海灯祭が終わってから数日。
璃月港には、まだ祭の名残が残っていた。
夜空を埋めた霄灯はもうない。
通りでは提灯の骨組みを肩に担いだ職人が行き交い、祭の間だけ増えていた露店も、いつもの店構えへ戻り始めていた。
往生堂の門をくぐった旅人とパイモンを迎えたのは、机いっぱいに帳簿を広げた胡桃だった。
「お、悪いね二人とも。来てもらっちゃって」
胡桃は筆を握ったまま、顔だけをこちらへ向ける。
机の端には、空になった茶杯が二つ。
壁際には見覚えのある白い上着が掛けられ、その下には布に包まれた薬草籠が置かれている。
棚の一角には、以前はなかったはずの茶碗がひとつ、何食わぬ顔で収まっていた。
「ううん。海灯祭も終わって時間があったし、俺たちもあの保管庫には興味があるから」
「助かるよ。あそこの埃、女二人だけじゃさすがに手に負えなくてさ」
胡桃は筆を置き、両腕を天井へ突き上げて大きく伸びをした。
椅子の背が、ぎしりと軋む。
「あれ、眠蝶は?」
「山の方。薬草を採りに行ったよ」
「一人で!?」
「大丈夫、大丈夫」
胡桃はひらひらと手を振り、窓の外へ目をやった。
陽はすでに高い。
窓の縁に飾られた幽霊と蝶の飴細工が、光を透かして、きらきらと瞬いている。
「最近は急に倒れたりもしないし。心配だからって、ずっと手をつないで歩くわけにもいかないでしょ」
軽い口ぶりの奥に、気を揉んだ日々の名残が滲んでいた。
胡桃は軽く笑いながら、二人へ向き直る。
その間に、パイモンの視線は、卓の隅に置かれた菓子箱へ吸い寄せられていた。
「あ、そうそう。それ、二人も食べていいよ。手伝い料の先払いってことで」
「え!? いいのか!?」
「昨日、眠蝶を訪ねてきた人が置いていったんだよ。ほら、前に眠蝶を嫁にどうこうって騒いでたおじいさん、いたでしょ?」
「あの万民堂のおじいさん?」
「訪ねてきたのは、その息子さん夫婦。正確には、近々夫婦になる二人、か。『父がお騒がせしました』ってね」
「嫁さん、いたのかよ!」
「お父さんにまだ紹介してなかっただけみたい。全部一人で先走ってたってさ」
胡桃の肩が小刻みに揺れ、束ねた髪が背で小さく弾んだ。
「それで、眠蝶はなんて?」
「『そんなことがあったの? 知らなかったわ。おめでとう』って」
「さすが眠蝶……」
旅人とパイモンは顔を見合わせ、そろって苦笑をこぼした。
「さて、早速掃除と行きたいところだけど、実は書類がもうちょっとだけかかりそうなんだよね」
「じゃあ、その間に俺たちが眠蝶を呼んでくるよ」
「本当? 助かる!」
「任せろ! オイラたちがちゃんと連れて帰ってくるぞ!」
「お礼はこの後の昼食ってことで。頼んだよ」
軽やかな声を背に受けて、二人は往生堂を後にした。
*
港の外れへ続く道の途中で、薬草籠を抱えた小さな二つの人影に出会った。
七七とヨォーヨだ。
「旅人。パイモン」
「こんにちは!」
「おう、こんにちは! 二人とも、眠蝶を見なかったか? 山に薬草を採りに行ったみたいなんだけど」
「見た」
七七が、こくりと頷く。
「一緒に、薬草、採った」
「やっぱり!」
ヨォーヨが、山の稜線へ視線を投げた。
峰のあたりに、朝の名残の雲がひとすじ引っかかっている。
「途中で別れたんです。眠蝶お姉ちゃん、もう少し上まで行ってみるって」
「相変わらず自由だなあ」
「眠蝶、楽しそうだった」
「そっか」
旅人は、思わず口元を緩めた。
それだけ聞ければ、十分だった。
二人に手を振り、山道を登り始める。
道の先から、今度は千岩軍の兵士が荷車を押してきた。
荷台には、折れた竹組みや、雨を吸って形を崩した紙が、うず高く積まれている。
「あそこに乗ってるの、霄灯か?」
「そういえば、海灯祭の後に千岩軍が回収して回るんだったね」
祭の夜、空いっぱいに昇っていった灯が地上へ還り、土にまみれて積み重ねられていた。
「こんにちは。この辺で、白い服の女の人を見なかった?」
旅人が尋ねると、兵士は考える間もなく頷いた。
「ああ。眠蝶さんか。往生堂堂主の親戚の」
パイモンが旅人を見る。
「もう普通に名前で通じたぞ」
「そりゃ、あれだけ街を歩いてれば顔も覚えるさ。往生堂を手伝うために、わざわざ遠くから越して来たんだろ? 熱心なもんだよ」
兵士は屈託なく笑った。
この街の人々の記憶のなかに、彼女の名前が、いつの間にか根を下ろしている。
「彼女なら、山頂の方へ登っていったよ」
「ありがとう!」
「ああ、そうだ。ついでに悪いんだが――」
兵士は荷台の霄灯をざっと見渡し、その中からひとつを選んで拾い上げる。
土の汚れはあるものの、竹の骨組みは、まだしっかりと形を保っていた。
「眠蝶さんに会うなら、これも持っていってくれないか?」
「これを?」
「さっき一つ欲しいって持っていったんだ。こっちの方が綺麗そうだから、よかったら取り替えてやってくれ。どうせ処分しちまうから」
兵士が、指の背で灯についた土を軽く払う。
差し出されたそれを、旅人は両手で受け取った。
「分かった。渡しておくね」
「頼む」
兵士は荷車の持ち手を握り直した。
竹と紙の擦れ合う乾いた音を曳きながら、荷車は港の方へ遠ざかっていく。
パイモンが、旅人の手の中の灯を覗き込んだ。
「落ちた霄灯なんて、何に使うんだろうな?」
「眠蝶に聞いてみようか」
*
璃月港を離れるにつれて、山肌を覆う草の匂いが近くなる。
昨夜の雨で、日の当たらない岩の窪みには水が残り、湿りを帯びた柔らかな土に、足跡が点々と続いていた。
旅人は、そのひとつの前にしゃがみ込む。
爪先は山の上を向いている。
少し先には、摘み取られたばかりの清心の茎が残っていた。
さらに登ると、白い花弁が一枚、草の上に伏せている。
「こっちで間違いなさそうだね」
旅人は立ち上がり、膝の土を払った。
もう、青い蝶を追う必要はない。
歪んだ地脈の軋みを探す必要もない。
眠蝶が自分の足で歩いた跡を、ただ辿っていけばいいのだ。
山頂付近までたどり着くと、一本の老木が岩肌のほうへ枝を差し伸べているのが見えた。
その影に、人影がひとつ立っている。
風に煽られて、裾がかすかに揺れていた。
「お、今度は魈じゃないか。魈ー!」
パイモンが呼びかけながら飛んでいく。
魈は振り向かなかった。
その視線は、老木のさらに向こうへ、静かに据えられたままだった。
「こんにちは、魈」
「お前たちか」
「こんなところに立って、何やってるんだ?」
「……大したことではない」
旅人は魈の視線の先を辿り、その向こうを覗き込んだ。
白い衣が、草の上にふわりと広がっている。
眠蝶だった。
清心の咲く斜面のかたわらで、彼女は身を横たえていた。
傍らには薬草籠と、土の跡を残した霄灯がひとつ、寄り添うように置かれている。
旅人は、自分の手元へ目を落とした。
同じ形の灯が、もうひとつ。
「眠蝶、やっぱり寝てたね」
「霄灯もほんとにもらってたんだな」
パイモンも、声をひそめた。
眠蝶の胸元が、ゆっくりと上下している。
草の匂いを含んだ風の中へ、その呼吸が静かに溶けていくようだった。
「それにしても眠蝶のやつ、相変わらずどこでも寝るんだな」
「山中で不用意に眠るなど、危機感が薄すぎる」
「魈もそう思ってたんだね」
魈が、ちらりと視線を寄越す。
「魈はずっとここにいたの?」
「いや。つい先ほどだ」
「眠蝶、迷子になったりしてなかった?」
「寄り道はしたようだが、迷った様子はない」
「やけに詳しいなあ」
魈の眉間に、皺が刻まれた。
ただ、その金の瞳だけは、草の上の白い影から、なかなか離れようとしなかった。
旅人は、眠蝶の傍らへ歩み寄り、薬草籠の中を覗き込んだ。
清心は種類ごとに布で仕切られ、丁寧に収められている。
見知らぬ草を無理に摘んだ形跡はなく、崖際へ近づいた跡もない。
「大丈夫そうだね」
魈の視線が、眠蝶から旅人へと移った。
そして、自分の立ち位置を手渡すように、そっと踵を返す。
「お前たちが来たなら、我は戻る」
「もう行くのか? せっかくだから、眠蝶が起きるまで――」
パイモンが言い終えるより早く、淡い翠の光が、魈の足元へ集まった。
その刹那、草の中で、白い指がかすかに動く。
しかし、風は一瞬のうちに山を越え、魈の姿も見えなくなった。
「行っちゃった」
「……あら、帰ってしまわれたの?」
「眠蝶!? 起きてたのか」
「ええ。少し前から」
眠蝶はゆっくりと身を起こし、両腕を空へ伸ばして、ひとつ大きく伸びをした。
「よく寝たわ。身体が痛いくらい」
「そりゃそうだろ。こんな山の上で寝てたら」
眠蝶は何度か瞬きを繰り返し、それから空を仰いだ。
雲が、ゆっくりと流れていく。
一羽の鳥が、白い雲の下を横切っていった。
その軌跡を、眠蝶の目が追う。
「穏やかで、気持ちいいわね」
「今度は寝る場所を考えろよ。魈も心配してたぞ」
「ふふ。そうね」
眠蝶は膝についた草を払いながら、立ち上がった。
その足取りに、ふらつきはない。
「夜叉様ね、あれから時々顔を見せに来てくださるのよ。今朝もご挨拶したの」
「へえ。よく会うんだね」
「ええ。いつも長居はなさらないけれど」
眠蝶は、魈の消えたほうへ目を向けた。
そこにはもう、風しか残っていない。
「今度は、お茶に誘ってみようかしら」
「魈がお茶……?」
「鍾離先生に教えていただいた茶葉があるの。美味しいのよ」
そう言うと、眠蝶は胸元から帳面を取り出した。
その背には、小ぶりの筆が一本、差し込まれている。
いつの間にか、帳面だけでなく携帯用の筆まで持ち歩くようになったようだ。
眠蝶は慣れた手つきで筆を抜き、頁を繰る。
さらさらと、一行。
――夜叉様を、お茶に誘う。
書き終えると、墨を乾かすように頁をそっと揺らす。
細い文字が、陽の下でまだ濡れた艶を残している。
「もう半分くらいまで埋まったんだね」
「ええ。毎日書くことがたくさんあるの。たまに、胡堂主も書いてくれるのよ」
眠蝶は、開いたままの頁を指の腹でなぞった。
整った彼女の文字の合間に、少し癖のある別の筆跡が、寄り添うように混じっている。
「そうだ。途中で千岩軍の人から霄灯を預かったんだ。もっと綺麗なのがあったって」
「あら。あの方、気にしてくださったのね」
旅人が霄灯を差し出すと、眠蝶は嬉しそうにそれを両手で受け取った。
「では、両方持って帰りましょう」
「そんなに持って帰って、何に使うんだ?」
「飾るのよ。新しい一つは、胡堂主へのお土産ね」
パイモンが、ぱちりと瞬きをする。
「置く場所あるのか?」
「帰ってから考えるわ」
「捨てろって言われたら?」
眠蝶は顎に指を添え、ほんの少し、真剣に考え込んだ。
「もう一回お願いするわ」
「許可が出るまで絶対折れなさそうだな……。じゃあ、胡桃の分はオイラが持ってくぞ!」
「いいの?」
「眠蝶は帳面も持ってるだろ? 帰るまで落としたりしたら大変だからな」
「それなら、薬草籠は俺が持つよ」
「ありがとう。旅人さん、パイモンさん」
眠蝶が形の整ったほうの霄灯を預けると、パイモンはそれを胸いっぱいに抱え込んだ。
旅人は薬草籠を持ち上げる。
思ったより、ずっしりと重い。
「帰ったら昼ご飯だって、胡桃が言ってたぞ。今日のお昼はなんだろうな?」
「朝餉の残りよ。今の火熾しは便利ね。すぐに火が熾せるの」
「もしかして、眠蝶が作ったのか!?」
「そうよ。でも、作りすぎてしまったみたいで……。胡堂主に三日分はあると言われたわ」
「なんでそんなことに……」
「大きい鍋の方が手に馴染んだから、厨にあった一番大きい鍋を使ったの。そうしたら、催事用だったみたい」
眠蝶が、声を弾ませて笑った。
その笑い声が、風に乗って斜面を転がっていく。
「だから、二人もいっぱい食べていってね。胡堂主も美味しいって言ってくれたから、味は保証するわ」
「もちろん!」
「そういえば、不卜廬に本を返すのは大丈夫? さっき帳面に書いてあったけど」
「ふふっ。大丈夫よ」
眠蝶はくすりと笑い、山道の先を見遣る。
木々の切れ間に、璃月港の屋根が小さく連なっている。
「ちゃんと覚えてるわ。それは、明日の予定」
明日。
その一語が、ごく当たり前の重さで、唇からこぼれ落ちた。
眠蝶は墨の乾いた帳面を持ち替え、霄灯を抱え直す。
今は火のない霄灯が、彼女の腕の中でほのかに明るく見えた。
「さあ、帰ってお昼にしましょう。胡堂主を待たせているものね」
「賛成!」
パイモンが即答した。
三つの影が、山道をゆるやかに下りはじめる。
風に押され、眠蝶が持つ帳面の頁が、一枚、また一枚とめくれた。
頁には、細い文字がいくつも並んでいる。
――白朮先生に本を返す。その後、七七先生と薬学のお勉強。
――保管庫の掃除。旅人さんとパイモンさんも一緒。
――万民堂で一番人気のレシピ。
その間に、明らかに違う筆跡が混じっている。
――迷ったら動かないこと!
――帰り道が分からなければ、人に尋ねる!
そして最後。
――夜叉様を、お茶に誘う。
風がもう一枚、頁を送った。
その先には、まだ何も書かれていない頁が続いている。