華胥の蝶、万灯に醒む   作:たそ@ハーメルン

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第四章 結
第八話 糸


境界へ踏み込んだ途端、旅人は足を取られた。

昼と同じ岩道へ降りたつもりだったが、靴底の下で沈んだのは黒く湿った土だった。

 

顔を上げる。

 

岩壁だった場所を、古い木造の廊下が斜めに貫いている。

朽ちた床板の下からは地脈の根が伸び、青白い光を脈打たせていた。

遠くには璃月の岩峰らしき影が浮かんでいる。

けれど目を凝らした途端、その稜線は崩れた屋根へ姿を変えた。

 

隣で、魈が足を止めた。

青緑の光が足元へ集まる。

風が巻き起こる――はずだった。

衣の裾がわずかに持ち上がった次の瞬間、風は地を這った。

地脈の根に沿うように流れ、歪んだ空間の奥へ吸い込まれていく。

魈の眉が寄る。

 

「……風が上へ抜けぬ」

 

もう一度、指先へ仙力が集まる。

今度は青緑の光そのものが不自然に下へ引かれ、黒い土の向こうへ滲むように消えた。

旅人も魈に倣って手のひらに元素力を集中させるが、やはり力は発現しない。

 

「本当だ。元素力が奥へ引かれているみたいだね」

「ここでは風に乗れん。走るぞ」

 

魈は、目の前の古びた廊下へ素早く飛び移った。

旅人もすぐさま後を追う。

 

『――また破いたの?』

 

ふいに、女の声がした。

水の中で聞くような、薄膜で包んだような、不明瞭な声だった。

 

『着させますよ。繕いますからね』

『木登りは当分禁止だなあ』

 

がらんどうの家屋に、朗らかな笑い声が響く。

 

「今の……」

 

言いかけた時、右手の岩壁へ別の光が走った。

今度は白い布が敷かれた台だった。

その上に人が横たわっている。

 

『次の人を』

 

薬草を煎じる匂いがした。

次の瞬間、数歩先に二本の手が浮かんでいた。

身体はない。

二本の手だけが、古びた卓の上で布を押さえている。

細い針が破れた袖を行き来し、糸を引くたび布が寄せられていく。

向かい側には別の誰かの手があり、縫い終えた場所を指で確かめていた。

 

『でも、あなたも休まないと』

『まだ待っている人がいるでしょう』

 

場面が崩れる。

次に見えた時、同じ手は血に濡れていた。

爪の間まで赤く染まり、それでも新しい布を掴んでいる。

薬草の匂いに混じって、焦げた臭いが鼻を掠めた。

 

「昼間より、はっきり見える」

 

不意に、魈が立ち止まった。

彼の視線は、旅人とは別の方向へ向いたまま動かない。

 

「魈? どうし――」

 

そこには炎があった。

家屋の柱が燃えている。

人々が荷を抱えて走り、誰かが泣きながら名前を呼んでいる。

その混乱の中で、道端に膝をつく白い衣だけが、ひどく鮮明に見えた。

その前には、打ち捨てられた担架が転がっている。

炎が邪魔をして顔は見えない。

それでも、分かった。

 

「……眠蝶」

 

声に出した瞬間、女の姿が炎と一緒に消えた。

 

「……すまない。急ぐぞ」

 

魈は再び駆けだした。

道と呼べるものは、もうほとんど残っていない。

岩を越えたと思えば古い階段へ出て、階段を下りれば水のない川底へ降りる。

頭上では洞窟の天井と夜空が何度も入れ替わり、そのたび星と地脈の光が同じ場所へ重なった。

 

『こんな時にも飛ばすのですか』

 

女の声。

誰かが泣いている。

肩へ包帯を巻いた男がやせ細った子どもの肩を抱き、杖を引きずる老人がよろめきながら丘を登っていく。

 

『こんな時だから飛ばすんだよ』

 

暗闇の向こうに灯が浮かぶ。

小さな灯だった。

粗末な紙で作られた霄灯が、一つ、夜空へ上がっていく。

続いて、もう一つ。

三つ。

 

『昔はな、戦へ出た連中が帰り道を見失わないように上げたんだと』

 

三つの光は上へ行くほど遠ざかり、やがて闇の中へ溶けていった。

次の瞬間、空が割れた。

轟音が境界を揺らす。

霄灯も、人々も、古い璃月の街並みも、一枚の薄布を引き裂くように崩れ去った。

 

「うわ……っ!」

「旅人!」

 

魈の声と同時に、足元へ亀裂が走る。

旅人は横へ跳んだ。

先ほどまで立っていた地面が崩れ、底の見えない闇へ落ちていく。

地鳴りは止まない。

地脈の青白い光が不規則に明滅し、壁から伸びていた根が乾いた枝のように折れていく。

その先に、白い姿が見えた。

 

「眠蝶!」

 

眠蝶はこちらに背を向けていた。

足元は地面へ触れているように見えるのに、白い裾だけが水の中にいるように漂っている。

 

「眠蝶、俺だよ! 眠蝶……っ!」

 

眠蝶の足先では、境界の果てが巨大な断崖となって口を開けている。

向こう岸はない。

底も見えない。

黒一色の奈落の中を、地脈の光だけが遠く落ちていく。

あと数歩。

それが、こんなにも遠い。

 

「くそ……っ!」

 

次の瞬間、旅人の指先より先へ、別の手が伸びた。

金と緑の影が、一息に前へ抜ける。

 

魈だ。

 

魈は止まらなかった。

地面の尽きるその先へ、躊躇なく身体を投げ出す。

伸ばした五指が、落ちていく眠蝶の手首を追った。

掠める。

さらに伸ばす。

 

掴んだ。

 

だが、魈の身体も奈落へ出ていた。

このままでは、二人とも。

 

「させるか……っ!」

 

旅人は崖際へ腕を突き出した。

落ちていく魈の腕を、肘の上から一息に掴み取る。

胸が地面を擦る。

肘が崖の縁へ食い込み、尖った岩が皮膚を削った。

靴底が土を掻く。

それでも、間に合った。

 

「魈……っ、眠蝶を……離さないで!」

 

旅人は歯を食いしばった。

懐の札が熱い。

まだ帰る道はある。

 

「今、引き上げる……っ!」

 

遠くで地面が割れ、闇の中へ崩れていく音がする。

青白い地脈の光も途切れ始めた。

早く、二人を――。

 

「待て、旅人……まだ引くな!」

 

魈の叫びに、引き上げかけた腕が止まる。

旅人は息を乱したまま、崖の下を覗き込んだ。

魈は振り向かない。

掴んだ眠蝶の手首、その先で項垂れる彼女を見ている。

 

「おい」

 

魈が呼びかける。

返事はない。

 

「おい……娘」

 

眠蝶の指は垂れたまま動かない。

ただ、引かれるままに奈落へ身体を預けている。

掌の中で、魈の腕が硬く強張った。

 

「眠蝶」

 

じりじりと奈落へ引く力が増していく。

踏みしめた足が引きずられていく。

 

「……だめだ」

 

魈の言葉が、奈落の闇へ落ちる。

魈は眠蝶の手を離さない。

自分も、魈の腕を掴んでいる。

胡桃とパイモンだって、向こうで入口を守っている。

まだ、何ひとつ切れていない。

だというのに。

 

「魂の気配が、消えた」

 

 

 

*

 

 

 

楷兄様。蘭姉様。

先立つ不孝をお許しください。

何も成せず、何も遺せなかった無力な私をどうかお許しください。

 

家の柱に残した背丈の印も、皆で囲んだ食卓も、今や儚き夢となりました。

繕った上着も燃えてしまいました。

帰ってきた骨を、満足に弔ってやることさえできませんでした。

 

魔物の群れを追い、この境界まで参りましたが、血を失いすぎました。

せっかく授かった神の力も、熱を失って、もはや路傍の石と変わりません。

泥濘のようなこの場所で、天から垂れる一筋の光だけが、私に残されたよすがです。

そちらに戻ることは、二度と叶わないでしょう。

 

 

――もう、いいのではないかしら。

 

 

まだ、この身が現世にあったころ。

帰らぬ者のために、粗末な灯を上げた夜がありました。

 

 

『こんな時にも、飛ばすのですか』

 

 

一つ。

二つ。

三つ。

上がったのは、それだけでした。

暗い空に、ゆっくりと、あてもなく浮かんでいきました。

 

 

――だから、もういいのです。名前も知らない、優しいお方。

 

 

あなたが今際に手を伸ばしてくださったことを、私は覚えています。

この細い光は、きっとあなたが残してくれた心なのでしょう。

奈落に落ちたこの身は、いずれ灰となり、土に溶けてゆきます。

だからどうか忘れてください。

 

 

――もう、いいの。優しい誰か。

 

 

ここは暗いわ。

色もない。

寒くて、寒くて、手元にあった石を胸元に仕舞ったの。

固くてぬるい、硝子玉。

 

この糸はなにかしら。

真綿を引いたように、細くて頼りない糸。

ずっと私に絡みつく、一縷の光。

 

これだけなの。

この一本の糸だけが、私を死なせてくれないの。

死ぬことだけが、できないの。

 

もう、指の一本も動かせない。

 

 

――わたしは、だれだったかしら。

 

 

『何も、為せぬまま』

 

 

――ここは、どこ?

 

知らない場所。

林? 森?

青々とした木々なんて、いつぶりに見たかしら。

 

私は歩いているの?

飛んでいるの?

風に攫われそう。

ふらふら、ふらふら。

蝶みたいだって、誰かが言った気がする。

 

 

『いつか、あの変わらぬ岩峰の足元に、街灯りが戻る日は来るのでしょうか』

 

 

いつだったか、誰かが約束してくれたの。

山に緑が茂る様子を、また見られるだなんて思っていなかった。

人の声がする。

あの切り立った岩峰からのぞく光は、朝日かしら。

それとも夕陽?

ゆっくりと、夜空に浮かんでいくわ。

眩しくて、よく見えないの。

 

 

『必ずや』

 

 

この夢の中で眠れたら、どんなに心地いいのでしょう。

きっとどこへでも行けるわ。

あの美しい璃月に、愛しい家族の元に、私もいかせて。

 

 

――それなのに。

この糸が、私を離さない。

 

 

『……無理に思い出す必要はない』

 

 

指に絡んで、取れないの。

 

 

『目を離すと消えちゃうなら、手をつないでいればいいでしょ』

『オイラは眠蝶の背中を押すぞ! これで安心だ!』

 

 

離れないの。

 

 

『忘れるなら、書く』

『今日こそは味の感想を聞かせてよ』

 

 

――今日、七七という子に会った。

――万民堂。いい匂いのする食堂。

 

 

私も、そちらに。

 

 

『良い茶であった』

『また明日』

『うん、約束』

『また明日』

『海灯祭を祝して!』

 

 

――海灯祭。空いっぱいに、霄灯を飛ばすお祭り。

 

 

そうね。

そうだったわ。

 

 

「眠蝶」

 

 

ありがとう。

この糸の先にいる、優しいあなた。

 

 

「私も、明日にいきたい」

 

 

私もずっと、あなたを離さなかったのね。

 

 

 

*

 

 

 

指先が、動いた。

あまりにもかすかな動きだった。

風に揺らされたのかと見過ごしてもおかしくない。

それでも確かに、垂れていた眠蝶の指がひとつ折れ、魈の手の甲へ触れた。

 

「眠蝶……?」

 

もう一本。

続いて、その隣の指が動く。

冷えきっていた掌が、長い眠りから身体の使い方を思い出すように形を変えていく。

やがて、五本の指が、魈の手を包んだ。

強く。

 

眠蝶の瞼が震える。

ゆっくりと開いた瞳には、林で見た虚ろな色はなかった。

焦点を取り戻した目が、真っすぐと魈を見つめ返す。

 

「ありがとう。あの頃は名前も知らなかった、優しいあなた」

 

声は嗄れていた。

それでも、境界の風に奪われることなく魈の耳へ届いた。

魈は、握り返された指の感触を確かめるように、眠蝶の手を支えている。

 

「あなたが、私を今日まで繋いでくれました」

 

眠蝶は、魈の手を離さない。

 

「だから今度は――私がこの手で繋ぎます」

 

眠蝶の胸元から、火の粉に似た光が零れた。

赤は衣越しに広がり、失われかけていた眠蝶の輪郭を内側から照らしていく。

薪へ火を移した時のように、頼りなく揺れながら、それでも確かに消えずに燃えている。

 

神の目。

 

これまで誰にも見せることなく衣の内側へ仕舞われていたそれが、赤く輝いて脈を打つ。

 

一度。

もう一度。

 

「私も、明日にいきたいの」

 

その言葉に応えるように、炎が燃え上がった。

 

 

 

*

 

 

 

「胡桃……っ! 右の札、光が消えそうだ!」

「分かってる!」

 

地脈の入口の前で、胡桃は地面へ両手をついていた。

札を結んだ紐は限界まで張り、岩肌へ差した紙片の端が焦げ始めている。

境界の歪みが膨らむたび、入口は形を失おうとした。

胡桃は歯を食いしばり、指先へ力を込める。

 

「まだ、諦めないよ……っ!」

 

胡桃は片手を離し、札へ触れた。

赤い文字が一度暗くなる。

その瞬間、指先へ温かいものが触れた。

胡桃が顔を上げる。

 

「青い、蝶」

 

一匹の蝶が、胡桃の目の前を飛んでいた。

札から赤い光が立ち上がる。

青と赤が重なり、二つの色がより大きな輝きを放った。

手の下で、境界が脈打つ。

外から無理やりこじ開けていた入口が、向こう側からも開こうとしている。

 

「……そっか」

 

胡桃は息を吐いた。

口元を引き上げる。

 

「ようやく帰ってくる気になったんだね」

 

もう一度、両手を地面へつく。

 

「だったら、帰り道くらい任せなさい!」

 

札が一斉に輝いた。

 

 

 

*

 

 

 

眠蝶の胸元で灯り直した神の目が、目を灼くほどの赤を放っていた。

その熱は魈の腕を伝い、やがて旅人の掌にまで届く。

 

魈の手は、眠蝶を離さない。

そして今度は、眠蝶の指もまた、しっかりと魈を握り返していた。

 

奈落から這い上がっていた冷気がわずかに退く。

底へ引きずり込もうとしていた力が、確かに緩んだ。

 

「今だ……っ!」

 

旅人は残っていた力のすべてを腕へ集めた。

魈が岩壁を蹴り、白い袖が崖の縁を越え、続いて肩が上がる。

最後に眠蝶の身体を引き上げた瞬間、三人はもつれ合うように地面へ崩れ落ちた。

 

つい先ほどまで身を預けていた崖の縁が、鈍い音を立てて奈落へ崩れていく。

赤い残光がその破片を舐め、やがて闇の底へ静かに呑み込まれていった。

 

旅人は仰向けに倒れたまま、しばらく荒い息だけを繰り返した。

両腕は、もう自分のものでないくらい痺れている。

傍らで衣擦れの音がする。

魈が先に身を起こし、その向こうで、白い衣がゆっくりと立ち上がった。

 

「ありがとう。旅人さん」

 

声が降ってくる。

見上げると、眠蝶が手を差し伸べていた。

白い指先に、血の色が戻りつつある。

旅人はその手を取った。

 

温かい。

 

あの芯まで凍えるように冷たかった手が、確かな体温を湛えている。

その温度に引かれるように身体を起こす。

痺れた腕に力を込め、旅人はようやく自分の足で立った。

 

「眠蝶……もしかして記憶が……」

「ふふっ、自己紹介がまだでしたね」

 

眠蝶が微笑む。

胸元では、赤く灯った神の目が穏やかに脈打っている。

 

「私は胡梅(フーメイ)。生者を癒し、死者を見送ってきた、往生堂の一員です」

「胡、梅……」

 

あの夜、埃だらけの保管庫で読んだ日記の一節が、血の通った顔と重なっていく。

消えかけた墨で残っていた名前。

七人きょうだいの中にあった、二文字の存在。

 

「かつての私は、境界で命を落とす寸前でした。それを夜叉様に救っていただいたのです」

「違う」

 

魈の声が、静かに割って入った。

いつもは鋭い金の瞳が、かすかに揺れている。

 

「我ではない。あの時⋯⋯我の手は届かなかった」

 

眠蝶はゆるく首を横に振った。

眉尻を下げたまま、唇だけが静かに弧を描く。

 

「いいえ。ちゃんと届いていましたよ。私を救おうとしてくださった、その思いが」

 

眠蝶の指が、自身の手のひらに残された温もりを包むように、そっと握られる。

 

「だから私は、今日にたどり着けたのです」

 

その時だった。

 

轟音が響き、足元が大きく跳ねた。

悲鳴のような音を立てて、岩壁の一部が崩れ落ちる。

静かだったはずの空間が、一瞬で牙を剥いた。

古びた家屋の向こうに重なる、見知らぬ山道――五百年前と今とが溶け合い、どこまでが生者の領域で、どこからが死者の領域なのかも、もはや判然としない。

一つの景色の中で、過去と現在が互いを押し退けるように揺らいでいる。

 

「魈……っ、眠蝶を先に!」

 

再び地面が鳴った。

崖際から岩が剥がれ、奈落へ吸い込まれていく。

地脈の青白い光は幾筋にも枝分かれし、闇の奥へ伸びていた。

どれが来た道なのか、もう判別できない。

 

「大丈夫よ、旅人さん」

 

眠蝶の指に、一匹の青い蝶が吸い寄せられるように止まった。

 

「ここは境界。ならば、往生堂の領域です」

 

蝶の羽が炎のように揺らめく。

眠蝶はすでに、闇の奥を見据えていた。

 

「私が、あなたたちを導きます」

 

地脈の奥で別の光が脈打った。

それと同時に、青い蝶が燃え盛り、群れとなって一斉に羽ばたいた。

淡青の燐火が、一匹、また一匹と闇の奥へ流れていく。

 

「お二人とも、こちらへ!」

 

白い背が、二人の前を行く。

崩れゆく世界のただ中で、その足取りだけが、迷いなく前へ進んでいた。

旅人と魈がそれに続く。

 

境界が大きく揺れた。

岩壁が裂け、その向こうから五百年前の家並みが覗く。

燃えた柱。

崩れた屋根。

誰かを呼ぶ声。

眠蝶の足が、ほんの一瞬だけ鈍る。

それでも、止まらない。

青い蝶が角を曲がり、眠蝶もその後を追っていった。

 

「この蝶が、案内してくれてるの?」

「ええ。進むべき方を教えてくれるのです」

 

一匹の蝶が、応えるように宙をくるりと回る。

 

「ずっと一緒に、死者を送る道を歩いてきた子たちです」

 

それだけ言って、彼女はさらに足を速めた。

青い蝶の群れもまた、彼女を導くように勢いを増す。

やがて蝶たちが一斉に舞い上がった。

 

その先で――道が途切れている。

 

「行き止まり?」

「いいえ」

 

眠蝶は岩壁に掌を当てる。

朱い光が、指の隙間から滲んでくる。

強く、真っ直ぐ、こちら側へ道を押し開こうとしている。

胡梅の目元が和らぐ。

 

「ありがとう、胡堂主」

 

朱い亀裂へ、青い蝶が次々と集まった。

赤と青、二つの光がひとつの輪郭を描き、閉ざされていた境界を内と外から押し開いていく。

向こう側から、光が差す。

 

眠蝶がこちらを振り返る。

 

「さあ、帰りましょう」

 

そして、自ら光の中へ踏み出した。

 

 

 

*

 

 

 

光の向こうへ踏み込んだ途端、風の匂いが変わった。

湿った境界の冷気が背後へ退き、乾いた土と草、それから遠い璃月港から運ばれてくる香ばしい油の匂いが鼻を掠める。

眩さを離れた目に、夜闇が染み込んだ。

地脈の底にいるうちに、現世ではとうに日が暮れていたらしい。

足の裏には、もう揺らぐことのない、確かな地面の硬さがある。

 

振り返ると、境界の裂け目から魈が抜け出してくるところだった。

その手に導かれるように、眠蝶が続く。

 

一歩目は頼りなかった。

膝が折れかけ、魈が咄嗟に腕を差し出す。

旅人も支えようと手を伸ばした。

けれど眠蝶は、二人より先に、自分の足へ力を込めていた。

差し出された二つの手が、触れる寸前で止まる。

 

土を踏む。

もう一度。

今度は、崩れなかった。

 

「眠蝶!」

 

声が飛んでくる。

入口の傍らで、胡桃が弾かれたように顔を上げた。

地面へついていた両手を離した途端、周囲に貼られていた札が一斉に力を失い、赤い文字が紙の上へ音もなく沈んでいく。

駆けてくる胡桃を、眠蝶も見つめ返した。

その間で、境界が低く音を立てる。

開かれていた裂け目が内側から潰れ、青白い地脈の光を呑み込みながら閉じていった。

 

「ただいま、胡堂主」

 

胡桃は一度、唇を強く結んだ。

喉の奥で何かがつかえたように、ひと呼吸ぶんの間が落ちる。

 

「……遅いよ」

「ごめんなさい」

 

眠蝶が、胡桃の手を取った。

胡桃は目を見開いて、それから手を握り返した。

指先から掌へ、そこにあるものを確かめるように指が滑り、そのまま強く絡む。

 

「ほんとにね。こっちはもう、今日一日分どころか一生分くらい頑張ったんだから」

「眠蝶ーっ!」

 

今度はパイモンが横から飛び込んだ。

そのまま眠蝶の胸元へ抱きつこうとして、勢いを殺しきれず白い衣へ顔から突っ込む。

 

「もう! もう勝手に消えるの禁止だからな! 急にいなくなって、呼んでも返事しなくなって、それで……!」

 

最後まで言えず、パイモンは眠蝶の衣を握りしめた。

小さな拳が、白い布に皺を刻む。

眠蝶は空いているほうの手を、その小さな頭へそっと置いた。

 

「ええ。心配をかけてごめんなさい。もう、勝手にいなくなったりしないわ」

「ほんとか?」

「たぶん」

「そこは絶対って言えよ!」

 

軽口の応酬に、ようやく、いつもの調子が戻ってくる。

旅人は、詰めていた息をそっと吐き出した。

隣に立つ魈からも、先ほどまで纏っていた張りつめた空気が少しずつ解けていく。

山の向こうから、祭囃子が風に乗って届いた。

音のするほうへ目を向けると、提灯の灯が、夜の海辺に街の形を淡く描き出している。

 

「それ……神の目?」

 

胡桃が、眠蝶の胸元で光る宝石を指さす。

眠蝶は衣の内側へ指を差し入れ、赤く灯るそれを取り出す。

 

「そうよ。昔に授かったの。ずっと忘れていたけれど」

 

境界の底でさえ色を失わなかったその輝きは、眠蝶の手の中で璃月の夜景をひっそりと映していた。

眠蝶はしばらくそれを見つめてから、また胸元へしまい直した。

遠い日の自分から預かったものを、再び胸の奥へ戻すように。

 

「思い出したの?」

「ええ。まだ、全部ではないけれど」

 

夜風に揺れた眠蝶の長い髪が、頬をひと筋かすめた。

 

「胡梅。私は昔、そう呼ばれていたの」

「胡梅って、日記にあった」

「そう。胡堂主が教えてくれた、七兄弟の五番目よ」

「じゃあ、これからは眠蝶じゃなくて……」

「確かに、私は胡梅だわ。でも、眠蝶も私よ」

 

衣の内側で、赤い光がひとつ、鼓動のように脈打った。

 

「だから、これからも眠蝶と呼んでちょうだい」

 

胡桃は何も言わず、握られた手を握り返す。

パイモンは鼻を啜り、袖でぐいと目元を拭った。

 

「そうだ! 眠蝶は眠蝶だぞ!」

「ええ」

「でも胡梅だって大事な名前だろ? 上手く合体するとか、こう……」

「あら。パイモンさんが新しい名前を考えてくれるの?」

「オイラ任せなのか!?」

 

情けない声が山道にこだまし、それにつられて、誰からともなく笑いがこぼれる。

その時、胡桃が夜空を見上げた。

 

「あっ」

「どうした?」

 

パイモンもつられて上を向く。

璃月港の空は暗いままだ。

けれど街のあちこちで、人々が広場へ集まり始めているのが見えた。

 

「まだ間に合う」

「何が?」

「何が、じゃないでしょ。約束したじゃん」

 

眠蝶の手を引く。

 

「霄灯」

 

その一言に、眠蝶の睫毛が小さく震えた。

胡桃が、握った手を離さぬまま歩き出す。

 

「特等席! 忘れたとは言わせないよ」

「急ごうぜ! せっかく助かったのに、霄灯に間に合わなかったらもったいないぞ!」

 

眠蝶は引かれるまま一歩進み、それから、自分の足で胡桃の隣へ並んだ。

旅人もあとを追おうとして、ふと足を止める。

魈が、その場に立ったままでいた。

祭の灯が届くか届かないかの、夜の縁に。

数歩先にいる眠蝶が振り返る。

 

「夜叉様」

 

柔らかな呼び声だった。

その声に引かれるように、魈も旅人たちの後ろを歩き出した。

 

胡桃の言う特等席は、璃月港を見下ろす丘の上にあった。

祭の中心から離れているせいか、人影はほとんどない。

なだらかな草地の先には、港と海、そしてその向こうの夜空までが、遮るものなく広がっていた。

丘へ続く坂を上っている途中、最初の歓声が届く。

 

「始まるぞ!」

「大変! 早く早く!」

 

坂を駆け上がる足が、いっそう速くなる。

眠蝶の白い裾が草を払い、夜露が細かな粒となって散る。

 

丘の上へ着いたのは、璃月港から最初の霄灯が上がる頃だった。

一つ。

夜風を受け、ゆっくりと高度を増していく。

その後を追うように、港の別の場所から二つ目が浮かんだ。

港の屋根から、広場から、桟橋から。

人々の手を離れた光が夜空へ向かっていく。

三つ目。

五つ。

十。

数える必要がなくなるまで、灯は絶えず空へ昇り続ける。

地平線いっぱいに揺れる灯は、空と海の境をやわらかく曖昧にしていった。

 

眠蝶は、動かなかった。

 

胡桃に握られた手を下ろしたまま、ただ夜空を見上げている。

群れを成す灯の中を、一際大きな光がゆっくりと昇っていく。

遠くで歓声が上がった。

それは、山で何度も傾き、紙を破り、職人たちを困らせていたあの霄灯だった。

 

――こんな時だから飛ばすんだよ。

 

眠蝶の頬を、光の粒が伝った。

本人は拭わない。

もうひと筋、灯の光を受けながら顎から落ちていく。

パイモンが何か言いかけたが、旅人は視線だけでそれを止めた。

魈は丘の後方に立ったまま、動かなかった。

誰よりも遠い場所から、灯を見上げる白い後ろ姿を見守っている。

風が吹き、眠蝶の髪が頬へ掛かって、涙の跡へ張りつく。

胡桃が隣に並んだ。

二人の手は、まだ繋がったままだ。

 

「綺麗でしょ」

 

眠蝶は夜空を見たまま、ゆっくりと瞬きをした。

 

「ええ」

 

胡桃の指が、眠蝶の手をそっと引く。

 

「さあ、私たちも霄灯を飛ばそう!」

 

丘の端には、いつの間に用意したのか、複数の霄灯が置かれていた。

胡桃に手を引かれ、眠蝶がそちらへ歩いていく。

パイモンもその後を追い、旅人と魈も続いた。

 

夜の岩肌は変わらず黒く沈んでいる。

けれどその麓には、家々の灯が、祭の提灯が、空へ昇る霄灯が、途切れることなく明滅していた。

そして地平線を縁取る光の波を、巨大な岩肌が抱きしめる。

 

少し離れた木の下に、鍾離は一人立っていた。

まるで最初からそこに根を張っていたかのように、誰もその気配に気づいていない。

彼は空へ上がっていく無数の灯と、その下で胡桃に手を引かれていく白い姿を見ていた。

夜風が長い衣の裾を揺らす。

鍾離は、灯りを映す岩峰へ目をやり、静かに目を細めた。

 

「璃月は、五百年前の問いにようやく答えを返せたようだ」





ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次話に、後日談と眠蝶の公式風のキャラクターストーリーを投稿予定です。

よろしければ、もう少しだけお付き合いいただけると嬉しいです。
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