第一話 『眠蝶』
――いつか、あの変わらぬ岩峰の足元に、街灯りが戻る日は来るのでしょうか
岩峰は何も語らず、今日もただそこに立っている。
*
今年も、璃月がいちばん浮き足立つ季節がやってきた。
石段を下りきる頃には、練り込まれた香辛料と油、まだ乾ききらない朱塗りの匂いが、入り混じって鼻先をかすめていく。
柱から柱へ渡された真新しい飾り紐の下を、職人たちが忙しなく行き交っている。
「おおお……!」
隣で、パイモンが感嘆の声を漏らした。
視線の先には、湯気を立てる屋台がある。
「あっち! 見ろ旅人、去年なかった店だぞ!」
「相変わらずよく覚えてるなあ」
「もちろんだ! 食べ物のことならオイラに任せろ!」
パイモンは空中を踊りながら、立ち並ぶ屋台を一望する。
その頭上を、青い紙蝶がひらりと横切った。
風に遊ばれた翅は、かさと音を立てながら宙を泳ぎ、店先の軒へ引っかかる。
「どこも気になるけど、まずは万民堂だな。海灯祭で限定料理を出すって、香菱が言ってたからな!」
「今年はどんなのか、楽しみだね」
普段なら足早に通り過ぎる道なのに、今日は自然と歩みが遅くなった。
玩具屋には新春向けの小物が並び、茶館の二階からは楽師の調律する音が聞こえる。
値切り交渉のはずが、いつの間にか商人も客も同じ調子で縁起のいい言葉を投げ合っていた。
少し先では、子供が母親の袖を引いている。
「ねえ、今年も霄灯飛ばす?」
「飛ばすわよ」
「二つ?」
「一人一つ」
「じゃあ三つ!」
「どうして増えるの?」
父親らしい男が横から笑った。
「お前と母さんと父さんで三つだろ?」
「父さんは自分で飛ばして」
「冷たいなあ」
家族の笑い声が、人波の向こうへ流れていった。
通りの先でも、まだ完成していない霄灯を抱えた子供が走っている。
「なあなあ、今年はオイラたちもオリジナル霄灯を作ってみるか? 食べられる霄灯とか」
「飛ばせないでしょ、それ」
そんな話をしているうちに、通りの先へ見慣れた万民堂の看板が現れた。
海灯祭を目前にした璃月港では、どこを歩いていても料理の匂いにぶつかる。
けれど店の前まで来ると、それまで風の中に散っていた匂いが一つの場所へ集まり、急に輪郭を持った。
「旅人」
「うん」
「オイラ、分かったぞ」
パイモンは万民堂の看板へ向かって指を突きつけた。
「今年の海灯祭も、絶対にいい祭になる」
それだけ言うと、パイモンは返事を待つこともなく店先へ飛んでいった。
「香菱ー! 来たぞー!」
「いらっしゃーい!」
聞き慣れた威勢のいい声が、厨房からすぐに返ってきた。
顔を出した香菱は、右手に菜箸、左手に見慣れない赤い果実を持っている。
「旅人、パイモン! ちょうどいいところに来た!」
「限定料理か!?」
パイモンの目が、香菱の持っている果実から厨房の鍋へ忙しく行き来する。
香菱はにっこりと微笑むと、すぐに厨房へ引っ込み、一枚の皿を持って戻ってきた。
皿の上には、きつね色に揚がった小さな団子が並び、衣の隙間から立つ湯気が香草の匂いを漂わせている。
「……試食、必要だよな?」
「もちろん!」
「やったー!」
パイモンは待ちきれないとばかりに団子を一つ摘まみ上げ、そのまま口へ放り込む。
「熱っ! ……でも、うまい!」
「料理は逃げたりしないから、火傷しないように気をつけて食べてね」
「俺もいただこうかな」
パイモンに倣って、旅人も団子一つを口へ運ぶ。
歯を入れると、薄い衣がほどけ、熱々の肉汁とさわやかな香草の香りが溢れてきた。
そして、口内に広がった旨味と香りを、遅れてやってきた辛みが舌の上でピリッと締める。
さすが香菱、文句なしの一品だ。
「どう? アタシは、もうちょっと辛くしてもいいかなって思ってるんだけど」
「祭で出すなら、今くらいでもいいと思う。子どもも食べやすいんじゃないかな」
「オイラはもっと辛くてもいいぞ!」
「パイモンは何でも美味しく食べるから、試食役として参考になるのか怪しいね」
背後から、聞き覚えのある声がした。
振り向けば、行秋が店の奥からこちらを見ていた。
隣の席には重雲も座っている。
「行秋、重雲! 久しぶり」
「久しぶりだね、旅人。パイモンも相変わらず元気そうで何よりだ」
「オイラはいつだって元気だぞ!」
「さっき口の中を火傷しかけていたようだが」
行秋が小さく笑いながら、本の頁へ栞を挟んだ。
「僕たちも海灯祭の準備がてら寄ったところなんだ。重雲は明日から用事があるらしくてね」
「行秋、その言い方だとぼくだけ予定に追われているみたいじゃないか」
「違うのかい?」
「明日は港周りを巡回するんだ。相談を受けている家もあるし、なにより祭の時期は人が増える。何か起きてからでは遅いからな」
「それで今日のうちに、食べられるものは食べておこう、と?」
「ぼくが食い意地を張ったみたいな言い方だな。万民堂に寄ろうと言いだしたのは、行秋じゃないか」
いつもの調子で言葉を交わす二人を横目に、旅人は揚げ団子をもう一つ口へ運んだ。
口当たりが軽いからか、ついつい箸が進んでしまう。
すると突然、隣の卓から大声が飛んできた。
振り向くと、白い髭を蓄えた老人が卓へ身を乗り出し、周囲の客を相手に熱弁を振るっている。
「だから言っただろう。あれはただの娘じゃない!」
「またその話ですか」
「またとはなんだ! 大事な話は何度したっていい!」
「あー、また始まった」
厨房へ戻りかけていた香菱が、苦笑しながら足を止めた。
老人もこちらの視線に気づいたらしい。
目が合った瞬間、彼の瞳がぱっと輝いた。
「おお、旅人さんじゃないか! あんたなら、あの天女を探し出せるかもしれん!」
「天女?」
「白い衣をまとった、それはそれは美しい娘だ!」
天女――仙人の類だろうか。
璃月でそんな話を聞いて、何事もなく終わったためしはないに等しい。
旅人は食べかけの団子を飲み込み、居住まいを正した。
「その天女とやらを、見つける必要があるの?」
「そうだ。何としても見つけ出さねばならん」
「このおじいさん、その人を息子のお嫁さんにしたいんだって」
「ええ……?」
香菱の一言で、天女は一気に俗世へ引き戻された。
近くの卓から笑いが上がる。
「儂は本気だぞ! あんな器量のいい娘、そうそういるもんじゃない!」
「庭先で寝てたのを、ちょっと見かけただけじゃないですか」
「しかも泥道だったのに、足跡ひとつ残さず消えたんでしょう? じいさん、寝ぼけて幻でも見たんすよ」
「幻なんかじゃないわい! ここ最近、あちこちで似たような娘の話を聞く。儂は昨日、また新しい目撃談を聞いたぞ」
「あちこちで?」
それまで話半分で食事を続けていた重雲が顔を上げた。
行秋までもが、つられるようにこちらを向く。
話が大きくなってきた。
「それは、どんな話なんですか?」
「ふむ。数日前、熱を出して山道で倒れた若者がいてな。そこへ、どこからか白い衣の娘がやってきて、薬草を煎じて飲ませたそうだ。するとみるみる体調が回復して、日が暮れるころには自力で下山できるまでになったと」
「その人は、一緒に下山しなかったの?」
「若者曰く、薬を飲ませた後すぐどこかへ消えてしまったらしい。薬包紙だけを残してな」
「……ただの親切な人では?」
「私は荻花洲で見たって話を聞きましたよ。夜中に、一人で死人に話しかけていたとか」
「死人!?」
パイモンが団子を持ったまま身を引いた。
その横で、香菱が顎に手を当てる。
「アタシが聞いた話は、もっと普通だったけどな」
「香菱も知ってるの?」
「うん。お客さんから聞いたの。軽策荘で畑仕事をしてたお婆さんが、道端で眠ってる白い女の人を見つけたんだって。行き倒れかと思って人を呼んで戻ってきたら、跡形もなく消えてたって」
「それ普通か!? 幽霊とかなんじゃないか!?」
パイモンが涙目になって旅人の背に隠れる。
「祭の時期らしい噂ではあるね」
「行秋も、何か聞いてたりする?」
「耳には入っていたよ。僕が聞いたのは、仕事帰りの商人の話だけどね」
行秋によれば、その商人は帰り道で美しい女を見かけ、声を掛けようとしたらしい。
女が曲がり角へ入ったので、すぐあとを追ったものの、そこには行き止まりで、誰もいなかったという。
「代わりに、青い蝶が一匹飛んでいたそうだ」
「青い蝶?」
「もっとも、その商人は酒を随分飲んでいたらしいけどね」
「じゃあ、見間違いかもしれないんだ」
「僕はそうじゃないかと思っているよ」
老人が面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「夢も浪漫もない若者だな」
「噂というのは、語られるたびに姿を変えるものですからね。別々の話だったものが、いつの間にか一人の話として広まっているのかもしれません」
「だが、白い衣の若い娘だというところは皆共通しておる」
「『すごく綺麗だった』っていうところもね」
「そう! そこが一番大事だ!」
「やっぱり息子のお嫁さんにしたいだけだろ!」
再び笑い声が満ちる。
聞いた話を一つずつ並べてみても、女の輪郭は結ばれるどころか、重ねるたびに滲んでいくばかりだった。
「話がばらばらで、イマイチ全体像を掴みきれないね」
「確かに、少なくとも今の話だけでは、妖邪とは決められないな。もっと明確な情報がないと」
「おお、若いのに話が分かるじゃないか! なら一緒に天女を――」
「いえ。ぼくは妖邪を探す立場なので。お嫁さん探しは専門外です」
重雲のにべもない態度に、老人はがっくりと肩を落とした。
その隙に、旅人は隣の香菱に声を潜めて話しかけた。
「あのおじさん、どこまで本気なの?」
「結構本気だよ。いろんな人に話を聞き回ってるの。眉唾だと思ってる人がほとんどだけどね。でも、どの噂も容姿の特徴が似てるっていうのは本当みたい」
「その天女……かもしれない人の名前は?」
「それが、本当の名は誰も知らないんだって。最近はみんな、勝手に『眠蝶(ミンディエ)』って呼んでるみたい」
「眠蝶?」
「眠ってるところを見たって話が多いから。それと――」
香菱は一度、周囲を見回してから少し声を落とした。
「いなくなったあとに、青い蝶が飛んでいったって話も何度かあるんだって」
「……そのうち、空を飛んでたとか、七色に光ってたなんて話が出てもおかしくなさそう」
「だから噂なんだよ」
香菱が笑う。
旅人は万民堂の外へ目をやった。
軒先では海灯祭を待つ赤い房が風に揺れ、料理の香りの向こうからは荷車の車輪の音や商人の声、子供の笑い声が届いている。
璃月の、ごくありふれた昼だった。
この賑わいのどこかを、その白い女も歩いているのだろうか。
その時、厨房の奥で鍋の蓋が盛大に鳴った。
「あっ、いけない! 火にかけてるの忘れてた!」
香菱が慌てて厨房へ駆け戻る。
しばらくして、香菱は菜箸の代わりに大きな木箱を抱えて戻ってきた。
どかりと卓へ置かれた木箱からは、湯気と料理の匂いが漏れ出している。
さっそくパイモンの目がそちらへ向いた。
「ふー、間に合った」
「香菱、それも試作品か?」
「違うよ。山の上で働いてる職人さんたちのお昼ごはん」
香菱が店の外を指す。
璃月港を囲む山の中腹に、巨大な竹組みが覗いていた。
祭の飾り越しに見るそれは、まだ灯というより骨に近い。
薄紙を持たない竹組みが山肌に横たわり、空へ向けて巨大な肋を晒している。
「あっちの高台で、大型の霄灯を作ってるの。今年の明霄の灯とは別に、新しい構造を試してるんだって」
「へー! 今年は、あんなに大きいのも飛ばすつもりなのか!」
パイモンが目を凝らして山の中腹を見つめる。
「旅人、せっかくだから近くまで見に行かないか?」
「いいね。腹ごしらえもできたし、早速行こうか」
「あ! それなら、二人に一個お願いしてもいいかな?」
香菱は木箱を旅人の方へ押した。
「これ、職人さんたちに届けてもらえないかな? 朝からずっと作業してるみたいだから」
「もちろん。任せてよ」
「助かる! お礼にもう一品試食を作っておくから」
「なに!? 旅人、早く行くぞ!」
パイモンは椅子を蹴るような勢いで宙へ浮くと、暖簾を跳ね上げて出口へ飛んでいった。
「急にやる気になったね」
「腹を空かせた職人を待たせるわけにはいかないだろ!」
「それは立派な理由だ」
行秋が楽しそうに笑う。
旅人は木箱を抱え上げた。
見た目以上の重みが、腕へずしりとかかる。
重雲と香菱が、手を振っている。
「山道は竹材を運ぶ人が多い。足元には気をつけて」
「竹を運んだ跡を辿れば、作業場まで行けるから!」
それらの声に見送られながら、旅人とパイモンは万民堂を出た。
祭を待つ璃月の声が、再び通りいっぱいに広がる。
背後では香菱が次の客を迎え、行秋と重雲も先ほどの話の続きを始めていた。
あの老人も、天女探しを諦めていないらしい。
「儂が聞いた話ではな――」
続きを聞き取るより先に、人波がその声をさらっていった。
見上げれば、山の中腹にはまだ灯になりきれていない巨大な竹組みがある。
旅人たちは木箱を抱え、その下へ続く山道へ向かった。
*
山道へ入ると、祭を待つ街のざわめきは木々の向こうへ沈んでいった。
代わって聞こえてくるのは、枝葉を渡る風と、山の上から響く槌の音だ。
こん、こん、と一定の調子で続く音に、職人たちのものであろう威勢のいい声が重なる。
道端には竹材を引きずった跡が残り、切り揃えた細竹や空の木箱が岩肌へ寄せて積まれていた。
坂を登りきったところで木々が途切れる。
その向こうに、巨大な竹の骨組みが立っていた。
「こんなにでっかいのを作ってたのか……!」
港から見上げた時には山肌の一部にしか見えなかったものが、今は頭上へ覆いかぶさるほど大きい。
何本もの梯子が骨組みに掛けられ、職人たちがその間を行き来している。
張り終えた薄紙は風を孕んで鳴り、足元には形の異なる小さな試作灯がいくつも並んでいた。
「そこ、張りすぎだ! 破れるぞ!」
「風に耐えろって言ったのはそっちだろ!」
「張るのと破くのは違う!」
「おい、そっち傾いてるぞ!」
「いま補強してまーす!」
頭上で飛び交う大声を聞きながら、パイモンが旅人のそばまで寄ってきた。
今度は少し声を潜める。
「……大丈夫なのか、これ」
「大丈夫だよ、たぶん」
「たぶんかよ」
ふと、骨組みの上から若い職人の顔が覗いた。
こちらを――いや、旅人の抱える木箱を見ている。
「あっ!」
その一声で、骨組みのあちこちから一斉に顔が生えた。
「万民堂か!?」
「飯だ!」
「やっと来た!」
梯子を駆ける勢いで降りてくる者もいれば、道具を放り出して駆け寄ってくる者もいる。
中には袖で額の汗を拭いながら、真っ先に木箱へ手を伸ばす者までいた。
「す、すごい勢いだな……」
「朝から働きっぱなしだからな」
周囲はすっかり職人たちに囲まれている。
旅人は、歩み寄ってきた年配の職人に木箱を手渡した。
「香菱からだよ」
「助かった! 昼飯だ!」
「悪いなあ、こんなところまで運んでもらっちまって」
敷物が広げられ、箱の蓋が開く。
閉じ込められていた湯気と一緒に、肉と香辛料の匂いが流れ出した。
職人たちの顔が一斉に明るくなる。
その端で、パイモンまで同じ顔をしていた。
「……うまそうだな」
「なんだ、お前さんたちも食ってくか?」
「えっ、いいのか!? でも、おまえたちの大事な昼ごはんだし……」
真剣に悩み始めたパイモンを横目に、旅人は頭上の骨組みを見上げる。
「これ、海灯祭で飛ばすんだよね」
「ああ。ここから、璃月港の空に向かってな」
年配の職人も顔を上げた。
そこに、おかずの春巻きを一つもらったパイモンが、口をもごもごと動かしながら戻ってくる。
「こんな大きいの、本当に飛ぶのか?」
「今のところ、結果は散々だな」
「何度やっても傾くし、紙は裂けるし。毎日新しい問題点が出てきてますよ」
「全部駄目じゃないか!」
「でも昨日、やっと上がったんです」
若い職人が誇らしげに言った。
「ほんの数分だけどな」
「へえ!」
「真っ直ぐ空へ浮かんでいって……綺麗だったなあ」
「こいつなんか、見物してた人に手まで振ってたんだぞ」
「それ、言う必要あります?」
若い職人が不満そうに先輩と思わしき職人を見る横で、パイモンは別の言葉に食いついた。
「見物人までいたのか」
「一人だけな」
年配の職人が箸を持ったまま、作業場の外れを示した。
「あそこの岩場、ちょうど平たくなってるだろ。そこに、白い服を着た若い女の子が立ってたんだ」
『白い服の女』
聞き覚えのある言葉に、旅人とパイモンは思わず顔を見合わせた。
「暗くなってから気づいたんだけどな。あそこに立って、ずっと空を見てたよ」
「ああ、覚えてる。髪の長い姉ちゃんが、一人で見に来てたんだよな」
「本番前に見物客なんて珍しいじゃないですか。だから俺、声をかけたんですよ。霄灯を見に来たのかって」
若い職人が岩棚を見る。
「まだ試験中だから今日は飛ばないかもしれない、って言ったんですけどね。それでもいいって」
「最後の試験がうまくいった時も、まだそこにいたんだよな」
「失敗続きだったんで、やっと飛んだ時はもう嬉しくて……俺、あの人の方を向いて手を振ったんです」
「気づいてもらえてなかったけどな」
「だから、それはいいでしょう!」
職人たちが笑う。
若い職人も笑っていたが、手を下ろすと、もう一度岩棚へ目を向けた。
「嬉しそうに笑ってましたよ。ゆっくり飛んでいく霄灯をずっと眺めてました」
「それなんだが……」
隣で、年配の職人が箸を置いた。
「俺には、泣いてるように見えたんだよなあ」
「またそれ言うんですか」
「そう見えたんだから仕方ないだろ」
「笑ってましたって。ねえ、先輩?」
「まあ、どっちかっていうと笑ってた気がするが……」
「そうじゃねえって」
年配の職人は岩棚から目を離さなかった。
昼の光の中には、白い岩肌があるだけだ。
「笑いながら、泣いてるように見えたんだ」
しばらくして、誰かが箸を置いた。
「俺たちも浮かれてたからな。そのあと道具を片づけて、記録を取って――気づいた時には、もういなかったよ」
「上がった霄灯を見て、満足して帰ったんじゃないですか」
「たぶんな」
話はそこで終わった。
職人たちは残った飯をかき込み、敷物を畳み始める。
「よし、休憩終わり!」
「午後は新しい紙を張るぞ!」
「お前、今度こそ破くなよ」
「だから破いてませんって!」
やがて縄が軋み、竹を削る音が戻ってきた。
止まっていた槌も、また山へ響き始める。
こん、こん。
旅人は巨大な骨組みを見上げる。
昨日、ほんの数分だけ空へ浮かんだ灯。
海灯祭の夜には、これも璃月港の上へ昇るという。
「旅人、オイラたちもそろそろ戻ろうぜ。届け物も終わったし」
「試食が待ちきれないんだ」
「それもある!」
パイモンに先導されながら、旅人は山を下りた。
昼の光の下、なだらかな岩場の上には、やはり誰もいなかった。
*
山道を下り始めて間もなくのことだった。
旅人の視界の端を淡い青が横切った。
足を止める。
「どうした?」
パイモンが振り返った。
旅人は道脇の草むらを見る。
「今、何か――」
ふわり。
草の陰から、一匹の蝶が浮かび上がった。
陽を受けた青い羽が、淡く透けている。
パイモンが息を呑んだ。
蝶は山道を外れ、森の中へと向かっていく。
「旅人、こいつ……」
「追ってみよう」
旅人たちは、青い蝶の後を追う。
蝶は速くない。
けれど近づけば、同じだけ先へ離れていく。
「……なんか、嫌な予感がするぞ」
山道を外れるほど、周囲は静かになっていった。
職人たちの槌の音はとっくに山の向こうへ置き去りにされ、代わりに葉擦れと鳥の声、そして自分たちの足が枝を鳴らす音だけが、やけに大きく響いた。
蝶は一度も止まらない。
木々は次第に深くなり、頭上を覆う枝が陽を遮っていく。
「こっちだ!」
「パイモン」
「分かってる。あんまり先には――」
パイモンの返答が途切れた。
青い蝶の向こう。
木漏れ日の先で、白い衣が揺れている。
「あ……」
細い獣道を、一人の女が歩いていた。
ふらり、ふらりと小波に揺られる船のように、その足取りは定まらない。
「旅人……あっち、崖だよな……?」
木々が途切れた先には、剥き出しの岩肌と青い空が広がっている。
女は止まらない。
一歩、また一歩と崖際に近づいていく。
「待って!」
旅人は駆け出した。
反応はない。
女の足先が、崖の縁へかかった。
旅人はより強く地面を蹴った。
草を踏む。
石が跳ねる。
あと少し。
女の身体が、糸が切れたように前へ傾く。
「――っ!」
手を伸ばす。
風にあおられた白い袖が、こちらへ翻った。
掴める。
次の瞬間。
五本の指が、空の中で閉じた。
「旅人!」
パイモンの声が響く。
旅人は咄嗟に片手を地面について、崖際で踏みとどまった。
顔の脇で小石がぱらぱらと崖を滑っていく。
伸ばした右手は、すぐには下ろせなかった。
ほんの一瞬前まで、そこに白い袖があったのに。
女は、絶壁の向こうに消えた。
「どこだ……」
崖下を覗き込む。
急斜面。
いない。
むき出しの岩。
いない。
途中から生えた細い木。
いない。
白い衣なら、どこへ落ちても目立つはずだ。
だが、どこにもいない。
「旅人、アイツは!?」
隣へ来たパイモンに、旅人は首を横に振った。
「そんな……」
「下りられる場所を探そう」
二人は崖沿いに走った。
少し離れたところで斜面の緩い場所を見つけ、枝をかき分け、岩を伝って下へ降りる。
「おーい! 聞こえるかー!」
パイモンが何度も叫ぶが、返事はない。
驚いた鳥が飛び立つ音だけが返ってくる。
二人は手分けして辺りを探した。
人があの高さから落ちれば、何かしら残るはずだ。
だが、折れた枝も、潰れた草も、血の一滴さえ、そこにはない。
「なあ」
パイモンが声を落とす。
「あいつ、本当に人間だったのか? 見間違いとか、幻とか……」
その時。
崖の根元、影になった草むらの中で、何かが光った。
淡い青。
「あ……」
一匹の蝶が浮かび上がった。
先ほど二人をここへ導いてきたものと、よく似ている。
蝶はゆっくり羽ばたきながら、空に向かって飛んでゆく。
二人は言葉もなく、その行方を見送った。
「今の、オイラたちが追いかけてた蝶だよな?」
「……うん」
右手を開く。
当然、そこには何もない。
青い蝶を残して消えた、白い衣の女。
「万民堂に、戻ろうか」
今できることは、何もない。
崖を離れる前、もう一度だけ振り返った。
だが、やはりそこには誰の影もなく、草木が何事もなかったように揺れているだけだった。
*
璃月港へ戻る頃、街は昼の盛りを迎えていた。
つい先ほどまで山で聞いていた静けさが、まるで別の季節の記憶のように遠い。
「なあ、旅人。さっきの……眠蝶だったのかな」
「分からない。でも、二人で同じものを見たことは確かだ」
万民堂のある通りへ曲がったところで、二人は足を止めた。
店の前に人だかりができている。
道の片側では荷車が傾き、積んでいた竹材が石畳へ散らばっていた。その傍らに若い男が座り込み、数人が周囲を取り囲んでいる。
「旅人、あれ……」
男の袖には血が滲んでいた。
そしてその前に、白い衣の女が膝をついている。
長い髪。
眠たげな横顔。
白い袖。
間違いない。
ついさっき、崖の向こうへ消えた女だった。
「指を動かしてみて」
「こ、こうですか」
「握って」
「はい」
「痺れは?」
「ないです」
「なら、深いところまでは傷ついていないと思うわ」
女は腰の小さな包みを開き、乾燥した葉と白布を取り出した。
そのまま片手で葉を揉み砕きながら、もう片方の手で白布を広げる。
そして、その端を歯に掛けた。
ぶつ、と繊維が切れる音がして、布が細長く裂かれていく。
「ここ、押さえていて」
「は、はい」
女は、裂いた布の一方へ揉み砕いた葉を塗り込め、傷口へ押し当てた。
布はそのまま一度も緩むことなく腕に巻かれ、最後の端まできれいに結ばれた。
「夜まで濡らしてはだめよ。熱が出たり、指が動かしづらくなったら、お医者様のところへ行ってね」
「あ、ありがとうございます……」
「助かった……」
「すぐ近くにこの人がいてくれてよかったよ」
張りつめていた周囲から息が漏れ、止まっていた往来が動き始めた。
声が人垣を渡っていく。
「手慣れてたな……」
「この人、もしかして」
「最近噂になってる、白い服の――」
「大丈夫!? 誰か怪我したって!」
そばの万民堂から香菱が駆け出してきた。
その声で、我に返った。
「あ……」
「お、おい、おまえ!」
パイモンの呼びかけに、包みに薬草を戻していた女が顔を上げる。
「あら。こんにちは」
「こんにちは、じゃないぞ! おまえ、さっき――」
「待って、パイモン」
旅人はその肩へ手を置いた。
聞きたいことなら、自分にも山ほどある。
けれど周囲にはまだ人が多い。
「と、とりあえず、うちにおいでよ! 怪我人を助けてくれたお礼もしたいし、ここじゃ落ち着かないでしょ?」
香菱は荷車の片づけを手伝っていた者たちへ声を掛け、女を万民堂へ案内する。
旅人とパイモンも続いた。
店の奥の卓へ着くなり、パイモンが身を乗り出す。
「おまえ、山にいただろ!」
「山?」
「崖から落ちたんだぞ! オイラたち、下まで探したのに……!」
「私が?」
女は白い袖をつまみ、揺らしたりめくったりを繰り返した。
怪我をしているどころか、裾に泥や裂け目さえ見当たらない。
「私は、何もないみたいだけれど」
それ以上確かめることもなく、女が袖から手を離したところへ、香菱が茶を運んできた。
「まあまあ、まずはお茶でも飲んで落ち着きなよ。これ、お礼の一杯」
「まあ、ありがとう」
眠蝶は卓に置かれた杯を両手で包む。
湯気が細い指の間を抜けていった。
「温かいわね」
そう言っている本人の指は、不思議なくらい赤みが差していない。
「ところであなた、本当に眠蝶っていうの?」
「皆はそう呼んでいるみたいね」
「他人事みたいに言うんだな……」
「本当の名前は?」
「分からないの。最初に誰が眠蝶と呼んだのかも。でも最近は、そう呼ばれることが多いから」
杯を包んでいた指を少し緩め、女は顔を上げた。
「だから、眠蝶でいいわ」
杯の湯気が、浮かんだ笑みをぼかした。
縁に添えた指には、まだ薬草の粉が残っている。
「そういえば、さっきの怪我した人、眠蝶にずっと感謝してたよ」
「た、確かにすごかったな! 傷を見た途端、手が勝手に動いてるみたいだった」
「そうだったの?」
「もしかして、医者だったり?」
「それはどうかしら」
眠蝶は先ほど傷口を縛った手を開いた。
指を一本ずつ確かめるように動かしてから、不思議そうに掌を返す。
「あなたの言う通り、手が勝手に動いただけなの。変な手ね」
「手のせいじゃないと思うぞ……」
「まあ何はともあれ、眠蝶に怪我がなくてよかったよ」
「そうだね、それが一番だよ。……と、言うわけで」
香菱は椅子を鳴らして立ち上がると、厨房を指した。
「試食の時間だよ! 二人が帰ってくるのを待ってたんだから」
「やった! オイラたち、そのために配達を頑張ったんだもんな」
「眠蝶も、食べられるなら食べてほしいな。いろんな人の感想が聞きたいんだ」
崖で消えたことも、失った記憶のことも、まだ何一つ分からない。
それでも、料理の話を聞いた眠蝶の視線は、いつの間にか厨房へ向いていた。
「いいの?」
「もちろん!」
「それなら、いただくわ」
厨房へ戻る香菱の背を、眠蝶が見送る。
その様子はどこか嬉しそうで、パイモンも表情を緩ませる。
「まったく。オイラたち、本当に心配したんだからな」
「ごめんなさい」
「次から崖の近くでは、ちゃんと前を見るんだぞ」
「ええ。気をつけるわ。覚えていれば」
「そこが一番心配なんだよ!」
厨房から香菱の笑い声が返る。
眠蝶も笑った。
その声が、途中で切れた。
がた、と椅子を揺らして、眠蝶の肩が傾く。
「眠蝶!?」
このままでは倒れる。
横へ崩れた身体を、旅人は咄嗟に受け止めた。
「ど、どうした!? 大丈夫か!?」
「眠蝶? 眠蝶……!」
肩を叩いても反応はない。
瞼は閉じたまま、呼吸だけが静かに続いている。
「……もしかして、寝てるのか?」
「そう、かも。これが噂の『どこでも寝る』ってやつだったり?」
「いくらなんでも急すぎるだろ!」
パイモンは頭を抱える。
厨房からは、バタバタと香菱が走ってきた。
「大きな音がしたけど、何かあった!?」
「眠蝶が急に寝ちゃって……」
「ええ!?」
旅人は、腕の中の眠蝶を見遣る。
この状況にそぐわず、寝顔は穏やかだ。
「その体勢だとつらいでしょ。奥に長椅子があるからそっちへ寝かせてあげよう」
香菱が扉を開け、奥を指し示す。
窓際には、人一人が横になれそうな木製の長椅子が置かれていた。
眠蝶の背と膝へ腕を回し、そっと抱き上げる。
確かな重さが腕に掛かった。
「ん?」
「どうした、旅人?」
「身体が、冷たい」
衣が冷えているのではない。
肩にも、膝の裏にも、ほとんど熱がない。
パイモンが眠蝶の頬へ触れた。
「うわっ、本当だ。でも、息はしてるよな?」
「うん。外で冷えたとは思えないけど……」
疑問を飲み込みながら、旅人は香菱に案内された店の奥へ向かった。
眠蝶を長椅子へ横たえる。
その上に、香菱が薄手の布をかけてやっていた。
「大丈夫かな」
パイモンが寝顔を覗き込む。
眠蝶は瞼を閉じたまま、薄布の端へ頬を寄せた。
「……あったかい」
寝言だった。
パイモンが口を閉じる。
香菱は何も言わず、ずれた布を肩まで掛け直した。
「起きたら、もう少し詳しい話を聞いてみよう」
「そうだな。気になることばかりだったし」
「それまでは寝かせておいてあげようか。アタシも時々様子を見るから」
三人が店先へ戻ろうとした時、背後から妙な視線を感じた。
――誰かに見られている。
旅人は店の外へ目を向けた。
往来の向こう。
璃月港を囲む岩峰の一角に、一人の人影が立っている。
「……魈?」
あの姿、彼に間違いない。
だがおかしい。
目が合わない。
その視線はここを通り越し、閉じかけた扉の向こうへ向かっている。
「旅人、魈がどうしたって?」
パイモンが振り返る。
そちらに気を取られた時、木々が大きく揺れた。
葉が視界を横切る。
次に岩峰が見えた時、すでに魈の姿はなくなっていた。
「……誰もいないぞ?」
「二人ともー! 冷めちゃうよー!」
「ごめん。今行くよ」
香菱の声が飛ぶ。
扉の向こうでは、白い布にくるまれた眠蝶が変わらず静かに眠っていた。
崖の縁で空を切った、あの掴みそこねた感触が右手に蘇る。
旅人は指を強く握り込んで、扉を後にした。