華胥の蝶、万灯に醒む   作:たそ@ハーメルン

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第七話 綻び

陽が西の山へ傾くにつれ、璃月港では昼の色がゆっくりと灯の色へ譲られていった。

軒先の提灯に火が入り、朱塗りの柱の足元へ橙色の光が落ちている。

通りを行き交う人々の手には、夜に上げる霄灯が目立ち始めていた。

紙の白さは夕映えを吸い、まだ空へ昇ってもいないのに、街中が夜を待っているようだった。

 

パイモン、胡桃、眠蝶の三人は港の外れへ向かう通りを歩いていた。

昼からずっと繋いだままの手はいつしか歩幅にまで馴染んでいて、手を引かれることに眠蝶が疑問を挟むこともなくなっていた。

パイモンは途中で見つけた串菓子を抱え、今夜どの丘から霄灯を見るのが一番いいかを胡桃へ尋ねている。

 

「霄灯が一番綺麗に見える場所ねえ。そりゃあ、とっておきの場所あるよ」

 

胡桃の声音には、すでに勝ち誇ったような響きが混じっていた。

 

「港も見えるし、山にも邪魔されないし、何より人が少ない。往生堂第七十七代堂主が保証する、特等席!」

「ほんとか? ちゃんと場所は取れるんだろうな?」

「場所取りが必要なところを特等席とは呼ばないの」

「じゃあ、今夜の目的地はそこで決定だな!」

「まだ、やることがあるの?」

 

通りにはまだ人が溢れ、頭上には灯りが連なっている。

眠蝶はそれらを見回した。

 

「そりゃそうだよ。せっかくの海灯祭なんだから、霄灯まで見ないと――」

「あれ、胡桃。帽子がまたほつれてるぞ」

「ん?」

 

胡桃は帽子を脱いで確かめた。

飾りを留めていた糸が一本切れ、端が風に揺れている。

 

「本当だ。昨日直してもらったところとは別だね」

 

帽子を裏返して眺めたあと、胡桃は眠蝶へ差し出した。

 

「ごめん眠蝶。また、お願いしていい?」

「ええ」

 

眠蝶は帽子を受け取り、腰に下げていた小さな袋から包みに入った針と糸を取り出す。

そこで手が止まった。

暮れかけた空の下で、細い針だけが灯を拾って光っている。

眠蝶はそれを裏返した。

先端を見て、針穴を見て、もう一度掌の上へ戻す。

 

「眠蝶?」

 

胡桃が呼ぶ。

 

「……確か」

 

眠蝶は糸の先を摘まみ、針穴へ近づけた。

糸は穴の横を通り過ぎた。

もう一度。

今度は先端が針の腹に当たり、ふにゃりと曲がる。

眠蝶は眉を寄せ、指先を目元へ近づけた。

 

「おかしいわね」

 

パイモンも菓子を食べる手を止めていた。

 

「見えにくいのか?」

 

再び糸を通そうとする。

昨日は、一度も止まらなかった指だった。

それが今は、一本の糸を針へ通すだけの動作が、途中の抜けた文章を読むかのように上手く繋がらない。

 

「今日はいいよ。暗くなってきたし、また今度――」

「大丈夫」

 

眠蝶は針を引かなかった。

 

「確か、こう……」

 

尖った針先が指へ沈んだ。

ぶつ、と音がして、指先に赤いものが玉になって浮いてくる。

パイモンが息を呑む。

 

「眠蝶、血!」

 

眠蝶は自分の指を見た。

針の先には赤が付き、指腹から新しい血が滲んでいる。

 

「……本当ね」

「もう大丈夫。貸して」

 

胡桃がすぐに帽子と針を取り上げる。

 

「でも、まだ直っていないわ」

「帽子は逃げないから」

 

胡桃は針を包みへ戻し、自分の懐へしまう。

眠蝶は思い出したように自分の腰に下がった袋へ手を入れた。

 

「大丈夫よ。ここに薬草があるから」

 

袋の中から、薬草がいくつか取り出された。

乾燥した葉と、細く裂いた根。

眠蝶はその中から一つを摘まもうとして、指を止めた。

 

「これを……」

 

包みを大きく開いて、中身をすべて手のひらにひっくり返す。

乗り切らなかった破片が、ばらばらと指の隙間から零れ落ちていく。

眠蝶は、手の上で乱雑に積もった薬草を見下ろしたまま、動くのをやめていた。

 

「これを……どうするんだったかしら」

 

夕方の通りを、祭の音が流れていく。

向こうの屋台では油の弾ける音がし、誰かが今夜の霄灯の話をしている。

胡桃は無言で眠蝶の手から薬草を受け取り、袋の中へ戻した。

そして、傷ついた指へ手持ちの布を巻く。

根元を押さえ、ほどけないよう結び目を作る。

 

「私は痛くないわ」

「そういう問題じゃないよ」

 

布を結び終えても、胡桃の手は離れなかった。

傷ついた指ごと、眠蝶の手を自分の掌へ包み込む。

 

「胡堂主?」

「ん?」

「もう終わったでしょう?」

「うん」

「なら、手は――」

「このままでいいの」

 

夕陽は建物の向こうへ沈みかけ、通りでは灯籠の明かりが一つ、また一つと鮮やかになっていく。

眠蝶は何も言わなかった。

胡桃はただ、握った手により力を込めた。

 

 

 

*

 

 

 

璃月港へ近づく頃、陽はすでに西へ傾き始めていた。

港は朝よりもさらに賑わいを増しているらしく、街へ続く坂道には祭へ向かう人々が絶えず行き交っている。

 

祭へ向かう人々とすれ違うたび、旅人は歩調を速めた。

隣を行く魈も、何も言わず同じ速さで進んでいる。

 

港の外れへ差しかかったところで、人の流れが不自然に滞っていた。

祭の屋台へできた列ではない。

道の脇へ人が集まり、皆が同じ場所を覗き込んでいる。

人だかりの向こうから、聞き慣れた声が途切れ途切れに届いた。

 

「眠蝶! おい、眠蝶……っ!」

 

旅人の足が駆け足に変わる。

 

「ごめん、通して!」

 

人の間を縫って前へ出る。

最初に見えたのは、パイモンだった。

地面近くまで降り、何かを必死で叫んでいる。

その隣には胡桃が膝をついている。

そして地面に、白い衣が広がっていた。

 

「眠蝶!」

 

駆け寄ると、眠蝶は石畳の上に横たわっていた。

目は閉じている。

元から白い肌が、血の気だけでなく光まで抜け落ちたように冷えて見えた。

そのすぐそばには、胡桃の帽子が転がっていた。

飾りの一部がほどけたまま、石畳の上で風に揺れている。

 

「何があったの!?」

「ふ、胡桃の帽子を直そうとしてたんだ。でも、どんどん様子がおかしくなって……針も薬草も、何だか分からないみたいで……」

「反応も曖昧になって、すぐに倒れた」

 

胡桃は眠蝶の肩へ手を置いたままだ。

旅人は眠蝶の傍らへ膝をついた。

 

「眠蝶……眠蝶!」

 

呼んでも揺すっても返事がない。

手を取る。

だらりと垂れた指先はあまりに力無く、頼りない。

 

「待て、旅人」

 

肩を掴まれ、旅人は手を止めた。

握った手の中で、眠蝶の冷たさがいっそう鮮明になる。

 

「魈?」

「生気がほとんど残っていない。魂が現世から離れかけている」

「そんな……!」

 

パイモンが振り返る。

旅人は周囲を見回した。

ここでは人目が多すぎる。

 

「ひとまず、静かなところに運ぼう」

「往生堂に行こう。あの細い通りを抜ければすぐだから」

 

胡桃が人込みを制するように立ち上がる。

旅人もすぐさま眠蝶の背中と膝の下へ腕を入れ、細い身体を抱きかかえる。

白い袖が旅人の腕へ垂れ、眠蝶の頭が肩口へ寄る。

冷たい髪が首筋に触れた。

それでも、腕の中には確かな重みがある。

その重みを手放すまいと、腕へ力を込めた。

 

「行こう!」

 

旅人は往生堂の方角へ身体を向けた。

立ち上がる、が――

 

「……えっ?」

 

腕の中から、重みが抜けた。

 

――いない。消えた。

 

血の付いた布だけが、はらりと地面に向かっていく。

息をのんだのも束の間、重みを失った腕を下ろすより先に、視界の端が揺れる白を捉えた。

街道を抜けた先、林の入口だ。

石畳へ落ちた形跡も、そこまで歩いた気配もない。

だが、眠蝶はすでに木々の方へ背を向けて歩いている。

 

「眠蝶!」

 

旅人は駆け出した。

胡桃もほとんど同時に地面を蹴る。

林へ向かう眠蝶の足取りは、そう速くない。

身体の軸が定まらないかのようにふらふらと傾きながら、祭の喧騒から離れる方へ進んでいく。

 

「眠蝶、待って!」

 

旅人が追いつき、肩へ手を掛ける。

今度は触れた。

衣の感触も、その下の冷たい身体もある。

 

「しっかりして!」

「オイラだぞ! パイモンだ!」

 

眠蝶の目は開いていた。

けれど、焦点の合わない眼差しは誰の顔も映していない。

胡桃が眠蝶の腕を取った。

 

「眠蝶。私だよ、胡桃だよ。往生堂の堂主だよ」

 

声は返らない。

唇も動かなかった。

胡桃の指に力が入る。

 

「……離さないから」

 

胡桃は両手で眠蝶の腕を掴む。

 

「今度はちゃんと掴んでる。だから――」

 

ぱちん、と小さな音がして、胡桃の両手が宙で閉じた。

掴んでいたはずの両手が、何もない空間を抱えている。

 

「眠、蝶……?」

「嘘……なんで、こんな急に……」

 

そこにあった微かな温度まで、跡形なく消えてしまった。

必死に周囲を探す。

白い衣。いない。

青い蝶。いない。

林の影。屋台の軒。獣道の先。

いない。いない。いない。

 

もう。

どこにも。

 

「――まだだ」

 

魈だけが、山の向こうを見ていた。

 

「まだ、我の仙力で追える」

 

魈は林を越えたさらに先、異常地脈の残る方角へ意識を研ぎ澄ませている。

幻影が縺れ合い輪郭を失ったあの場所から、眠蝶の気配だけを手繰り寄せているようだった。

 

胡桃が空になった両手を胸元まで引き寄せ、指を強く握り込んでいる。

一昨日の崖。

五百年前、魈が伸ばして届かなかった手。

どちらも、同じ結末を辿った。

旅人は自分の掌を見下ろした。

そこにはまだ、眠蝶を抱き上げた時の重みが、微かに残っている。

 

(今度は、掴んでみせる)

 

拳を、強く握り込む。

 

「行こう」

 

旅人は立ち上がった。

 

「眠蝶を、連れて帰ろう」

 

四人は駆け出した。

港へ向かう人の流れを遡り、石畳を抜け、山道へ入る。

日が山の稜線へ沈み、夕陽が璃月港を焼いていく。

 

「旅人殿!」

 

昼に会った兵士が駆け寄ってくる。

 

「俺たちが入る。全員下がって」

 

地脈の入口へ目を向ける。

昼に見た時とは形が違う。

谷を覆っていた歪みが外側へ広がり、岩壁と地面の境さえ曖昧になっている。

青白い光が地面を這い、その奥では黒い影が波打っていた。

目を凝らすたび、洞窟の入口と見知らぬ石段が重なり、次には何もない暗闇へ変わる。

 

「魈。眠蝶は、この中にいるんだね?」

 

胡桃も答えを待つように黙った。

歪みを見据えていた魈が、短く頷く。

 

「ああ」

 

それだけで十分だった。

旅人は武器へ手を掛けた。

 

「待って」

 

胡桃が制した。

旅人が振り返る。

胡桃は入口の両脇を見渡し、地面へしゃがみ込んだ。

腰の小袋を開き、中から札と細い紐を取り出す。

 

「道が崩れかけてる。このまま入ったら、帰りまで持たないかもしれない」

 

胡桃は札を一枚、岩の割れ目へ差し込んだ。

次の札を反対側へ。

その間を紐で結び、地面へ指を這わせて、境界の脈打つ深さを測るように目を閉じた。

 

「じゃあ、どうするんだ?」

「私がここに残って、境界への道を支える」

 

胡桃の顔には、迷いがない。

 

「一人で大丈夫?」

「一人じゃないよ」

 

胡桃はパイモンを見る。

 

「パイモン、手伝って」

「お、オイラが?」

「中から何か聞こえたら教えて。それと、この札の光が消えそうになったらすぐ言って。私一人だと両方見られないから」

 

パイモンは札と胡桃を見比べた。

中へ行きたい気持ちが顔に出ている。

それでも、拳を握って頷いた。

 

「分かった。オイラ、ここにいるぞ!」

「頼んだよ」

 

胡桃は、腰へ下げていた札をもう一枚取り出し、旅人へ渡す。

 

「持ってって。戻る方向が分からなくなった時、これが反応するはずだから」

 

手渡された薄い紙片には、赤い文字が書かれている。

掌へ載せると、冷えた山風の中でも熱を持っているように感じた。

 

「ありがとう」

「お礼は帰ってから」

 

胡桃は旅人へ札を渡したあと、魈を見た。

 

「私、眠蝶と約束したんだ。今夜、霄灯が上がるのを特等席で見るって」

 

山の向こうから、海灯祭の音が届いた。

もう夜は近い。

璃月港では一つ、また一つと灯が増えている。

胡桃はその光を背にして立っていた。

 

「だから、よろしくね」

 

旅人は頷いた。

 

「任せて」

 

それから隣を見る。

 

「行こう、魈」

 

魈の指が、槍の柄を握り直した。

 

「ああ」

 

胡桃が札へ手を添えた。

地面へ差した二枚が淡い光を放ち、歪みの中に一筋の道が生まれる。

完全な道ではない。

数歩先すら闇に沈み、両側から地脈の光が押し寄せている。

それでも、入口は開いた。

 

「行って!」

 

旅人と魈は同時に踏み込んだ。

足元から地面の感触が消え、冷たい風が全身を包む。

振り返ると、入口の向こうに胡桃とパイモンが見えた。

胡桃は両手を地面へ向けたまま、境界を支えている。

パイモンはその隣で、こちらを見ていた。

二人の姿が歪みの向こうへ遠ざかる。

最後まで見えていたのは、地面へ札を押さえつける胡桃の手だった。

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