原作主人公に幸せになってほしい系オリ主 作:ほいぽい太郎
さて。巨人で遊ぶためにも、やっぱりナイフ一つだけでは物足りないな。
さっきの一体でわかった。この体なら刃が一本でも殺せる。だが、一本だとどうしても「次の一手」に間が空く。せめてもう一本あれば、もっと楽に、もっと楽しくやれるんだが。
辺りを見回す。壁の近くまで来たからか、この周辺にはもう生きている人間の気配がほとんどない。開け放された扉。転がった靴の片方。倒れた荷車からこぼれた粉袋が、風に白い粉を散らしている。
物陰や家の中で息を殺して隠れているか。逃げたか。巨人の餌になったか。そのどれかだ。
なら、いいよな? 火事場泥棒やっても。別にここに帰ってくる人はいないんだから。
思い立ったら即実行。俺は人がいなさそうな家を選んで、開いたままの扉から中に入った。念のため透き通る世界で壁の向こうを覜いてみたが、脈打つものは何もなかった。
ナイフはあるかー。刀でもいいぞー。というか刀が欲しい。縁壱といえばやっぱり刀だろう。
「……ナイフしかないか」
台所には、ついさっきまで夕飯の支度をしていたことが一目でわかる痕跡が残っていた。竈にはまだ温かい鍋。まな板の上には半分だけ刻まれたニンジン。その横に、一本のナイフが置かれていた。
手に取る。俺が今使っているナイフより、明らかに手入れが行き届いている。刃は丁寧に研がれ、柄には持ち主の手に馴染んだすり減りがある。大事に使われてきた道具だ。
――この鍋を作っていた人は、ちゃんと逃げられただろうか。
そんな考えが一瞬だけ頭をかすめて、すぐに消えた。
「コレでいいか」
右手には既に持っている安物のナイフ。左手には今手に入れたナイフ。それを胸の前で交差させ、モンハンに出てくる双剣使いのように構えてみる。
……案外様になっているんじゃないか?
幾度か空を切ってみる。一本の時とは違い、右が引くと同時に左が出る。左が引くと右が出る。切れ目のない刃の流れが、宙に光の輪を描く。いい。これはいい。
他にめぼしいものは、ここにはなかった。棚の上には小さな宝石箱のようなものもあったが、金品なんて持っていっても普通にかさばるだけだ。身動きが取りやすい今のままでいい。
「あ」
金品で思い出した。
金貨の入った革袋。さっきリンゴを樽の上に置いた時、巨人と戦うのに邪魔だからと一緒に置いてきてしまったじゃないか。大切に使いなさい、とか書かれてたのに。
まぁ、後で取りに行けばいいか。場所は覚えている。盗まれてないといいけど。こんな非常時に泥棒するやつは普通にクズだよ。
……。
握ったばかりの左手のナイフを見る。
いや、これは別だ。俺はこれで人類のために巨人を狩るんだから。問題ない。たぶん。
そんな、誰に聞かせるわけでもない言い訳をしていると――
ずしん。ずしん。
足の裏から、地響きが伝わってきた。棚の皿がカタカタと鳴る。もう次の巨人がここまで来たのかよ。
位置を確かめるために外へ出ると。
目と鼻の先に、巨人がいた。
14メートル級くらいか。毛のない頭を傾げ、丸い目でじっと俺を見下ろしている。巨人のいいところは、無警戒で近づいてきてくれること。そして遠くからでもわかる図体のデカさだ。探す手間が省けて助かる。
二刀流を試す、いい機会だ。
アキレス腱を切ってからの首ちょんぱはもうやった。せっかくだし、別の殺し方を試してみるか。
俺を掴もうと伸びてきた巨人の腕を、身を屈めてかいくぐる。そのまま股下をすり抜け、裏を取った。巨人が俺を見失って、きょろきょろとあたりを探している。
そのふくらはぎ目掛けて飛びかかり、両手のナイフを深々と突き刺す。
そこからはロッククライミングの要領だ。右を抜いて上へ刺す。左を抜いて上へ刺す。膝裏。太もも。尻。背中。巨人の体は熱く、刺した傍から蒸気が噴き出していく。巨人が背中の異物に気づいて身をよじり始める。だが、遅い。
巨人が何かをしようとする前に、俺はうなじにたどり着いていた。
二つの刃を、同時に。うなじの肉を左右から挟むようにして、そぎ落とす。
巨人が、ぶるりと一度震えて動かなくなった。
よし。今度は一撃で殺せたな。
「よっと」
巨人の体が傾き始める。それが地面に崩れるより早く、俺はその肩を蹴って隣の家の屋根へと飛び移った。瓦が一枚、足もとでびしりと鳴り、下に落ちていく。
屋根の上の方が、巨人を見つけるのは簡単になるだろう。
予想通りだ。今まで家々に遮られて見えていなかった巨人どもの姿が、はっきりと見渡せる。通りの向こうに二体。教会の尖塔の陰に一体。もっと遠く、破られた壁の穴の方からは、まだ次々と新しい影が入ってきている。
しかし、それは巨人の方も同じだった。
屋根の上に立ったことで、今まで家に隠れていた俺の姿を、巨人どもが捉えた。ぐるり、ぐるりと、いくつもの巨大な顔がこちらを向く。そして近くを徘徊していた巨人たちが、一斉に進路を俺の方角へと変えた。
目標が勝手にこっちに来てくれるのは、移動する手間が省けていいな。
縁壱になったせいか、顔の筋肉はあまり動かない。それでも、口元が少し緩んでいるのが自分でもわかった。
ああ。これで思う存分、ぶっ殺せる。
満員電車。定時で帰れない残業。意味のない会議。自分でもよくわからないまま積み上がっていた、現実でのあれこれ。そのストレスを、ここで全部吐き出させてもらおう。
そう思った時、少しだけ自分に呆れた。俺はいつから、こんなに戦闘狂になってしまったんだろうか。現実の俺は、部屋に出たゴキブリ一匹にも悲鳴を上げる男なのに。
まぁ、それも夢のせいってことで。
「ふっ」
短く息を吐き、向かってくる巨人たち目掛けて駆け出した。
立体機動装置もなしに、屋根から屋根へ。路地一つ分の隙間を、尋常ならざる脚力で一足飛びに越えていく。蹴るたびに足もとで瓦が弾け、風が耳で鳴る。十歳の子供の体重だからこそ、屋根を踏み抜かずに済んでいるのかもしれない。
前方から巨人が二体、迫ってくる。
どちらもバカの一つ覚えみたいに手を伸ばしてくる。俺を食べることしか脳にないらしい。動きがあまりにも単調すぎて、駆け引きにもならない。
とはいえ、あのデカさの生物にしては、動きはかなり素早い。腕一本で馬車一台分はあるのだ。俺以外の人間だったら、わかっていても避けられないかもしれないな。
屋根から屋根へ飛び移る、その空中。ついでに、という感覚で一体目の巨人のうなじをえぐり取った。すれ違い様に左の刃を引っ掛け、右の刃で押し切る。着地する頃には、背中の向こうで巨体が崩れる音がしていた。
二体目の巨人は、俺が飛び移った先の屋根へと手を伸ばしてきた。ちょうど着地の瞬間を狙うように。
悪くない。偶然だろうが。
慣性を殺しきれず、俺は巨人に背中を向けた状態で屋根を滑っていた。だが、関係ない。背後から迫る手の形も速さも、透き通る世界で全部見えている。
着地と同時にしゃがみ込む。ふくらはぎから太ももへ、力をためる。そして――後ろへ跳んだ。
巨大な指先が、ついさっきまで俺がいた空気を掴む。その真上を、俺は弧を描いて越えていく。巨人の頭すら越える、バク転。逆さまになった視界の端で、巨人の間の抜けた横顔が流れていった。
裏に回り込んだ。その勢いのまま、流れるようにうなじを掻っ捲く。
二体を数秒のうちに倒した。屋根に着地して、次を探す。
休む暇もない。また四体ほど、こちらに向かってきている。……もしかして俺のことが好きなのかな? 巨人のハーレムなんて、悪夢以外の何物でもないよ。
また屋根を越えて屋根へ。四体が密集した、その真ん中へと飛び込む。
空中で体を捻る。一回転。二回転。三回転。四回転。両手の刃が、俺を中心に光の渦を描く。四つのうなじを、その渦の中に巻き込んでいく。目にもとまらぬ速さ、ってやつだ。
四体の巨人が、ほとんど同時に崩れ落ちた。
……立体機動装置のワイヤーがなくても、回転斬りってできるんだな。作中では使ったやつの三半規管がぶっ壊れるとか言われていた技だが、何も感じない。目も回らない。つまり俺の三半規管は、ある意味でもうぶっ壊れている。アッカーマンあたりのやつと同じか。
また一体、出現した。
今度はあえて、巨人が伸ばしてきた腕の上に飛び乗ってみた。太い腕は、下手な屋根よりよほど足場がいい。そのまま二の腕、肩と駆け上がり、うなじをそぎ落とす。
また出現した。
それを殺す。
また出現する。
殺す。殺す。殺す。その繰り返し。
たまに、手ではなくいきなり大口を開けて突っ込んでくる奴もいた。だが、わかっていればどうということはない。下顎の筋肉が緊張した瞬間に、その動きはもう俺に届いている。
透き通る世界を視ている俺に、不意打ちは不可能だ。
こうやって色々な殺し方を試していると、アイデアは次第に尽きてくる。足から登る。腕から登る。空中で切る。回って切る。口に入ってくる奴を、すれ違いざまに切る。
まるで、今日の夕飯の献立を考えている気分だ。これは前に食べたしなぁ。最近食べてないものは何だったかな。みたいな。
それでも、ストレス発散にはなるのだけど。
そんな感じで、巨人の殺し方にマンネリを感じ始めていた――その時だった。
見覚えのある巨人を、発見した。
「あいつって……」
十五メートル級。周りの巨人より一回り大きいその巨体は、屋根の上からでも頭が抜きん出て見えた。
そして――非常に特徴的な顔をしていた。
今まで見てきた巨人よりも長い金髪。垂れ下がった目。そして、笑っているように大きく裂けた口と、そこから剥き出しになった歯茎。一度見たら忘れられない顔だ。少なくとも、あの作品を見たことがある人間にとっては。
ぱっと見で分かる。
あいつ、カルライーターじゃね?
カルライーター。ファンの間での通称だ。主人公エレン・イェーガーの母、カルラ・イェーガーを食べた巨人。その一件をきっかけに、エレンは巨人に対して強烈な憎悪を抱くことになる。
で、その巨人の正体は――エレンの父グリシャ・イェーガーの元嫁、ダイナ・フリッツ。夫の今の妻を、元妻が食べる。しかも当人は何もわかっていない。初めて知った時は、作者の性格の悪さに頂が下がったもんだ。
まぁ、今はそんなことを考えている場合じゃないか。
よく見ると、あの巨人は他の巨人と動きが違う。他の奴らが人間の気配を追ってふらふらと徘徊しているのに対して、あいつだけは足取りに迷いがない。路地の角を曲がるたび、まるで道を知っているかのように、一つの方角へと向かっている。
何か目的を持って動いている。
ということは――まだ、カルラは食べられていないのか?
あの迷いのなさは、未来のエレンに操作されている影響かもしれないな。始祖の力は時間すら超える。エレンは、自分の母が食べられるこの日を、自らの意志で導いている。そういう話だったはずだ。
とすると。あの巨人をぶっ殺したら、エレンは死に急ぎ野郎にも、ラスボスにもならずに済むのだろうか。
……まぁ、遅かれ早かれって話だと思う。あいつは生まれた時からそういうやつだった、というのは原作でも言及されている。母親が生きていようが死んでいようが、外の世界を知ったら、たぶん同じところにたどり着く。
それでも。
あいつを殺せば、少しは未来が変わるかもしれない。どうせこれは夢の中だ。何したってかまやしないだろ。カルライーターを殺したって。
うん。決めたぞ。
あの巨人を殺そう。
そうと決まれば、奴に近づかなくては。俺は屋根から屋根へ、何度も飛び移り続けた。途中で立ちはだかる巨人は、足を止めずにすれ違いざまに切り捨てていく。さっきまでの「遊び」とは違う。今は、ただ速く。
ようやく、奴の全貌が見えてきた。
だが、カルライーターは俺には全く見向きもしなかった。これだけ近づいても、一度もこちらに顔を向けない。ただひたすら、ある方向を目指して歩いている。
俺も、奴の目指す先を見つめた。
そこには、巨大な岩があった。巨人がすっぽり収まってしまいそうなほどの。壁の破片だ。超大型巨人が蹴り破った壁の一部が、ここまで飛んできたのだ。
あの場所って――もしかして、エレンの家か?
背筋が冷えた。
だとしたら、まずい。奴と大岩の距離。俺と奴の距離。頭の中で素早く計算する。――ギリギリだ。まだ遠い。
もう少し、スピードを上げるか。
そうして俺が、足へさらに力を込めようとした、その瞬間だった。
周辺を徘徊していた巨人たちが、一斉に俺に向かって走り出した。
ふらふらと、もうどうでもよさそうに歩いていた奴らが。突然、弓から放たれた矢のように。手足を不自然に振り回し、屋根や壁を蹴散らしながら。さっきまでは普通の無垢の巨人だったはずなのに、いきなり奇行種のように動きを変えたのだ。
「ッ!?」
一体何が起こった!?
透き通る世界が教えてくれる。左の家の向こう。右後方の路地。明らかに死角にいて、俺のことなど見えていなかったはずの巨人までもが、俺目掛けて迫ってくる。
何が奴らをそうさせた? 何がトリガーだった。そんなもの、どこに――
も……。
……もしかして。俺が、カルライーターを殺そうとしたのが原因か?
たしか、奇行種の一部はエレンに操作されていたはずだ。つまり、俺があの巨人を殺すのは、エレンにとって都合が悪いということ。だから巨人どもをけしかけてきた。――そう考えれば、辻褄は合う。
おいおい。
どんだけ自分の母親を殺したいんだよ、お前。
「クソッ!」
迫りくる巨人を殺さないと、カルライーターのもとにはたどり着けなくなった。今から行ってもギリギリだってのに、ここで足止めをくらったら――絶対に、カルラは食い殺される。
何とか――間に合えっ!
カルライーターが進み続ける、その後ろ。俺は突っ込んでくる巨人たちを迎え撃った。
右から一体。切る。左上から覆いかぶさるように二体。切る。足元の路地から伸びてくる手。その指を踏み台にして跳び、空中で別の一体のうなじを削ぐ。
操られているとはいっても、俺の敵ではない。動きが奇妙になっただけで、うなじが硬くなったわけでも、脳みそが増えたわけでもない。
だが、いかんせん数が多すぎる。
一体倒すのにかかる時間は、ほんの一瞬だ。だが、それが数十体となれば話は別だ。塵も積もれば山となる。切っても切っても、屋根の向こうから、路地の奥から、次の一体が湧いてくる。まるで、ここから先へは一歩も通さないという壁だ。巨人でできた、生きた壁。
切る。切る。切る。
その合間に、何度もカルライーターの背中を目で追う。少しずつ、しかし確実に、あの金髪は大岩に近づいていく。こちらは一歩も前に進めていないのに。
突撃してきた巨人をすべて掃討したのは、どれくらい経ってからだろう。
周り一帯に、立ち昇る蒸気が立ちこめていた。白い霧の中で、俺はゆっくりと振り向いた。
カルライーターは、大岩に到達していた。
そして俺は、それを見た。
大岩の傍らにしゃがみ込み、何かをあさっている巨人の背中を。破れた家の梁を、子供が積み木を崩すようにどかしていく。その下から、目当てのものを見つけたのか、巨人はゆっくりと立ち上がった。
その手に握られている物体は、人間の形をしていた。
距離があっても、透き通る世界は余計なものまで見せてくる。その体はまだ、動いていた。巨人の指を、弱々しく叩いていた。
そして――
俺は、そこで目を外した。
……間に合わなかったか。
両手のナイフが、やけに重く感じた。さっきまで、あんなにも軽かったのに。
まぁ、仕方ないか。そういう物語なんだ。ここでカルラが生き残る進撃の巨人なんて、たぶん進撃の巨人じゃない。
そうやって納得しようとするのに、胸の奥のどこかが、むずむずとして落ち着かなかった。
ごめん、ショタエレン。未来のエレンを、止められなかったよ。
どうやら夢の中でも、進撃の巨人はハッピーエンドにさせてくれないらしい。
……せめて、あの巨人を殺そう。
仇討ちは俺がしよう。今ここで。
そう思い、奴に近づこうと一歩踏み出した、その時。
遠くで、地響きが一斉に鳴り始めた。
先程と同じだった。通りの向こう、壁の穴の方、種々の方角から、巨人たちが奇妙な走り方で俺目掛けて駆けてくる。俺がカルライーターへ足を向けた、その瞬間に。
……エレン。
どうしても、あの巨人を殺して欲しくないみたいだな。
それはそうか。あいつは、未来のためにまだ必要な駒なんだ。母親を食った巨人を、自分で生かしておく。本当に、どうしようもない主人公だ。
はぁ。
わかった。あの巨人は殺さない。
ただまぁ、なんだ。
八つ当たりは、させてくれ。
俺目掛けて飛びかかってくる巨人を、回転斬りで切り刻む。
殺す。
殺す。
殺す。
もう、どうやって殺すかなんて考えていなかった。工夫も、楽しさもない。ただ目の前に来たものを、来た順に切る。体は勝手に最善の動きを選んでくれる。それが、今は少しだけ空しかった。
何時間経ったのだろう。
百体から先は、数えていない。
*
気がつけば、日は落ちていた。
西の空にわずかに残っていた茜色も、いつの間にか壁の向こうへ吸い込まれている。辺りには、巨人の影はもうなかった。動くものの気配がない。聞こえるのは、遠くでまだ燻っている火の、ぱちぱちという音だけだ。
あのカルライーターも、気づけばどこかへ消えていた。結局、殺すことはできなかった。
まだ巨人は、見えないだけでごまんといるだろう。壁の穴は開いたままだ。明日になれば、また奴らは動き出す。
両手のナイフに目を落とす。
右手の安物は、刃が根元から大きく欠けていた。左手の、あの台所のナイフも、刃先が丸く潰れ、柄にはひびが走っている。所詮は安物と、家庭用の包丁代わりだ。どれだけうまく使ったって、あれだけ斬れば壊れない方がおかしい。むしろここまでよく持ってくれた。
「……お疲れ」
誰に言うでもなくそう呟いて、二本とも腰の紐に差し直した。
……ここが潮時だな。
俺は屋根から降り、すっかり静まり返った通りを歩き出した。
来た道を戻る。昼間、人で溢れていた通りは、今は見る影もない。崩れた家。転がった荷車。そして、ところどころに残された、かつて人だったもの。透き通る世界は、こういう時にも律儀に全てを見せてくる。俺はなるべく足元を見ないように歩いた。
これは夢だ。夢だ。そう唱えるたびに、その言葉が少しずつ薄くなっていく気がした。
露店のあった場所に着いた。
木箱はばらばらに崩れ、あのおじさんの姿はどこにもない。無事に逃げられただろうか。わからない。わからない方がいいのかもしれない。
樽は、昼間と同じ場所に転がらずに立っていた。その上には、金貨の入った革袋と、一口かじっただけのリンゴ。
盗まれていなかった。まぁ、こんな日に泥棒する暇がある奴なんて生き残っていないか。
革袋を懐にしまい、リンゴを手に取る。断面は茶色く変色していた。それでも一口かじると、昼間と同じ甘酸っぱさが口に広がった。
死体まみれのシガンシナ区に背を向けて、俺は内門へと向かった。
本来、シガンシナ区とウォール・マリアの内側を繋いでいた門。そこもまた、無惨に破壊されていた。鎧の巨人の仕業だろう。分厚い扉は内側へひしゃげ、門の周りの石壁ごと抉り取られている。今日一日で、人類の百年は二度も破られたわけだ。
その穴をくぐって、ウォール・マリアの中へと入る。
振り返ると、月明かりの下、シガンシナの街はただ黒い影の塊になっていた。
体はまだまだ元気だった。息も上がっていないし、筋肉の張りもない。今からもう一戦やれと言われても、たぶんやれる。
だが、精神的にはもう限界だ。
気疲れがひどい。遊園地で絶叫マシンに乗りまくった後の、もうおなかいっぱいって感覚。楽しかったはずなのに、帰りの電車でどっと疲れが来るあれだ。
幸いにも今は夜だ。巨人も活動を停止しているだろう。原作通りなら、奴らは日光がないと動きが鈍る。寝るには絶好の時間帯だ。
寝ている間に巨人に食われて夢から覚める、なんてのは興ざめも興ざめだしな。
壁の近くの民家に入る。ここも、住人は昼のうちに逃げた後らしい。扉には鍵もかかっていなかった。
寝室にはベッドが一つ。毛布は少し湿っぽかったが、文句は言えない。ナイフを枕元に置き、ちょっとだけ借りますね、と誰もいない部屋に断ってから横になった。
天井を見上げる。今朝、目を覚ました時と同じ、剥き出しの梁。
そういえば。夢の中で寝たら、夢から覚めるのだろうか。
まぁ、覚めるか。というか、覚めてもらわないと困る。明日も仕事があるんだ。
たまには、こんな夢も悪くないだろう。
――ごめんな、ショタエレン。
そう思いながら、俺は意識を落とした。
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その日、人類は思い出した。
ヤツらに支配されていた恐怖を……。鳥籠の中に囚われていた屈辱を……。
ウォール・マリア南端、シガンシナ区陥落。
その報せは、わずか数時間のうちに人類領域のあらゆる街へと駆け巡った。百年もの間、一度として破られることのなかった壁。人々が疑うことすら忘れていた平和は、たった一日で崩れ去ったのだ。
そしてウォール・マリアの放棄により、人類は生活圏の実に三分の一を失うことになる。
シガンシナ区から川を下り、船でトロスト区へと逃げ延びた者たちの顔には、一様に絶望が張り付いていた。家を捨て、財産を捨て、そして多くは家族を置き去りにしてきた者たちだ。目の前で人が巨人に食われていく様を見せつけられて、正気を保てというのは、ただの市民には酷な話だった。船着き場に降り立っても、誰一人として口を開かない。ただ、すすり泣く声だけがあちこちから聞こえていた。
やがて、彼らの口から少しずつ、シガンシナ区で起きたことが語られ始める。それは人づてに、各地の街へと広がっていった。
壁よりも背の高い、超大型巨人の話。
全身を鎧のように硬い皮膚で覆い、内門を体当たりで打ち破った巨人の話。
どれもこれも、その場に居合わせた者でなければ到底信じられないような、荒唐無稽な話ばかりだった。
ほとんどの情報は、巨人に関するものだった。だが、その中に一つだけ、明らかに毛色の違う話が混ざっていた。
――一人の少年が、立体機動装置も使わずに、縦横無尽に巨人を殺して回っていた。
「子供だったんだ。十かそこらの」
「赤い髪で、額に火傷みたいな痣があった」
「両手に持ってたのは剣じゃない。包丁だよ、ただの台所の」
「屋根から屋根へ、鳥みたいに跳んでたんだ」
「笑ってた。あの子、笑ってたんだよ」
「いや、顔色一つ変えてなかった。それが余計に恐ろしかった」
証言は、細部になるほど食い違っていた。
当初、この話はまともに取り合われなかった。巨人の話とはまた別の方向に荒唐無稽すぎたのだ。兵士ですら命を落とす巨人を、刃物一本で、しかも子供が狩るなど。極限の恐怖が見せた幻だろう、と誰もが笑った。
しかし、笑い話で終わるには、目撃者の数が多すぎた。
避難民の中から、互いに面識のない何十人もが、同じ少年の姿を語ったのだ。さらに、最後まで区内に残って撤退した駐屯兵団の兵士の中にも、うなじを切り裂かれて蒸気を上げる巨人の骸が、通りにいくつも転がっていたのを見たと証言する者が現れた。兵団の誰も、そんな数を仕留めた覚えはないというのに。
やがて、その少年は実在したのではないか――という説が、まことしやかに囁かれるようになる。
巷に広まったその噂は、いつしか王都の地下に潜むと言われる殺人鬼「切り裂きケニー」と並ぶ都市伝説となった。
少年の名を知る者はいない。その後の行方を知る者も。
ただ、人々はそのあまりの理不尽な強さへの畏怖と畏敬を込めて、彼をこう呼んだ。
――「巨人狩り」と。
高評価お願いします。