エーリアス──。
どこからでも見える巨大な世界樹がそびえ立ち、魔法と神秘…あるいは科学が日常に溶け込む、気の抜けたようなメルヘンな世界。
そしてここは、その世界の一角に存在する妖精の国『エルフィンランド』。
何かの間違いがあったら、名前が『うふーぶうぶランド』になってたかもしれない国。
前までは、この国は反乱やらなんやらで未曾有の大騒動の渦中にあった。
しかし、この国の(一応の)女王であるエルフィン、異世界からやってきた教主、司祭長のネル、そしてその他種族の大勢の力を結集し、なんとかその危機を乗り越えた。
平和を取り戻した……と言うには騒動がよく起こる妖精の国は、今日も今日とてドタバタとした日常を謳歌していた。
「あー、お腹空いた!パン!エシュールの焼きたてパン!!」
エルフィンは走っていた。
短い足と背中の羽を必死に羽ばたかせ、妖精の国の石畳を猛烈な勢いで蹴り飛ばしていく。
その表情は、国家の危機を救った女王の威厳など微塵もなく、ただただ食欲に突き動かされる野生の獣のようだった。
現在彼女が全力疾走しているのは、別に残党に追われているわけでも、新たな脅威が迫っているわけでもない。
ただ単に、お腹が空いたからパン屋に行こうとしているだけである。
目的地はエシュールの店。しかし、それは決して買い物ではない。彼女の目的は『たかり』である。
基本的に、女王エルフィンがエシュールのパンに正当な対価である金を払ったことなど一度もないのだ。
エシュールはよく持ち応えている方である、エルフィンの無銭飲食により潰れた店は数えきれない。
「お待ちくださぁぁぁい!女王様ぁぁぁ!!」
その後ろから、鬼の形相で追いかけてくるのは司祭長のネルであった。
「執務をほったらかしにしてどこへ行くつもりですか!未処理の書類がまだ山のように残っているんですよ!少しは女王としての自覚を持ってくださぁぁぁい!!」
怒鳴り声を上げながら、ネルは腕を上げる怒りのポーズ。
走る彼女の怒りは尤もであり、エルフィンの日常的な逃亡劇に対する当然の反応であった。
さらにその後ろから、やや遅れてついてきているのは教主である。
教主はこのエーリアスの住人では無い。妖精とは違う『人間』と呼ばれる種族であり、背丈も姿形も大きく異なっている。
時折、彼が元の世界のよく分からない知識や言葉を口にすることがあるが、エルフィンは気にしていない。
と言うより、彼女の頭のキャパシティでは難しい話は右から左へと抜けていくため、詳しく聞こうとした事すらなかった。
「パン、パン、パァァァァ──ん?」
と、そこでエルフィンが突然視線を横に向けた。 何か気になる者でも見つけたらしい。彼女は本能のままに急ブレーキをかけた。
「──きゃっ!?」
ズドン、という鈍い音が響く。
猛スピードで追いかけていたネルが止まりきれず、エルフィンの後頭部に顔面から激突したのだ。
「い、いったぁぁい……っ!」
ネルは痛さに呻きながら顔を押さえる。
そして、限界突破した怒気と共にエルフィンを凄まじい形相で睨みつけた。
「な、何を急に止まっているんですか女王様!」
「ちょっと待ってネル。あれって誰かしら?」
エルフィンはネルの怒りなどどこ吹く風で、短い指をある方向へと向けた。
教主が追いつき、その指の先へと視線を向けると、そこには見知らぬ妖精が居た。
その妖精は、道端にいた国民の妖精を捕まえて、何やら言葉を交わしているようだった。
教主も、このエーリアスという世界に来てからそれほど長い時間が経っているわけではない。
当然、国の妖精の顔を全て知っているわけではないが、それでも直感的に『何かが違う』と感じた。
全体的なフォルム、ふっくらとした頬や幼児のような体型は間違いなくこの世界の妖精のそれである。
だが、纏っている空気が圧倒的に異質だった。
「そうか……いや違う、あの『人間』は私の知り合いではない。邪魔したな」
見知らぬ妖精は、教主の姿を視界に捉えると、一つため息をついて首を振った。そして、そのまま興味を失ったように歩き去ろうとする。
その瞬間、教主は彼女の決定的な違和感に気がついた。
羽が無いのだ。妖精の国に住む妖精たちには必ず背中にあるはずの羽が、彼女には存在しない。
さらに、服装もかなり独特だ。露出の多い革の服、そして頭にはつばの広い魔女のような帽子。右目には眼帯をしている。
この世界の連中はどいつもこいつも個性的な服を着ているため、服装自体がおかしいわけではないが、醸し出す威厳なのか漂う空気なのかが、もちもちとした妖精の体型とミスマッチだった。
「全く、あの人間はどこに行ったのやら。ろくでもない事に巻き込まれてなければいいが……」
右目に眼帯をしたその妖精は、ぶつぶつと呟きながら歩いて行く。 そこで、エルフィンがタタタッと走り寄ると、彼女の前にドンと立ち塞がった。
彼女はバカでデリカシーが壊滅的に無いが、お人好しな所はたまにある。困っている(ように見えた)相手を放っておけず、事情を聞こうとしているらしかった。
「へぇ、教主以外にも『人間』が居るのね!」
エルフィンの興味津々の声を聞きながら、教主はネルにチラリと目くばせをした。
『自分以外にも、この世界に人間は居たのか?』という視線だ。しかし、ネルも小首を傾げるばかり。
彼女もまた、この国に別の人間が迷い込んでいるなど聞いたことが無いようだった。
そうこうしている内に、前方の話はついたようだ。眼帯の妖精は、ふっと口角を少しだけ上げて、エルフィンに礼を言った。
「人探しを手伝ってくれるとは助かる。私の名前はオティヌスと言う。──妖精に墜ちた元神だよ」
静かで、厳かな声だった。妖精にあるまじき重みである。
『神』。
教主はその単語の意味を考えようとした。冗談みたいな肩書である。このエーリアスの常識と照らし合わせれば、冗談と思う者も居るだろう。
案の定、その神妙な空気は、一人の空気の読めない女王によって見事にへし折られた。
「ぎゃははははは!!ねぇネル!聞いた!?この子、すっごい痛い事言ってるわよ!!元神様だって!あはははは!教主、ちょっとこれどうしたら良いかしらねぇ!!」
エルフィンの遠慮の無い馬鹿笑いが、妖精の国の空に響き渡った。
ネルが、完璧な笑顔を浮かべた。だが、その目は全く笑っていなかった。
ネルは笑顔のままスッとエルフィンの背後に回り込み、その両手でエルフィンの口をガバッと塞いで物理的に黙らせる。
「むぐっ!?むー!!」
そして、教主は無言のまま歩み寄り──容赦なく、エルフィンの頭頂部を拳で殴りつけた。
ゴスッ!という鈍い音と共に。
「ふぎゃぁっ!?」
エルフィンから、女王らしからぬ品の無い悲鳴が漏れた。涙目で蹲る女王を見下ろしながら、教主とネルは深く息を吐いた。
「しかし、この世界とはこうなのか。まさか『妖精』という属性のせいで私の体がこうなるとはな」
オティヌスは騒ぐエルフィンたちを気にする素振りも見せず、ぷにぷにとした自分の短い腕や、もちもちとした頬を触りながら、不思議そうに呟いていた。
どうやら、元々はもっと別の姿をしていたらしい。それがどういう事なのか、教主達にはさっぱり分からない。
ただ一つ確かなのは、この奇妙な妖精が探している『人間』を見つけ出さない限り、エルフィンのパン屋へのたかりの時間は、しばらくお預けになりそうだということだけだった。
「この妖精の国にいるとは考えにくいな」
少し考えた後だった。それが、この世界における唯一の『人間』(オティヌスの知り合いが加わったことで二人になったようだが)である教主のアドバイスだった。
もし、この平和ボケした妖精の国に、自分のような『人間』が迷い込んできたとしたら、間違いなく珍獣を見るかのような大騒ぎになっているはずだ。
隠れようにも、妖精たちの好奇心からは逃れられないだろう。
となれば、妖精の国以外の場所──取り敢えず、比較的交流のある獣人の村辺りから探ってみるのが筋だという結論。
そんな訳で、一行は妖精の国の外縁へと向かって歩き出していた。
「あいつ以外の人間、か……。それはそうとして、お前はこの世界にどうやって迷い込んだんだ?」
石畳を歩きながら、オティヌスがふと教主を見上げて言った。
その問いに、教主は苦笑するしかなかった。答えようがないのだ。気がついたらこのエーリアスという世界に居た、としか言いようがない。
ネルやエルフィンたちが言うには、どうやら空から『落ちてきた』らしいのだが、肝心の教主自身にはその前後の記憶がすっぽりと抜け落ちている。
昔の記憶が無いとはいえ、元の世界──本来自分が属していた場所へ帰りたいという気持ちが全くないわけではない。
だが、このエーリアスでの日々は、教主の心に深く根を下ろしていた。
バカで食い意地が張っているがどこか憎めない妖精の女王、笑顔でブラック労働を強いてくる司祭長、そして獣人や竜人、魔女や幽霊といった、数多の種族たちとのドタバタとした繋がり。
もし、何時かこの世界を去る時が来たとしたら、おそらく自分は涙が出るぐらいには感情移入してしまっているだろう。
それは、教主にとって悩ましく、同時に温かい思いでもあった。
「元の世界に戻れる。──私にはそれが出来るが、どうする?」
オティヌスの何気ない一言に、教主の心臓がドクンと大きく跳ねた。
この眼帯の妖精は、冗談でそんなことを言うような感じではない。笑い飛ばすにはあまりにも真に迫った、事象をねじ伏せるような絶対的な響きがあった。
「はーっ!?何言ってんのよダメダメダメーっ!ねぇ教主、帰るなんて言わないわよね!?」
静寂を切り裂いたのは、エルフィンだった。杖を取り落とす程に動揺している。
短い手足をバタバタと振り回して地団駄を踏んだかと思うと、猛烈な勢いで教主にすがりついてきた。
服の裾をギュッと掴み、大きな瞳に涙を溜めた完璧な上目遣い。相変わらず、喜怒哀楽が異常に激しい女王様である。
「大丈夫ですよ、女王様。教主様は、世界樹教団の教主としてこの身を尽くしてくれると、『300年契約』の書類にしっかりとサインをしてくれましたから」
ネルが、エルフィンの杖を抱きしめながら聖母のような微笑みを浮かべた。
人間は300年も生きない──とツッコミを入れようとした教主は、その発言の裏にある恐るべき事実に気がつき、背筋に冷たいものを感じた。
(……待てよ。この司祭長は、日常的に大量の決裁書類の中に、とんでもない条項を忍ばせる常習犯だぞ……?)
今朝の執務の光景がフラッシュバックする。山積みの書類を前に欠伸をしながら、流れ作業でサインを連発していた記憶がある。
一応内容は確認したはずだが、寝ぼけ眼だったため自信はない。ダラダラと冷や汗が頬を伝う。
エルフィンを安心させるためのネルの出鱈目であって欲しいと、教主はただただ祈るしかなかった。
「そうなの……?良かったぁっ!まっ、この世界の外に人間を帰すなんて、私達にだって出来ないんだから、こんなぽっと出の妖精一人なんかじゃ無理に決まってるわよねー!」
教主がエーリアスに縛り付けられていると確信し、安堵したエルフィンは表情を一転させた。ケラケラと笑いながら、オティヌスを指差して得意げに胸を張る。
「……人間に相当に懐いているようだな」
オティヌスが、エルフィンの煽りなど気にも留めず、興味深そうに教主とエルフィンの関係性を観察して言った。
しかし、エルフィンは調子に乗っていた。女王の威厳がどうのと捲し立て、むしろ教主が自分に懐いているのだと事実を捏造し始める。
無性にイラッときた教主は、無言で右手を振りかぶり──エルフィンのデコに、容赦のないデコピンを叩き込んだ。
「ふぎゃっ!?」
カエルが潰れたような悲鳴を上げて、女王がひっくり返る。
おでこを押さえて涙ぐむエルフィンだったが、すぐに持ち前の切り替えの早さを発揮し、興味津々な顔でオティヌスにすり寄った。
オティヌスが探しているという『人間』が、一体どんな奴なのかを知りたくなったらしい。それはネルも、そして教主自身も気になっていた。
「一言で言えば、あの人間の男はバカだな。それに行動力があるのがタチが悪い」
一切の躊躇もない、強烈な一言だった。絶対に本気で言っている。その言葉の裏には、呆れと、そして親愛の情が入り混じっていた。
ネルと教主が「探している相手に向かって随分な言い草だな」と何とも言えない顔になる中、エルフィンだけは目を輝かせた。
自分よりバカかもしれない奴の存在に、親近感でも湧いたのだろう。
「基本的に、考え無しで戦うことが多いが……自分が気に入らない奴には、理屈を抜きにして拳を振るう。そんな単細胞だよ」
「まるで教主みたいね!……痛っ!何よ、本当の事じゃない!」
余計な口を叩いたエルフィンに、教主から二発目のデコピンが飛ぶ。
「先ほどまで憎み合っていた敵であっても、そいつの背負う悲しい事情が分かったら、今度は世界を敵に回してでも助けようとする。本当に、救いようのない男だ」
「ぷぷぷーっ、行動に一貫性が無いじゃない!やっぱりバカね!私の方がずっと頭が良いわよ!」
「ああ、あいつは本当にバカな奴だよ。──死んでも直らなかったからな」
オティヌスが、ふと遠い目をしてこぼしたその言葉に、場が奇妙な沈黙に包まれた。
このエーリアスという世界において、『死』という概念は存在しない。世界樹の偉大なる加護があるからだ。
どれほど致命的な威力の攻撃でも、そのダメージは軽減され、「痛い」と泣き喚く程度で済んでしまう。
だからこそ、その概念を理解できないエルフィンとネルは、「死んでも直らない」という言葉を何かの比喩表現だと思い、不思議そうに首を傾げている。
しかし、その概念を知っている教主だけは違った。
教主は理解した。オティヌスが語る『死』が、決して軽い比喩などではないことを。そして、死の概念が明確に存在する過酷な世界から、彼女と、彼女の探すその少年がやってきたという事実を。
同時に、教主はオティヌスの言い回しに強い違和感を覚えた。『死んでも直らなかった』……?普通なら『死ななきゃ直らない』と言う所だ。
まるで、彼が実際に死を経験したかのような。あるいは、彼に何度も死を与え続けたかのような、身も凍る響きがあった。
たまらず教主は、自身の持つ能力──相手の本音を読み取る力を、一瞬だけオティヌスに向けようとした。
その瞬間。
オティヌスがゆっくりと振り返り、教主を一瞥した。
ただの視線ではない。深淵を覗き込むような、『神』としての眼光。教主の能力の性質を理解し、その上で「踏み込んでくるな」と釘を刺す拒絶。
ビキッ、と教主の背筋が凍りつき、冷や汗が吹き出した。
「教主様?どうしたんですか、顔色が悪いですよ?」
ネルの心配そうな声にハッと我に返り、教主は僅かに肩を震わせながら「大丈夫」と短く返すのが精一杯だった。
「それにしても、世界樹か」
オティヌスは教主から視線を外し、妖精の国の中心にそびえ立つ巨大な大樹──世界樹を眩しそうに目を細めて見上げた。
その言葉をチャンスとばかりに、ネルは布教用のスマイルを全開にする。
「はい! 我らが世界樹様は、この世界の全てを包み込む偉大なる存在です! オティヌスさんも、もしよろしければ世界樹教団へ入信──」
「確かに、この世界においては偉大なのかもしれんが」
オティヌスは、ネルの勧誘を右から左へ受け流し、冷めた声で言い放った。
「私から見れば、ラグナロクで燃え尽きる程度の薪にすぎないな」
「ひ、ひえええええっ!?な、なんて不敬な言葉を!薪って、あの世界樹様を薪って!!」
温厚なネルの顔から笑顔が消え去り、怒りと混乱が入り混じった表情へと変化する。
「ちょっと教主様!ラグナロクって何ですか!?何かの呪文ですか!?」
ネルが猛烈な勢いで詰め寄ってくる。
教主は言葉に詰まった。元の世界の記憶はおぼろげだが、北欧神話の知識の欠片は脳裏に残っている。
『ラグナロク』とは、神々すら滅びる最終戦争の事だったはずだ。そして、その戦いの果てに世界樹ユグドラシルも炎に包まれるとされている。
しかし、そんな朧げな神話の話を、この妖精達にどう説明すればいいのか。
もし少しでも自信なさげに「神々の最終戦争で……世界が終わる的な……」などと答えようものなら、横にいるおバカな女王様から「それって本当なの?知ったかぶりしてるんじゃないでしょうね!?」と容赦ないツッコミが入る予感がヒシヒシとするのだ。
「……ええと、今は人探しをしよう」
教主は明後日の方向を見ながら、どうにかそれだけを絞り出し、逃げるように獣人の村へと歩みを早めたのであった。