――慎二十二歳・茜十九歳、大学一年の夏――
「今度の花火大会、一緒に行かないか。」
茜が大学の友人からもらったというチラシを片手に、夕食の席でそう切り出してきた。近所の河川敷で毎年開かれている、それなりに規模の大きい花火大会だ。去年までは家の窓から見ていたが、花火を見物スポットまで行ってみることはなかったため、そして茜の浴衣という想像ができ、惹かれるものがあった。
「いいね、行こう。」
茜はにこやかに喜ぶ。
「よし、決まり。浴衣用意しないとね。」
そう言いながら、早速スマホで浴衣の通販サイトを開き始める茜を見ながら、俺は内心でガッツポーズをしていた。
茜は思った以上に浴衣に真剣だった。数日後、何着も候補を絞り込んだ上で、わざわざ俺の意見まで求めてきた。
「この朝顔のと、この金魚のと、どっちがいいと思う?」
「正直どっちも似合うと思うけど。金魚のほうが俺は好きかな。」
想像には限界がある。浴衣と茜、実際に見てみるまではなんとも言えないが綺麗じゃないわけがない。しかしそれを具現化するまでには至らないので印象で応えるしかなかった。
「なるほどね、ご意見参考にさせていただきます。」
結局、それが決め手になったのかわからなかったが30分後、俺の選んだ金魚柄に決まった。家事をこなしながら横目で選ぶ過程で楽しそうな茜を見ているのは悪くない時間だったと思う。
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当日、茜は張り切って浴衣を用意していた。淡い紺地に金魚の柄があしらわれた一着で、髪を結い上げた姿は、いつもの飄々とした雰囲気とはまた違う、落ち着いた色気があった。
「どう、似合ってるか。」
「……すごく似合ってる。」
素直にそう答えると、茜は満足げに笑った。
「よろしい。じゃあ、行こうか。」
河川敷までの道のりは、浴衣姿の人々でごった返していた。屋台の匂い、太鼓の音、遠くから聞こえる祭囃子。茜は終始楽しそうに、あれもこれもと俺を引っ張り回した。
「りんご飴、食べたい。」
「さっきかき氷食べたばっかりだろ。」
「別腹というやつだよ。」
もっともらしい顔で言い切る茜に、俺は苦笑しながら財布を取り出すしかなかった。りんご飴を齧りながら、今度は金魚すくいの屋台を見つけて目を輝かせる茜。結局、三匹もすくい上げて、店主に「お上手ですね」と苦笑いされていた。
「研究で培った手先の器用さが、こんなところで役に立つとはな。」
得意げにそう言う茜に、俺はもう何も言う気が起きなかった。すくった金魚は、後日ちゃんと水槽を買って、リビングで飼うことになった。
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花火が始まる時間が近づくと、土手の上は一気に人で埋まっていった。俺たちが陣取っていた場所も、後から来た人波にじわじわと押され、気づけばかなり密集した状態になっていた。
「茜、はぐれるなよ。」
「わかってる、ちゃんと掴まってるから。」
そう言って、茜は俺の腕にしっかりとしがみついてきた。熱気と人いきれで、辺りはむっとするような暑さだった。
やがて、一発目の花火が打ち上がった。ドン、という重い音とともに、夜空に大輪の花が咲く。周囲から歓声が上がり、どっと人が前に押し寄せた。
「わっ……」
その拍子に、誰かに背中を押された茜が、勢いよく俺の方に倒れ込んできた。
「おい、大丈夫――」
心配して顔を覗き込もうとした、その瞬間だった。体勢を崩した茜の顔が、思いがけず近くにあって、避けきれないまま、唇同士がぶつかるように触れてしまった。
一瞬、時間が止まったような感覚があった。周りの歓声も、花火の音も、やけに遠くに聞こえた。
「……っ!?」
二人同時に、弾かれたように体を離す。周りは花火に夢中で、誰もこちらを気にしている様子はなかったが、俺たちの間にだけ、異様な沈黙が流れていた。
「い、今の、違う、これは……!」
「わ、わかってる!事故だろ、事故!人に押されただけだから!」
お互い早口でそう言い合いながら、必死に取り繕おうとする。だが、一度触れてしまった感触は、そう簡単に頭から消えてくれそうになかった。
「……と、とにかく、場所変えよう。もう少し離れたところに。」
「そ、そうだな。」
人混みをかき分けて、少し空いている場所に移動する間も、お互い一言も発せずにいた。結局、その後の花火はほとんど記憶に残らないくらい、気まずい空気のまま終わってしまった。帰り道も、いつもなら他愛もない話で盛り上がるはずが、妙に会話が途切れがちだった。
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家に帰ってからも、その夜のことは話題に上らなかった。「事故だったから」という暗黙の了解のもと、二人とも、あえて触れないようにしていたのだと思う。
ただ、奇妙なことに、それからというもの、俺たちは妙にキスというものに対して臆病になってしまった。
普段通り手を繋ぎ、肩に寄りかかり、ソファでうたた寝をする。そういう触れ合いには、相変わらず何の抵抗もない。それなのに、唇が触れる距離だけは、どちらからともなく、無意識に避けるようになっていた。まるで、あの夜の「事故」が、妙な苦手意識として刷り込まれてしまったかのようだった。
秋、茜の大学の文化祭に、俺も招待されて一緒に回ることになった。模擬店を冷やかし、研究室の展示を見学し、茜の友人たちにも「噂の婚約者」として紹介された。
「この人が、例の?」
「随分と大人しそうな人だね。」
物珍しそうに値踏みされる視線に、俺は居心地の悪さを感じながらも、茜が誇らしげに俺の腕を取る様子に、悪い気はしなかった。
夜になり、片付けも落ち着いた頃、二人で夜店を冷やかしながら帰路についていた。そんな折、前から歩いてきた酔っ払いの集団に肩をぶつけられた茜が、またも俺の方によろめいてきたことがあった。
「わっ……」
とっさに体を支えたものの、距離が近くなった瞬間、お互いびくりと身を固くして、不自然なくらい急いで離れてしまった。あの夏の夜の記憶が、二人の間に一瞬で蘇ったのがわかった。
「……今の、別に何もないからな。」
「わ、わかってる。何もないよ、うん。」
何もないと言い張る割に、二人ともしばらく視線を合わせられなかった。帰りの電車の中も、どこかぎこちない空気のまま、窓の外を眺めて過ごすことになった。
冬、年越しのカウントダウンの夜もそうだった。テレビの前で新年を迎えようという、何でもない瞬間。秒読みが「3、2、1」と進むにつれ、なんとなく空気が張り詰めていくのを感じた。茜もどこか意識しているような素振りを見せていたが、結局、カウントが0になった瞬間、二人とも気まずそうに「あけおめ」とだけ言い合って、そそくさと視線を逸らしてしまった。
年が明けて、バレンタインデーの夜もそうだった。茜が珍しく手作りのチョコレートを用意してくれて、二人きりのリビングで、ちょっとしたムードが生まれかけたことがある。
「はい、これ。味は保証しないけど。」
「ありがとう……あの、茜。」
「な、なに。」
何かが始まりそうな空気を、俺も茜も、確かに感じ取っていたと思う。だが、お互いに一歩を踏み出せないまま、気まずい沈黙だけが流れた。結局、
「……チョコ、美味しいな。」
「そ、そう?良かった。」
当たり障りのない会話で、その場を乗り切ってしまった。後になって、あの時きちんと切り出していればと、何度も思い返すことになる。
「今度こそ、ちゃんと」と思う瞬間が、何度かなかったわけではない。だが、いざその場面が近づくと、あの時の気まずさが蘇ってきて、結局、お互い笑って誤魔化してしまう。そんなことを繰り返しているうちに、いつしか「触れない」ことの方が当たり前になっていった。
今思えば、滑稽な話だと思う。手を繋ぐことにも、同じベッドで眠ることにも平気な顔をしているくせに、たった一度の不意打ちのような接触のせいで、何年も足踏みを続けることになるとは。あの夜、きちんと「もう一度」と言えていれば、こんなに回り道をせずに済んだのかもしれない。
不思議なもので、こうして振り返ると、避け続けていたこと自体が、ある種の二人だけの暗黙の了解のようにもなっていた。誰に説明するでもない、言葉にもしない、ただお互いだけがわかっている奇妙な距離感。それもまた、俺たちらしい関係の形だったのかもしれないと、今なら思える。
それでも、この不器用な時間も、振り返れば悪くなかったと思える。むしろ、長い回り道をした分だけ、ようやく踏み出せたあの夜の一歩が、より特別なものに感じられたのも事実だった。
その足踏みに、ようやく終止符が打たれるのは、もっとずっと後――同じ部屋で眠るようになってからのことだった。