陽が西の山へ傾くにつれ、璃月港では昼の色がゆっくりと灯の色へ譲られていった。
軒先の提灯に火が入り、朱塗りの柱の足元へ橙色の光が落ちている。
通りを行き交う人々の手には、夜に上げる霄灯が目立ち始めていた。
紙の白さは夕映えを吸い、まだ空へ昇ってもいないのに、街中が夜を待っているようだった。
パイモン、胡桃、眠蝶の三人は港の外れへ向かう通りを歩いていた。
昼からずっと繋いだままの手はいつしか歩幅にまで馴染んでいて、手を引かれることに眠蝶が疑問を挟むこともなくなっていた。
パイモンは途中で見つけた串菓子を抱え、今夜どの丘から霄灯を見るのが一番いいかを胡桃へ尋ねている。
「霄灯が一番綺麗に見える場所ねえ。そりゃあ、とっておきの場所あるよ」
胡桃の声音には、すでに勝ち誇ったような響きが混じっていた。
「港も見えるし、山にも邪魔されないし、何より人が少ない。往生堂第七十七代堂主が保証する、特等席!」
「ほんとか? ちゃんと場所は取れるんだろうな?」
「場所取りが必要なところを特等席とは呼ばないの」
「じゃあ、今夜の目的地はそこで決定だな!」
「まだ、やることがあるの?」
通りにはまだ人が溢れ、頭上には灯りが連なっている。
眠蝶はそれらを見回した。
「そりゃそうだよ。せっかくの海灯祭なんだから、霄灯まで見ないと――」
「あれ、胡桃。帽子がまたほつれてるぞ」
「ん?」
胡桃は帽子を脱いで確かめた。
飾りを留めていた糸が一本切れ、端が風に揺れている。
「本当だ。昨日直してもらったところとは別だね」
帽子を裏返して眺めたあと、胡桃は眠蝶へ差し出した。
「ごめん眠蝶。また、お願いしていい?」
「ええ」
眠蝶は帽子を受け取り、腰に下げていた小さな袋から包みに入った針と糸を取り出す。
そこで手が止まった。
暮れかけた空の下で、細い針だけが灯を拾って光っている。
眠蝶はそれを裏返した。
先端を見て、針穴を見て、もう一度掌の上へ戻す。
「眠蝶?」
胡桃が呼ぶ。
「……確か」
眠蝶は糸の先を摘まみ、針穴へ近づけた。
糸は穴の横を通り過ぎた。
もう一度。
今度は先端が針の腹に当たり、ふにゃりと曲がる。
眠蝶は眉を寄せ、指先を目元へ近づけた。
「おかしいわね」
パイモンも菓子を食べる手を止めていた。
「見えにくいのか?」
再び糸を通そうとする。
昨日は、一度も止まらなかった指だった。
それが今は、一本の糸を針へ通すだけの動作が、途中の抜けた文章を読むかのように上手く繋がらない。
「今日はいいよ。暗くなってきたし、また今度――」
「大丈夫」
眠蝶は針を引かなかった。
「確か、こう……」
尖った針先が指へ沈んだ。
ぶつ、と音がして、指先に赤いものが玉になって浮いてくる。
パイモンが息を呑む。
「眠蝶、血!」
眠蝶は自分の指を見た。
針の先には赤が付き、指腹から新しい血が滲んでいる。
「……本当ね」
「もう大丈夫。貸して」
胡桃がすぐに帽子と針を取り上げる。
「でも、まだ直っていないわ」
「帽子は逃げないから」
胡桃は針を包みへ戻し、自分の懐へしまう。
眠蝶は思い出したように自分の腰に下がった袋へ手を入れた。
「大丈夫よ。ここに薬草があるから」
袋の中から、薬草がいくつか取り出された。
乾燥した葉と、細く裂いた根。
眠蝶はその中から一つを摘まもうとして、指を止めた。
「これを……」
包みを大きく開いて、中身をすべて手のひらにひっくり返す。
乗り切らなかった破片が、ばらばらと指の隙間から零れ落ちていく。
眠蝶は、手の上で乱雑に積もった薬草を見下ろしたまま、動くのをやめていた。
「これを……どうするんだったかしら」
夕方の通りを、祭の音が流れていく。
向こうの屋台では油の弾ける音がし、誰かが今夜の霄灯の話をしている。
胡桃は無言で眠蝶の手から薬草を受け取り、袋の中へ戻した。
そして、傷ついた指へ手持ちの布を巻く。
根元を押さえ、ほどけないよう結び目を作る。
「私は痛くないわ」
「そういう問題じゃないよ」
布を結び終えても、胡桃の手は離れなかった。
傷ついた指ごと、眠蝶の手を自分の掌へ包み込む。
「胡堂主?」
「ん?」
「もう終わったでしょう?」
「うん」
「なら、手は――」
「このままでいいの」
夕陽は建物の向こうへ沈みかけ、通りでは灯籠の明かりが一つ、また一つと鮮やかになっていく。
眠蝶は何も言わなかった。
胡桃はただ、握った手により力を込めた。
*
璃月港へ近づく頃、陽はすでに西へ傾き始めていた。
港は朝よりもさらに賑わいを増しているらしく、街へ続く坂道には祭へ向かう人々が絶えず行き交っている。
祭へ向かう人々とすれ違うたび、旅人は歩調を速めた。
隣を行く魈も、何も言わず同じ速さで進んでいる。
港の外れへ差しかかったところで、人の流れが不自然に滞っていた。
祭の屋台へできた列ではない。
道の脇へ人が集まり、皆が同じ場所を覗き込んでいる。
人だかりの向こうから、聞き慣れた声が途切れ途切れに届いた。
「眠蝶! おい、眠蝶……っ!」
旅人の足が駆け足に変わる。
「ごめん、通して!」
人の間を縫って前へ出る。
最初に見えたのは、パイモンだった。
地面近くまで降り、何かを必死で叫んでいる。
その隣には胡桃が膝をついている。
そして地面に、白い衣が広がっていた。
「眠蝶!」
駆け寄ると、眠蝶は石畳の上に横たわっていた。
目は閉じている。
元から白い肌が、血の気だけでなく光まで抜け落ちたように冷えて見えた。
そのすぐそばには、胡桃の帽子が転がっていた。
飾りの一部がほどけたまま、石畳の上で風に揺れている。
「何があったの!?」
「ふ、胡桃の帽子を直そうとしてたんだ。でも、どんどん様子がおかしくなって……針も薬草も、何だか分からないみたいで……」
「反応も曖昧になって、すぐに倒れた」
胡桃は眠蝶の肩へ手を置いたままだ。
旅人は眠蝶の傍らへ膝をついた。
「眠蝶……眠蝶!」
呼んでも揺すっても返事がない。
手を取る。
だらりと垂れた指先はあまりに力無く、頼りない。
「待て、旅人」
肩を掴まれ、旅人は手を止めた。
握った手の中で、眠蝶の冷たさがいっそう鮮明になる。
「魈?」
「生気がほとんど残っていない。魂が現世から離れかけている」
「そんな……!」
パイモンが振り返る。
旅人は周囲を見回した。
ここでは人目が多すぎる。
「ひとまず、静かなところに運ぼう」
「往生堂に行こう。あの細い通りを抜ければすぐだから」
胡桃が人込みを制するように立ち上がる。
旅人もすぐさま眠蝶の背中と膝の下へ腕を入れ、細い身体を抱きかかえる。
白い袖が旅人の腕へ垂れ、眠蝶の頭が肩口へ寄る。
冷たい髪が首筋に触れた。
それでも、腕の中には確かな重みがある。
その重みを手放すまいと、腕へ力を込めた。
「行こう!」
旅人は往生堂の方角へ身体を向けた。
立ち上がる、が――
「……えっ?」
腕の中から、重みが抜けた。
――いない。消えた。
血の付いた布だけが、はらりと地面に向かっていく。
息をのんだのも束の間、重みを失った腕を下ろすより先に、視界の端が揺れる白を捉えた。
街道を抜けた先、林の入口だ。
石畳へ落ちた形跡も、そこまで歩いた気配もない。
だが、眠蝶はすでに木々の方へ背を向けて歩いている。
「眠蝶!」
旅人は駆け出した。
胡桃もほとんど同時に地面を蹴る。
林へ向かう眠蝶の足取りは、そう速くない。
身体の軸が定まらないかのようにふらふらと傾きながら、祭の喧騒から離れる方へ進んでいく。
「眠蝶、待って!」
旅人が追いつき、肩へ手を掛ける。
今度は触れた。
衣の感触も、その下の冷たい身体もある。
「しっかりして!」
「オイラだぞ! パイモンだ!」
眠蝶の目は開いていた。
けれど、焦点の合わない眼差しは誰の顔も映していない。
胡桃が眠蝶の腕を取った。
「眠蝶。私だよ、胡桃だよ。往生堂の堂主だよ」
声は返らない。
唇も動かなかった。
胡桃の指に力が入る。
「……離さないから」
胡桃は両手で眠蝶の腕を掴む。
「今度はちゃんと掴んでる。だから――」
ぱちん、と小さな音がして、胡桃の両手が宙で閉じた。
掴んでいたはずの両手が、何もない空間を抱えている。
「眠、蝶……?」
「嘘……なんで、こんな急に……」
そこにあった微かな温度まで、跡形なく消えてしまった。
必死に周囲を探す。
白い衣。いない。
青い蝶。いない。
林の影。屋台の軒。獣道の先。
いない。いない。いない。
もう。
どこにも。
「――まだだ」
魈だけが、山の向こうを見ていた。
「まだ、我の仙力で追える」
魈は林を越えたさらに先、異常地脈の残る方角へ意識を研ぎ澄ませている。
幻影が縺れ合い輪郭を失ったあの場所から、眠蝶の気配だけを手繰り寄せているようだった。
胡桃が空になった両手を胸元まで引き寄せ、指を強く握り込んでいる。
一昨日の崖。
五百年前、魈が伸ばして届かなかった手。
どちらも、同じ結末を辿った。
旅人は自分の掌を見下ろした。
そこにはまだ、眠蝶を抱き上げた時の重みが、微かに残っている。
(今度は、掴んでみせる)
拳を、強く握り込む。
「行こう」
旅人は立ち上がった。
「眠蝶を、連れて帰ろう」
四人は駆け出した。
港へ向かう人の流れを遡り、石畳を抜け、山道へ入る。
日が山の稜線へ沈み、夕陽が璃月港を焼いていく。
「旅人殿!」
昼に会った兵士が駆け寄ってくる。
「俺たちが入る。全員下がって」
地脈の入口へ目を向ける。
昼に見た時とは形が違う。
谷を覆っていた歪みが外側へ広がり、岩壁と地面の境さえ曖昧になっている。
青白い光が地面を這い、その奥では黒い影が波打っていた。
目を凝らすたび、洞窟の入口と見知らぬ石段が重なり、次には何もない暗闇へ変わる。
「魈。眠蝶は、この中にいるんだね?」
胡桃も答えを待つように黙った。
歪みを見据えていた魈が、短く頷く。
「ああ」
それだけで十分だった。
旅人は武器へ手を掛けた。
「待って」
胡桃が制した。
旅人が振り返る。
胡桃は入口の両脇を見渡し、地面へしゃがみ込んだ。
腰の小袋を開き、中から札と細い紐を取り出す。
「道が崩れかけてる。このまま入ったら、帰りまで持たないかもしれない」
胡桃は札を一枚、岩の割れ目へ差し込んだ。
次の札を反対側へ。
その間を紐で結び、地面へ指を這わせて、境界の脈打つ深さを測るように目を閉じた。
「じゃあ、どうするんだ?」
「私がここに残って、境界への道を支える」
胡桃の顔には、迷いがない。
「一人で大丈夫?」
「一人じゃないよ」
胡桃はパイモンを見る。
「パイモン、手伝って」
「お、オイラが?」
「中から何か聞こえたら教えて。それと、この札の光が消えそうになったらすぐ言って。私一人だと両方見られないから」
パイモンは札と胡桃を見比べた。
中へ行きたい気持ちが顔に出ている。
それでも、拳を握って頷いた。
「分かった。オイラ、ここにいるぞ!」
「頼んだよ」
胡桃は、腰へ下げていた札をもう一枚取り出し、旅人へ渡す。
「持ってって。戻る方向が分からなくなった時、これが反応するはずだから」
手渡された薄い紙片には、赤い文字が書かれている。
掌へ載せると、冷えた山風の中でも熱を持っているように感じた。
「ありがとう」
「お礼は帰ってから」
胡桃は旅人へ札を渡したあと、魈を見た。
「私、眠蝶と約束したんだ。今夜、霄灯が上がるのを特等席で見るって」
山の向こうから、海灯祭の音が届いた。
もう夜は近い。
璃月港では一つ、また一つと灯が増えている。
胡桃はその光を背にして立っていた。
「だから、よろしくね」
旅人は頷いた。
「任せて」
それから隣を見る。
「行こう、魈」
魈の指が、槍の柄を握り直した。
「ああ」
胡桃が札へ手を添えた。
地面へ差した二枚が淡い光を放ち、歪みの中に一筋の道が生まれる。
完全な道ではない。
数歩先すら闇に沈み、両側から地脈の光が押し寄せている。
それでも、入口は開いた。
「行って!」
旅人と魈は同時に踏み込んだ。
足元から地面の感触が消え、冷たい風が全身を包む。
振り返ると、入口の向こうに胡桃とパイモンが見えた。
胡桃は両手を地面へ向けたまま、境界を支えている。
パイモンはその隣で、こちらを見ていた。
二人の姿が歪みの向こうへ遠ざかる。
最後まで見えていたのは、地面へ札を押さえつける胡桃の手だった。