旅人が璃月港を離れるにつれ、海灯祭の音は背後の山肌へ吸い込まれていった。
街道には祭へ向かう荷車が何台も行き交っていたが、北西へ折れる山道に入ると人影は途絶える。
岩壁の間を抜ける風が草を倒し、足元では乾いた砂が靴の縁を撫でていく。
空はよく晴れていた。
港の上には雲一つなく、こんな日に何か異変が起きていると言われても、遠目には信じがたいほどだった。
やがて道の先に、朱色の旗が見えた。
千岩軍の兵士が数人、山道を塞ぐように立っている。
さらに奥には縄が張られ、その向こうの岩場だけが人気を失くしていた。
旅人が近づくと、朝に往生堂前で話した兵士が気づいて駆け寄ってきた。
「旅人殿!」
「ここが例の地脈?」
「はい。今も変化はありません」
兵士は声を落とし、縄の向こうを示した。
岩山に挟まれた細い谷だった。
奥へ進めば別の山道へ抜けるようにも見える。
ただ、一箇所だけ、景色の輪郭が定まっていなかった。
陽光が届いているはずなのに、谷の奥では空気が水面のように揺れている。
瞬きをすると、そこにある亀裂が二重になった。
片方は目の前の岩に刻まれたもの。
もう片方は、まるで違う場所にある岩の裂け目を透かして見ているように、角度も深さも一致しない。
もう一度瞬きをする。
二つは一つに戻った。
「今朝、巡回していた者が最初に見つけました。奥から魔物の声が聞こえたため、確認に向かったのですが……」
「入れなかった?」
「正確には、入ったはずなのです」
兵士の顔が強張った。
「自分では何歩も進んだつもりだった。ところが気づけば、またこの縄の前に立っていたそうです。別の者は岩壁沿いに回り込もうとしましたが、反対側から同じ場所へ出ました」
「なるほど……」
「周辺の道も確認しましたが、地形そのものに変化はありません。この谷も地図上では普通の通路です」
理屈では説明のつかない異常現象だ。
対処するなら早いに越したことはない。
「俺が入ってみる。その間は、誰も近づかないで」
旅人は縄を越えた。
「危険を感じたら、すぐに戻ってください」
「分かった」
歩き出す。
一歩。
二歩。
足裏に感じる地面も、岩肌を滑る風も変わらない。
背後を振り返る。
千岩軍の姿はまだ見えている。
さらに進む。
十歩ほど進んだところで、音が消えた。
風は吹いている。
草も揺れている。
それなのに葉擦れの音が聞こえない。
背後を見る。
入口にいたはずの兵士たちは、もう見えなかった。
代わりに、谷の向こうへ続いていたはずの道が薄暗く沈んでいる。
(内部には入れたみたいだけど……)
旅人は手を伸ばし、傍らの岩へ触れた。
冷たい。
指先を滑らせると、乾いた石の感触が返る。
そのまま手を離そうとした時、岩の表面を何かが横切った。
――白い布。
振り向く。
誰もいない。
岩壁の陰にも、人が隠れられる場所はない。
旅人はしばらくそこを見ていたが、やがて剣へ手を添えて奥へ進んだ。
道は緩やかに下っていた。
兵士が言った「地脈」という言葉から想像していた景色とは違う。
地脈異常ならば、元素の流れが目に見えることもある。
だが、ここにはそれらしい光がほとんどない。
代わりに、時折、見覚えのないものが現れた。
崖際に、古びた石段がある。
そう気づいて近づくと、ただの岩の窪みだった。
風の中に薬草を煎じたような香りが混じる。
だが、次に息を吸い込んだ時には、もう土と草の匂いしか残っていない。
さらに奥では、足元に焦げた布が落ちていた。
旅人は身を屈める。
煤に汚れた白い端切れだった。
手を伸ばす。
指が触れる寸前、布は跡形もなく消え去った。
最初からそこになかったものを、目だけが見ていたように。
(どんどん景色が変わっていく。ずいぶん不安定な場所だな)
さらに進むと、谷は洞穴へ変わった。
剣を握る手に力がこもる。
誰かがいる気配はない。
代わりに、岩肌の向こうを火の海が通り過ぎた。
揺れる赤の中に、人影らしきものを捉える。
「誰だ?」
影は、何かを手繰り寄せるように、空に向かって細い腕を伸ばしている。
炭のように黒ずんでいて、詳細は判別できない。
ただ、長い髪と残された輪郭から、それが女だということだけは分かった。
旅人の脳裏に、白い衣が浮かぶ。
「眠蝶……?」
その時、洞窟の奥から轟音が響いた。
続いて、魔物の咆哮。
旅人は顔を上げた。
さっきまで存在しなかった風が、洞窟の中を一気に駆け抜ける。
青白い靄が裂け、砂塵が舞った。
その奥で、狼に似た四肢と、空間を裂くように浮かぶ異形の身体が揺らめいている。
「獣域ハウンド!?」
青白い靄の向こうで、緑の光が走る。
鋭い風圧。
旅人は走り出した。
洞窟の先は広い空洞になっている。
地面のあちこちから黒ずんだ地脈の根が突き出し、その周囲に魔物が群がっていた。
中心で、一人の男が槍を振るっている。
「魈!」
呼びかけた瞬間、魈の視線がこちらへ走った。
旅人の背後で魔物が吠え、槍の切っ先が即座にそちらへ向く。
「旅人? なぜここに」
「地脈の異常を調べに来た」
「……そうか」
それだけで事情を察したらしい。
空洞の奥では、黒ずんだ地脈の根の周囲から新たな獣域ハウンドの群れが姿を現していた。
こちらを取り囲み、じりじりと迫ってくる。
旅人は飛びかかってきた獣へ剣を振るった。
刃が、胴を抜ける。
手応えがない。
別の一頭へ斬り込む。
また、刃が抜けた。
「効かないっ!?」
獣の一撃を避ける。
脇にあったはずの岩壁が一瞬だけ遠ざかった。
代わりに視界へ入り込んだのは、見覚えのない廊下だった。
その奥を、誰かが走っていく。
黒い袖だけが見えた。
踏み出しかけた足が止まりそうになる。
「魈。もしかして、ここ」
「ああ。すべて幻影だ」
「そういうこと、ね!」
旅人は咄嗟に身を沈めた。
頭上を巨大な爪が通り過ぎる。
魈が槍を振って迫っていた獣を薙ぎ払い、そのまま旅人の横へ下がった。
旅人はさらに奥へ目を向ける。
獣の群れの先、洞窟はまだ続いているように見えた。
けれど目を凝らすたび、行き止まりにも、もっと深い道にも形を変えているように見える。
距離そのものが定まらず、何歩進めば辿り着くのか想像できない。
「これじゃ埒が明かないな」
「一度出るぞ」
二人は互いの背を守りながら来た道へ退いた。
やがて入口の光が見え始めた頃、背後の暗がりに人影が立っているように見えた。
風になびく衣と長い髪。
だが、瞬きの間に消える。
旅人が足を止めたのに気づき、魈も歩みを止めた。
「どうした、旅人」
「さっきから同じ人が何度も出てくる。景色は変わっていくのに、その人の姿は変わらない」
「誰の姿だ」
「影になってて、はっきりとは分からない。だけど……俺には、眠蝶に見える」
魈の目が細くなる。
「……そうか」
それ以上は何も言わず、二人は外へ向かった。
境目を越えた瞬間、耳へ音が戻ってきた。
「旅人殿! 無事でしたか!」
千岩軍の兵士たちが駆け寄ってくる。
旅人は頷きながら、地脈の入り口を振り返った。
昼の日差しを受けた岩肌の途中から、別の場所の影が滲み出すように揺れ、見つめていると遠近の感覚まで狂わされる。
隣で魈も同じものを見ていた。
「これ、ただの異常じゃないよね」
「ああ」
魈は槍を下ろした。
穂先が岩肌の近くで止まる。
「おそらく、境界と繋がっている」
「境界……往生堂が扱ってる、あの?」
「そうだ」
「眠蝶と関係があるのかな」
返事はなかった。
その横顔を見ているうちに、昨日の高台が浮かんだ。
港へ降りることもなく、遠くから眠蝶だけを見ていた魈。
そして、眠蝶は彼を見た瞬間だけ、何かへ手を伸ばしかけた。
――優しいお方ね。
「やっぱり眠蝶のこと、何か知ってるんだね。ずっと様子がおかしいよ」
魈の指が、槍の柄を握り直した。
「魈が知ってることを、教えてほしい」
風が谷を吹き抜け、砂を巻き上げていった。
魈は答えを返さなかったが、やがて沈黙に押されるように息をつき、口を開いた。
「……我は、あの娘の本当の名すら知らぬ。会ったのも、一度だけだ」
遠い岩峰の向こうに、璃月港の屋根が見える。
祭の飾りまでは見えない距離なのに、風向きが変わると、笛の音だけがかすかにここまで届いた。
「それは、いつのこと?」
「五百年前だ」
旅人の呼吸が止まる。
昨日まで往生堂で追っていた時代と、目の前の男の言葉が重なった。
魈はすぐには続けなかった。
遠い港へ向けていた視線が、手元へ落ちる。
「あの頃の璃月は魔物に溢れていた。我は、それを追って境界に入った。あの娘を見つけたのは、その時だ」
魈はまた黙り、唇を震わせたあと、絞り出すように続けた。
「娘は深手を負っていた。魂も、奈落へ落ちる寸前だった」
谷の奥では、岩壁の向こうへ一瞬だけ重なった燃える景色が、今もまだ揺らいでいるかのように感じられた。
あの炎は、五百年前から魈の中に居座り続けているのかもしれない。
「我は手を伸ばした」
魈の手が、何もない宙へ差し出される。
人間よりも遥かに強大な力を持つ、夜叉の手。
魔物を斬るためのそれが、今はただ何かを掴もうと彷徨う。
「だが……あの娘には、届かなかった」
旅人の指先が強張った。
一昨日、崖の上で叫んだ言葉が、今もまだ喉の奥に貼りついている。
掴んだと思った刹那の、拍子抜けするほどの軽さ。
自分の右手を、無意識に握り込んでいたことに、今さら気づく。
「そのあと、彼女は?」
「消えた。身体も魂も、そこには残らなかった」
魈の手がぱたりと下ろされる。
谷を覆っていた光が揺れ、岩肌の影が形を変える。
「衣の仕立てから、往生堂に所縁のある者だとは分かった。だが、名さえ知らぬ者一人を辿るには、手掛かりが少なすぎた」
今の璃月とは違う街が、旅人の脳裏に浮かんだ。
祭を待つ人々で道が埋まり、家々に灯が並ぶ街ではない。
古い日記の中にだけ残っていた人々が生きていた、かつての街だ。
「我は、ついぞ何も掴めなかった」
旅人は自分の右手を見る。
この手にも、崖際で空を切った感触が残っている。
「ゆえに、あれが何者なのか、我にも分からぬ」
その声は、いつもより掠れていた。
「今の眠蝶が何なのか、魈にも分からないんだ」
「死者が境界に留まることはある。だが、五百年だ。とても人の身に耐えられる時ではない。それこそ、人の理を外れた力でもなければな」
「魔物の可能性もある?」
「否定はできぬ」
最悪の可能性が、頭をよぎる。
けれど、別の違和感が追いついてきた。
(それなら、魈がとっくに討伐してるはずだ)
昨日の高台に立っていた姿を思い出す。
槍を構えることも、近づくこともなく、ただ眠蝶を見ていた魈。
「いつもの魈なら、魔物かもしれない存在を遠くから見ているだけで済ませるなんて思えない。何か、手を出せない理由でもあった?」
魈はしばらく何も言わなかった。
その沈黙の底には、きっと彼にしか分からない感情がある。
自ら、堰の隙間をひとつ開けたのか。
あるいは、こらえきれなかっただけなのかもしれない。
「……気配が、似ていた」
ふちから零れた水の一滴のような独り言だった。
魈はそれっきり、口をつぐんだ。
旅人はすぐには声を返せなかった。
遠く、港から笛の音が届く。
「……そっか」
それ以上、踏み込むべき言葉は見つからなかった。
五百年。
人の名が記録の中へ沈み、家が建て替わり、幾度も世代が入れ替わるだけの時間。
その時間を越えて、今も璃月港では海灯祭が続いている。
「魈。みんなのところに戻ろうか」
もし、この地脈が眠蝶に関係しているとするならば、今むやみに突撃するのは愚策だろう。
「ここにいても、分からないことばかりだ。眠蝶が誰なのかも、どうして今ここにいるのかも」
旅人は地脈に背を向け、港に向かって歩き出した。
まだ何も知らない。
何も掴めていない。
「でも、眠蝶はちゃんといるよ」
海灯祭を一緒に回ると約束した。
その約束を果たせていない。
急がなければ。
背後で立ち止まっていた足音が、数歩遅れてついてきた。
日が沈むまで、あと少し。