オティヌスが自分を心配して、この見知らぬ異世界を奔走してくれているなどとは露知らず。
上条当麻は深い森の中を一人で歩き続けていた。一向に人里に辿り着かない。
「はぁ、はぁ……」
息を吐きながら歩を進める。あれほど凄まじかった切断部の激痛はもう無い。
出血も完全に止まっており、傷口は何らかの不可視の膜に覆われているような感覚があった。この世界のルールによる絶対的な生命保護のシステムが働いているのだ。
体そのものは大丈夫だ。しかし、問題は左脇に大事に抱えている自身の『右腕』であった。
「断面を合わせたら繋がる……いや無理か、幻想殺しがあるからな……頼むから腐っていかないでくれよ……」
上条は青ざめた顔で、血の気が引いて白くなった右腕を見つめた。
本体の命が保護されているのはいい。だが、この右腕はあらゆる異能の力を打ち消すのだ。この世界を包む加護のシステムは、この右腕自体に働いていない可能性が高い。
今はまだただの『切断されたての腕』でも時間が経てばどうなるかは嫌でも分かる、自然の摂理で腐っていくだけだ。
どうにかして細胞を新鮮な状態に保ちたいが、生憎クーラーボックスや氷などそんな便利な物はこんな森の中に見当たるはずもなかった。
上条の脳裏に学園都市にいるカエル顔の天才医師の顔が浮かぶ。
(あの先生なら、あるいは……いや幾ら何でも腐り落ちた腕を元通りにして繋ぎ直してくれる可能性は薄いよな……でも、あの人ならもしかしたら可能かもしれないが、ここから学園都市に帰る方法が無い……!)
思考を巡らせるものの現実は容赦なく胃袋を抉ってくる。 空腹が、いよいよ限界に達していた。
上条の視線は残された左手に握られているもう一つのアイテム──アニマル缶へと吸い寄せられた。
ふざけた顔がプリントされた、どう見てもペットフードの缶詰。これを人間である自分が食うのか。
悲壮感と惨めさに思わず涙が出そうになりかけたが、背に腹は代えられない。上条は意を決して歯と左手を使って不器用に缶のフタを開け、中身を口へと流し込んだ。
「……ん?」
意外にも美味かった。
肉のような何かのペーストは獣の餌特有の臭みはなく、むしろ濃厚な旨味が口の中に広がる。所々に薬っぽい苦味のような不自然な風味も混ざっていたが、極限の空腹状態にあった上条の胃袋はそれを歓喜と共に受け入れた。
ものの数分で中身を半分ほど平らげた頃には、空腹感はすっかり無くなって妙な満足感に包まれていた。
「ふぅ……。なんだ結構いけるじゃないか」
口の周りを拭い息を吐く。すると、空腹が満たされたおかげなのだろうか。頭が冴え渡ったような奇妙な感覚がする。全能感が脳を駆け巡り始めた。
(おっ……?なんか思考がクリアになってきたぞ。よし、冷静に周りを観察するんだ上条当麻!)
ふと地面を見る。何故今まで気づかなかったのだろうか、土の表面に規則的な凹凸の跡が続いている。
「これは……車の轍、か?」
確信が持てる。この先に進めば文明がある。少なくとも重機や車を製造できる程度の科学技術を持った街が。
希望の光を見出した上条は、勢いよく立ち上がり歩き出した。
まだ底の方に中身が残っているアニマル缶と、絶対に落としてはいけない自分の右腕をしっかりと抱え──ているつもりで。
「おおっ!」
歩いて、歩いて、更に歩いて、森を抜けた先。上条の口から歓喜の声が漏れた。
予想もしていなかった光景がそこにあった。背の高いビル群、舗装された道路、空を行き交う機械、冷たい金属とガラスで構成された大都市のパノラマ。
「やっと……やっと帰ってきたんだなぁ学園都市に……!」
上条の瞳には、それが自分が暮らしていた科学の街にしか見えていなかった。視覚情報と記憶がすり替わっている事に違和感を持っていない。
彼自身の脳は気付いていなかったがアニマル缶に混入していたエルフの怪しい薬──知能が一時的に高くなった後、副作用で知能が後退する薬──のマイナス効果が、すでに危険な領域に突入していたのだ。
ふと、歩きながら上条は違和感を覚えた。(あれ……?何か大事なものを落としたような気がする……) 左手を見る。そこには何も持っていない。
(おかしいな。俺はさっきまで何を持っていたんだっけ……?まぁ良いか。大したものじゃなかった気がするし)
それが自分自身の『右腕』であったことすら、退行した知能は思い出せなくなっていた。
取り敢えずゲートを潜らなければならない。上条は無防備な足取りで、エルフの都市『モナティアム』の入り口であるゲートを堂々と潜り抜けた。
(まずは自分の学生寮を探さないと。腹ペコシスターと、ちっこい妖精が腹を空かせて待っているはずだ)
しかしどうにも記憶と街並みが一致しない。ビルの大きさも妙だ。出入口が子供サイズに思える。窓の大きさも上条の背丈よりも小さい子供のための物のような感じがする。
「いつの間にか学園都市は模様替えでもしたのかなぁ……」
バカになった頭でそんな呑気なことを考えながら、上条がしばらく歩いた時だった。
キキィィィッ!と鋭い音を立てて、上条の眼前で無骨な車両が数台。けたたましいブレーキ音と共に急停車した。
ドアが乱暴に開き、中からぞろぞろと武装した部隊が展開する。
見た目は妖精や獣人みたいな低等身のもちもちほっぺだった。そして未来的な火器で武装した、尖った耳を持つエルフの鎮圧部隊である。
その中心に立つのはこのモナティアムを牛耳る市長エレナと、その有能な秘書アメリアだった。
この街の監視網は徹底されている。上条がゲートを潜った瞬間から、迎撃の用意は整えられ始めていたのだ。
「まさか、この世界で教主以外の人間を見るとはなぁ。おい鎮圧班!もたもたするな、完全に包囲しろ!」
エレナがクールに決めながら、不敵な笑みを浮かべて指示を飛ばす。
「対象の捕獲後、ただちに精神への洗脳措置を開始します。エレナ様の悪逆非道で汚い計画には、アメリアも感服いたしました。まさにエルフの鑑です」
アメリアがタブレットを操作しながら淡々と、しかし心からの称賛を口にする。
「わははは!何、そう褒めるなアメリア。私は優しいからな。捕獲後にはあいつの欠損している腕の代わりに、特製の高性能義手を作ってやってもいいんだ。奴にとっても悪い話じゃあるまい?」
エレナとアメリアはこれから人間一人を拉致洗脳しようとしているとは思えないほど、和気藹々とした雰囲気だった。
「あの、市長殿。洗脳した後はその人間をどう扱うんでありますか?」
バズーカ砲を構えた鎮圧班の隊長カンナが疑問を口にした。
「ふふん。あの人間が教主と同じような性質を持っているなら、世界樹の秘密を探るための強力な足掛かりになる。もし違ったとしても教主と同郷の存在であるという事実を利用して、我々エルフに有利な外交的カードにするのだ」
「もし世界樹教団が『そんな人間は知りません』と見捨てたらどうするんです?」
カンナの疑問にエレナはニヤリと極悪な笑みを深めた。
「何その場合は……かつて私達が地球で捕虜になっていた時と、同じ地獄の境遇に落としてやればいいだけの事だ!」
エレナは両手を広げ演説するように声を張り上げた。
「『週休二日制で1日8時間労働』という、あの血も涙もない悪魔のような重労働!お前達も地球で味わったあの苦痛を忘れたことはないだろう!あいつにも同じシフトを組んで、人間である事を骨の髄まで後悔させてやるのだ!!」
「「おおおおおっ……!!」」
エルフの鎮圧班から恐怖と感嘆の入り混じった吐息が漏れた。
週休二日で8時間。人間からすればごく一般的なホワイト労働であるが、単純労働は機械に任せていたエルフにとっては拷問にも等しいのである。実際にトラウマになった。
「では、発砲して良いのでありますか?」
カンナが無慈悲な銃口を上条に向けたまま、顔だけをエレナに向けて最終確認をとる。
「構わん!この世界なら、陽子ビーム砲の直撃を受けたところで死にはしない。ちょっと強めのゴム弾やテイザーガンをくらった程度の痛みで済むからな!むふふ、かつて私達をこき使って手荒に扱った忌まわしき人間の一人だ。たっぷりと恨みを込めて攻撃してやれ!」
一方、包囲された上条当麻。ぼんやりと霞む頭で必死に記憶を辿り、目の前の状況を分析しようとしていた。
(えーっと……魔術師じゃないよな。持ってるのはどう見ても科学兵器だ。それに耳が尖ってて妙に丸っこい……人間の姿じゃない)
アニマル缶の副作用により、深く考えるのが非常に面倒になっている。
しかし上条の本能だけは明確に警鐘を鳴らしていた。
(あいつらが言っていることはよく分からないが……俺を捕まえて悪用しようとしている。インデックスやオティヌス、俺の大切な人達を害する可能性のある敵だ。なら間違いない)
戦うべきだ。自分には力がある。どんな理不尽も打ち砕く『幻想殺し』がある。
そう思って右手を握ろうとしたが肩から先が無い。落としてきたからだ。
(いや待て、そもそもあいつらが持ってるのは科学兵器だ。異能の力じゃないから俺の右手があったとしても防げないじゃんか)
知能が低下しているために論理的な思考はここで完全に破綻した。右腕無し。幻想殺し無し。科学兵器に効果無し。
しかし矛盾するようだが、上条の根深い部分──魂とでも言うような奥底は『力はまだここにある』と絶対の確信を持っていた。
右腕を失ったことで蓋をされていた『それ』が、いまや抑え込む枷もなく外の世界へと顔を出したがっているのだから。
これは使うべきではないという気持ちが出た、どうしてそう考えるのだろう?それは相手を殺すだけの力だから……もう考えるのが億劫だ。
「──っ」
ゆっくりと、無意識に、上条は失われた右肩の断面へと力を込めた。
直後。バチバチッ!という不穏な音と共に、上条の右肩から『何か』が噴出した。
『それ』は強大な力を秘めている。『それ』は半透明の色彩を持っている。『それ』が持つのは巨大な角、凶暴に並んだ無数の牙だ。
『それ』は紛れもなく、神話の時代から抜け出してきたかのような──ドラゴンの首と顔。
ローゼンクロイツとの死闘から久々の登場だからか実に大きな声を出した。
『それ』は『竜王の顎』。
「……は?」 エレナが間抜けな声を漏らした。 「……え?」 アメリアがタブレットを落とした。
生物的でありながら非現実的なその圧倒的威容に二人は唖然として固まった。
「て、撃てぇーっ!!」 しかし、カンナたち鎮圧班は軍人としてまだ冷静であった。
たった一人の少年(と、そこから生えた何か)に対して、過剰すぎる火力の一斉射撃が放たれた。
陽子ビーム、プラズマ弾、高火力のミサイルが瞬く間に上条の立つ座標へと殺到し、大爆発を巻き起こす。
ズドォォォォォンッ!! と地面が盛大に抉られ、アスファルトが巻き上げられて濛々たる白煙が立ち込めた。
「やったか!?」
カンナが兵士として言ってはいけない言葉を口にして発砲を止めると白煙の中を観察する。
その煙の中で──巨大な半透明のドラゴンが、全くの無傷で蠢くシルエットがはっきりと見えた。
「対象はまだ動いている!とにかく撃て撃て撃てーーーっ!」
カンナの大声が響き、一斉射撃がまた始められようとした。
次の瞬間。上条の右肩から生えるドラゴンの凶悪な顎がカッと大きく開かれた。極大のエネルギーが圧縮される音が響いたかと思うと。
ゴァァァァァァァァァァァァッッッ!!!!!
ドラゴンの口から言葉に絶する巨大な閃光が放射された。
そのブレスは一斉射撃されたミサイル等を瞬時に飲み込み、エレナ達の頭上数十センチの空間を掠めて直進し、モナティアムが誇る高層ビル群を──まるでバターを熱したナイフで切るかのように──纏めて複数両断した。
ズズズズズ……!ドゴォォォォンッ!!!と切り裂かれたビルがバランスを崩し、轟音と土煙を上げて次々と崩落していく。
モナティアムの街並みが地図から書き換えられてしまった。それもただの一撃でだ。
「エレナ様、逃げますよ!アレは私達がどうにかできる相手ではありません!」
アメリアが青ざめた顔でエレナの腕を引く。
しかしエレナは逃げようとしなかった。崩れゆくビル群を見て顔を真っ赤にしてブルブルと震え、やがて両手を振り上げて激怒した。
ちなみにエレナは同胞のエルフたちが死んだかもしれないから怒っているわけではない、1ミリも心配していない。なぜならこの世界では何があっても絶対に死なないからだ。
では何に怒っているのか。
ここは地球から命からがら逃げてきたエレナが、途方もない年月と血の滲むような努力の末にようやく作り上げた夢のハイテク都市だからだ。
「おのれぇぇぇっ!この世界に来てここまでの都市を作るのに、どれだけの年月と予算がかかったか分かっているのかーっ!!この鬼、悪魔、人間ーっ!!」
エレナは涙目で罵声を浴びせた。
さらに「請求書を送りつけてやる!」と喚こうとしたが、白煙の中から二発目の閃光が発射される兆候が見えた瞬間──。
「……アメリア、撤退だ」 「はいっ!」
エレナは一瞬で表情を真顔に戻すと見事なフォームで逃げ出した。さすがエルフのトップに立つモナティアムの市長だけはある。惚れ惚れするような切り替えの早さである。
「カンナ!適当に遅滞戦術をとれ!私は市庁舎で今後の防衛策を練る!」
「えぇ!?ひどいであります市長殿ーっ!」
無責任な指示だけを後ろ手で飛ばしたエレナとアメリアは本拠地である市庁舎の方向へ、土煙を上げながら弾丸のような速さで逃亡していった。
その直後に二発目の閃光が発射。モナティアムの街をさらに激しく削り取る轟音が、エルフの都市に響き渡った。
教主達がモナティアムのゲートを潜り、その足を踏み入れた瞬間──彼らは驚愕の光景を目の当たりにすることとなった。
ゲートの向こう側は、文字通りの大騒動だった。
かなり遠くに見える市街地。そこから地上へ、あるいは地上から空へと、けたたましい轟音と共に凄まじい閃光が走り抜けている。
巨大な光の刃が高層ビル群を豆腐でも切るかのように真っ二つに分断し、崩落する瓦礫が巻き起こす土煙がモナティアムの空を灰色に染め上げていた。
「おい、これは……あいつの腕か」
惨状を前にしてオティヌスが足元の地面から『何か』を拾い上げた。人間の右腕だった。しかも、ご丁寧に切断されたばかりの生々しいものだ。
「うえええ」
「ひええええ」
エルフィンとネルが、その生首ならぬ生腕を見て気味悪そうな顔で悲鳴を上げた。
オティヌスは無表情のまま、その血の気の引いた上条の右腕を教主の胸元へと押し付けた。
「私がこんなものを持っているわけにもいかんからな。ほら」
「うわぁぁぁぁっ!?なんで渡すんだよ!」
教主は悲鳴を上げながら慌てて両手でそれを受け取る羽目になった。冷たくて重い。最悪の気分である。
「あっ、アニマル缶だ。まだ底のほうに中身が入ってるのに勿体ないわねぇ」
騒ぎの中、エルフィンだけはちゃっかりと地面に落ちていたアニマル缶を拾い上げていた。そして意地汚く、短い指を缶の底に突っ込むと残っていた中身をペロペロと舐め始めている。
(まさか……オティヌスが探している人は、これを食べてしまったのか?)
教主はエルフィンが舐めている缶詰を見ると不安げに思った。
オティヌスもまた重い溜息をついた。
「……悪い意味で、どうしようもないバカになってしまったようだな」
そこへ一人のエルフが足早に近づいてきた。エルフのスパイであるローネだ。
恐らく街の至る所に設置された監視カメラの類で、教主たち一行がゲートを潜ったのを察知したエレナの差し金で迎えに来たのだろう。
ローネは半泣きになりながら、教主たちに手招きをした。
「ひぃぃぃぃっ、怖いぃぃぃ!皆さぁん早くこちらに来てくださいぃぃぃ!」
「何でこんな事になってんのよー?」
エルフィンは指を舐めながら、状況に全くそぐわない暢気な声を上げた。遠くから見ている分には祭りの花火や映画の特撮のように派手で面白いのだろう。
「そんな事を言ってる場合じゃないですってばぁぁぁ!」
ローネに急かされると一行は誘導されるまま、市庁舎の地下深くにあるエレナの本拠地へと案内された。
「あいつは何なんだ!?お前らには、この件に関して莫大な賠償をしてもらうからな!!」
地下の指令室に足を踏み入れるなり、市長のエレナが開口一番にまくし立てた。
「はぁ!?何で私達が賠償しなきゃならないのよ!」 エルフィンも負けじと叫び返す。
エレナはあの人間がいきなり街に入ってきて暴れ出したのだと主張し、人間なのだから世界樹教団…つまり教主たちと関係があるに決まっている、と責任を押し付けてきた。
本当か?と疑った教主が、自身の能力でエレナの本音を覗き見てみる。
『武力で拉致して洗脳しようとしたら、あんなバケモノが出てきちゃったなんて言えるわけないじゃないか!とにかく全部あいつらのせいにしてやる!』
案の定、原因は完全にエルフ側にあった。
教主がそれを指摘すると、エレナはビクッと肩を揺らして驚いたが、すぐに白々しく咳払いをして話を逸らした。
「そ、それはともかく!このままだとエルフの街はメチャクチャになる!というか、現在進行形でメチャクチャにされているのだ!」
「所詮は地球の国家に敗北して逃げ出した種族だな。なんとも無様じゃないか」
「何だと!?……お前は誰だ!」
「オティヌスと言う」
唐突にオティヌスが冷たい声で話に割り込んだ。
どうにも不機嫌な様子である。自分が探している人間に、この耳の尖った連中が余計なちょっかいを出したことが気に入らないのだろう。
「お前らは、かつて世界を征服し、作り変えすらした私の足元にも及ばない連中のようだ。……まぁ、これは信じて貰わなくて結構だが」
「世界を征服して作り変えただと!?くだらん妄言だな、そんな証拠があるのなら今直ぐ出してみろ!」
「信じて貰わなくて結構と言ったが?話を聞いているのか?」
極限状況の指令室で、しょうもない精神マウントを取り合う言い争いが始まった。
教主は呆れ果ててメインモニターに目を向けた。そこでは少年が右肩から巨大な半透明の『竜』を生やし、モナティアムの街を絶賛破壊中である。こんな無駄話をしている暇は無いはずなのだが。
「えーっとえーっと!私だって世界を征服した事くらいあるわよ!パン屋でお金を払わずに、全部ツケにした事もしょっちゅうだし!」
「女王様、それは征服じゃなくてただの食い逃げです。もうちょっとなんかこうマシな武勇伝は無いのですか?」
エルフィンとネルまで話に乗ってきてしまい、収集が付かない事態に教主は頭を抱えそうになった。
──その時だった。
『ギィィィィィィィィィィィィィィィィッッッ!!!!!』
「がっ……!?」
モニターから鼓膜を直接引き裂くような、強烈に不気味なノイズが鳴り響いた。
思わず、室内にいた全員が頭を抱えてしゃがみ込んだ。単純な大音量ではない。脳の奥底に直接響き、生物としての本能を根底から恐怖で縛り付けるような異常な波動。本能的に全ての動きが停止する。
ピーッ、という警告音と共に、異常事態を検知したシステムによってモニターの音声が強制的にカットされた。
「な、何だ……今のは……!」
エレナが床に這いつくばったまま、震え声を漏らした。オティヌスは耳鳴りに顔をしかめながら静かに答える。
「あの竜の能力の一つだな。音響兵器の一種だ。理性で防ぐことは不可能と言って良い」
「なにっ!?アメリア、隊員に通達しろ!仮拠点でノイズキャンセラー機能のある装備を大至急受け取れ!」
「無駄だ。それ以外にも技はある」
オティヌスが冷酷に言い放つ。
モニターに映るのは増援のエルフ部隊。それを見ていたエレナは更なる異常を見る。
「むっ!?何故だ!隊員が何で動かない!?……何だあれは、生き物のように無機物が動いているぞ!?」
「竜の威圧だな。……意志を持たない無機物にすら作用し、従わせる程に強烈な」
音声の消えたモニターの中では、異様な光景が広がっていた。
散発的に攻撃を仕掛けていたエルフの鎮圧部隊が、完全に動きを止めている。ノイズキャンセラーなど意味をなさない。恐怖で硬直しているのだ。
更に空を飛ぶ迎撃ドローンや、ただのビルの瓦礫や、アスファルトの地面が、まるで命を与えられたかのようにブルブルと波打って動いている。そこへ竜の首が薙ぎ払われた。
回避や防御もできないエルフの隊員達がボールのように高速で吹っ飛んでいき、波打つビルの一つに深々と埋まる。
そのビルは病院だった。患者の一人にしては、何故か将校服を着ているおかしなエルフが半狂乱になっている。
(まあアレでも大怪我はしていないんだろうな。世界樹の加護がなきゃどうなってた事か)
教主は冷や汗をかきながら思った。
そこで竜が新たな攻撃モーションに入った。今度は閃光ではない。ドラゴンの口から濁った紫の毒々しい液体が、超高圧の水鉄砲のような圧力で吐き出された。
それが別の場所で隠れながら狙撃の準備をしていたエルフ達の頭上へ降り注ぐ。
直撃を受けたエルフ達は、死にはしなかったものの、全員が一瞬で白目を剥いてバタバタと倒れ伏した。
ダウンしていない隊員が慌てて仲間を担ぎ上げて撤退しようとしたが、数歩歩いただけで彼女もまた口から泡を吹いて目を回し倒れてしまった。
「ほ、本当に何なんだあれは……!」
「なんなのアレ?」
「この世に存在しない毒物だ」
忌々しげなエレナの声と、相変わらず暢気なエルフィンの声が重なる。オティヌスがモニターを見据えたまま説明した。
「どんな化学式にも当てはまらない。……『毒と言う概念』その物かもしれない毒。この世界の法則のおかげで重度の風邪のような症状で治まっているが、加護がなかったら、あの場にいる全員が即死していただろうな」
「へぇー、何か大変ね」
更にモニターではドラゴンが別の攻撃を披露している。今度の攻撃は閃光……に似て効果は別の物だった。
なんと白い光に当たった物が塩の塊になっている、世界樹の加護のおかげでエルフ達の体は無事だが装備の全てが塩になった。頭から塩を被ったようになった裸のエルフは涙目で目に入った塩を拭ったり、口に入った塩を吐き出している。
「もしかしてあれって砂糖!?」
「よく見ろ、塩の塊だ」
「ちえーっ期待させないでよねぇー」
今度はドラゴンは閃光を放っても無い、それなのに妙な事象が発生した。
ドラゴンの大顎の根本、そこから巨大なマントに似た禍々しい翼が生えてから起こった。翼が大きく空気を蓄えるかのように膨らむ。
そしてエルフ達が大きく吹き飛んだ、更にその後ろのビルが大きく陥没している。まるで不可視のビル解体用鉄球で殴られたかのようである。
巻き込まれなかった周囲のエルフ達は体を震わせた、恐怖からではなく寒さからである。吐く息が白く凍り付いている。
そして次に発生した四方八方からの紫電によりエルフ達は黒焦げになった。それでも頭がアフロになって目を回している状態ですんだ。やはり世界樹の加護とは素晴らしい物がある。
「何あれ手品?」
「手品じゃない。風を砲弾にした後に、気圧を従えて気象操作で雷を起こしたという事だ」
もういい加減にしてくれ!とはエレナの悲鳴。
「そこのアホ妖精二人!暢気な事を言ってる場合かあっ!お前らも他人事じゃないんだからな!!」
どうでも良さそうなエルフィンとオティヌスの能天気さに、エレナがついにブチギレた。
「私達は攻撃で誘導して街の外にあれを誘き出す事を決定した!それも遠くにだ!この街をこれ以上壊されてたまるか!」
「だから?」
状況の深刻さを全く理解していないエルフィン。しかし横にいたネルが血相を変えた。エレナの言葉の意味が分かったからだ。
「ちょっと待ってください!街の外って……あの人間が妖精の国に行くかもしれないって事ですよね!?何て事をするんですかぁ!!」
「フハハ!何とでも言え!私にはこのモナティアムを守る義務があるのだ!」
エレナが悪役顔で高笑いを上げる。
だがその時。モニターの中の上条の動きが突然ピタリと止まった。
そして誘き出そうとする攻撃を完全に無視して、クルリと向きを変え──ズン、ズンと、真っ直ぐに歩き出した。
その進行方向は間違いなく今自分達がいる『市庁舎』であった。予想外の行動にエレナの悲鳴が響き渡った、上条の行動をオティヌスが冷静に分析する。
「はぁ!?何でいきなりこっちに来るんだ!?」
「誘い出されているのを察知したようだな。これまでの状況から、敵の攻撃が不自然だと読み取って、自分を誘導しようとする思惑を看破したという事だろう。……アニマル缶でとんでもないバカになっても、戦場における純粋な勘などは低下していないようだ」
「ひぃぃぃぃっ!誰か!誰か何とかしてくれぇ!!」
頭を抱えて悲鳴を上げるエレナに「ざまあみなさい!自業自得だよーだ!」と腹を抱えて指を差し、大笑いするエルフィン。
カオスになった指令室でオティヌスが深く重い溜息をついた。
モニターを見るオティヌスは上条の影が不自然に明滅している事に気付く、このまま放置しておくと遠からず存在が実在から別の何かに成り果ててしまう。
「早くあいつを止める必要があるな……いい加減に帰りたいし。──私が何とかする」
「えー!?あんたに何が出来るって言うのよ?あんなの、ちっぽけな妖精一人がどうにかできるわけないじゃない!」
エルフィンが目を丸くしてオティヌスを見る。 オティヌスは眼帯の奥の瞳を細め、エルフィンに向けて謎めいた笑みを浮かべた。
「出来るさ。私のいた世界では『妖精』とは無力の象徴であり、神を引きずり降ろす弱体化の呪いだった。だが、この世界においてはそうでもない」
オティヌスは、エーリアスという世界を──そして傍の教主を、興味深そうに見つめながら言葉を紡いだ。
「私には心強いバックアップがあるからな」