夜が明け、旅人とパイモンが万民堂を訪れると、店先ではすでに大きな蒸籠から白い湯気が上がっていた。
通りの向こうでは華やかな衣装をまとった人々が行き交い、軒先に吊るされた飾りも昨日までとはどこか違って見える。
準備のための慌ただしさが消え、代わりに浮き立つようなざわめきが璃月港を満たしていた。
「香菱! 眠蝶は起きたか?」
「あ、旅人、パイモン。ちょうどよかった! 眠蝶、またいなくなっちゃったの!」
「やっぱり」
「オイラたちはもう慣れっこだぜ。さて、眠蝶を探しに……」
「おはよう」
背後から、聞き慣れ始めた声がした。
三人が一斉に振り返る。
眠蝶が店先に立っていた。
白い衣の裾を朝風に揺らし、胸元には昨日もらった小さな帳面を抱えている。
「朝からどうしたの?」
「それはこっちの台詞だ! 今から探しに行くところだったんだからな!」
「ごめんなさい。目を覚ましたら、知らないところにいたのよ」
「よくここが分かったね」
「手帳に『万民堂』という食堂へ来たって書いてあったから」
眠蝶はそう言って、胸元に抱えていた帳面を小さく掲げる。
「でも、場所まで書いてなかっただろ?」
「ええ。だから……」
眠蝶は店から漂う香りを吸い込んだ。
「一番賑やかで、一番いい匂いのする食堂を探したの」
一瞬、沈黙が落ちる。
パイモンがぱっと顔を輝かせた。
「早速帳面の効果が出てるな!」
「ふふっ、そうかしら」
「眠蝶も戻ってきたし、ちょうどいいね!」
香菱が弾んだ声を上げる。
「今日は海灯祭の初日! 朝から限定料理を出してるの。三人とも食べていって!」
「海灯祭限定料理!!」
「さすがパイモン。反応が早いね」
香菱は笑いながら店の中へ案内してくれた。
席に着いてほどなくして、湯気の立つ皿が二つ運ばれてくる。
それぞれ狐色に揚がった団子と、海老と筍を包んだ香味巻きが乗っている。
「持って歩いても食べやすいものにしてみたんだ」
「さすが香菱! 早速いただき――」
「ちょっと待った!」
香菱は茶の杯を掲げた。
「今日は最初にこれ。海灯祭を祝して!」
「そうだった! 海灯祭を祝して!」
「海灯祭を祝して」
旅人も杯を上げる。
眠蝶は三人の掲げた杯を順に見比べ、少し遅れて自分の杯を持ち上げた。
「……海灯祭を、祝して」
四つの杯が軽く触れ合った。
「よし、今度こそ!」
待ちかねていたパイモンが揚げ団子へ飛びつく。
旅人も一つ取り、眠蝶へ皿を寄せた。
眠蝶はその様子を眺めている。
「私もいただいていいの?」
「もちろん! 今日こそは味の感想を聞かせてよ」
「味……」
眠蝶は香味巻きを一つ取り、少し冷ましてから口へ運んだ。
薄い衣がぱり、小さく音を立てる。
「どう?」
「……美味しいわ」
「ほんと?」
「ええ。外は香ばしいのに、中は柔らかい。それに、筍の食感が面白いわね」
「よかった!」
香菱の顔が明るくなる横で、パイモンはもう二つ目の団子を頬張っていた。
その隣で眠蝶も新しい皿へ手を伸ばしている。
「眠蝶、お腹減ってたのか?」
「どうかしら。空腹という感じはしないの。でも、食べれば味は分かるし、美味しいとも思うわ」
「なら食べられる時に食べればいい!」
「パイモンはいつでもそうだもんね」
三人が朝食を楽しんでいると、背後から明るい声が飛んできた。
「三人とも。朝から随分楽しそうじゃない」
振り向けば、胡桃が立っていた。
彼女は厨房に向けて軽く挨拶したあと、そのまま当然のように空いた椅子へ滑り込んでくる。
「おはよう眠蝶。今日はちゃんといるね」
「おはよう、胡堂主。どうやら一度いなくなって、また来たそうよ」
「本人が人づてみたいに言うねえ」
香菱が待っていたように新しい皿を差し出した。
「胡桃も食べて。海灯祭限定!」
「いいの? じゃあ遠慮なく」
「胡桃! その揚げ団子はオイラが狙ってたやつだぞ!」
「早い者勝ち、早い者勝ち」
「一個くらい譲れよ!」
賑やかな声が食卓を囲む。
胡桃は揚げ団子を一口食べて満足そうに頷くと、眠蝶の傍らに置かれた帳面へ目を向けた。
「それ、ちゃんと使えた?」
「ええ。これがあったから、万民堂へ戻ってこられたわ」
眠蝶は帳面を開いて見せた。
「それに、こんなことも書いてあったの」
指先が一行の上で止まる。
――海灯祭。見てみたい。
眠蝶はしばらくその文字を眺めた。
「私、楽しみにしていたのね」
「昨日の自分がそう書いてるんだから、そうなんだろうな」
「なら、見に行かなくてはね」
「その意気、その意気」
胡桃が笑う。
旅人は昨夜のことを思い出し、胡桃へ視線を向けた。
「調べたこと、眠蝶にも話す?」
「ああ。そのつもりで来たんだ」
胡桃は手についた衣の欠片を払い、居住まいを正した。
「眠蝶。昨夜、あんたについて調べてみたんだけどね」
胡桃は、昨夜見つかった衣装図と古い記録について簡単に話した。
五百年前の往生堂やそれを支えていた七人の兄弟、そして彼らの在りし日の姿まで。
胡桃の口から語られるかつての記録に、眠蝶はただ黙って耳を傾けていた。
「七人もいたのね」
「うん。ずいぶん賑やかな家だったみたい」
「……素敵ね」
眠蝶はそれだけ言って、揚げ団子を一口食べる。
「私と、その人たちには、何か関係があるの?」
「ごめん。そこまでは分からなかった。あんたが知ってそうな年代と近いころも、必死に往生堂の歴史を繋いでくれた人たちがいた。今のところ分かったのは、そのくらい」
「そう、なのね」
眠蝶は帳面の表紙を指先で撫でた。
その顔から、感情は読めない。
「五百年前にも、そんな人たちがいたなんて」
眠蝶はしばらく黙っていた。
それから、何気ない調子で言った。
「記録が残っていて、よかったわね」
誰も、何も言えなかった。
やがて眠蝶は、ふと思い出したように胡桃へ尋ねる。
「もし私が死者なら、胡堂主が送ってくれるの?」
「その時が来たらね」
「今から試してみましょうか?」
「それは駄目」
旅人が口を開くより早かった。
胡桃が箸を置く。
「あんたは普通の迷魂とは違う。送り先も、その後どうなるのかも分からないのに、試しでやることじゃないよ」
「……そういうものなのね」
「そういうものだよ」
眠蝶は素直に頷き、残っていた団子を口に運んだ。
胡桃はそんな彼女を見てから、ふっと表情を和らげる。
「それよりさ、今日やりたいことがあるんでしょ?」
胡桃は、机に置かれた帳面をとんとんと指し示した。
眠蝶はその指をしばらく見つめた後、合点がいったように笑みを返した。
「そうね。そうだったわ」
店の外から笛と太鼓の音が流れ込み、その隙間を、通りを駆ける子供たちの声や露店商の呼び声が埋めていく。
あちらこちらで、灯祭を祝う言葉が交わされていた。
昨日まで祭を迎えるために忙しなく動いていた璃月港は、今や祭そのものの中にあった。
食事を終えたパイモンが勢いよく立ち上がる。
「よーし! 朝ごはんも食べたし、行こうぜ!」
「どこへ?」
「海灯祭に決まってるだろ!」
「まだ食べてる人がいるでしょ」
「ふふっ。少しだけ待ってちょうだいね」
眠蝶は最後の揚げ団子をゆっくり食べ終えてから、帳面を胸元へ大切そうにしまった。
そして立ち上がり、もう一度賑わう街へ目を向ける。
「では、行きましょうか」
海灯祭は、すぐそこだ。
*
「昨日とは全然違うだろ?」
先を飛びながら、パイモンが得意げに両手を広げる。
眠蝶は通りの向こうを見つめていた。
子供が父親の手を引いて走り、その父親が抱えていた包みを危うく落としかける。
露店では値切ろうとする客と商人が大声で言い合っていたが、最後にはどちらも笑っていた。
その少し先、人波から外れた路地では、一人の老爺が小さな霄灯を胸に抱いている。
「また明日!」
一際大きな声がして、旅人は思わずそちらを振り返った。
昨日まで霄灯を作っていた職人が今日は妻らしい女性と並んで歩いていた。
仕事着ではなく、久しぶりに袖を通したのだろう晴れ着を身につけ、屋台を指差す子供に何か言われて笑っている。
眠蝶はその姿を目で追っていた。
「昨日は、あの人たちも働いていたわね」
「覚えてるのか?」
「全部ではないけれど。帳面にも書いてあったし……少しなら」
眠蝶は胸元の帳面へ指を添えた。
「忘れても、なくなるわけではないのかしらね」
何気ない呟きだった。
けれど、その言葉だけは旅人の耳に残った。
当の眠蝶はもう、人だかりの向こうへ目を奪われている。
「見て。蝶よ」
人だかりの向こうで、飴細工の職人が熱した飴を器用に伸ばしていた。
薄い飴が羽根の形になっていく。
「ほんとだ! 眠蝶にそっくりだな」
「私、あんなに透けている?」
「そういう意味じゃないぞ!」
胡桃が横で吹き出した。
四人は急ぐでもなく、祭の中を歩いた。
玉京台へ続く道へ差しかかった頃、前方に見覚えのある長身の男が立っていた。
柱に掲げられた飾り提灯を眺めているようだ。
「鍾離!」
パイモンが声を上げる。
鍾離は足を止め、こちらへ穏やかに目を向けた。
「旅人、パイモン。それに堂主も一緒か」
「やあ、客卿。ちゃんと祭を楽しんでる?」
「無論だ。この時期の璃月を歩くのも悪くない」
鍾離は、旅人たちの後ろにいる眠蝶へ顔を向けた。
「そちらの御仁も、海灯祭を楽しんでいるようだな」
「こんにちは。眠蝶よ」
「存じている。以前、茶を共にしたことがあるからな」
「ええ!?」
「あら、そうだったの?」
眠蝶はしばらく鍾離の顔を確かめていたが、思い当たるものはなかったらしい。
やがて眉尻が下がる。
「ごめんなさい……覚えてないみたい」
「なに、気にする必要はない。ただ茶を酌み交わしただけの仲だ」
「鍾離! 眠蝶を知ってるなら、なんで教えてくれなかったんだよ!」
「聞かれなかったのでな。それに、俺も名を知ったのはつい最近だ」
鍾離はそれ以上何も言わず、眠蝶を静かに見ていた。
「あなたは、鍾離さんと言うのね?」
「そうだ。眠蝶、今日から海灯祭だ。良い一日を過ごすといい」
「ありがとう、鍾離さん。『海灯祭を、祝して』」
「ああ。『海灯祭を、祝して』」
鍾離は旅人たちにも軽く挨拶をすると、そのまま人波の中へ歩いていった。
「まさか、鍾離とも会ってたなんてな。本当にいろんなところをふらふらしてたんだな、眠蝶……」
「自分では覚えていないから、なんとも言えないわ」
胡桃だけが何か考えるように鍾離の背中を見ていたが、結局何も言わなかった。
その後もしばらく祭の通りを巡った。
昼を過ぎる頃には人出はさらに増え、道の端には立ち止まって話す者さえ多くなっていた。
やがて一行が比較的人の少ない高台へ続く石段へ差しかかった時、旅人はふと足を止めた。
――まただ。
人混みの中にいる時から、何度か視線を感じていた。
高台を仰げば、祭の喧騒から離れた岩場に人影がある。
「どうした、旅人?」
「ごめん。先に行ってて」
返事を待たず、石段を駆け上がった。
背後の声と一緒に、祭の喧騒が遠ざかっていく。
「魈」
「……何だ」
いつも通りの短い返事だった。
「ずっと気になってるみたいだけど、どうしたの?」
「何のことだ」
「眠蝶のこと」
その名を口にした途端、沈黙が落ちた。
「昨日も見てたよね」
「……偶然通りがかっただけだ」
「魈って、隠し事が下手だよね」
答えはなかった。
旅人がもう一歩踏み込もうとした時、後ろから息を切らした声がした。
「旅人! 急に行くなよ!」
パイモンが追いついてくる。
その後ろには胡桃と眠蝶もいた。
「おや、仙人様じゃない」
胡桃が声をかける。
魈は明らかに帰る機を失ったようだった。
その視線が、ゆっくりと眠蝶へ移る。
眠蝶も魈を見ていた。
祭のざわめきが遠くなる。
「……あなた」
「眠蝶、魈を知ってるのか?」
「知ってる……? そう、知ってるわ……」
眠蝶は自分の言葉が信じられないというように、もう一度同じ音を口にする。
数歩先で、魈の指先が強張った。
「眠蝶…?」
「あなた、あなたは……」
一歩、距離が縮まった。
眠蝶の眉間に皺が寄り、唇が何度か動く。
けれど、言葉になる前に肩から力が抜けた。
「……あら」
困ったように笑う。
「なんだったかしら?」
誰もが口をつぐんだ。
長い沈黙のあと、魈が口を開く。
「……無理に思い出す必要はない」
低い声だった。
眠蝶は彼を見つめたまま、瞬きを繰り返している。
「そう?」
「ああ」
「そういうものなのね」
眠蝶は胸元へ手を添え、穏やかに笑った。
「ごめんなさい。でも、ご挨拶くらいはきちんとしなくてはね」
魈の表情が、僅かに崩れた。
眠蝶はそれに気づいた様子もなく、姿勢を正す。
「はじめまして、優しいお方」
風が魈の髪を揺らし、眠蝶の長い袖を膨らませる。
誰も言葉を挟まなかった。
やがて魈が、ごく短く答えた。
「……魈だ」
「魈」
眠蝶は教わった名を口にした。
「覚えておくわ」
そこでパイモンが小さく咳払いした。
「今度は帳面にも書いとけよ」
「ふふっ、そうね」
魈は旅人へ視線を向けた。
それ以上話すつもりはないらしい。
「我は行く」
「あら、もう行ってしまわれるの?」
「祭の日でも魔物は消えぬ」
魈は最後に眠蝶を見た。
唇が僅かに動いたが、その先の声は続かなかった。
一陣の風が吹き、姿が喧騒の中へ消える。
眠蝶は、彼が立っていた場所をしばらく見つめていた。
やがて一度瞬きをして、こちらを向く。
「……どうしたの?」
「どうしたのって、それはこっちの台詞だぞ。今、魈と話してただろ?」
「魈?」
眠蝶は首を傾げた。
旅人は息を止めた。
眠蝶は、まだ眠っていない。
「眠蝶。今、誰と話してたか覚えてないの?」
「ああ、誰かとお話ししていたのね」
眠蝶は魈が消えた方角へ目を向ける。
「分からないけれど……きっと――優しいお方だったのでしょうね」
それだけだった。
その時、山裾の方から高い笛の音が響いた。
遅れて、子供たちの笑い声が風に乗って届く。
「海灯祭を祝してー!」
遠くから誰かが叫び、別の声が楽しげに応える。
高台を包んでいた静けさがほどけていく。
胡桃が先に石段へ向かって一歩踏み出した。
「ほらほら。せっかくの海灯祭なんだから、いつまでもこんなところにいたらもったいないよ」
「そ、そうだぞ! 明日も続くとはいえ、まだ全然見て回れてないんだからな!」
「明日……」
眠蝶は、誰もいなくなった岩場を振り返った。
「……私、明日もここにいるのかしら」
眠蝶が石段を下り始める。
旅人も一段後ろへ続いた。
今度は、見失わないように。