第一話 橋の上のウマ娘【全面改稿・第2稿】
「行けっ! そこだ、差せ!」
隣で山岡さんが叫んだ瞬間、私は思わず身をすくめました。
「ちょっと、山岡さん!」
「何やってる! 外へ出せ、外!」
聞こえるわけがありません。山岡さんの声なんて、周囲の歓声にすっかりかき消されています。
それでも山岡さんは身を乗り出し、拳を握りしめていました。
私もつられてコースへ目を戻します。
先頭のウマ娘が最後の直線を駆け抜けていく。そのすぐ後ろから、もう一人が追い上げていました。少しずつ、けれど確実に差が縮まっていきます。
あと少し。
あと、ほんの少しなのに。
「行って! お願い!」
気がつけば、私まで叫んでいました。
二人がほとんど並んだところで、ゴール板が通り過ぎます。
次の瞬間、場内がどっと沸きました。
「……どっち?」
「写真判定だな」
山岡さんは双眼鏡を下ろし、ようやく椅子に腰を落ち着けました。
私はまだ座れません。
大型スクリーンに何度も映し出されるゴールの瞬間。周囲では、どちらが勝ったかで言い合いが始まっています。
やがて着順が発表されました。
私が応援していたウマ娘は、二着。
「……ああっ!」
思わず頭を抱えてしまいました。
「惜しかったな」
「あとちょっとだったのに!」
「そのちょっとが難しいんだよ」
「そんなこと分かってます!」
山岡さんが笑っています。
もう、本当に腹が立つ。
今日初めてレース場に来た私が、どうしてこんなに悔しがらなければならないのでしょう。
そもそも私は、競バを楽しみに来たわけではなかったのです。
話は、今朝までさかのぼります。
⸻
「私も行きます」
休日の朝、出かけようとしていた山岡さんを呼び止めると、彼は露骨に嫌そうな顔をしました。
「……どこへ?」
「レース場です」
「なんで?」
「なんでって、山岡さんが行くからですよ」
「俺は別に、仕事じゃないんだけど」
「知ってます」
山岡さんはしばらく私の顔を見ていました。
「……栗田さん、競バに興味あったっけ?」
「今日から持つことにしました」
「なんだよ、それ」
困った顔をするところが、ますます怪しい。
山岡さんは今、賭け事を控えているはずでした。
究極のメニューという大仕事を抱えているのですから、当然です。ところが最近、暇さえあればレース場へ足を運んでいるらしいのです。
バ券を買っていないのなら、一体何をしているのか。
まさか、若いウマ娘たちを眺めに行っているんじゃないでしょうね。
そう疑ったのが、そもそもの始まりでした。
ところが、いざレースが始まってみると。
「ほら、あの子を見てろよ」
「え?」
「前のレースじゃ、最後の最後で抜かれてるんだ。今日は最初から飛ばさずに我慢してる」
「……あ、本当だ」
「ここからだぞ」
山岡さんは出走表に目もくれず、コースを見つめています。
いつもなら仕事中に居眠りをしている人が、どうしてこんな時だけ目を輝かせるのでしょう。
でも、言われた通りに見ていると、確かに面白い。
最初はただ、ウマ娘たちが凄い速さで走っているとしか思えませんでした。それが一人一人の事情を知るにつれ、まるで違うものに見えてきたのです。
前走の雪辱を果たそうとする子。久しぶりの勝利を目指す子。何度も挑戦して、まだ一度も勝てていない子。
同じコースを走っていても、目指しているものは少しずつ違う。
そして私は、最後のレースでとうとう声を枯らしてしまったのでした。
⸻
「山岡さん、今日はありがとうございました」
全てのレースが終わり、ウイニングライブも見届けた帰り道。私は素直にお礼を言いました。
「なんだよ、急に」
「だって、本当に楽しかったんですもの」
「そりゃ良かった」
「でも、ちょっと意外でした」
「何が?」
「山岡さんが、あんなに熱心に応援するなんて」
「そりゃするさ。ずっと勝てなかった奴が勝ったり、故障から戻ってきた奴が意地を見せたりするんだ。面白くないわけないだろ」
「勝ち負けだけじゃないんですね」
「もちろん勝ち負けも大事さ。でも、それだけ見てたんじゃもったいないよ」
そう言って山岡さんは、ポケットに手を突っ込みました。
「一つとして同じレースなんてないんだから」
その言葉を聞いて、私は先ほどのレースを思い出しました。
ほんのわずかな差で負けた、あのウマ娘。
ゴールした直後は悔しそうに唇を噛んでいたのに、ウイニングライブでは一着の子と肩を並べて笑っていました。
でも、あの舞台に立てるのは三着までです。
四着以下の子たちは、どうしていたのでしょう。
「……山岡さん」
「ん?」
「勝てなくなったら、どうなるんでしょうね」
「どうなるって?」
「ずっと頑張ってきたのに、急に勝てなくなったら。周りから期待されている子だったら、なおさら……」
「さあな」
山岡さんは少し考えてから、首を振りました。
「そんなの、本人にしか分からないよ」
「……そうですよね」
「俺たちが勝手に決めつけることじゃない」
何だか、少し冷たい答えに聞こえました。
けれど山岡さんは、すぐにいつもの調子に戻ります。
「それより腹減ったな」
「もう、山岡さんったら」
「この先に旨い店があるんだ。せっかくだから寄っていこう」
「本当ですか?」
「ただし、俺のおごりは今日だけだぞ」
「はいはい」
食べ物の話になると、途端に調子が良くなるんだから。
私たちは笑いながら、川に架かる橋へ差しかかりました。
そこで、山岡さんの足が止まったのです。
「……おい」
「どうしました?」
欄干のそばに、一人のウマ娘が立っていました。
黒く長い髪が、風に揺れています。
すらりと背が高く、細身なのに、不思議と華奢には見えません。背筋がまっすぐ伸びていて、ただ立っているだけなのに、どこか近寄りがたい雰囲気がありました。
彼女は川を見下ろしたまま、動きません。
「……あの子」
私は思わず、山岡さんの袖をつかみました。
先ほどまで考えていたことが、嫌な形で頭をよぎります。
勝てなくなったウマ娘。
期待に応えられなくなったウマ娘。
もちろん、目の前の子がそうだと決まったわけではありません。
でも。
「山岡さん、まさか……」
「……ちょっと待ってろ」
山岡さんは私の手をそっと外しました。
「刺激しないようにするから」
そう言って、ゆっくりと彼女に近づきます。
「なあ」
黒い耳がぴくりと動きました。
けれど、彼女はこちらを向きません。
「何かあったのかい?」
「…………」
「いや、別に事情を聞こうってんじゃないんだけどさ。そんなところに一人でいたら、心配する奴もいるだろ」
彼女の肩がわずかに動きました。
「……何の話だ」
低い声でした。
「だから、その……思い詰めることはないんじゃないかって」
「思い詰める?」
彼女がゆっくりと振り返ります。
その顔を見た途端、私は言葉を失いました。
綺麗な顔立ちでした。
けれど、こちらを見据える目が怖い。
怒っているというより、何かを必死に押し殺しているような、鋭い目でした。
「……ああ、そういうことか」
彼女の口元が歪みます。
「お前たちも、そういう目で私を見るのか」
「いや、俺たちは――」
「何も知らないくせに」
山岡さんが黙りました。
私も、何も言えません。
本当にその通りだったからです。
彼女が何を考えているのか、私たちは知りません。それなのに、勝手に不幸な事情を想像して、勝手に心配していました。
「悪かったよ」
山岡さんが頭を下げます。
「ただ、もし困ってるなら――」
「やめろ」
たった一言でした。
それだけで、山岡さんの言葉が止まりました。
彼女が一歩こちらへ向き直ります。
私は反射的に身を引きました。
何でしょう、この迫力は。
走っているわけでも、怒鳴っているわけでもないのに、真正面から見据えられると、足がすくんでしまいます。
山岡さんも、同じだったのでしょう。
「うっ……」
一歩、後ろへ下がりました。
その踵が、足元のわずかな段差に引っかかります。
「あ」
山岡さんの身体が傾きました。
とっさに欄干へ手を伸ばします。
指先が、濡れた手すりを滑りました。
「山岡さん!」
伸ばした私の手は、空をつかみました。
そして。
バッシャーン!
橋の下から、とんでもない水音が響きました。
「山岡さーん!」
慌てて欄干から身を乗り出すと、川面から山岡さんの頭が現れました。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……なんか」
「え?」
山岡さんは水を吐きながら、ぼそりと言いました。
「デジャブだ……」
……こんな時に何を言っているんでしょう、この人は。
⸻
幸い、川の流れは穏やかでした。
山岡さんは何とか岸まで泳ぎ着いたものの、そこからが大変でした。
川岸はコンクリートで固められています。水面から足場まではかなりの高さがあり、濡れた服を着たままでは簡単に上がれそうにありません。
「ちょっと待っててください! 誰か呼んできますから!」
「頼むよ……」
その時でした。
「ブライアン!」
橋の向こうから声がしました。
振り返ると、眼鏡をかけたウマ娘がこちらへ走ってきます。腰まで届く白銀色の髪が、大きく揺れていました。
「こんなところで何をしているんだ。探したぞ」
彼女は黒髪の子にそう言いかけ、川岸にいる私たちに気づきました。
「……何かあったのですか?」
「ええと、それが……」
説明しようにも、何から話せばいいのでしょう。
黒髪の子は面倒そうに答えました。
「そいつが勝手に落ちた」
「……落ちた?」
眼鏡のウマ娘が川を覗き込みます。
「あの方が?」
「はい……」
「分かりました。まずは引き上げましょう」
彼女はすぐに岸辺へ降りていきました。
「手を貸してください」
「いや、服が水を吸ってて重いぞ」
「構いません」
山岡さんが腕を差し出します。
次の瞬間。
「よっ、と」
山岡さんの身体が、ひょいと持ち上がりました。
「えっ!?」
私は目を疑いました。
成人男性を、片手で。
それも、頭から靴までずぶ濡れの山岡さんをです。
彼女はまるで買い物袋でも持ち上げるように、軽々と足場へ引き上げてしまいました。
「す、すごい力だな……」
「いえ、これくらいなら」
眼鏡の位置を直しながら、彼女は平然と答えます。
山岡さんは口をぽかんと開けたまま、自分の腕を見ていました。
私は思わず笑ってしまいそうになりましたが、そんな場合ではありません。
「本当にありがとうございました!」
「いえ。お怪我はありませんか?」
「多分、大丈夫だよ」
「そうですか。それなら良かった」
彼女はほっとしたように息をつくと、橋の上にいる黒髪の子を見上げました。
「ブライアン。また何かしたのか?」
「私は何もしていない」
「では、どうしてこの方が川に?」
「勝手に落ちたと言っただろう」
……反論できません。
実際、その通りなのですから。
私が事情を説明すると、眼鏡のウマ娘は何とも言えない顔をしました。
「なるほど……」
「だから私は何もしていない」
「それは分かった。だが、ブライアン。少しは言い方というものがあるだろう」
「知るか」
黒髪の子はそれだけ言うと、さっさと歩き出してしまいました。
「待て、ブライアン!」
呼び止められても振り返りません。
眼鏡のウマ娘は大きくため息をつきました。
「まったく、あいつは……」
それから、私たちへ向き直ります。
「申し遅れました。私はビワハヤヒデと申します。妹が失礼しました」
「ビワハヤヒデ……?」
山岡さんが顔を上げました。
「ちょっと待ってくれ。あんた、今、妹のことをブライアンって呼んだよな?」
「はい」
「まさか……ナリタブライアンか?」
「ええ。妹のナリタブライアンです」
「ええっ!?」
私も思わず声を上げてしまいました。
ナリタブライアン。
その名前を知らない人は、きっと少ないでしょう。
三冠ウマ娘。
あの子が。
私はもう一度、遠ざかっていく黒髪の後ろ姿を見ました。
すると、今日レース場で見た映像が頭に浮かびました。
⸻
昼休みのことです。
次のレースまで時間が空いた時、場内の大型スクリーンに過去の名勝負を振り返る特集が流れていました。
その中に、ナリタブライアンの三冠達成時の映像があったのです。
最初は、私も何気なく見ていました。
けれど、最後の直線に入った瞬間。
「……え?」
思わず声が出ました。
先頭を走る黒髪のウマ娘。
後続との差が、どんどん広がっていきます。
普通なら、最後の直線は追いかける方も必死になるはずです。なのに、誰も追いつけません。
むしろ、離されていくのです。
「山岡さん、あの子……」
「ああ。ナリタブライアンだ」
彼女は一度も後ろを振り返りませんでした。
ただ前を向いて、走る。
他のウマ娘たちが懸命に追いかける中、一人だけ別の速さで走っているように見えました。
実況の声が高くなります。
観客席が沸き立ちます。
その歓声の中を、彼女は圧倒的な差をつけてゴールしました。
「……すごい」
思わず呟いていました。
「強いなんてもんじゃないな」
山岡さんもスクリーンを見つめています。
「こんな走りを見せられたら、忘れられないよ」
映像の中のナリタブライアンは、ゴールしても大きく喜ぶことはありませんでした。
当然のことをした、とでも言いたげに。
その姿が、かえって強烈に印象に残ったのです。
⸻
あのナリタブライアンが、さっきの子だったなんて。
あれほどの走りを見せたウマ娘が、どうして橋の上であんな顔をしていたのでしょう。
「……最近、少し様子がおかしいんです」
ハヤヒデさんが、ぽつりと言いました。
「以前のような闘争心が感じられなくて。本人も何かに苛立っているようなのですが、私にも話してくれません」
「……そうなんですか」
「周囲も心配しています。でも、それがかえってあいつを苛立たせているようで」
私は、橋の上で言われた言葉を思い出しました。
――何も知らないくせに。
確かに、私たちは何も知りませんでした。
それなのに、勝手に心配して、勝手に事情を想像してしまった。
「……すみません」
思わず頭を下げると、ハヤヒデさんは驚いた顔をしました。
「いえ、謝ることではありません。むしろ、妹のことを心配してくださって……」
そこで少し言い淀みます。
「ただ、最近は食事の時も様子が変でして」
「食事?」
山岡さんが顔を上げました。
さっきまで寒そうに肩をすくめていたのに、急に目つきが変わっています。
「ええ。ブライアンは肉が大好きなんです。以前なら肉料理が出るだけで、こちらが呆れるほど喜んでいたのですが……」
ハヤヒデさんは困ったように笑いました。
「最近は、それもなくなってしまって」
「食べないのか?」
「いえ、食べてはいます。ただ、以前ほど嬉しそうではないんです」
山岡さんが黙り込みました。
「……肉、か」
何か考えているようです。
私はその横顔を見ました。
この顔には覚えがあります。
食べ物の話を聞いた時、山岡さんは時々こういう顔をするのです。
「山岡さん?」
「ん?」
「何か気になるんですか?」
「いや、別に」
そう言いながら、まだ考え込んでいます。
本当、分かりやすい人なんだから。
「すみません。見ず知らずの方に、こんな話をしてしまって」
ハヤヒデさんは申し訳なさそうに頭を下げました。
「いえ、そんな」
「もし何かお気づきになることがあれば、相談に乗っていただけないでしょうか」
「俺は医者でもトレーナーでもないんだけどなあ……」
山岡さんが困ったように頭をかきます。
けれど、きっぱり断ろうとはしませんでした。
その時、ハヤヒデさんが橋の向こうを振り返りました。
「あ……いけない」
ブライアンさんの姿は、もうずいぶん遠くにあります。
「すみません。私は妹を追います」
「え? あ、ちょっと――」
山岡さんの返事も待たず、ハヤヒデさんは駆け出しました。
速い。
あっという間に小さくなっていく背中を、私は呆然と見送りました。
「……行っちゃいましたね」
「ああ」
しばらく、二人とも黙っていました。
「……山岡さん」
「なんだ?」
「気になるんでしょう?」
「何が?」
「ブライアンさんのことです」
「そりゃまあ……あんな話を聞かされたらな」
やっぱり。
山岡さんは、困っている人を放っておけないのです。
本人は決して認めようとしませんけれど。
「肉が好きだったのに、前ほど喜ばない、か……」
また考え始めています。
私は小さく笑いました。
「山岡さん、もしかして――」
「はっ……」
「?」
「はっ、はっ……」
嫌な予感がしました。
「ハックション!」
大きなくしゃみが、川岸に響き渡りました。
「……山岡さん」
「なんだよ」
「ブライアンさんのことより先に、自分をどうにかしてください!」
山岡さんは、頭の先から靴の中までびしょ濡れだったのです。
「……そうだな」
情けない顔で答える山岡さんを見て、私はとうとう笑ってしまいました。
ああ、もう。
この人と一緒にいると、本当に退屈しません。
こうして私の初めてのレース観戦は、思いがけない出来事で幕を閉じたのでした。