第五話 迷子
往生堂へ続く坂道には、祭の二日目を迎えた音が早くも満ちていた。
港の方角から笛の調べが風に乗り、家々の軒では夜を待つ提灯が朝日に照らされている。
昨日の喧騒が眠りにつく暇もなく、そのまま新しい一日へ流れ込んだようだった。
石段を上りながら、パイモンは何度目か分からない欠伸をした。
「昨日はたくさん回れたなー」
眠そうな声とは裏腹に、話す内容は朝から景気がいい。
「最後に食べたあの胡麻餡のやつも美味かったし、港の向こうでやってた演奏もよかったし……あっ、でも西の通りの屋台はまだ半分も見てないぞ!」
「結局、食べ物なんだ」
「祭なんだから当然だろ!」
旅人は返事をしながら、往生堂の門前へ目を向ける。
昨日の夕暮れ、高台で眠蝶が口にした言葉が頭の隅に残っていた。
――私、明日もここにいるのかしら。
その答えは、坂を上りきるより先に見つかった。
「おはよう」
往生堂の前に、白い衣の女が立っている。
長い髪を朝風に遊ばせながら、眠蝶は胸元に帳面を抱えていた。
その隣には胡桃がいて、こちらを見つけるなり帽子のつばを持ち上げる。
「おはよう、二人とも。今日は早いね」
「眠蝶! ちゃんといるな!」
パイモンが真っ先に飛んでいった。
眠蝶は目を瞬く。
「ええ。いるわ」
身構えていた分、拍子抜けするほど普段通りの声だった。
パイモンも一度は口を開いたものの、何を言うつもりだったのか途中で分からなくなったらしく、結局「ならいい!」と両手を腰へ当てた。
旅人も眠蝶の姿を確かめる。
触れるまでもなく、そこに立っている。
「いやあ、ただし朝からひと騒ぎあったけどね」
胡桃がさらりと言う。
パイモンが振り返った。
「ひと騒ぎ?」
「私たち、昨日は一緒に寝たんだよ」
「えっ」
「同じ布団じゃないよ?」
「そこは聞いてないぞ!」
「念のため念のため」
胡桃は悪戯を思いついた子供のように人差し指を立てた。
「客間を使ってもらったんだけど、私も夜遅くまで仕事してたからね。途中で面倒になって、そのまま同じ部屋で寝ちゃったの」
「胡堂主は、寝相があまりよくなかったわ」
「それはもういいでしょ!」
胡桃の声が、ひときわ高く跳ねた。
眠蝶は悪びれるでもなく、そんな彼女を見て目元をやわらかく細める。
唇に浮かんだ笑みはいつもの穏やかなものよりどこか無邪気だ。
「というわけで。なんやかんやあって朝起きたら、いるはずの人がいないわけ」
「また消えたのか!?」
「そう思うでしょ? 私だって飛び起きたよ。布団は空っぽ、部屋にも廊下にもいない。まさかまたどこかへ飛んでったんじゃないかと思って、靴も履かずに外へ出たら――」
胡桃が往生堂の軒下を指した。
小さな卓の上に、湯気を上げる茶壺と二つの杯が置かれている。
その片側に鍾離が座り、朝の光の中で最後の一口を味わっていた。
「客卿とお茶してた」
「なんだよそれ!」
鍾離は杯を卓へ戻した。
「朝方、往生堂の前を通りかかったところ、彼女が一人で座っていてな。茶でもどうかと声を掛けた」
「そういうことみたい」
「何で眠蝶まで他人事なんだ……」
パイモンの肩が落ちる。
眠蝶は帳面を開き、一つの頁を差し出してきた。
そこには確かに、眠蝶の筆跡で二行だけ記されている。
――朝の往生堂の軒下は涼しい。
――鍾離さんという方と茶を飲んだ。美味しい。
「良い茶であった」
鍾離は満足げに答えた。
「こっちは朝から寿命が縮んだっていうのに、客卿は茶の感想だけ?」
「事実だからな」
「ずるいぞ! オイラも飲みたかった!」
「パイモンまでそっち!?」
朝の往生堂前に声が重なった。
眠蝶は開いた帳面を胸元へ戻す。
「それで、今日はどこから回るんだ?」
「昨日は港の南側が多かったから、今日は北から行くのもいいね」
「玉京台の方でも催しがあるって聞いたぞ。それから、昨日通った時にすごい行列ができてた店も――」
二人の相談を聞いていた眠蝶が、不思議そうに口を挟んだ。
「海灯祭というのは、毎日こんなに食べるものなの?」
「パイモンだけだと思うよ」
「オイラだけじゃないぞ! 璃月中の人が食べてる!」
「それは否定できないねえ」
胡桃まで頷く。
「祭の日くらい、食べられる時に食べておくのが吉!」
「それなら私も賛成よ。美味しいものは、美味しいわ」
「よし! 眠蝶は話が分かるな!」
「俺は全然わかんないかも……」
苦笑する旅人の前を、数人の千岩軍兵士が足早に通り過ぎた。
鎧の擦れる音が、祭囃子の間を横切る。
「総務司への報告は?」
「先ほど伝令を。入口はまだ残っています。中へ入った者も、気づけば同じ場所へ戻されるそうです」
旅人と胡桃が、同時にそちらを見た。
最後尾の兵士を呼び止めると、彼は旅人の顔を認め、足を止めた。
「これは……旅人殿!」
「何かあったの?」
「港の北西で地脈の異常が見つかりました。今朝まではなかったものです。兵はどうしても入口を越えられません」
兵士が示した山の向こうには、ここから見える限り、いつもと変わらない岩峰が重なっている。
「怪我人は?」
「今のところは。ただ、これ以上こちらから人を入れるのは危険かと」
旅人は山から眠蝶へ目を戻した。
昨日までなら、彼女から目を離すことさえ躊躇われた。
だが今は、その隣に胡桃とパイモンがいる。
「俺が見に行くよ。パイモンと胡桃は、先に眠蝶と海灯祭を楽しんでて」
「おまえ一人で大丈夫か……? 誰かついて行った方が……」
なおも渋るパイモンへ、鍾離が静かに言う。
「地脈の調査ならば、旅人に任せて問題あるまい。堂主たちは祭を見てくるといい」
「任せて。それに、パイモンにはもっと大事な役目があるよ」
「大事な役目?」
「眠蝶が迷子にならないように見張る係」
「それは……大事だな!」
眠蝶が首を傾げる。
「私、迷子になるの?」
「なる」
「なるぞ!」
「そうなのね……」
旅人はもう一度山へ目を向ける。
昨日、高台で眠蝶を見ていた魈の姿が浮かんだ。
眠蝶の顔を見た時だけ、沈黙の形を変えた男。
旅人は手元の武器を確かめた。
「何かあったら呼んで。境界絡みなら私の仕事でもあるから」
「うん、ありがとう。行ってくるよ」
「気をつけろよ!」
パイモンが手を振る。
胡桃も片手を上げた。
「旅人さん」
眠蝶に呼ばれ、振り返る。
彼女は何か言おうとしているようだが、唇を開いたまま言葉が出てこない。
やがて帳面へ目を落とし、そこにも答えがないと分かったのか、顔を上げた。
「帰ってきたら、また一緒に海灯祭を回りましょう」
「うん、約束」
帳面を抱いていた眠蝶の指が緩み、口元に笑みが浮かんだ。
朝の光の中、白い衣が風に揺れている。
旅人はもう一度頷いてから、山へ続く道を走り出した。
*
旅人の背中が人波の向こうへ消えるまで、眠蝶はその場に立っていた。
「気になる?」
胡桃に呼ばれ、眠蝶は胸元の帳面へ触れる。
「ちゃんと、帰ってくるのよね?」
「もちろん。旅人は百戦錬磨の武人だからね。すぐ解決して戻ってくるよ」
眠蝶は旅人が消えた通りをもう一度見た。
パイモンが両手を叩く。
「よーし! じゃあオイラたちは祭だ! 旅人が戻るまでに、面白そうなところを全部見ておこうぜ!」
「全部は無理じゃない?」
「最初から諦めるなよ」
「じゃあまず、どこから行く?」
「食べ物!」
「やっぱりそこなんだね」
眠蝶は二人について歩き出した。
朱塗りの柱は陽光を返し、屋台の幟には金の糸で雲や花が縫い取られている。
昨日も見たはずなのに、まるで知らない街のようだ。
「眠蝶、これ見ろよ!」
パイモンの声が飛んできた。
通りの先で、飴細工の職人が熱した飴を細く伸ばしている。
指先と鋏が動くたび、ただの飴の塊が鳥の翼になり、角になり、最後には小さな麒麟へ姿を変えた。
「綺麗ね」
「だろ? 食べるのがもったいないくらいだよな」
「祭なんだから、好きに楽しみな。お嬢さんたち、三人なら何か揃いで作るかい?」
胡桃の目が飴細工へ向く。
「じゃあ蝶と、幽霊と、非常食で」
「誰が非常食だ!」
「冗談冗談。パイモンは何がいい?」
「もっと格好いいのがいいぞ! 龍とか!」
職人は苦笑しながらも、飴の塊を手早く練り直し始めた。
二人はその手元を覗き込み、角の長さや尻尾の反り具合まで注文をつけている。
眠蝶はその横で、吊るされた飴細工を眺めていた。
赤い魚に金色の鳥、そして透き通った花。
色とりどりの光を含んだ飴は、風が吹くたび互いに触れ、硬い音を立てる。
その一つが風に回り、眠蝶の目を引いた。
青い蝶だった。
翅を広げた形の飴が、陽を透かして淡く光っている。
知っている。
そう思ったところへ、荷を抱えた男が肩を掠めた。
「おっと、すまない!」
「いいえ」
道を譲り、その背中を見送る。
再び屋台へ顔を向けた時、蝶の飴細工は人波の向こうへ隠れていた。
人と人の隙間を、青いものがひらりと横切る。
眠蝶は目を凝らした。
――あれは、なに?
飴ではない。
けれど、それが何なのか考えるより先に、青は人影の向こうへ消えた。
一歩、通りの端へ寄る。
人波が割れた先で、また青い翅のようなものが揺れた。
自然と足が動き、そのあとを追う。
後ろで誰かの声がしたが、祭の音に紛れて聞き取れない。
角を一つ曲がる。
青はまた、その先へ。
もう一つ曲がったところで、見失った。
眠蝶は顔を上げる。
飴細工の屋台はどこにもなかった。
代わりに、見知らぬ細道が前へ伸びている。
「……ここは」
振り返っても、どこから来たのか分からない。
通りの向こうでは紙風車が回っていた。
「私、どこへ行くところだったのかしら」
「眠蝶ーっ!」
遠くから声がした。
続いて、「いた! あそこだ!」と白い小さな影が人混みを縫って飛んでくる。
その後ろから胡桃も走ってきた。
二人とも、祭を楽しんでいた時とは顔つきが違っていた。
パイモンは眠蝶の目の前で止まると、両腕を振り上げた。
「眠蝶、どこ行ってたんだよ! 急にいなくなっちゃうから、びっくりしたぞ!」
「どこ……」
後ろを振り返る。
細道。
紙風車。
知らない店。
自分でも答えられない。
「……ごめんなさい。歩いていたら、いつの間にかここに」
「もー!」
パイモンは頭を抱えた。
「さっきまで隣にいたのに! オイラが龍の角をもっと大きくしてくれって頼んでる間に、いなくなったんだぞ!」
「頼みすぎて職人さん困ってたけどね」
胡桃は息を整えながら眠蝶の前へ立った。
言葉になりかけて喉の奥で消えていくものが、その口元に何度も浮かんでは引いていく。
代わりに、眠蝶の右手ががっしりと掴まれた。
「胡堂主?」
「目を離すと消えちゃうなら、手をつないでいればいいでしょ」
そう言いながら、胡桃は指を絡めた。
胡桃の手は、温かかった。
「これなら勝手にどこか行けないからね」
「じゃあ、オイラは眠蝶の背中を押すぞ! これで安心だ!」
小さな両手が背中へ当たる。
こちらも、温かい。
「さあ、出発!」
「待って」
眠蝶の身体が前へ押し出された。
胡桃に右手を引かれ、背中をパイモンに押される。
三人はそのまま通りへ戻った。
「歩きづらくないかしら?」
「オイラは大丈夫だ!」
「私は歩きづらいわ」
「眠蝶は頑張れ!」
胡桃の肩が上下した。
パイモンも耐えきれず声を上げる。
眠蝶は二人の顔を交互に見てから、自分も口元を綻ばせた。
そのまま三人で人波へ入っていく。
右から胡桃に引かれ、後ろからパイモンに押されるものだから、眠蝶が立ち止まるたび隊列全体が止まった。
「これ、いい匂いね」
「焼き栗だな! 買おう!」
「パイモン、もう背中押してないじゃない」
「今は焼き栗の方が大事だ!」
「護衛失格になっちゃうよ」
通りの店主たちも、そんな三人を振り返った。
やがて布飾りを売る露店の前で、花を編んでいた老婆が、その手を止めて目を細めた。
「仲のいい姉妹だねえ」
「姉妹?」
「違ったかい? ずっと手をつないで歩いてるから、てっきり」
老婆は針を持ったまま、胡桃と眠蝶を見比べた。
胡桃は繋いだ手はそのままに、悪戯っぽく身を乗り出す。
「どっちがお姉ちゃんに見える?」
「そこ聞くのかよ!」
パイモンが横から割り込む。
店主は編みかけの花飾りを手に取ると、迷うことなく眠蝶へ差し出しながら答えた。
「こっちだねえ」
「えっ、即答?」
「胡桃は落ち着きがないからな」
「パイモンにだけは言われたくない!」
眠蝶は店先に並んだ布飾りへ視線を落とした。
花を模した飾りが風に揺れている。
「……姉妹」
「うん」
「いい響きね」
胡桃は繋いだ手を軽く持ち上げた。
「じゃあ今日は私がお姉ちゃんってことで」
「店主さんは眠蝶がお姉ちゃんって言ってただろ」
「今から逆転するの」
眠蝶は隣に立つ胡桃と、自分との背丈を見比べた。
胡桃の帽子がちょうど頭半分ほど下にある。
「胡堂主が姉様?」
「そうそう。何でも頼っていいぞ、妹よ」
「それじゃあ、姉様。あそこの菓子が食べたいわ」
眠蝶が向かいの菓子屋を指した。
胡桃の言葉が止まった。
パイモンが腹を抱える。
「さっそく頼られてるぞ、お姉ちゃん!」
「……妹って、思ったより遠慮ないね」
三人は老婆に頭を下げ、菓子屋へ向かった。
そこで眠蝶は、花の形に焼かれた菓子を一つ選んだ。
蜂蜜を練り込んだ生地は表面が香ばしく、噛むと中から桂花の香りが広がった。
「美味しい?」
「ええ。甘くて、後に香りがちゃんと残るわ」
「じゃあ当たりだな!」
パイモンは自分の分をもう食べ終えていた。
それから幾つかの屋台を巡った。
紙細工を見て、露店の楽器に耳を傾け、子供たちの投壺を眺めた。
日が高くなり、建物の影が石畳の端へ縮んでいく。
「まあ」
菓子屋の前に並ぶ花形の焼き菓子が並んでいる。
「綺麗なお菓子ね。どんな味なのかしら」
パイモンが口を開いたまま固まった。
「……眠蝶」
「なに?」
「それ、さっき食べただろ?」
眠蝶は菓子とパイモンを見比べた。
それから、空いている左手を口元へ運ぶ。
味を探すように舌先を動かした。
「……そうだった?」
「そうだぞ。『後に香りが残る』って言ってた」
「私が?」
「うん」
胡桃の声が入る。
眠蝶はもう一度菓子を見た。
店先の焼き色も、形も、初めて見るものにしか思えない。
けれどパイモンが嘘を言っているとも思わなかった。
「そう」
それだけ言って、眠蝶は歩き出した。
繋いだ手に引かれて、胡桃も進む。
パイモンも後ろからついてくる。
誰も、その場では続きを口にしなかった。
けれど胡桃の手は、先ほどまでより深く眠蝶の指を包んでいた。
「胡堂主」
「ん?」
「もう、勝手に歩いて行ったりしないわ」
「知ってる」
「だから、もう少し緩くても――」
「だーめ」
返事はすぐに返ってきた。
そのまま胡桃は前を向く。
掌から伝わってくる熱は、朝よりはっきりと分かった。