「ブレーカーはここで、ガスの元栓はここ。この部屋は鍵が少しだけ閉まりづらいから、閉めるときは結構力入れてね」
「わかりました」
スキンヘッドにビール腹のエロ同人に出てきそうな種付けおじさん。
この人が、このアパートの大家さんだ。人を見た目で判断するのは良くないけど少し怖い。
「すいませーん。引っ越しのハカイでーす」
ノックと同時に、外から声が飛んできた。
階段を上ってくる足音は三人分。猫耳が勝手にそっちを向く。
「はーい。今行きまーす」
ドアを開けると作業服を着たガタイのいい男性がいた。
「
「じゅうはちばんじゃなくて、おはこです」
「これは失礼いたしました。では早速、荷物の搬入に移りますね」
人生で何回このやり取りをしたか分からない。正しく読める人の方が珍しい。
少しすると、段ボールを抱えた別の業者さんが階段を上ってきた。
頭の上に、三角の耳がふたつ。獣人だ。
僕の頭には、ひとつしかない。
地元には、僕以外の獣人は一人しかいなかった。
ここ、神奈川県にゃがみ原市特別獣人指定S区では、人間と獣人の共生を掲げているらしい。耳を出したまま働いている人を見るのは、なんだか新鮮だった。
「大きい段ボールは丁寧に押し入れに入れといてください」
「了解っすー」
業者さんが、ひときわ大きな箱を抱え直す。
側面には、僕の字で『本』とだけ書いてある。
「しかし、随分と重そうな段ボールだなぁ」
「さ、参考書です」
今ここで業者さんが箱を落として、「中身が破損していないか確認しますね」なんてことになったら、一巻の終わりだ。
「受験勉強……はもう終わってるから、もしかして大学進学用のやつかな?」
話題が変わって正直ほっとした。
「将来はにゃがみ原科学大学で生物系の研究をしたいと思ってます」
「かぁ~。すごいなぁ、高校に入学する前からもう将来のことも考えてるのか」
「僕が通う共生高校からは、毎年何人か推薦で行ってるらしいんで。動機は少し不純ですけど。」
「いやいや、それも立派な作戦だよ。俺なんか勉強はからっきしだったから、そういう志があるのって尊敬するよ」
そこまで言って、大家さんの視線が僕の頭の上で止まった
「あれ、確か獣人って研究職は…」
「僕、戸籍上は人間なので」
「あー、そうだった。ごめんな。野暮なこと言って」
「いえいえ」
慣れてるので、とは言わなかった。
荷物が粗方運び込まれた頃、大家さんが腕時計を見た。
「じゃあ、俺はそろそろ町内会があるからこれで」
「ありがとうございました」
「あ、それと……言い忘れてたけど、このアパートに住んでるやつら、結構クセ強いから。何かトラブルが起きたときは遠慮なく頼ってくれ」
「了解です」
「君が来るまで男は俺一人で肩身が狭くてさ。なんていうか…少し肩の荷が下りたよ」
☆
一通り荷解きを終え、机に向かった僕がやることは勿論…
『覚悟はしてたけど…やっぱり痛いね。でもやっと一つになれた』
「…早送りするか」
エロゲである。Wi-Fiはまだ繋がっていないが、昔ながらのパッケージ版なら問題ない。
慣れない土地というのは、居るだけで体力を使う。勉強する体力なんて残っているわけがない。
代わり映えのない毎日を変えたくて地元を離れたのに、結局これだと同じだ。
ヘッドホン越しにぼんやり考えていると、背中に風を感じた。
振り向くと、部屋のドアが開いていた。
……鍵、閉めたはずなんだけどな。
「ヤクー。ヤニくれにゃ~」
薄緑色の髪をした、やたら胸の大きい獣人の女の人が、おぼつかない足取りでこっちに近づいてきていた。
手には潰れかけたストゼロを握っている。
人は咄嗟のことになると、どうやらフリーズしてしまうらしい。
フリーズしたまま、僕の指だけがWindowsキーとDキーを静かに押していた。
「だ、誰ですかアンタ」
「おみゃーこそ誰にゃ。ここはヤクの部屋だにゃ」
「違いますよ! 僕は今日ここに越してきたんです! ここは正真正銘、僕の部屋です!」
近い。酒臭い。顔が真っ赤だ。
「……酔って部屋、間違えてません?」
「ヤクの部屋はニャーの隣だにゃー。つまりここはヤクの部屋だにゃ!」
彼女の視線が徐々に下がっていくので、僕も視線を落とすと、上を向いた息子と目が合った。
「こ、これは…ただの生理現象です」
「絶対噓だニャ。画面に映ってる裸のおんにゃのこで興奮してたニャ」
彼女の視線が、僕の肩越しにモニターへ向いた。
振り返る。コマンドで隠したはずの画面。その奥で、デスクトップの壁紙がこちらに微笑んでいた。
そうだ。壁紙も全裸のエロゲヒロインにしてたんだった。
「おみゃー、まだ18になってにゃいにゃ」
彼女の視線が、壁に吊るしたビニール入りの学生服に向く。
……酔ってるくせに、目ざとい。
「別に良くないですか? どうせみんな18禁くらいやってるんだし。タバコでも酒でもないし」
「それは……一理ないにゃー。そんにゃことするくらいだったら、タバコの方がマシだにゃ」
「未成年にタバコ勧めないでください」
フー、と彼女から吐き出された煙は、見事な輪っかになって僕の顔に届いた
「くっっっさ!!!」
タバコの匂いとアルコールの匂い、それに彼女本来の口臭であろうドブの匂いが僕の鼻腔を駆け回る。
「ニャーの息が臭いわけないニャ! きっとおみゃーの鼻が臭いに決まってるにゃ」
「なわけあるか!! ちゃんと食後に歯磨いてます? 胃の病気を疑うくらい臭いですよ?」
「失礼だにゃ! ニャーだって二週間に一回は磨いてるにゃ!」
絶句した。同じ日本に住んでいて、どうしてここまで常識が食い違うんだ。
「仮にここがヤク? って人の部屋だとしても他人の家で換気扇もつけずに勝手にタバコ吸うなんてバイオテロ以外の何物でもないですよ!」
「ヤクも喫煙者だから大丈夫ニャー」
そういう問題、か?
「大体そのヤクって呼び方なんですか? もっとマシな略し方あったでしょ。それじゃ町で名前呼ぶ度に警察振り向きますよ?」
「ヤクはヤクだニャ……ひっく。ニャーの可愛い後輩だにゃ」
「とても慕われてる先輩には見えないんですけど」
「さっきからニャーの悪口ばっかりだにゃ」
拗ねたように唇を尖らせると、彼女はストゼロを一気にあおった。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。喉が鳴るたびに、缶がべこべこと凹んでいく。
「ゲホッ、ゲホッ……うっぷ」
赤かった顔が、みるみる青くなっていく。
「……ちょっと、気持ち悪いにゃ」
「は? 嘘でしょ。吐くなら袋持ってくるんで、それに……!」
時が止まる。すでに彼女の口の先からは、黄色がかった白濁液が飛び出していた。
彼女の真下にあるのは、さっき開けたばかりのエロゲのパッケージだ。
――守る。
身体のすべての筋肉を総動員して、僕は畳を蹴り飛ばした。
勢いよく彼女の足元へライダーキックをかまし、エロゲから無理やり距離を引き離す。
しかし、加速の勢いを殺しきれず、そのまま彼女の下へと滑り込む形になってしまった。
徐々に現実の速度に戻っていく視界のなか、ふと上を向けば、ゲロの波がすぐ目と鼻の先に迫っていた。
僕の片手には、なぜか――「柔らかいババロアのようなもの」が握られていた。
ゴッ、と鈍い音が骨に響いた。背中に畳、顔にゲロ。
「せん、ぱい?」
猫耳が、今さら入り口の方を向いた。
そこに立っていたのは、黒と金の混ざった髪に、虚ろな目をした獣人だった。
「ヤク~。助けてにゃ~。こいつがいきなりニャーにキックしてきたんだにゃー」
天を突く僕のタケノコに生暖かい息がかかる。
「け、蹴りはしたけど違うんです!」
虚ろだった目が、ゆっくりと部屋を一周する。
床に転がる酔っぱらい。散らばる缶。ゲロまみれでその下敷きになっている、見知らぬ男。とタケノコ。
「……おい、お前、表出ろ」
ゲロの隙間から見た来訪者の顔は、無、だった。