華胥の蝶、万灯に醒む   作:たそ@ハーメルン

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第三章 転
第五話 迷子


往生堂へ続く坂道には、祭の二日目を迎えた音が早くも満ちていた。

港の方角から笛の調べが風に乗り、家々の軒では夜を待つ提灯が朝日に照らされている。

昨日の喧騒が眠りにつく暇もなく、そのまま新しい一日へ流れ込んだようだった。

石段を上りながら、パイモンは何度目か分からない欠伸をした。

 

「昨日はたくさん回れたなー」

 

眠そうな声とは裏腹に、話す内容は朝から景気がいい。

 

「最後に食べたあの胡麻餡のやつも美味かったし、港の向こうでやってた演奏もよかったし……あっ、でも西の通りの屋台はまだ半分も見てないぞ!」

「結局、食べ物なんだ」

「祭なんだから当然だろ!」

 

旅人は返事をしながら、往生堂の門前へ目を向ける。

昨日の夕暮れ、高台で眠蝶が口にした言葉が頭の隅に残っていた。

 

――私、明日もここにいるのかしら。

 

その答えは、坂を上りきるより先に見つかった。

 

「おはよう」

 

往生堂の前に、白い衣の女が立っている。

長い髪を朝風に遊ばせながら、眠蝶は胸元に帳面を抱えていた。

その隣には胡桃がいて、こちらを見つけるなり帽子のつばを持ち上げる。

 

「おはよう、二人とも。今日は早いね」

「眠蝶! ちゃんといるな!」

 

パイモンが真っ先に飛んでいった。

眠蝶は目を瞬く。

 

「ええ。いるわ」

 

身構えていた分、拍子抜けするほど普段通りの声だった。

パイモンも一度は口を開いたものの、何を言うつもりだったのか途中で分からなくなったらしく、結局「ならいい!」と両手を腰へ当てた。

旅人も眠蝶の姿を確かめる。

触れるまでもなく、そこに立っている。

 

「いやあ、ただし朝からひと騒ぎあったけどね」

 

胡桃がさらりと言う。

パイモンが振り返った。

 

「ひと騒ぎ?」

「私たち、昨日は一緒に寝たんだよ」

「えっ」

「同じ布団じゃないよ?」

「そこは聞いてないぞ!」

「念のため念のため」

 

胡桃は悪戯を思いついた子供のように人差し指を立てた。

 

「客間を使ってもらったんだけど、私も夜遅くまで仕事してたからね。途中で面倒になって、そのまま同じ部屋で寝ちゃったの」

「胡堂主は、寝相があまりよくなかったわ」

「それはもういいでしょ!」

 

胡桃の声が、ひときわ高く跳ねた。

眠蝶は悪びれるでもなく、そんな彼女を見て目元をやわらかく細める。

唇に浮かんだ笑みはいつもの穏やかなものよりどこか無邪気だ。

 

「というわけで。なんやかんやあって朝起きたら、いるはずの人がいないわけ」

「また消えたのか!?」

「そう思うでしょ? 私だって飛び起きたよ。布団は空っぽ、部屋にも廊下にもいない。まさかまたどこかへ飛んでったんじゃないかと思って、靴も履かずに外へ出たら――」

 

胡桃が往生堂の軒下を指した。

小さな卓の上に、湯気を上げる茶壺と二つの杯が置かれている。

その片側に鍾離が座り、朝の光の中で最後の一口を味わっていた。

 

「客卿とお茶してた」

「なんだよそれ!」

 

鍾離は杯を卓へ戻した。

 

「朝方、往生堂の前を通りかかったところ、彼女が一人で座っていてな。茶でもどうかと声を掛けた」

「そういうことみたい」

「何で眠蝶まで他人事なんだ……」

 

パイモンの肩が落ちる。

眠蝶は帳面を開き、一つの頁を差し出してきた。

そこには確かに、眠蝶の筆跡で二行だけ記されている。

 

――朝の往生堂の軒下は涼しい。

――鍾離さんという方と茶を飲んだ。美味しい。

 

「良い茶であった」

 

鍾離は満足げに答えた。

 

「こっちは朝から寿命が縮んだっていうのに、客卿は茶の感想だけ?」

「事実だからな」

「ずるいぞ! オイラも飲みたかった!」

「パイモンまでそっち!?」

 

朝の往生堂前に声が重なった。

眠蝶は開いた帳面を胸元へ戻す。

 

「それで、今日はどこから回るんだ?」

「昨日は港の南側が多かったから、今日は北から行くのもいいね」

「玉京台の方でも催しがあるって聞いたぞ。それから、昨日通った時にすごい行列ができてた店も――」

 

二人の相談を聞いていた眠蝶が、不思議そうに口を挟んだ。

 

「海灯祭というのは、毎日こんなに食べるものなの?」

「パイモンだけだと思うよ」

「オイラだけじゃないぞ! 璃月中の人が食べてる!」

「それは否定できないねえ」

 

胡桃まで頷く。

 

「祭の日くらい、食べられる時に食べておくのが吉!」

「それなら私も賛成よ。美味しいものは、美味しいわ」

「よし! 眠蝶は話が分かるな!」

「俺は全然わかんないかも……」

 

苦笑する旅人の前を、数人の千岩軍兵士が足早に通り過ぎた。

鎧の擦れる音が、祭囃子の間を横切る。

 

「総務司への報告は?」

「先ほど伝令を。入口はまだ残っています。中へ入った者も、気づけば同じ場所へ戻されるそうです」

 

旅人と胡桃が、同時にそちらを見た。

最後尾の兵士を呼び止めると、彼は旅人の顔を認め、足を止めた。

 

「これは……旅人殿!」

「何かあったの?」

「港の北西で地脈の異常が見つかりました。今朝まではなかったものです。兵はどうしても入口を越えられません」

 

兵士が示した山の向こうには、ここから見える限り、いつもと変わらない岩峰が重なっている。

 

「怪我人は?」

「今のところは。ただ、これ以上こちらから人を入れるのは危険かと」

 

旅人は山から眠蝶へ目を戻した。

昨日までなら、彼女から目を離すことさえ躊躇われた。

だが今は、その隣に胡桃とパイモンがいる。

 

「俺が見に行くよ。パイモンと胡桃は、先に眠蝶と海灯祭を楽しんでて」

「おまえ一人で大丈夫か……? 誰かついて行った方が……」

 

なおも渋るパイモンへ、鍾離が静かに言う。

 

「地脈の調査ならば、旅人に任せて問題あるまい。堂主たちは祭を見てくるといい」

「任せて。それに、パイモンにはもっと大事な役目があるよ」

「大事な役目?」

「眠蝶が迷子にならないように見張る係」

「それは……大事だな!」

 

眠蝶が首を傾げる。

 

「私、迷子になるの?」

「なる」

「なるぞ!」

「そうなのね……」

 

旅人はもう一度山へ目を向ける。

昨日、高台で眠蝶を見ていた魈の姿が浮かんだ。

眠蝶の顔を見た時だけ、沈黙の形を変えた男。

旅人は手元の武器を確かめた。

 

「何かあったら呼んで。境界絡みなら私の仕事でもあるから」

「うん、ありがとう。行ってくるよ」

「気をつけろよ!」

 

パイモンが手を振る。

胡桃も片手を上げた。

 

「旅人さん」

 

眠蝶に呼ばれ、振り返る。

彼女は何か言おうとしているようだが、唇を開いたまま言葉が出てこない。

やがて帳面へ目を落とし、そこにも答えがないと分かったのか、顔を上げた。

 

「帰ってきたら、また一緒に海灯祭を回りましょう」

「うん、約束」

 

帳面を抱いていた眠蝶の指が緩み、口元に笑みが浮かんだ。

朝の光の中、白い衣が風に揺れている。

旅人はもう一度頷いてから、山へ続く道を走り出した。

 

 

 

*

 

 

 

旅人の背中が人波の向こうへ消えるまで、眠蝶はその場に立っていた。

 

「気になる?」

 

胡桃に呼ばれ、眠蝶は胸元の帳面へ触れる。

 

「ちゃんと、帰ってくるのよね?」

「もちろん。旅人は百戦錬磨の武人だからね。すぐ解決して戻ってくるよ」

 

眠蝶は旅人が消えた通りをもう一度見た。

パイモンが両手を叩く。

 

「よーし! じゃあオイラたちは祭だ! 旅人が戻るまでに、面白そうなところを全部見ておこうぜ!」

「全部は無理じゃない?」

「最初から諦めるなよ」

「じゃあまず、どこから行く?」

「食べ物!」

「やっぱりそこなんだね」

 

眠蝶は二人について歩き出した。

朱塗りの柱は陽光を返し、屋台の幟には金の糸で雲や花が縫い取られている。

昨日も見たはずなのに、まるで知らない街のようだ。

 

「眠蝶、これ見ろよ!」

 

パイモンの声が飛んできた。

通りの先で、飴細工の職人が熱した飴を細く伸ばしている。

指先と鋏が動くたび、ただの飴の塊が鳥の翼になり、角になり、最後には小さな麒麟へ姿を変えた。

 

「綺麗ね」

「だろ? 食べるのがもったいないくらいだよな」

「祭なんだから、好きに楽しみな。お嬢さんたち、三人なら何か揃いで作るかい?」

 

胡桃の目が飴細工へ向く。

 

「じゃあ蝶と、幽霊と、非常食で」

「誰が非常食だ!」

「冗談冗談。パイモンは何がいい?」

「もっと格好いいのがいいぞ! 龍とか!」

 

職人は苦笑しながらも、飴の塊を手早く練り直し始めた。

二人はその手元を覗き込み、角の長さや尻尾の反り具合まで注文をつけている。

眠蝶はその横で、吊るされた飴細工を眺めていた。

赤い魚に金色の鳥、そして透き通った花。

色とりどりの光を含んだ飴は、風が吹くたび互いに触れ、硬い音を立てる。

 

その一つが風に回り、眠蝶の目を引いた。

青い蝶だった。

翅を広げた形の飴が、陽を透かして淡く光っている。

知っている。

そう思ったところへ、荷を抱えた男が肩を掠めた。

 

「おっと、すまない!」

「いいえ」

 

道を譲り、その背中を見送る。

再び屋台へ顔を向けた時、蝶の飴細工は人波の向こうへ隠れていた。

人と人の隙間を、青いものがひらりと横切る。

眠蝶は目を凝らした。

 

――あれは、なに?

 

飴ではない。

けれど、それが何なのか考えるより先に、青は人影の向こうへ消えた。

一歩、通りの端へ寄る。

人波が割れた先で、また青い翅のようなものが揺れた。

 

自然と足が動き、そのあとを追う。

後ろで誰かの声がしたが、祭の音に紛れて聞き取れない。

角を一つ曲がる。

青はまた、その先へ。

もう一つ曲がったところで、見失った。

 

眠蝶は顔を上げる。

飴細工の屋台はどこにもなかった。

代わりに、見知らぬ細道が前へ伸びている。

 

「……ここは」

 

振り返っても、どこから来たのか分からない。

通りの向こうでは紙風車が回っていた。

 

「私、どこへ行くところだったのかしら」

「眠蝶ーっ!」

 

遠くから声がした。

続いて、「いた! あそこだ!」と白い小さな影が人混みを縫って飛んでくる。

その後ろから胡桃も走ってきた。

二人とも、祭を楽しんでいた時とは顔つきが違っていた。

パイモンは眠蝶の目の前で止まると、両腕を振り上げた。

 

「眠蝶、どこ行ってたんだよ! 急にいなくなっちゃうから、びっくりしたぞ!」

「どこ……」

 

後ろを振り返る。

細道。

紙風車。

知らない店。

自分でも答えられない。

 

「……ごめんなさい。歩いていたら、いつの間にかここに」

「もー!」

 

パイモンは頭を抱えた。

 

「さっきまで隣にいたのに! オイラが龍の角をもっと大きくしてくれって頼んでる間に、いなくなったんだぞ!」

「頼みすぎて職人さん困ってたけどね」

 

胡桃は息を整えながら眠蝶の前へ立った。

言葉になりかけて喉の奥で消えていくものが、その口元に何度も浮かんでは引いていく。

代わりに、眠蝶の右手ががっしりと掴まれた。

 

「胡堂主?」

「目を離すと消えちゃうなら、手をつないでいればいいでしょ」

 

そう言いながら、胡桃は指を絡めた。

胡桃の手は、温かかった。

 

「これなら勝手にどこか行けないからね」

「じゃあ、オイラは眠蝶の背中を押すぞ! これで安心だ!」

 

小さな両手が背中へ当たる。

こちらも、温かい。

 

「さあ、出発!」

「待って」

 

眠蝶の身体が前へ押し出された。

胡桃に右手を引かれ、背中をパイモンに押される。

三人はそのまま通りへ戻った。

 

「歩きづらくないかしら?」

「オイラは大丈夫だ!」

「私は歩きづらいわ」

「眠蝶は頑張れ!」

 

胡桃の肩が上下した。

パイモンも耐えきれず声を上げる。

眠蝶は二人の顔を交互に見てから、自分も口元を綻ばせた。

そのまま三人で人波へ入っていく。

右から胡桃に引かれ、後ろからパイモンに押されるものだから、眠蝶が立ち止まるたび隊列全体が止まった。

 

「これ、いい匂いね」

「焼き栗だな! 買おう!」

「パイモン、もう背中押してないじゃない」

「今は焼き栗の方が大事だ!」

「護衛失格になっちゃうよ」

 

通りの店主たちも、そんな三人を振り返った。

やがて布飾りを売る露店の前で、花を編んでいた老婆が、その手を止めて目を細めた。

 

「仲のいい姉妹だねえ」

「姉妹?」

「違ったかい? ずっと手をつないで歩いてるから、てっきり」

 

老婆は針を持ったまま、胡桃と眠蝶を見比べた。

胡桃は繋いだ手はそのままに、悪戯っぽく身を乗り出す。

 

「どっちがお姉ちゃんに見える?」

「そこ聞くのかよ!」

 

パイモンが横から割り込む。

店主は編みかけの花飾りを手に取ると、迷うことなく眠蝶へ差し出しながら答えた。

 

「こっちだねえ」

「えっ、即答?」

「胡桃は落ち着きがないからな」

「パイモンにだけは言われたくない!」

 

眠蝶は店先に並んだ布飾りへ視線を落とした。

花を模した飾りが風に揺れている。

 

「……姉妹」

「うん」

「いい響きね」

 

胡桃は繋いだ手を軽く持ち上げた。

 

「じゃあ今日は私がお姉ちゃんってことで」

「店主さんは眠蝶がお姉ちゃんって言ってただろ」

「今から逆転するの」

 

眠蝶は隣に立つ胡桃と、自分との背丈を見比べた。

胡桃の帽子がちょうど頭半分ほど下にある。

 

「胡堂主が姉様?」

「そうそう。何でも頼っていいぞ、妹よ」

「それじゃあ、姉様。あそこの菓子が食べたいわ」

 

眠蝶が向かいの菓子屋を指した。

胡桃の言葉が止まった。

パイモンが腹を抱える。

 

「さっそく頼られてるぞ、お姉ちゃん!」

「……妹って、思ったより遠慮ないね」

 

三人は老婆に頭を下げ、菓子屋へ向かった。

そこで眠蝶は、花の形に焼かれた菓子を一つ選んだ。

蜂蜜を練り込んだ生地は表面が香ばしく、噛むと中から桂花の香りが広がった。

 

「美味しい?」

「ええ。甘くて、後に香りがちゃんと残るわ」

「じゃあ当たりだな!」

 

パイモンは自分の分をもう食べ終えていた。

それから幾つかの屋台を巡った。

紙細工を見て、露店の楽器に耳を傾け、子供たちの投壺を眺めた。

日が高くなり、建物の影が石畳の端へ縮んでいく。

 

「まあ」

 

菓子屋の前に並ぶ花形の焼き菓子が並んでいる。

 

「綺麗なお菓子ね。どんな味なのかしら」

 

パイモンが口を開いたまま固まった。

 

「……眠蝶」

「なに?」

「それ、さっき食べただろ?」

 

眠蝶は菓子とパイモンを見比べた。

それから、空いている左手を口元へ運ぶ。

味を探すように舌先を動かした。

 

「……そうだった?」

「そうだぞ。『後に香りが残る』って言ってた」

「私が?」

「うん」

 

胡桃の声が入る。

眠蝶はもう一度菓子を見た。

店先の焼き色も、形も、初めて見るものにしか思えない。

けれどパイモンが嘘を言っているとも思わなかった。

 

「そう」

 

それだけ言って、眠蝶は歩き出した。

繋いだ手に引かれて、胡桃も進む。

パイモンも後ろからついてくる。

誰も、その場では続きを口にしなかった。

けれど胡桃の手は、先ほどまでより深く眠蝶の指を包んでいた。

 

「胡堂主」

「ん?」

「もう、勝手に歩いて行ったりしないわ」

「知ってる」

「だから、もう少し緩くても――」

「だーめ」

 

返事はすぐに返ってきた。

そのまま胡桃は前を向く。

掌から伝わってくる熱は、朝よりはっきりと分かった。

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