第1話 ボレアス家の習い
序
雨が降っていた。
石壁の隙間から吹き込む風は、アスラの風とは違う匂いがした。乾いた土と、錆と、名前の分からない何かの匂い。
エリックは母の手を握っていた。
痩せた手だった。この手が何を作り、何を書いてきたのか、エリックは知っている。毎年の誕生日に届いた、差出人のない手編みの手袋。年に一度届くかどうかの、少し右に傾いた几帳面な文字。その全部を生み出した手が、今、自分の掌の中で冷えていく。
「……エリック」
母が、名前を呼んだ。
母の指が、胸元を探る。着の身着のままの粗末な服の内側から、擦り切れた紙が一枚、出てきた。何度も折り畳まれて、角が丸くなっている。
見覚えのある字だった。
自分の字だ。十二の時に書いた、たった一枚の返事。
「ずっと……持っていたのよ」
身分を証すものは何ひとつ持っていなかった母が、それだけは持っていた。
エリックは母の手を握り直した。
言うことは山ほどあった。一つずつ選んでいる時間はないと分かった。だから最初に浮かんだものから言った。
「手袋は、全部大事に使ってきました」
母の目が少しだけ開いた。
「毎年少しだけ大きかったです。次の冬にちょうどよくなりました」
「……そう」
「返事は一枚しか書きませんでした。書かなくても、伝わっていると思っていました」
母は少しだけ笑った。
それきりだった。
言い足りないことが、まだ山ほど残っていた。
背後で土を踏む音がした。
「……エリック」
低い声。振り返らなくても分かる。
「埋めてやろう。ここに置いてはいけない」
ギレーヌの声はいつもより少しだけ掠れていた。
一
アスラ王都アルスの朝は鐘の音で始まる。
一つ目の鐘が鳴り終わる前に、乳母のエルマが子供部屋の扉を開けた。
「エリック様、お目覚めの……あら」
寝台はもう空だった。
五歳のエリックは寝間着を畳み終えて稽古着の紐を結んでいるところだった。
「おはようございます、エルマ」
「おはようございます。今日もご自分で」
「はい。起こされると僕はエルマにひどいことを言うので」
エルマは扉の枠にもたれて、溜息をついた。
「覚えていらっしゃるんですか」
「覚えていません。でも、エルマが何度もその話をしてます」
「またいたしましょうか。去年の冬、お起こし申し上げたら、エリック様は寝台の中から真顔でこう仰いました。『エルマは、今日はもう口をきかないでください』」
「ひどいですね」
「ひどうございました」
「だから起こされる前に起きることにしました」
エルマはエリックの前に屈み込んだ。両手でエリックの顔を挟んだ。挟んで下から覗き込んだ。
毎朝のことだった。熱がないか、顔色が悪くないか。エルマは手と目でそれを確かめる。
「……よろしゅうございます」
それから結び終えた稽古着の襟を直した。直す必要のない襟だった。
「行ってらっしゃいませ」
「行ってきます」
五重の城壁に守られたこの都の、内から二つ目の壁の内側。上級貴族の屋敷が軒を連ねる一角に、ボレアス・グレイラット家の王都屋敷はある。
その中庭でエリックは木剣を構えていた。
「肘が下がっておりますぞ、エリック様」
「はい」
剣術師範のベルンハルトは白い髭をたくわえた老騎士だった。若い頃は剣神流の上級剣士として鳴らしたらしい。今は伯父に雇われ、この屋敷の子供たちに剣を教えている。
言われた通りに肘を上げ、もう一度木剣を振り下ろす。
子供用に削られた木剣でも、五歳の腕にはまだ重かった。振り終えた切っ先が、わずかにぶれる。
もう一回。
もう一回。
剣を習い始めて、まだ三月にしかならない。それでも、朝の稽古の時間が、エリックは一日の中で一番好きだった。木剣が空気を裂く音。足の裏で地面を掴む感触。昨日できなかったことが、今日はできるようになる手応え。
十回目の一振りで、切っ先がぴたりと止まった。
ぶれなかった。
エリックの口元が、わずかに緩んだ。本人は気づいていなかった。
「……ほう」
ベルンハルトが、白い髭の奥で小さく唸った。
「今の一振りは、よろしゅうございましたな」
「はい。止まりました」
「ご自分でお分かりになりますか」
「腕が、軽かったです。肘を上げたら、肩の力が抜けました。肩の力が抜けたら、最後に止めるところで、腕が勝手に止まりました」
ベルンハルトはわずかに目を見開いた。それから、何か面白いものを見つけたように、髭を撫でた。
「もう一回、よろしいですか」
「ええ、どうぞ」
「百回、よろしいですか」
「……百回、ですか」
「さっきのを百回やりたいです」
ベルンハルトはしばらくエリックの顔を見下ろしていた。
それから、困ったような嬉しいような顔で笑った。
「では、五十回にいたしましょう。百回やると、明日、腕が上がりませぬゆえ」
「五十回やって、明日また五十回やれば、百回になります」
「……左様でございますな」
ベルンハルトは髭を撫でながら空を仰いだ。
「では、五十回の前に、一つだけ」
老騎士は自分の木剣を構えた。構えて、一歩踏み込んだ。
速かった。地面を蹴る音と木剣が止まる音が、ほとんど同時に聞こえた。
「剣神流は、この一歩が命でございます。迷えば半歩遅れる。半歩遅れれば斬られる」
「迷わない一歩、ですか」
「左様。足が先。剣は足についてまいります」
エリックは自分の足元を見た。
見て、踏み込んだ。
木剣が足より先に出た。体が前に流れて、つんのめった。
「剣が、先に出ました」
「出ましたな」
「もう一回」
二回目も剣が先に出た。三回目は足と剣が同時だった。
四回目で、ほんのわずかに足が先に出た。
「……今のは、足が先でした」
「半歩の、そのまた半分ほど」
「では、あと九百九十九回やれば半歩になります」
「その計算は、どこから」
「なんとなくです」
ベルンハルトはとうとう声を出して笑った。
「なんだ、まだやってたのか」
中庭の反対側から、欠伸混じりの声がした。
寝間着の上に上着を羽織っただけの少年が、使用人を二人引き連れて歩いてくる。
ユリウス・ボレアス・グレイラット。伯父の一人息子で、エリックより一つ年上の従兄だ。
「おはようございます、ユリウス様」
ベルンハルトが頭を下げる。エリックもそれに倣った。
「おはようございます、
「ん」
ユリウスは使用人の一人から木剣を受け取り、二、三度適当に振ってみせた。風を切る音はしなかった。
「なあ、ベルンハルト。今日はもういいだろ。眠いんだ」
「ユリウス様、せめて型をひとつだけでも」
「いいって。どうせこいつが強くなるんだから」
ユリウスは木剣の先でエリックを指した。
「お前、僕の護衛になるんだろ? 父上が言ってた」
エリックは一呼吸おいてから頷いた。
「はい」
「だったら、僕が剣を習う必要はないじゃないか」
「でも、僕が寝ている時は、守れません」
ユリウスの動きが、止まった。
「……は?」
「僕も夜は寝ます。その間に何かあったら、従兄上が自分で守らないといけません」
エリックは至極真面目に言った。
ユリウスはしばらく口を開けたまま固まっていた。それから、顔を赤くして木剣を使用人に放り投げた。
「う、うるさい! お前が寝なきゃいいだろ!」
「それは、無理だと思います」
「なんでだよ!」
「五歳は、寝ないと大きくなれないと、エルマが言っていました。大きくならないと、護衛はできません。それに、起こされると、僕は機嫌が悪くなります。機嫌の悪い護衛は、たぶん役に立ちません」
「……っ」
ユリウスは何か言い返そうとして口を開け、閉じ、また開け、結局何も言わずに足音を荒くして屋敷の中へ戻っていった。
ベルンハルトが、髭の奥で吹き出した。
「エリック様。それは、ごもっともでございますな」
「……間違ってましたか」
「いいえ。少しも」
エリックは首を傾げた。
それから、また木剣を構えた。
五十回のうち、まだ八回しか振っていなかった。
二
伯父に呼ばれたのはその日の昼過ぎのことだった。
伯父の書斎は屋敷の二階の一番奥にある。壁一面の書棚と大きな執務机。窓からは丘の上にそびえる白銀の王城が見えた。
「座りなさい」
伯父――ジェイムズ・ボレアス・グレイラットは書類から目を上げずに言った。
エリックは机の前の椅子によじ登るようにして座った。足が床に届かない。
伯父はしばらく書類に何かを書きつけていた。羽根ペンの音だけが部屋に響く。エリックは黙って待った。待つのは苦手ではなかった。
やがて伯父はペンを置き、初めてエリックの顔を見た。
「ベルンハルトから聞いた。筋が良いそうだな」
「ありがとうございます」
「……それから、ユリウスが、お前に言い負かされたと言って拗ねていた」
「言い負かしてはいません。本当のことを言っただけです」
「そうらしいな」
伯父は机の上で指を組んだ。
「お前はもう五つになった。そろそろ、自分がなぜこの家にいるのか、知っておいても良い頃だろう」
伯父の声が一段低くなった。
「お前の父はフィリップという。私の弟だ。今はフィットア領のロアという町で町長をしている」
エリックは頷いた。父の名前はエルマから聞いて知っていた。顔は知らない。
「ボレアス家には古い習いがある。家督を継ぐ者を決める時、兄弟の間で争いが起きる。そして、争いに敗れた者の男子は勝った者の家に引き取られて育つ」
「どうしてですか」
「次の争いの種にならぬようにだ」
伯父はそれが当たり前のことであるかのように言った。
「敗れた者が、その息子を旗頭にして再び争いを起こす。ボレアス家の歴史は、そういうことの繰り返しだった。だから、敗れた者の息子は父親から引き離す。勝った者の手元で勝った者の家の一員として育てる。そうすれば争いは一代で終わる」
エリックは伯父の言葉をひとつずつ並べ直した。
全部は分からなかった。けれど筋は分かった。筋が分かると、一つだけ訊かなければならないことが出てきた。
「僕の父上は、伯父上に負けたのですか」
「そうだ」
伯父はためらわなかった。
「恨むなら、この家の歴史を恨みなさい。私はそれに従っただけだ」
窓の外で鳥が鳴いた。
エリックは膝の上で手を握った。
悲しいのかもしれない、と思った。怒っているのかもしれない、とも。けれど顔も知らない父のために悲しむのは、どこか嘘のような気がした。そして、嘘はつけなかった。
「悲しいかどうか、分かりません」
伯父はしばらく黙っていた。
「……そうか」
「はい」
「お前の務めは、ユリウスを守ることだ」
伯父は言った。
「ユリウスは、いずれこの家を継ぐ。お前はその剣となれ。それが、この家で生きるお前の役目だ」
「はい」
「良い返事だ」
「伯父上」
「何だ」
「伯父上は、剣は強いのですか」
伯父が目を瞬いた。
書斎に妙な沈黙が落ちた。
「……なぜ、そんなことを訊く」
「僕がユリウスの剣になるなら、伯父上は誰の剣なのかと思って」
伯父はしばらくエリックの顔を見つめていた。
それから、ふっと鼻から息を吐いた。笑ったのかどうかは分からなかった。
「……私は剣は振らん。剣を持つ者を使う側だ」
「使う側も、剣のことを知っていた方がいいと思います。どの剣が折れやすいか、分からないと困るので」
「……ベルンハルトの受け売りか」
「いいえ。今考えました」
伯父は何かを確かめるように、じっとエリックの顔を見た。
「お前は、フィリップによく似ている」
その声には今までとは違う響きがあった。
懐かしんでいるのか、疎んでいるのか。五歳のエリックには分からなかった。
「下がりなさい」
三
午後、エリックは屋敷の裏庭にいた。
手には庭師の小屋の脇に落ちていた細い枝。
朝の五十回の続きだった。ベルンハルトの目がないところで、残りの四十二回を振っていた。一振りごとに足を先に出す。まだ半歩の半分の半分くらいだった。
「エリック様。やっぱりこんなところに」
声に振り向くと、エルマが呆れ顔で立っていた。
「朝のお稽古でもう十分でしょうに」
「あと十一回です」
「数えていらっしゃるの?」
「数えています。エルマが来た時が三十一回目だったので、あと十一回です」
エルマは溜息をついて、裏庭の古い石のベンチに腰を下ろした。
「では、あと十一回、見ていて差し上げます。終わったら、おやつですよ」
「はい」
振り上げる。振り下ろす。
エルマは黙ってそれを見ていた。
この屋敷で、エリックを「様」付けで呼びながら、叱ったり笑ったりしてくれるのは、エルマくらいのものだった。赤子の頃から、ずっと世話をしてくれている。エリックがこの屋敷に来た日のことを知っているのも、たぶんエルマだけだった。
「……三十九。四十。四十一」
最後の一回を振り終えて、エリックは枝を下ろした。
「四十二。終わりました」
「お見事でございます」
エルマが、ぱちぱちと手を叩いた。
エリックはエルマの隣に座った。足がベンチから浮いた。
「エルマ」
「はい、何でしょう」
「伯父上が、僕は父上に負けた家の子だと言いました」
エルマの笑顔がふと固まった。
「……旦那様が、そう仰いましたか」
「負けた者の男の子は、勝った者の家で育つんだそうです。次の争いの種にならないように」
エルマはエリックの髪に、そっと触れた。
「エリック様がこのお屋敷にいらしたのは、生まれて、ひと月も経たない頃でした。まだ、こんなに小さくて」
エルマは両手で小さな丸い形を作ってみせた。
「真っ赤なお顔で、ずっと泣いておいででしたよ。ひと晩じゅう。どうやっても泣き止まなくて、私も一緒に泣きたくなりました」
「僕、泣いてたんですか」
「ええ。今のエリック様からは、想像もできませんね」
「覚えていません」
「当たり前でございます。起こされた時のことも、覚えていらっしゃらないのですから」
「それは、覚えていない方がいいことです」
「都合のよろしいこと」
エルマはくすりと笑った。
「僕の母上は、どんな人?」
エルマの手が一瞬止まった。
それから、ゆっくりとエリックの髪を撫でた。
「エリック様と同じ、きれいな赤い髪をしていらっしゃいましたよ」
「髪?」
「ええ。まっすぐで、燃えるような赤。エリック様の髪は、お母上譲りです」
エリックは自分の前髪をつまんで見上げた。
赤い髪。水桶に映るたびに、少し目立つと思っていた髪。
「会ったことがあるんですか」
「一度だけ。エリック様をお迎えにあがった時に」
エルマは何かを思い出すように遠くを見た。
「……エリック様をこの腕にお渡しになる時、ずっと、手を離せずにいらっしゃいました」
「手を」
「ええ。お包みの端を、掴んだまま。お付きの方が何度もお声をかけて」
エリックは自分の手を見た。
掴んだら、離さない。
自分にもそういうところがあると、ベルンハルトに言われたことがあった。一度握った木剣を稽古が終わっても離さないと。
「……いつか、お会いになれば分かりますよ」
それ以上エルマは何も教えてくれなかった。
代わりにエプロンのポケットから、焼き菓子をひとつ取り出して、エリックの手に握らせた。
「四十二回の、ご褒美でございます」
「朝の八回の分は」
「それは、ベルンハルト様からもらってくださいまし」
おやつの焼き菓子をかじりながら廊下を歩いていると、ユリウスの部屋の前を通りかかった。
扉が細く開いていた。
中でユリウスが一人で、木剣を振っていた。
朝の中庭で使用人に放り投げていた木剣だった。誰も見ていない部屋の中で、ぶんぶんと、でたらめに振り回していた。
エリックは足を止めた。
ユリウスが気配に気づいて振り向いた。
二人の目が合った。
「……な、何見てるんだよ!」
「剣を振ってるんですか」
「振ってない! これは、その、肩が凝ったから、回してただけだ!」
ユリウスは顔を真っ赤にして、木剣を背中に隠した。
エリックは少し考えた。
「従兄上。肘が下がってます。肘を上げると、肩の力が抜けます。肩の力が抜けると」
「うるさい!」
扉がばたんと閉められた。
エリックは閉まった扉に向かって、続きを言った。
「最後に止めるところで、腕が勝手に止まります」
扉の向こうで木剣の音が一度だけした。
さっきより、まともな音だった。
エリックは焼き菓子をもう一口かじって、また歩き出した。
四
知らせは夕食の席でもたらされた。
長い食卓の上座に伯父。その右手にユリウス。左手の少し離れた席にエリック。いつもの配置だった。
食事の間、伯父はほとんど口をきかない。ユリウスが時折、今日の出来事を得意げに話し、伯父はそれに短く相槌を打つ。
「父上、今日、エリックの奴が、僕に寝るなって言ったんです」
「言ってません。寝ている時は守れないと言っただけです」
「同じことだろ!」
「違います。寝るなと言ったら、従兄上は寝なくなります。そうしたら、従兄上が大きくなれません」
「……ユリウス。食事中だ」
「はい……」
ユリウスが、しょんぼりと焼き菓子をかじった。
皿が下げられ、食後の茶が運ばれてきた時、伯父が不意に口を開いた。
「今日、ロアから書状が届いた」
エリックは茶器に伸ばしかけていた手を止めた。
ロア。昼間、伯父の口から聞いたばかりの名前。父が町長をしている町。
「フィリップに、娘が生まれたそうだ」
伯父は茶を一口含んでから続けた。
「名は、エリスというらしい」
「ふうん」
ユリウスは興味なさそうに焼き菓子をつまんだ。
「女か。じゃあ、ここには来ないんだな」
「来ない。女子は習いの外だ」
「つまんないの」
ユリウスは唇を小さく尖らせた。
「男だったら、僕の護衛が二人になったのに」
「……次に男子が生まれれば、習いに従い、ここへ引き取る。その時は、お前の護衛が二人になるかもしれんな」
「本当ですか、父上!」
「分からん。生まれてみなければな」
伯父とユリウスの会話はそれで終わった。
話題はユリウスの新しい家庭教師のことに移っていった。
エリックは茶器に手を伸ばしたまま、しばらく動かなかった。
娘が生まれた。
父に。母に。
つまり、自分には妹ができた。
それから、伯父の言葉を頭の中で並べ直した。
昼間エルマが両手で作ってみせた、小さな丸い形。ひと晩じゅう泣いていた、赤い顔の赤ん坊。お包みの端を掴んだまま、離せなかった手。
もし、弟が生まれたら。
その子も、生まれてすぐに、母から引き離されて、ここへ来る。
自分と、同じように。
「……エリック。茶が冷めるぞ」
伯父の声で顔を上げた。
「伯父上」
「何だ」
「弟が来たら、僕の部屋に、寝台をもう一つ置いてもいいですか」
伯父の手が茶器の上で止まった。
ユリウスが焼き菓子を口に入れたまま、エリックを見た。
「……まだ、生まれてもおらん」
「はい。でも生まれてから言うと、間に合わないかもしれないので」
伯父は長い間エリックの顔を見ていた。
指が一度だけ卓を叩いた。
「……その時に考えておく」
「ありがとうございます」
エリックは茶器を手に取った。
茶は少しぬるくなっていた。
その夜、エリックはなかなか寝つけなかった。
寝台を抜け出して窓辺に立つ。
王都の夜は明るい。城壁の上には篝火が並び、遠くの王城は月明かりに白く浮かび上がっている。
その向こう。北東の方角。
フィットア領はあちらにあるのだと、エルマが教えてくれたことがあった。
顔も知らない父がいて。
赤い髪の母がいて。
今日、妹が生まれた。
エリス、という名前の。
エリックは窓の冷たい硝子に額を押し当てた。
恨むなら、この家の歴史を恨みなさい。
昼間、伯父はそう言った。
恨む、ということが、どういうことなのか。五歳のエリックにはまだ分からなかった。
ただ、会ってみたい、と思った。
赤い髪の母に。顔も知らない父に。今日生まれた、妹に。
そう思ったのは、たぶん、生まれて初めてだった。
それから、もうひとつ思った。
もし、いつか、弟がここへ来たら。
その子が、ひと晩じゅう泣いていたら。
その時は自分がそばにいてやろう、と。
寝台はもう一つ置いてもらえるはずだった。
北東の空に、星がひとつ、流れた。