華胥の蝶、万灯に醒む   作:たそ@ハーメルン

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第三話 遺録

夜の往生堂は、昼間の忙しなさを扉の内側に置き去りにしたような静けさに包まれている。

祭で賑わう通りの声も、この扉を一枚隔てるだけで、随分遠くから届くように聞こえた。

 

「こっちこっち。まずは見せたいものがあるんだ」

 

胡桃は卓いっぱいに古い紙を広げていた。

その向かいでは鍾離が茶を飲んでいる。

 

「鍾離もいたのか」

「堂主に、古い記録について尋ねられてな」

「ちょうどいいから付き合ってもらってたんだよ。背の高い棚とかもあるしね」

 

胡桃はそう言って、手近な棚から提灯のような形の金属具を取り出し、卓の上に置いた。

ごと、と重みのある金属音が鳴る。

 

「これ、昼間の火熾しと同じじゃないか!」

「でしょ? 祭具倉庫で見つけたんだ。儀礼用だから、こっちはちょっと大きいけど。使われてたのは五百年くらい前だって」

「五百年前!?」

 

パイモンが驚愕の声を上げる。

旅人は卓上の金属具へもう一度目を落とした。

大きさこそ違うが、折り畳まれた金具の位置も、筒の形も昼間のものによく似ている。

 

「で、気になってその時期の資料を漁ったら、こんなものも見つかった」

 

胡桃はそう言って、一枚の紙を旅人の前へ滑らせた。

描かれているのは、古い衣装の図だった。

 

「昔の儀礼服の図面だよ。見覚えない?」

 

衣装図を手元へ引き寄せる。

大まかな造形こそ珍しくないが、袖の合わせ方、襟元の形、腰を横切る紐の位置まで見ていくうちに、昼間まで隣を歩いていた白い衣が自然と頭に浮かんだ。

 

「眠蝶の服に似てる……」

「刺繡までそっくりだぞ」

「私も驚いたよ。眠蝶を見たとき、なんか親しみがあるなーとは思ったんだけどね。まさか、服が理由だとは思わなかった」

「ってことは、眠蝶は往生堂の人間かもしれないのか」

「まだ確定じゃないけどね」

 

胡桃は火熾しと衣装図を並べた。

 

「ただ、古い医術にこの衣装でしょ。偶然にしては重なりすぎてる」

「つまり、五百年前の記録を探せばいいんだね」

「そういうこと。その頃は災厄やら何やらが重なった時代みたいだから、ちゃんとした記録が残ってるか怪しいけど……」

 

五百年前――カーンルイアの災厄。

当時の惨憺たる状況は、これまで何度も耳にしてきた。

 

「それでも、何もないわけではないだろう」

 

鍾離が静かに茶器を置いた。

 

「実際、その衣装図やらを見つけたのだしな」

「そうだね。俺も、探す価値はあると思う」

「客卿と旅人がそう言ってくれるなら、安心だよ」

 

胡桃が笑った。

 

「……待てよ?」

 

そこでパイモンの声が急に鈍った。

 

「もし眠蝶が五百年前の人で……その、幽霊みたいなものだったら、往生堂で送るのか?」

「送るよ。本当は今すぐにでも送りたい。もし本当に何百年も留まっているなら、いつ形を保てなくなってもおかしくないからね。そうなれば、往生へ送ることだって難しくなる」

「それでも送らないってことは、何か理由があるんだ?」

 

胡桃は頷き、卓上の図面を畳み始める。

 

「眠蝶は普通の人間じゃない。在り方はむしろ死者に近いと思う。でも、普通の迷魂でもない」

「魂が分かれたり、別の器に移った可能性はないかな。最近は特に地脈の異常が多いし、それが関係していたりとか」

 

旅人は兹白のことを思い出す。

彼女も、一時期は不安定な存在だった。

 

「ない……とは言えないけど、手がかりがなさすぎるかな。なんにせよ調べる必要があるってことで――」

 

胡桃は腰元から鍵束を取り出した。

 

「五百年前に誰がいて、何があったのか。まずはご先祖様たちに聞いてみようじゃない」

 

 

 

*

 

 

 

胡桃に連れられ、旅人たちは往生堂の奥へ進んだ。

普段使われている部屋を抜け、さらに細い廊下を曲がった先に、古びた木の扉がある。

 

「ここが、その保管庫?」

「そうだよ。昔の帳簿とか、使わなくなった祭具とか、そういうのをまとめて置いてるの。普段は滅多に開けないんだけどね」

 

胡桃は手元の鍵を錆びかけた錠前に差し込んだ。

鍵が回り、重たい音を立てて扉が開く。

途端に、長いあいだ閉じ込められていた乾いた空気が流れ出した。

 

「うわっ……」

 

パイモンが顔をしかめる。

薄暗い部屋には天井近くまで棚が並び、その隙間という隙間を木箱や巻物、古びた冊子が埋めていた。

古い紙と木、それに積もり積もった埃の匂いが鼻につく。

胡桃が中へ踏み込み、手近な灯りへ火を入れた。

淡い光が広がると同時に、舞い上がった埃が細かな粒になって宙を漂う。

 

「けほっ、けほっ……! すごい埃だぞ! 本当にちゃんと整理してあるのか!?」

「整理と掃除は別問題だからね」

「威張って言うことじゃないだろ!」

 

胡桃は笑いながら小窓を開けた。

鍾離はその横で棚に貼られた札を確かめている。

 

「年代ごとの区分は残っているな。五百年ほど前なら、奥の二列あたりだろう」

「さすが客卿。話が早い」

 

目当ての棚には、傷みの激しい箱がいくつか並んでいた。

木の表面には細かなひびが走り、紙札の文字も半ば消えかけている。

旅人と胡桃は、それらを一つずつ慎重に下ろしていった。

 

「他の年代に比べて、かなり少ないね」

「うん。それに状態も悪い。保管場所が別だったとはいえ、火熾しと衣装図が残ってたのは奇跡かも」

 

紙札さえ読めないものを避けながら、その中で比較的形の残った一箱を開く。

中に入っていたのは、帳簿と思われる古い冊子の束だった。

一番上の一冊手に取るが、黒ずんだ表紙の角が今にも崩れそうだ。

 

「ゆっくり開いてね」

 

胡桃に言われ、慎重に頁をめくる。

並んでいたのは香木、布、紙、薬材、灯油、祭具――往生堂の日々の営みに必要だった品々だった。

 

「往生堂って、昔からこんなに色んな物を買ってたのか?」

「死者を送るだけが仕事じゃないからね。災害があれば負傷者の手当てもするし、遺された人たちの面倒を見ることもある」

 

胡桃が頁を指で追っていく。

 

「それにしても……この時期、ずいぶん薬草が多いな」

 

帳簿には、止血や解熱、痛みを和らげるための薬草が何行にもわたって並び、その脇には受け取った者や管理を任された者の名が記されていた。

 

「胡楷……胡嶺……胡蘭……」

 

パイモンが一つずつ読み上げる。

次の頁には胡澄。その次には胡梅。さらに胡安、胡鈴。

頁を進めても、同じ姓の名が何度も現れた。

 

「胡って名字ばっかりだな」

「まあ、往生堂だからね。この頃は今よりずっと、家族みんなで堂の仕事をしてたみたい」

 

薬材の欄には梅と鈴。

荷運びの記録には嶺と安。

ある箇所には、別の筆跡で訂正が三つも重なっている。

 

「ここやらかしてるの、澄じゃない?」

「どうして分かるんだ?」

「前の頁に『澄、数量を再確認すること』って書かれてる」

「澄はおっちょこちょいなんだな」

「こちらにも、その者たちの名があるぞ」

 

鍾離が持ってきたのは、一本の古い巻物だった。

卓の上で慎重に広げると、枝分かれした線に沿って胡家の名が連なっている。

 

「家系図だ!」

「パイモン、声が大きい」

「わ、悪い! いかにもそれっぽいのが出てきたから、つい……」

「あははっ。私もこれは初めて見たなあ。どれどれ……」

 

胡桃は笑いながら年代を確かめ、やがて一つの枝で指を止めた。

 

「いた」

 

そこには、先ほど帳簿で見た名が一つの枝へまとまっていた。

長兄の楷、次兄の嶺、三兄の澄、長姉の蘭。

そして次女の梅、四男の安、三女の鈴。

 

「本当に兄弟だったんだ」

「七人かあ。賑やかそうだね」

 

胡桃の指が長兄の名へ移る。

 

「胡楷……この人、堂主になってる」

 

家系図の脇には、小さく役職が書き添えられていた。

当時の往生堂主。

ほかにも、それぞれが堂内で担っていたらしい役目が簡単に記されている。

さらに余白には、この兄弟のうち一人が神の目を授かったことを示す、短い注記も残されていた。

 

「神の目を持ってた人もいたのか」

「へえ。昔もいたんだね」

 

胡桃自身、そこまでは知らなかったらしい。

もっとも、記されているのはそれだけだった。

誰が、いつ、なぜ授かったのかも、その力で何をしたのかも分からない。

胡桃は再び楷の名を見る。

 

「堂主だった期間も長い……。この人の周りなら、もう少し詳しい記録が残ってるかも」

 

それからしばらく、四人は保管庫の中を探し回った。

箱を開ければ年代が違い、棚の奥へ手を伸ばせば積もった埃が降ってくる。

 

「けほっ……もうこの辺、全部灰色に見えるぞ……」

「はいはい。明日はいっぱい甘いものでも食べようね」

「本当か!?」

「相変わらず、パイモンは扱いやすいなあ」

 

旅人が呆れていると、棚の奥から胡桃の声が上がった。

 

「あった!」

 

抱えて戻ってきたのは、小さな木箱だった。

蓋には、ほとんど消えかけた墨で一つの名が残っている。

 

――胡楷。

 

先ほどまで騒いでいたパイモンも、自然と口を閉じた。

胡桃が蓋を開く。

中には数冊の冊子が重ねられていた。

華美な装丁ではなく、紙は脆く、文字もところどころ滲んでいる。

一番上の冊子を手に取り、胡桃は慎重に頁を開いた。

 

「読めそう?」

「全部は無理だけど……この辺ならなんとか」

 

胡桃が、掠れた文字を読み上げていく。

そこに書かれていたのは、意外なほど取り留めのないことばかりだった。

雨が降り出し、干していた洗濯物を皆で慌てて取り込んだこと。

嶺が運んできた酒を梅に隠されたこと。

蘭が祭具の数が合わないと一日中ぼやいていたこと。

澄が買い物を一つ忘れ、鈴が代わりに走ったこと。

 

「仕事の記録っていうより、個人的な日記みたい」

 

胡桃はそう言って、読み取れる一節を拾った。

 

『安が、上着の背を派手に破いて帰ってきた。新しいのを買ってやってもよかったが、どうせまた破るからと、蘭と梅が繕った』

『前より丈夫になったそうだ。木登りは禁止にしたから、あと半年は持つだろう』

 

「仲いいじゃないか」

「口では喧嘩しててもね」

 

頁をめくれば、また別の兄弟の名が現れる。

堂主である楷自身も弟妹に振り回されていたようだが、その筆致にはどこか楽しげなものがあった。

 

「それぞれ得意なことが違って、それで往生堂を回してたんだ」

「支え合って生きてたんだな」

 

名前しか知らなかったはずなのに、読み進めるうち、その家の食卓まで見えてくるようだった。

誰が喋り、誰が動き、誰がよく笑うのか。

五百年前の夜にも、今と変わらず家族の声があった。

だが、冊子が次の一冊へ移る頃から、その声は少しずつ遠のいていく。

 

『澄が眠っていない。帳面を取り上げて休ませた。』

『蘭が炊き出しを始めた。せめて、女子供の避難先だけでも早く見つけなければ。』

『梅は泊まり込みで怪我人の看護を手伝っている。近々、鈴も合流するそうだ。』

『嶺と安が物資を運びに砦へ向かった。このところ、補給の遅れが目立つ』

 

まだ、皆の名がある。

けれど日付と日付の間は次第に開き、整っていた文字にも乱れが混じり始めた。

 

『負傷者がまた増えた。』

『薬が足りない。』

『人手が足りない。』

 

一日の出来事に何行も費やしていた日記は、いつしか必要なことだけを記すようになっていた。

それでも、弟妹たちの話はまだ残っている。

安が転んだ。

鈴が泣いた。

蘭が皆を叱った。

災厄のただ中にも、家族の日常は細い糸のように続いていた。

だが、さらに頁をめくったところで、胡桃の指が止まった。

 

『嶺が死んだ。』

『遺体は私が送った。皆にはまだ言えていない。』

 

先ほどまで笑い声のあった保管庫に、埃の落ちる音さえ聞こえそうな静けさが降りた。

胡桃はしばらくその頁を見つめ、それから黙って次へ進んだ。

 

『澄が帰らない。避難民を峠まで送るだけのはずだった。』

 

数頁後。

 

『鈴が倒れた。梅がついているが、ずっと熱が下がらない。』

 

その次の日付には、

 

『鈴が死んだ。』

 

パイモンの表情からも、いつもの明るさが消えていた。

胡桃が頁をめくるたび、紙の擦れる音だけが小さく響く。

 

『蘭が嶺の仕事もしている。休めと言っても聞かない。』

『毎日の葬儀のほとんどを梅に任せてしまっている。あれも眠っていない。』

『安が負傷した。傷は焼いた。今夜が峠だそうだ。』

『今日から私が安の帳面を引き継ぐ。』

 

灯火が揺れ、開かれた日記の上を影が横切る。

 

『澄が帰ってきた。』

 

パイモンが顔を上げる。

けれど、続く文字を読んだ胡桃の声は、厳しいままだ。

 

『この時世、骨が残っていただけでも感謝せねばなるまい。』

 

それから先の日記は、さらに短くなっていった。

 

『薬が足りない。』

『薪が足りない。』

『また人が死んだ。』

『棺が足りない。』

 

日記の終わりに近いところには、乱れた墨文字がいくつか残されているだけだった。

 

『蘭は間に合っただろうか。便りが欲しい。』

『梅、どこへ行った。』

『お前も帰ってこないのか。』

 

その先には、何枚もの白紙が続いていた。

胡桃は長いあいだ最後の文字を見つめてから、そっと日記を閉じた。

 

「日記は、ここまでみたい」

 

鍾離が別に開いていた記録から目を上げる。

 

「後世の歴代堂主の記録には、この後も胡楷の名がある。彼自身は生き延び、その後も長く堂主を務めたようだ」

「じゃあ、日記を書くのをやめただけなんだな……」

 

パイモンが言った。

その後、残った家族がどう生きたのか、そこまでは分からない。

 

「名前だけじゃ、分からないことばっかりだったな」

 

パイモンは家系図と、閉じられた日記を見比べた。

胡桃は日記の表紙を撫でた。

 

「書いた本人は、五百年後に私たちが読むなんて思ってなかっただろうね」

 

木箱の蓋が、静かに閉じられた。

 

「目ぼしいものは、このくらいか」

「でもこのままじゃ、眠蝶をどうすればいいのかもわからないぞ……」

「一応、送る方法がないわけじゃない。でも、無理やり送って終わりなんてのは、往生堂のやり方じゃないよ」

「もっと他の時代も探そう。まだきっと、他にも手立てが……」

「旅人、堂主。外を見てみろ」

 

声の方を振り向くと、鍾離がいつの間にか窓辺に沿って立っていた。

璃月港の夜空には、まだ本番を迎えていない霄灯が、試すようにいくつか浮かんでいる。

 

「まもなく、海灯祭が始まる。その眠蝶とやらにも、璃月が最も賑わう様子を見せてやったらどうだ」

 

穏やかな声音だった。

旅人の脳裏に、白い頁へ残された文字が浮かんだ。

 

――海灯祭。霄灯を空いっぱいに飛ばすお祭り。見てみたい。

 

そうだ。

せめてそれまでは。

やがて胡桃が閉じた日記へ目を落とし、ふっと笑った。

 

「……それもそうだね」

 

窓の向こうで、霄灯がまた一つゆっくりと夜空へ昇っていった。

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