科学王国の忍者 作:あいまい
深い闇の底から、冷たい水が脳髄に染み込んでくるような不気味な感覚があった。
思考さえも凍りついていた私の細胞に、突如として刺激が走り抜ける。全身を覆っていた硬いなにかが、バリバリと乾いた音を立てて剥がれ落ちた。
視界がチカチカと明滅する。周囲の情景がうまく掴めない。千空君たちは、どこへ行ったのだろう。
「すまないね。急に起こしてしまって」
頭上から降ってきたのは、驚くほど低く、そして澄んだ、穏やかな男の声だった。
私はゆっくりと顔を上げると、目の前に立っていたのは、獅子のたてがみを思わせる長い髪を持った、見上げるほどの巨躯の男だった。その底知れない佇まいを目にした瞬間、私の背筋に、元忍者としての本能的な戦慄が走る。
(強い、この男。私の実力じゃ絶対に勝てない)
仕事モードの父に匹敵する、あるいはそれ以上の威圧感。丸腰の今の私が立ち向かえば、一瞬で肉塊に変えられる。それほどの圧倒的な強者が、優しげな笑みを浮かべて私を見下ろしていた。
「今の状況を説明しよう。なるべく落ち着いて聞いて欲しい。君が石になってから、およそ3700年が経っている」
男───獅子王司の口から語られた世界の現状は、あまりにも荒唐無稽だった。
謎の光によって全人類が石化し、文明のすべてが風化して消え去った。ここは原始のストーンワールドなのだと。
司は続けて、自らの『理想』と、これまでに起きた出来事を静かに語り出した。既得権益を持つ汚い大人は二度と復活させない。この原始の世界を、若者たちだけの楽園にするのだと。そして───
「だが、俺の理想を阻もうとする者がいた。最初の復活者、石神千空という男だ。彼は元の汚れた世界を、科学によって取り戻そうとした」
「千……空……その彼は……あなたの理想と相反する彼は、今どうしてるの?」
「新世界の平穏のために、必要な犠牲だった。───彼はこの手で、首の骨を砕いて殺したよ」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中が真っ白に染まり、視界がぐにゃりと歪んだ。
(今、この男はなんて言った? 千空君が、死んだ? あの千空君が、殺された……?)
激しい怒りと涙が一気に突き上げてくる。今すぐに、友を殺したこの男の喉笛を掻っ切ってやりたいという衝動が、全身を支配しかけた。
しかし、その瞬間、私の脳裏に父の声が響いた。
『忍びとは感情を殺す器なり。怒りに身を任せた瞬間に、その命は潰えると思え』
───動いちゃダメだ。
今ここで取り乱せば、自分が千空君の仲間だとバレる。そうなれば、この男に一瞬で処理されて終わりだ。殺すなら、懐に入ってからだ。油断を誘い、寝首を掻く。それこそが忍びの戦い方だ。
数秒にも満たない間に、私は胸の中の怒火を氷の下へと閉じ込めた。そして、状況に怯え、混乱するだけの普通の女子高生の仮面を被ってみせる。
「うそ……世界がそんなことになってるなんて……でも、状況はだいたい分かったよ、司さん」
私は目元を拭い、いつもの口調を意識して、司を見上げた。
「正直、今が3700年後の世界だなんて、まだ理解が追いついてないけど……大人がいない若者だけの世界か……確かに、また悪い大人の都合で振り回されるのは嫌だしね。喜んで協力するよ!行く宛もないしね!」
完璧な偽りの笑顔を浮かべる。司は私の言葉に満足したように口元を緩め、「ありがとう、一子。うん、君が味方になってくれて心強いよ」と、私の手を優しく握った。
その後、私は司に連れられて、彼の拠点へと足を踏み入れた。
そこには、司によって選別され、復活させられた若者たちが大勢集まっていた。司は私を中央に立たせると、周囲の者たちに向かって朗々と声を張り上げた。
「みんな、聞いてくれ。新しく俺たちの仲間に加わった、久能一子だ。彼女の卓越した武力は、俺たちの新世界を支える大きな力になってくれる」
復活者たちの視線が一斉に私に集まる。その中に、私は、見まがうはずのない2人の姿を見つけた。
───大樹君と、杠ちゃんだ。
2人は私を見た瞬間、嬉しそうに目を見開いた。特に大樹君は、大きな口を開けて、「一子ーーーっ!」と大声を上げそうになる。
(頼むから大人しくしてて、大樹君……!)
私は心の中で冷や汗をかきながら、大樹君が言葉を紡ぎきるよりも早く、満面の笑みで一歩前に踏み出し、わざとらしく大きな声で挨拶を被せた。
「はじめまして、久能一子です!女だけど、腕っぷしにはちょっと自信があるから、みんなの役に立てるように頑張るね!よろしく!」
そして、私はすぐさま行動に出る。
「よろしくね!」
フレンドリーな新入りを装って、私はその場にいる人たちへ順番に笑顔で握手をして回り始めた。口をフードで覆っている男と、ピンク髪の女の子には握手を拒否されてしまったが、大樹君が爆発するより一歩早く、その隣にいた杠ちゃんの前へと滑り込み、その両手を優しく包み込む。
「はじめまして!仲良くしてね!」
そう言いながら、杠ちゃんの目を見て、ほんの一瞬だけ内緒話をするように片目を瞑ってみせた。
流石は親友、杠ちゃんはそれだけで私の意図を察してくれた。柔らかく微笑んで話を合わせつつ、今にも声を上げそうな大樹君の脇腹を、すかさず肘で小突いた。
大樹君が硬直したその隙を逃さず、私は大樹君の前に詰め寄り、その大きな手をガシッと掴む。
「はじめまして!よろしくね!」
『はじめまして』の部分を強調しながら、大樹君の手をギチギチと強い力で握りしめた。私の尋常じゃない握力と真剣な目。その無言の圧力に、大樹君もようやく私の意図を理解したようだった。
「あ、あぁ!一子さん! よろしく頼む!」
こうして、私は周囲に怪しまれることなく、大樹君と杠ちゃんとの仲を偽装することに成功したのだった。
◇
それから数日間、私は杠ちゃんと大樹君との接触はなるべく避けた。
復活したばかりで従順な態度を見せている私に、見張りのような存在はいなかったが、どんな人間がいるか分からない。故に私は、周囲の人間をじっくり観察することにした。
そうして把握した司帝国の面々は、なかなかに濃いメンツだった。
圧倒的な武力を持つトップの司。その側近で、司と同じくらいの強さを持つ槍使いの氷月。氷月を信奉する女の子のほむら。元警察官でチャラ男の陽。そして、驚異的な聴力を持つ元自衛官の羽京。
(……国を運営するにしては、脳筋が多すぎないかな?)
頭脳労働担当が殆ど見当たらないのだ。私のことも、剣道の全中優勝の実績から復活させたようだし、あえて頭脳担当を起こしていないような偏りを感じた。確かに、文明を発展させる気がないならば、こういう人選になるのも仕方がないのかもしれない。しかしだ。
(これ、病気や大怪我をしたら普通に死に繋がってしまうのでは?)
千空君という天才をこの世界から失ってしまったことは、これからの人類にとってあまりにも大きすぎる損失だ。なぜあの男の独善的な思想のために、千空君の命が奪われなければならなかったのか。私は、自分の感情を殺す仮面の裏側で、静かに司を呪い続けていた。
だが、復讐を果たすためには絶対に足元を掬われるわけにはいかない。特に、声のボリュームが壊れている大樹君と、驚異的な聴力を持つ羽京が同じ拠点内にいる状況は、最悪という他なかった。大樹君のあの大きな声がほんの少しでも響けば、その瞬間に羽京の耳に捕らえられる可能性が高い。大樹君と直接密会するのはリスクがあまりにも高すぎる───そう冷静に判断した私は、大樹君への細かい状況説明やフォローはすべて杠ちゃんに一任することに決め、杠ちゃんが1人になるタイミングを狙い澄ますことにした。
そして、待望のチャンスが訪れたのは、翌日のことだった。杠ちゃんが、服を縫ってくると言って、1人になったのだ。
私は気配を消して、杠ちゃんが作業をしている場所へと近づいた。一切の予兆なく、突如として目の前に現れた私に、それまで作業に集中していた杠ちゃんが、驚きに小さく息を呑むのが分かった。
「杠ちゃん。この前は知らないフリしちゃって、本当にごめんね……!」
「一子ちゃん……!ううん、大丈夫だよ。一子ちゃんが何か考えてるんだってなんとなく分かったから」
杠ちゃんは私の手をぎゅっと握りしめてくれた。
「司から、ここに来る前に聞いたんだ。……千空君が、司に殺されたって」
静かにそう告げた瞬間、杠ちゃんの表情が和らいだ。
その表情は、なぜか絶望に染まってはいなかった。むしろ、どこかホッとしたような、不思議な光を宿している。
「一子ちゃん、落ち着いて聞いてね。千空君は───生きてるよ」
「……え?でも、司は確かに首の骨を砕いたって……」
私の思考が完全に停止した。そんな状態からどうやって生き延びるというのか。すると杠ちゃんは、声を潜めて真相を語り始めた。
「石化が解けるときね、怪我が綺麗に治る効果があるの。千空君はそれを見越して、わざと司君に自分の首を狙わせたんだよ。首の後ろに少しだけ残ってた石化の部分に、私と大樹くんで復活液をかけたら……砕かれたはずの骨が、解けるのと一緒に綺麗に治っちゃったの!」
「なにそれ、オーバーテクノロジーじゃん!?」
脳裏に、千空君の不敵な笑みが鮮明に蘇る。
(そっか……やっぱり、キミがそんな簡単に死ぬわけないよね、千空君)
胸の奥を重く支配していた冷たい黒い霧が、一瞬で晴れ渡っていくのが分かった。
「千空君はね、司君の目を欺くために今は死んじゃったことにして、別の場所で新しく仲間を見つけて科学の国を興そうとしてるんだ」
あの男が生きて、どこかで前を向いて戦っている。ただその事実だけで、これ以上ない安心感が身体を満たしていく。
「なるほどね……千空君が生きてるなら、話は別だよ。私はこのまま司の信頼を勝ち取って、情報を全部千空君に流すスパイになる!」
きりっと表情を引き締めて決意を語る私を、杠ちゃんはじっと見つめていたが、ふっとその表情を緩めると、くすくすと楽しそうに笑い出した。
「一子ちゃんってさ……もしかして千空君のこと好きだったりする?」
「へ?なんで?」
あまりにも斜め上からの問いかけに、私は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「千空君が生きてるって聞いて、すっごく嬉しそうな顔してたから」
「あー……私そんな顔してた?確かに千空君はカッコいいけど、まだ恋愛感情はないかなぁ」
まさか恋バナを振られるとは思わず、私はポリポリと恥ずかしさを誤魔化すように頬を掻きながら苦笑いする。そんな私を見て、悪戯っぽく微笑んだ杠ちゃんは、「あ、そうそう」と今度は少し声を潜めて本題に戻った。
「一子ちゃんのこと、大樹君にも私から話しておくね。『一子ちゃんはわざと他人のフリをして、潜入してくれてるんだよ』って」
それを聞いて、私は嬉しさと同時に、少しだけ複雑な気持ちになった。
大樹君には友として絶対に真実を伝えるべきだ。ただ、あのどこまでも真っ直ぐで嘘のつけない大樹君が、事情を知った上で、司の前で知らないフリの演技を続けられるのだろうか……という一抹の不安が頭をよぎる。下手に意識してしまって、かえって挙動不審にならないか少し心配だった。
「ありがとう、杠ちゃん。情報共有は任せるね。……大樹君が変に意識しちゃわないか少し心配だけど、フォローよろしく!」
ガシッと杠ちゃんと固い握手を交わし、私は再び、音もなくその場を後にしようとし───自分の身に纏っている原始的な毛皮の服を見下ろし、思い出したように振り返る。
「あ、そうそう杠ちゃん。もうちょっと露出の少ない服を作ってもらってもいい?」
「え、なんで?その服凄く似合ってるよ、一子ちゃん」
杠ちゃんが、不思議そうに小首を傾げる。
「いや……流石にここまで露出が多いと男の人の視線がね……それにちょっと動きにくいし」
激しい動きをするには、この太ももや肩周りが大きく開いた服は心許ないし、流石にあのようなギラついた視線を常に向けられるのは、嫌だった。クノイチがヒラヒラの破廉恥な服を着るのは、創作の中だけなのだ。
しかし、私のそんな切実な訴えを聞いた瞬間、杠ちゃんの目が職人のそれにカチリと切り替わった。
「……そのままでいこう!その服が1番可愛いから!」
「もー!この手芸部はー!」
デザインと可愛さへの一切の妥協を許さない手芸部員の強いこだわりと、光る眼力。その迫力に完全に気圧され、私は降参とばかりに両手を上げるしかなかった。お互いにクスッと笑い合うと、今度こそ私は気配を完全に消し、静かにその場を去るのだった。
後日、優しい杠ちゃんは、露出をしっかりと抑えた服を作り直してくれた。