伝説任務『華胥の蝶、万灯に醒む』   作:たそ@ハーメルン

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第二章 承
第二話 白紙


翌朝。

旅人とパイモンが万民堂を訪れたのは、店はまだ外の喧騒が遠い早朝だった。

厨房から聞こえるのは包丁の規則正しい音と、時折鍋の触れ合う乾いた響きくらいだ。

店先では香菱が大きな籠を傍らに置き、仕込みに使う野菜を一つずつ確かめていた。

 

「香菱、おはよう」

「あ、旅人、パイモン! おはよう!」

 

香菱は顔を上げ、いつも通りの明るい笑顔を見せた。

昨日、眠蝶を寝かせた長椅子はここからでは見えない。

 

「眠蝶は?」

 

香菱の手が止まった。

 

「まさか……」

「ごめん! 朝来た時には、もういなかったの!」

 

両手を合わせて頭を下げる香菱に、旅人は首を振った。

昨夜の眠蝶を任せきりにしたのは自分たちも同じだ。

 

「気にしないで。俺たちの方こそ、任せきりにしちゃってごめん」

「誰か、出ていくところは見てないのか?」

「父さんにも近くのお店の人にも聞いたけど、誰も見てないって」

 

店の奥へ入ると、長椅子はやはり空だった。

昨夜掛けた布だけが端へきちんと畳まれ、眠っていた痕跡だけが妙に整然と残っている。

パイモンがその端をつまんだ。

 

「眠蝶が自分で畳んだのか? これ」

「たぶん」

「じゃあ起きて、これ畳んで、それからまた誰にも見つからずに出ていったのか……」

 

少なくとも、眠ったまま突然消えたわけではなさそうだ。

店の外では、もう海灯祭の準備が始まっている。

 

「探しに行こう。きっと、そう遠くへは行ってないはず」

 

行き先を書き残した様子はない。

なら、手掛かりは昨日までの行動だけだ。

 

「怪しいのは山側かな。俺たちが最初に眠蝶を見つけたのも山だったし」

「確かに、璃月港の外は白い女の噂も多かったな。よし、早速行くぞ!」

 

旅人とパイモンは万民堂を後にした。

幸い、捜索は長く続かなかった。

山道へ入ってしばらくした頃、少し先を飛んでいたパイモンが不意に声を潜めた。

 

「なあ、旅人。……あそこ」

 

道を外れた斜面、朝露の残る岩肌の隙間に、清心の白い花がいくつも咲いている。

その前に、一人の女がしゃがみ込んでいた。

白い衣に丁寧に編まれた長い髪がしな垂れている。

 

間違いない、眠蝶だ。

 

眠蝶は清心の茎へ指を添え、必要なものだけを選ぶように、一本ずつ丁寧に摘み取っている。

ほっと胸を撫でおろしたのも束の間、昨日の崖での光景が、忘れていた冷たさを連れて蘇った。

 

「眠蝶!」

「あら」

 

パイモンの声に、眠蝶は顔を上げた。

眠たげな目がこちらを捉え、やがて摘んだ清心を手にしたまま立ち上がる。

 

「おはよう。いつだか、お会いした方々」

「いつだかって……昨日だぞ」

「昨日……」

 

眠蝶はその言葉を、確かめるように口の中で繰り返した。

自分たちのことは覚えている。

けれど、それが「昨日」だったということだけが、うまく形にならないらしい。

 

「昨日の夜は、万民堂で寝てたんだよ。今朝いなくなってたから探してたんだ」

「私、そこからここまで来たの?」

「そこも覚えてないのか!?」

 

頭を抱えたパイモンへ、眠蝶は申し訳なさそうに笑った。

 

「ごめんなさい。眠る前と、目を覚ました後が、どうもうまく繋がらないの」

 

顔色は悪くなく、立ち姿にもふらつきはない。

昨夜腕に抱いた時の、あの異様な冷たさを除けば――今ここにいる彼女は、どこから見ても普通の人間に見える。

 

「眠蝶おまえ、自分が璃月に来た時のことは覚えてるのか? 何日前とか、何か月前とか」

 

眠蝶は不思議そうに瞬きをした。

 

「私は璃月で生まれたのよ」

「それは覚えてるんだ。 それっていつ頃?」

「それは……」

 

眠蝶は山の下へ目を向けた。

眼下には、朝日に照らされた璃月港が広がっている。

 

「……いつだったかしら」

 

山を渡ってきた朝風が、三人の間を抜ける。

風に押された小石が、足元をころころと転がっていく。

眠蝶の手の中で、摘み取られた清心の葉が揺れた。

 

「それ……」

「これ? これは清心よ」

「オイラたちも清心は知ってるぞ。なんのために摘んでたんだ?」

「なんのため?」

 

問われて初めて、眠蝶は手の中の清心へ目を落とした。

指先で一枚を持ち上げ、しばらく眺める。

 

「これは、熱を鎮める時に使えるわ」

 

今度は間がなかった。

つい先ほどまで、自分の居場所さえ分からずに立ち尽くしていた同じ人物とは思えないほど、その声には迷いがない。

 

「乾燥させて煎じてもいいけれど、他の生薬と合わせれば傷薬にも使えるの」

 

そう言って、眠蝶は清心の葉を朝日に透かす。

それまで眠たげだった眼差しが、どこか澄んでいるように見える。

 

「詳しいね」

「私、詳しいの?」

 

そして、今度は不思議そうに清心を見下ろした。

摘まれた清心は、株を傷めることなく綺麗に摘み取られている。

 

「不思議ね」

 

そう言いながら、指先は葉を傷めないよう自然に撫でていた。

 

「眠蝶。やっぱり、一回ちゃんとした医者に診てもらおう」

「お医者様に? 私、具合は悪くないけれど」

「昨日、身体がすごく冷たかったよ。それに記憶も曖昧でしょ?」

 

眠蝶は自分の腕へ目を落とした。

冷たかったということ自体にも、心当たりがないらしい。

旅人は山の下に見える璃月港を示した。

 

「不卜廬ってところに、腕のいい医者がいるんだ。俺が心配だから、診てもらってほしい」

「でも……」

「いろんな薬草のことも聞けると思うよ」

「それなら行こうかしら」

「そっちには食いつくのかよ!」

「他の人たちが、これをどう使っているのか気になるの」

 

パイモンが肩をすくめた。

 

「まあ、行く気になったならいいか。清心も持っていこうぜ。せっかく摘んだんだし」

「ええ」

 

眠蝶は摘んだ清心を一枚ずつ揃え、懐から取り出した布へ並べていく。

最後に花の部分へ余裕を残して包みを閉じた。

 

 

 

*

 

 

 

三人は山を下り、璃月港へ戻る道を歩いた。

山を下る間、眠蝶は何度も足を緩めた。

陽を受けて海灯祭の飾りが揺れるたび、その色を一つずつ確かめるように目で追っている。

同じ璃月港を歩いているはずなのに、彼女にとっては何度でも初めての街なのかもしれない。

 

「ここが不卜廬だよ」

「ここが……」

 

眠蝶は看板よりも、軒先に吊るされた薬草へ先に足を止めた。

そのまま戸の向こうに並ぶ薬棚まで確かめている。

場所ではなく、そこにある薬の方が彼女を引きつけているようだった。

店内から薬材の籠を抱えた七七が現れる。

 

「旅人。パイモン」

「七七!」

 

七七は二人へ頷き、眠蝶の手元を見た。

 

「この匂い、清心」

「そうよ」

 

眠蝶は七七と目線を合わせるように屈み込み、手にしていた包みを開いた。

中には、朝露の名残を宿した清心の白い花が、潰れないよう丁寧に並べられている。

 

「上手に採れてる」

「ありがとう。あなたも薬草を扱うの?」

「扱う。七七は、薬採りをする」

「そう。あなたも上手なのね」

「……まだ、見せてない」

 

眠蝶は虚を突かれたように笑った。

 

「本当ね」

 

七七は笑い返さず、彼女の顔から首元、袖口から覗く手へと目を移した。

 

「あなた、冷たい」

 

隣で、パイモンが息を呑む気配がした。

 

「分かるのか?」

「七七も、冷たいから」

 

眠蝶は自分の指先を見た。

 

「あなたと同じ?」

「違う」

「違うの?」

「うん」

「朝から興味深い話をしていますね」

 

穏やかな声がして、暖簾の奥から白朮が姿を現した。

肩の長生も眠蝶をまじまじと眺めている。

 

「白朮。朝からごめんね」

「いいえ。今日は、診察をご希望ですか?」

「うん。彼女……眠蝶のことなんだけど」

「こちらのご婦人ですね。何やら、特別な事情がお有りのようで」

「それも含めて、診てほしいんだ」

 

旅人の言葉に、白朮は眠蝶へ静かな視線を向けた。

 

「では、中へどうぞ」

 

不卜廬の中には、煎じ薬の苦みと干した草木の青臭さ、古い木棚の匂いが染みついていた。

眠蝶は戸をくぐると、壁一面の薬棚へ目を向けた。

 

「興味がありますか?」

「ええ」

「診察が終わったら、じっくり見ていただいて構いませんよ」

 

眠蝶は白朮に勧められるがまま、診察用の椅子へ腰を下ろした。

 

「今、具合の悪いところはありますか?」

「特には」

「眩暈や息苦しさも?」

「ないわ」

 

白朮は眠蝶の手を取り、掌と指先の色を見て取ってから手首へ指を添えた。

外から薬籠の竹が立てる乾いた音がきこえる。

 

「……妙ですね」

「まさか、脈がない、とか?」

「取れない、と言った方が正確でしょう。少なくとも、普通の人と同じ取り方では捉えられない。他の検査もしてみましょう」

 

白朮は引き出しから、針のような検査器具を取り出した。

細い器具の先が、眠蝶の指へ触れる。

 

「触れている感覚はありますか?」

「ええ」

「痛みは?」

「あまり」

「どんな感覚がするか、教えてもらえますか?」

「あなたの手は温かいわ」

「温感はあるようですね。ただ、触覚……特に痛覚は鈍いようです」

 

白朮が器具を引き出しへ戻している間、眠蝶はぼんやりと壁際の薬材を眺めていた。

やがて、緩慢な動作でその一つを指さす。

 

「あそこのハスの花托と根……」

「はい?」

「長く置くのなら、もう少し陽を避けた方がいいわ。乾きすぎると効きが落ちるから」

 

白朮の手が止まった。

 

「それは、どなたに教わりました?」

「……誰だったかしら」

 

白朮は少し考えるようなそぶりをした後、診察台の脇に置かれた清心を手に取った。

 

「これはあなたが採ったものですか?」

「そうよ」

「綺麗に採れていますね。薬材に慣れた人の採り方です。では、これを乾燥させるなら?」

「風を通して陰干しに」

「熱を持った傷には?」

「清心だけでは弱いから、別の清熱薬を合わせるわ。傷口が化膿している場合は、その限りではないけれど」

 

問いが重なるほど、眠蝶の返答は早くなった。

薬材の組み合わせ、煎じる時間、症状に応じた処方――最初のうちは聞き覚えのある薬草の名もあったが、やがて旅人にもパイモンにも話を追えなくなる。

その頃には、眠蝶は白朮の質問にもほとんど間を置かず答えていた。

 

「――なるほど。眠蝶さん。あなたの知識は、今の璃月で一般的な医術とは少し異なるようです」

「私の知識は間違っていた、ということかしら」

「いいえ、そうではありません。古いのです」

 

白朮はそう答えると、壁一面に並ぶ薬棚へ目をやった。

先ほどの問答の中に出てきた薬材も、その中に混じっている。

 

「今ではほとんど使われない処方もありました。それこそ、現代では古書の中でしか見られないような」

「どれくらい古いんだ?」

「少なくとも、ここ数十年の医術には該当しませんね」

「そんなに!?」

 

パイモンの声が一段高くなる。

眠蝶はただ、診察台の脇へ置かれた清心を見つめていた。

朝、迷うことなく摘み、薬効を語っていた花だ。

しかし、細い指が包みの端へ触れたものの、今度はそこから先へ動かなかった。

 

「……私が知っているのは、そんなに昔のことなのね」

 

先ほどまで薬草の話をしていた時とは違い、その声に弾むものはなかった。

不卜廬の外から届く人声と、どこかで薬籠の竹が触れ合う乾いた音だけが、沈黙の隙間へ入り込んでくる。

 

「私は、何かの病気なの?」

「断定はできません。ですが、体温も脈も普通の人とは違う。痛みも感じにくいようです。そのうえ、記憶とは別に古い医術の知識だけが残っている」

 

白朮は一度言葉を切った。

 

「少なくとも、正常と言い切れる状態ではありません」

 

眠蝶は何も言わなかった。

旅人には、彼女が何を思っているのかまでは分からない。

 

「ですが」

 

白朮の声が、柔らかくなる。

 

「あなたは呼吸をし、物に触れ、会話もできる。それは生命の証左に他なりません」

「七七とは、違うの?」

 

旅人は思わず言葉を挟んだ。

話を向けられた七七は、眠蝶の手や胸元を確かめるように眺めてから、小さく答える。

 

「違う」

「分かるの?」

「うまく、言えない。でも違う」

 

それ以上の説明はせず、七七は腰元へ手を伸ばした。

取り出したのは、何度も開かれた跡のある使い込まれた帳面だった。

 

「七七は忘れる。だから、書いておく」

「あなたも、忘れるの?」

「うん」

「困らない?」

「困る。だから、書く」

 

開かれた頁には細かな文字がびっしりと並んでいる。

ところどころ書き足された跡もあれば、何度も確かめたのか、紙の角が柔らかく擦れているところもあった。

 

「書いておけば、読める」

「今日の私が忘れても?」

「うん」

「眠蝶さん。よければ、これを」

 

白朮が棚から一冊の帳面を取り出した。

まだ誰の文字もない、白い表紙の小さな冊子だった。

 

「いいの?」

「もちろん」

 

眠蝶は差し出された帳面を両手で受け取り、頁を開く。

真新しい紙には、まだ一つの墨跡もない。

 

「……何を書けばいいのかしら」

「覚えていたいこと」

 

七七はそれだけ短く告げて、眠蝶に筆を差し出した。

眠蝶はそれを受け取ったまましばらく動かなかったが、ひとたび筆先が紙へ触れると、その手は淀みなく動き始めた。

 

――七七という子に会った。忘れるなら書く、と教えてくれた。

――白朮先生。この帳面をくださったお医者様。

 

七七が文字を読む。

 

「できてる」

 

七七が、自分の帳面を腰元へ戻しながら言った。

 

「書いたら、しまう場所を決める。忘れないように」

「そうね。ここなら入るかしら。……よいしょ」

 

眠蝶も真似るように帳面を閉じ、白い衣の胸元へ差し入れる。

だが途中で、ふと手が止まった。

 

「眠蝶、大丈夫?」

「ええ。服の飾りが引っ掛かったみたい」

 

眠蝶は指先で胸元を探り、少しだけ位置をずらす。

小さな飾りが、かすかに揺れた。

七七は胸元へ収まっていく帳面を見ながら、もう一つ言った。

 

「破かないように、気をつける」

「七七、すっかり先生みたいだな」

「先生のお話はしっかり聞かないとダメね。……入ったわ。どうかしら、七七先生」

 

七七は眠蝶の胸元をじっと確かめてから、小さく頷いた。

 

「うん。いい」

 

 

 

*

 

 

 

「もし差し支えなければ、また診せに来てください。私としても、経過を確認したい」

「分かったわ。ありがとう、白朮先生」

「ご飯も普通に食べていいって。よかったな、眠蝶!」

 

診察を終えて席を立つと、七七が戸口までついてきた。

 

「またね」

 

階段へ向かいながら振り返ると、七七はまだ同じ場所に立っていた。

眠蝶はそれに応えるように、ゆっくりと手を振っていた。

 

不卜廬を出ると、朝より高くなった陽が璃月港の屋根を照らしていた。

薬草の匂いに満ちた店内から出たせいか、階段の下から漂ってくる焼き菓子や香辛料の香りが、いつもより濃く感じられる。

眠蝶はもらったばかりの帳面を胸元に抱え、祭の支度で賑わう街を見下ろしながら階段を降りていった。

 

「そういえば、眠蝶」

 

階段を下りながら、パイモンが眠蝶の隣まで飛んでいく。

 

「今日はまだ眠くならないのか?」

「言われてみれば、そうね」

「昨日は話してる途中で寝たのにな」

「そうだったの?」

「眠くないならよかったよ」

 

石段を軽やかに踏む足取りには、昨日のような不安定さがどこにもない。

今のところ、むしろ昨日より弾んでいるようにさえ見えた。

 

「せっかくだし、璃月港を見て回ろうぜ。眠蝶は、海灯祭の準備もちゃんと見たことないんだろ?」

「ないわ。たぶん」

「また『たぶん』かよ。どこも見たことがないなら、オイラが全部案内しちゃうぞ!」

「あら、それは楽しみね」

「――おやおや? 朝から珍しい組み合わせだねえ」

 

三人が階段を下りきったところで、聞き慣れた声が飛んできた。

赤褐色の髪を揺らしながら、胡桃がこちらへ歩いてくる。

 

「胡桃、久しぶり」

「やあ、旅人。パイモンも元気そうで何より」

 

胡桃は眠蝶の顔から肩、白い袖までを見渡した。

 

「こんにちは。私は胡桃」

「眠蝶よ」

「へえ、綺麗な名前だね」

「ありがとう。みんながそう呼んでくれるのよ」

「うん?」

 

待っていましたとばかりにパイモンが口を挟む。

 

「眠蝶はちょっと変わってるんだ。昨日会ったばっかりなのに、もうオイラたちのことをいつ会ったか分からなくなっててさ」

「本人の前でする紹介かな、それ?」

「私は助かるわ。私自身が覚えていないもの」

「マッチポンプだったかあ」

 

胡桃の目が眠蝶へ戻る。

 

「それにしても……記憶、ねえ」

「往生堂なら、何か分かったりする?」

「……往生堂?」

 

眠蝶はその言葉を口の中で転がすように、小さく繰り返した。

 

「あなた、往生堂の関係者なの?」

「うん。第七十七代堂主だよ」

「眠蝶、往生堂を知ってるの?」

 

眠蝶は視線を伏せた。

眉間の皺だけが、ゆっくり深くなる。

 

「……いいえ。記憶にはないみたい」

 

胡桃は一歩横へ回り込み、再びその気配を探るように、眠蝶の輪郭を目でなぞっていく。

 

「うーん。幽霊なら、それなりの気配があるんだけどね。眠蝶は違うみたい」

「じゃあ人間?」

「それも違う。だから気になるって感じ」

 

今度は眠蝶の視線が、胡桃へ向く。

 

「胡堂主は、私のことが気になるの?」

「おや、ずいぶん丁寧だね。胡桃でいいよ」

「じゃあ、胡堂主」

「変わってないじゃないか!」

 

パイモンの突っ込みに、眠蝶はくすりと小さな笑いを零した。

 

「こっちの方が呼びやすいの」

「まあ、好きに呼んでいいけど」

「胡堂主」

「ん?」

「その帽子、借りてもいいかしら」

 

胡桃がつばへ手をやると、眠蝶の指先がその端を示した。

飾り紐を留める糸が一本切れ、縫い目がほつれかけている。

 

「このままだと、じきに外れてしまうわ」

「あ、本当だ。全然気づかなかった」

 

眠蝶が腰に下げた小さな包みをあさる。

そこから出てきたのは、細い針と糸だった。

 

「そんなものまで持ってるのか?」

「そうみたい。早速使いましょう」

 

眠蝶は自分で取り出した針を検分するように眺めた後、胡桃の帽子を受け取った。

ほつれた縫い目を指先で整えると、針は迷わず布を往復していく。

 

「できたわ。どうかしら」

「へえ、上手。裁縫に慣れてるんだね」

「そう、なのかしら」

 

眠蝶は針を持った自分の指を、まるで他人の手でも借りたもののように見つめていた。

胡桃は直った帽子を被り直し、眠蝶の手元へもう一度目をやった。

 

「そういえば眠蝶、その服はどこで手に入れたの?」

「服?」

「ずいぶん綺麗だからさ。誰かにもらったとか?」

 

眠蝶はシミ一つない白い袖を見下ろした。

 

「気がついた時から着ていたわ」

「そっか。覚えてないか」

「裁縫上手なら、眠蝶が自分で縫ったのかもしれないな!」

「そうだったら、ずいぶん多芸だね」

 

胡桃は帽子のつばを指先で弾き、機嫌よさそうに笑った。

 

「ところで眠蝶、今日は予定ある?」

「ない、と思うわ」

「なら途中まで一緒に行こう。ちょっと確かめたいこともあるしね」

「仕事は?」

「これも仕事になるかもしれないし、ならないかもしれない」

「どっちだよ!」

 

そうして四人で通りへ出た。

海灯祭を控えた璃月港は、昨日よりも一段華やいでいた。

軒先には新しい飾りが増え、露店では祭の日に並べる品を試しに広げている。

眠蝶は飾りそのものより、そこで手を動かす人々をよく見ているようだった。

その内、一件の店先を指さす。

 

「あれは、何を作っているの?」

「霄灯だよ。海灯祭の夜に、願いを込めて空に向けて一斉に飛ばすんだ」

「霄灯……」

 

店先の霄灯を前にすると、眠蝶の歩みが止まった。

職人が竹を組む手元から、まだ火の入っていない灯までをじっと追っている。

 

「気になる? 俺たちも毎年見てるけど、すごく綺麗だよ」

「今年は明後日に飛ばすみたいだぞ。楽しみだな!」

「みんなで楽しむような催しなのね」

「そうだぞ。眠蝶も一緒に見ような」

「それは楽しみだわ」

 

眠蝶は曖昧に微笑んだ。

その横顔を、胡桃は何も言わずに見つめていた。

しばらく歩くと、港の一角に古物を並べた露店が見えてきた。

茶器や飾り金具、用途の分からない道具まで、卓上には種類のばらばらな品が所狭しと並んでいる。

 

「お、面白そうなものがあるね」

「骨董品かな? あんまり見ない形のものばっかりだね」

「兄ちゃんたち、見る目があるじゃあないか」

 

店主が得意げに胸を張った。

 

「うちの古い蔵を片づけた時に出てきた品だ。プレミアが付いてるものもあるかもしれないぞ。気になるなら、手に取ってみて構わないよ」

「ほんとか!? どれどれ……」

「おっと、それは壊れやすいから触らないでくれ!」

「じゃあ手の届くところに置くなよ!」

 

パイモンが慌てて手を引っ込める。

隣では、眠蝶が細長い金属製の道具を手にしていた。

筒の脇に折り畳まれた金具がついている。

 

「それは、何に使うんだ?」

 

眠蝶は答えなかった。

代わりに、白い指が金具を起こして筒を捻る。

かちり、という乾いた音とともに、内部から古びた火打ちの部分が現れた。

 

「驚いた。お嬢さん、それを使えるのかい?」

「こうするものではないの?」

「合ってるとも。昔の火熾しだよ。今じゃ使い方を知ってる人なんて、ほとんどいない」

 

眠蝶の手が止まる。

 

「そんなに古いものなの?」

「ああ。曾祖父の世代でも骨董品扱いだったって話だから、百年は昔なんじゃないか?」

「百年……」

 

答えないまま、眠蝶は再び金具を畳み、筒を捻って元の形へ戻した。

その様子を、胡桃がじっと見つめている。

 

「……ん?」

「どうしたの、胡桃?」

「いや、何でもない。気のせいかも」

 

そう言いながら、胡桃の視線は古い火熾しへ戻った。

旅人は店主へ向き直る。

 

「貴重なものを、見せてくれてありがとう」

 

店を離れてから、眠蝶はほとんど周囲へ目を向けなくなった。

代わりに、火熾しを扱った右手だけを、ときおり開いては閉じ、そこに残った記憶の重みを量るように眺めている。

旅人が声をかけようとした時、屋根の上を何かが走った。

風より速い、緑の影。

朱塗りの建物の向こう、高い岩場へ人影が立っていた。

 

「……魈」

 

昨日と同様に、港へ降りてくる気配はない。

その視線の先にいるのは、やはり眠蝶だ。

魈もこちらに気づいたらしい。

今度は、目が合っても消えない。

 

「どうした、旅人?」

 

パイモンに呼ばれて一瞬そちらへ気が逸れる。

すぐ岩場へ意識を戻したが、もう人影はなかった。

風だけが草を揺らし、そこに誰かがいたことさえ、初めから風のいたずらだったと言われれば頷いてしまいそうだった。

 

「また魈か?」

 

パイモンが声を落とす。

旅人は頷いた。

 

「昨日もいたんだろ? 偶然じゃないよな」

「たぶん」

「……あ」

 

旅人とパイモンの会話を、胡桃の声が割る。

 

「どうした、胡桃?」

「ちょっと調べたいことができた」

「あ、おい!」

 

胡桃は颯爽と踵を返す。

 

「悪いけど、私はここで失礼!」

「往生堂に戻るの?」

「まあ、そんなところ」

「何を調べるんだ?」

「まだ内緒」

「なんでだよ!」

「間違ってたら格好つかないでしょ?」

 

手を振る赤褐色の髪が、あっという間に人混みの向こうへ消えていく。

 

「胡堂主、ずいぶん急いでいたわね」

「思いついたらすぐ動くやつだからな」

 

その背中を見送っていた眠蝶が、胸元から帳面を取り出した。

近くの欄干へ寄って頁を開くが、そこで動きが止まる。

 

「筆がなかったわ」

「そうだったね。どこかで筆を借りるか、携帯用の筆を買おうか」

「いいの? ありがとう」

 

礼を言いながらも、眠蝶の指先は白い頁の一角へ置かれていた。

筆があれば、そこへすぐ書き込んでいたのだろう。

 

「何を書くつもりだったんだ?」

「『胡堂主。とてもよく喋る女の子』」

 

パイモンが吹き出した。

 

「それは書かなくても覚えてそうだな」

 

眠蝶の表情が和らぐ。

祭を待つ璃月港の喧騒が、また三人の周囲へ戻ってきた。

 

 

 

*

 

 

 

それからしばらく、旅人たちは祭の準備が続く通りを歩いた。

日が傾き始めた璃月港では、祭の準備の音が、朝とは違う速さで動いている。

試しに火を入れられた提灯が軒下で淡く灯り、職人たちは日が落ちる前にと足早に道具を片づけていた。

紙飾りを選ぶ親子の横では、値段を巡って商人と客が楽しそうに言い合っている。

 

「ずいぶん賑やかね」

「海灯祭前だからな! 本番はもっとすごいぞ。空が霄灯でいっぱいになるんだ!」

「空が……」

 

眠蝶は軒下の小さな霄灯を見上げたまま、しばらく歩こうとしなかった。

昼間より少し暗くなった空を、その灯の向こうに重ねているようにも見える。

 

「楽しみ?」

「まだ見ていないものを楽しみにするのは、不思議ね」

 

そう言ってから、眠蝶が自分の言葉を確かめるように笑う。

 

「でも、見てみたいわ」

 

それだけ言うと、また歩き始める。

港を望む高台へ差しかかった頃だった。

 

「……あら」

 

眠蝶の歩みが遅くなる。

 

「眠くなってきたみたい」

「やっとか!」

「私が眠くなるのを待っていたの?」

「待ってたわけじゃないけど、今日は全然寝ないから逆に心配だったんだ」

 

眠蝶は目元を押さえながら笑った。

 

「じゃあ今日は、道端で寝ちゃう前に万民堂へ戻ろうぜ」

「道端は駄目なの?」

「だめだ!」

「寝心地のよさそうな場所がたくさんあるのに」

「そこを選ぶ基準、絶対おかしいぞ……」

 

結局、昨日と同じように万民堂へ戻ることになった。

香菱は眠蝶の姿を見ると驚いたものの、事情を聞けばすぐに店の奥を貸してくれた。

 

「今度は起きたら一言言ってね?」

「善処するわ」

「それ、できない人の返事じゃないか」

 

パイモンの突っ込みに、眠蝶はくすりと笑った。

長椅子へ向かう前に、彼女はふと思い出したように胸元から帳面を取り出した。

 

「そうだわ」

 

空いていた卓へ腰を下ろし、香菱から筆を借りる。

パイモンが覗き込もうとすると、眠蝶は特に隠すこともなく頁を開いた。

朝、不卜廬のことを書いた一行の下へ、新しい文字が加わっていく。

 

――胡堂主。とてもよく喋る女の子。

 

「やっぱりそれ書くのか!」

「改めて、そう思ったから」

 

パイモンが吹き出した。

眠蝶も笑いながら、その続きを書く。

 

――昔の火熾しを使えた。なぜ知っていたのかは分からない。

――万民堂。いい匂いのする食堂。長椅子で寝かせてくれる。とても賑やか。

 

そこで筆が止まった。

少し考えてから、もう一行。

 

――海灯祭。霄灯を空いっぱいに飛ばすお祭り。見てみたい。

 

「それも覚えておきたい?」

「そうね。きっと、とても素敵だろうから」

 

そう言って眠蝶は帳面を閉じた。

今度こそ本当に眠気が限界らしい。

長椅子へ辿り着く頃にはほとんど目を開けていなかった。

横になると、ほどなく規則正しい寝息が聞こえ始める。

旅人はしばらく様子を見ていたが、昨日のように突然姿が薄れることはなかった。

香菱も時々見ておくと言ってくれたため、夜が更ける前に万民堂を後にすることにした。

外では、璃月港の灯が一つずつ夜闇に浮かび始めている。

 

「今日は長かったなあ」

 

パイモンが大きく伸びをする。

 

「朝から眠蝶を探して、不卜廬に行って、胡桃に会って、古物屋まで行って……」

「食べ物の話が入ってないね」

「今から入れてもいいぞ!」

 

そんな話をしながら歩いていると、不意に前方から声が飛んできた。

 

「旅人、パイモン!」

「……胡桃?」

 

胡桃だった。

二人を見つけると、彼女は足早に近づいてきた。

 

「ちょうどよかった。眠蝶は?」

「寝てるぞ。万民堂で」

「そっか。それならちょっと付き合って」

 

昼間の軽い調子は残っていたが、声には真面目な響きが混じっている。

 

「最近、境界が妙に騒がしくてね。いろいろ調べてたんだ。それで行き当たったのが、眠蝶」

 

昼間と同じ笑顔なのに、今度は冗談の続きには聞こえなかった。

 

「まだ、詳細は分からないけどね。でも、眠蝶の噂が出始めた時期と、境界が騒がしくなった時期が近いんだ」

「そういえば、昼間『往生堂』って言葉にも反応してたね」

「そう。だから、うちの保管庫をあさってみようと思って」

「保管庫?」

「歴代堂主が遺した記録や関係者の縁の品を保管してる場所。何百年分もあるから、一人で掘り返すのは遠慮したいところだけど……」

 

そこまで話したところで、胡桃の口元にいつもの笑みが戻った。

その変化を見て、今度はパイモンの顔が露骨に曇る。

 

「まさか……」

「手伝ってくれるよね?」

「やっぱりそうなるのかよ!」

 

夜の璃月港に、パイモンの声が響いた。

 

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