「これとこれ、どっちがいいと思う?」
二冊の統計学の本を手に、真剣な顔で聞いてくる茜。俺に聞かれても専門外すぎてさっぱりわからないのだが、せっかく聞かれたのだからと、パラパラとめくってみる。
「こっちの方が図解が多いから、わかりやすそうだけど。」
「ふむ、一理ある。」
結局、二冊とも買うことに決めたらしい。レジに並びながら、茜は満足げな顔をしていた。
「教職課程の方は、何か掘り出し物あったか?」
「ああ、良さそうな教育心理学の本、見つけた。」
「ほう、見せてくれ。」
お互いの本を見せ合いながら、俺たちはしばらくレジ待ちの列で話し込んでいた。繋いだままの手のことなど、もうすっかり忘れてしまうくらいに。
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本屋からの帰り道、小さな公園のベンチで一休みすることになった。買ったばかりの本を広げる茜の横で、俺はぼんやりと空を見上げていた。
「なあ、茜。」
「何。」
「一年前の茜、覚えてる?俺の部屋に入るのも、遠慮がちだったのに。」
「ああ、懐かしいな。あの頃は、まだ探り探りだったからね。」
「今はずいぶん変わったよね。」
「そうかな。私はあまり変わった気がしないけど。」
「いや、絶対変わったよ。今じゃ茜、俺の部屋を自分の部屋みたいに使ってるじゃないか。」
からかうように言うと、茜はちょっと頬を膨らませた。
「それは、慎の部屋が居心地いいからだよ。悪いか。」
「別に、悪いなんて言ってないよ。」
「ならいいだろう。」
そう言って、茜はまた本に視線を戻した。素っ気ない態度の割に、繋いだままの手は離そうとしない。
家に着いて、夕食の支度をしながら、ふと今日一日のことを振り返る。本屋での他愛もないやり取り、繋いだままだった手、帰り道の会話。どれも特別なことではないはずなのに、積み重なると、ひどく大切なものに思えてくるから不思議だった。
一年という時間が、どれだけのものを変えたのか。あの出会いの日からは、想像もつかないくらいの距離を、俺たちは歩いてきたのだと思う。
もっとも、茜にとってはまだまだ物足りないらしいことに、俺はこの後しばらくしてから気づかされることになるのだが。