一
食堂の扉が開いた時、エリックは自分の心臓の音がうるさいと思った。
長い食卓。燭台の炎。銀の食器。上座に伯父。その右手に、客人のピレモン・ノトス・グレイラット。伯父の左手にユリウス。その隣に、エリック。
ユリウスの口添えは本当に通ったのだった。
――エリックは、あの剣士に剣を見てもらう約束をしてるんです。武芸奉納の時以外に会える機会なんて、滅多にないじゃないですか。
今朝、朝食の席でユリウスがそう言うと、伯父はわずかに眉を上げ、それから「好きにしなさい」とだけ言った。
その時のユリウスの、得意げな顔といったらなかった。
扉の向こうにギレーヌが立っていた。
いつもの使い古した革の胸当てではなかった。祖父が持たせたのだろう、黒い上着を着ていた。窮屈そうだった。腰の剣はさすがに外していた。
ギレーヌは敷居をまたいだ。
一歩。二歩。三歩。
伯父の前、ちょうど三歩の距離で、ぴたりと止まった。
伯父の背後に控えていた護衛の騎士が、剣の柄にかけかけていた手を、そっと下ろしたのが見えた。
エリックは息を吐いた。
ギレーヌが右足を半歩引いた。
腰を折る。
深すぎず、浅すぎず。昨夜、背中に手を添えて教えた角度。
目は伏せていなかった。伯父の手元を、じっと見ていた。
一。二。三。
身体を起こす。
「……サウロス様の剣士、ギレーヌ・デドルディアだ。です」
語尾がわずかに怪しかった。
けれど、伯父は何も言わなかった。ただ、ほんのわずかに目を細めた。
「よく来た。席に着きなさい」
ギレーヌの席は伯父の左手の少し離れたところだった。エリックが昨夜、地面に描いた図の通りだった。
ギレーヌは椅子の前で立ち止まった。
それから伯父とピレモンが座るのを待った。
――相手が先に座るまで座るな。座った瞬間が、一番隙が大きい。
昨夜、教えたことだった。
伯父とピレモンが腰を下ろしてから、ギレーヌは椅子に座った。背もたれには寄りかからなかった。
「ほう」
ピレモンが声を上げた。
「獣族の剣士と聞いて、どんな野蛮な者が来るかと思えば。存外、作法を心得ているではないか」
ピレモンはにやにやと笑いながら、ギレーヌの顔から首筋へ、首筋から胸元へと、ゆっくりと視線を下ろしていった。
値踏みするような目だった。
伯父がエルヴィンを見た時の目とも、父が自分を見た時の目とも違う。もっと粘ついた、嫌な目だった。
ギレーヌの獣の耳が、わずかに後ろに倒れた。
エリックは卓の下で、膝の上の手を握りしめた。
食事は静かに進んだ。
伯父とピレモンが、王宮の噂話や、どこそこの貴族の縁組の話をする。ユリウスが、時々相槌を打つ。エリックとギレーヌは黙って皿の上のものを口に運ぶ。
ギレーヌは肉料理が出た時だけ、尻尾がわずかに揺れた。
エリックはそれを見て、肩の力がわずかに抜けた。
「ところで、ギレーヌとやら」
三皿目が下げられた頃、ピレモンが言った。
「先の武芸奉納では、我がノトスの騎士が世話になったな」
ギレーヌはピレモンを見た。
「……世話は、してない」
「一歩でのしたではないか。聖級の騎士を」
「立ち合いだった。だから、立ち合った」
ピレモンの顔が、わずかに引きつった。
伯父が、杯を傾けた。
そして、その指が、杯の縁を、ゆっくりとなぞった。
――伯父上は、何か企んでいる時、指で杯の縁をなぞる癖があります。
ギレーヌの目が、伯父の指を捉えたのを、エリックは見た。
「ギレーヌ」
伯父が穏やかな声で言った。
「父上の剣士として、よく仕えてくれているそうだな。礼を言う」
「……サウロス様に、拾われた。恩がある」
「そうか。だが、父上ももう歳だ。いつまでも剣士を侍らせておく必要もなかろう」
伯父は杯を置いた。
「どうだ。この屋敷に来ないか。父上のもとでの倍を出そう。この王都でボレアスの次期当主の剣として、存分に腕を振るえばいい」
食堂が静まり返った。
ユリウスが匙を持ったまま固まっていた。
「おやジェイムズ殿。抜け駆けはいけませんな」
ピレモンが身を乗り出した。
「実は私も、同じことを考えておりましてな。ギレーヌ、ノトスに来ぬか。私ならば、三倍出そう。何なら私の身辺の警護だけでよい。夜も、昼も、ずっと私のそばにいてくれればいい」
ピレモンの目が、またギレーヌの胸元に下りた。
ギレーヌの耳が、ぺたりと完全に後ろに倒れた。
卓の上に置かれたギレーヌの手が、ぎゅっと握られた。腰の剣の柄を握ろうとして、そこに剣がないことに気づいた手だった。
まずい、とエリックは思った。
ギレーヌが、ここで何かすれば。
――サウロス様に、迷惑はかけられん。
エリックは卓の下で、自分の足を、ギレーヌの足にそっと当てた。
ほんの少しだけ。靴の先で、とん、と。
ギレーヌの身体が、一瞬だけ強張った。
それから、目だけが、ちらりとエリックを見た。
エリックは何も言わなかった。
ギレーヌは目を閉じた。
ひとつ、息を吐いた。
そして、目を開けた。
「……断る」
静かな声だった。
「あたしは、サウロス様の剣だ。サウロス様が、もういいと言うまで、他の誰の剣にもならん」
ピレモンの顔が赤くなった。
「な、無礼な。獣族風情が、この私の申し出を」
「ピレモン殿」
伯父が穏やかに遮った。
「剣士というものは、主に忠実なものです。それはそれで、美徳でしょう」
伯父の指はもう杯の縁をなぞっていなかった。
「残念だが、仕方あるまい。ギレーヌ、食事の後で、書斎に来なさい。話の続きがある」
伯父の指が、また杯の縁に戻っていた。
エリックの背筋が冷たくなった。
まだ、終わっていない。
ピレモンのいない所で、続けるつもりだ。
「伯父上」
声が出ていた。
全員の目がエリックに向いた。
「ギレーヌには、食事の後、剣を見てもらう約束をしています」
「……後にしなさい」
「夜明け前に発たれるので、今夜しかありません。一年に一度の約束なんです」
伯父はエリックを見つめた。
エリックは目を逸らさなかった。
剣が振り下ろされる瞬間まで、目を開けておけ。ギレーヌにそう教わった。今、目の前にあるのは剣ではなかった。けれど同じことだと思った。
「父上」
ユリウスが、口を開いた。
「話の続きなら、明日の朝、出立の前でいいんじゃないですか。エリックの剣の稽古、僕も見たいです。この人の剣、見てみたいし」
「……ユリウス」
「だって、武芸奉納の時は、遠くからしか見られないじゃないですか」
ユリウスは何でもないことのように言った。
けれど卓の下の膝が、小刻みに震えているのを、エリックは見た。
伯父はしばらく黙っていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「……いいだろう。明朝にする」
ピレモンが不満そうに鼻を鳴らした。
伯父はそれ以上何も言わなかった。
ただ食事の最後まで、一度もギレーヌの方を見なかった。
二
食堂を出て長い廊下を歩く。
ギレーヌが前を。エリックがその少し後ろを。ユリウスが、さらにその後ろを。
誰も何も言わなかった。
廊下の角を曲がって、食堂の明かりが見えなくなったところで、ユリウスが壁に手をついて、ずるずるとしゃがみ込んだ。
「……こ、こわかった」
「従兄上」
「父上に、口答えしたの、はじめてだ……」
ユリウスは両手で顔を覆った。
「ピレモン様、すごい顔してたし。父上、ずっと僕のこと見てたし。明日、絶対何か言われる……」
「……ありがとうございました」
エリックが言うと、ユリウスは顔を覆ったまま首を振った。
「別に。本当に、剣が見たかっただけだ」
「嘘が下手ですね」
「お前にだけは言われたくない!」
ユリウスは顔を上げて怒鳴った。それから、はっとしたようにギレーヌを見て、また縮こまった。
ギレーヌはユリウスを見下ろしていた。
しばらく何も言わなかった。
それからユリウスの前にしゃがみ込んだ。目の高さがユリウスと同じになった。
「……お前、足が震えてたな」
「え」
「卓の下で。ずっと」
ユリウスの顔が真っ赤になった。
「み、見てたのか」
「片目でも、よく見える」
ギレーヌはユリウスの頭に、ぽんと手を置いた。
「震えてても、言った。それでいい」
ユリウスはぽかんとギレーヌを見上げた。
ギレーヌはそれだけ言うと、立ち上がった。
そして、エリックの方を振り向いた。
「……お前」
「はい」
「足、蹴ったな。卓の下で」
「……蹴ってません。当てただけです」
「同じだ」
ギレーヌはしばらくエリックを見下ろしていた。
それから、ぽつりと言った。
「役に立った」
エリックは顔を上げた。
「三歩も。お辞儀も。座る順番も。杯の縁も。お前の足も」
ギレーヌの獣の耳が、ゆっくりと、元の位置に戻っていった。
「全部、役に立った」
それだけ言うと、ギレーヌはまた前を向いて歩き出した。
裏庭で、約束通り剣を見てもらった。
ユリウスも、石のベンチに座って見ていた。途中で、帳面を抱えたエルヴィンもやってきて、ユリウスの隣に座った。
「従兄上、ねぼけてるの? めがあかいよ」
「泣いてない!」
「ないてるなんていってないよ」
「……!」
ユリウスが言葉に詰まり、エルヴィンがくすくすと笑い、ギレーヌが「集中しろ」とエリックの額をこつんと叩いた。
月が高く昇っていた。
三
皆が寝静まった後、エリックは寝室の机に向かっていた。
燭台をひとつだけ灯して。
机の上に母の手紙を広げていた。
昨日、ギレーヌから受け取ってから、まだ一度も開いていなかった。紐を解くのが、なんだか怖かった。
紐を、解く。
折り畳まれた紙を、そっと広げる。
少し右に傾いた、几帳面な文字が、紙いっぱいに並んでいた。
『エリックへ
ギレーヌがあなたのところへ行くと聞いて、急いでこれを書いています。字が乱れていたらごめんなさい。
あなたは元気にしていますか。背は伸びましたか。ギレーヌが毎年、あなたの剣を見てくれていると聞きました。あなたが、毎朝欠かさず剣を振っているとも。あの人が褒めることなんて滅多にないのに、あなたのことは「しつこい」と言っていました。あの人なりの褒め言葉なのだと、父上が言っていました。
エルヴィンの手のことを、去年の手紙で読みました。あれから、ずっと考えています。あの子の手を、この目で見て、触れてあげられたらと思わない日はありません。あなたのせいではないのよ、エリック。あなたがあの子を助けに行ってくれたことを、私と父上は、何度も何度も、ギレーヌに聞き返しました。
エリスは七つになりました。毎日ギレーヌに剣を習っていて、とても元気です。元気すぎて、家庭教師が何人も辞めてしまいました。あなたに似ているのは、髪の色だけかもしれません。
今年の手袋は、少し大きく編みすぎたかもしれません。あなたの手が、どれくらいになったのか、分からなかったから。来年の冬には、ちょうどよくなるといいのだけれど。
返事は、いりません。
あなたが元気でいてくれれば、それでいいの。
でも、もし、いつか。書けたら。
一行だけでもいいから。
母より』
エリックは手紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
エリックは机の引き出しを開けた。
中には紙の束が入っていた。
どれも、書きかけの手紙だった。
『母上へ』
その一行だけで止まっているもの。
『母上へ。お元気ですか。僕は』
そこで止まっているもの。
『母上へ。手袋、ありがとうございました。今年も、ちょうどよく』
そこで、インクが滲んで、止まっているもの。
五年前、ロアの門の前で返事のことを言わなかった日から。母から手紙が届くたびにエリックは返事を書こうとした。書こうとして、書き出しの数行で、いつも手を止めた。
『お元気ですか』。母が元気かどうかは、母の手紙に書いてある。
『僕は』。自分が元気なことは、ギレーヌが毎年、ロアへ伝えている。背が伸びたことも、剣を振っていることも。
『手袋、ありがとうございました』。毎年、冬になればはめている。はめていることは、ギレーヌが見ている。
どうせ伯父の手を経るのだから、とも思った。封を切られて、読まれて、届くかどうかも分からない手紙に、伝わっていることを書き直す理由は、見つからなかった。
だから引き出しの中に、書き出しだけが溜まっていった。
エリックはもう一度母の手紙に目を落とした。
返事はいりません。
でも、もし、いつか。書けたら。
一行だけでもいいから。
知っていることを、それでも、紙で欲しいのだ。
欲しいと言われたものを、渡さない理由はない。
それに今は違った。
ギレーヌが明日の朝、ロアへ帰る。
伯父の手を経ずに、母のもとへ直接届けてくれる。
今しかなかった。
エリックは新しい紙を一枚、机の上に広げた。
ペンを取る。インク壺に浸す。
『母上へ』
そこで手が止まった。
何を書けばいいのか。書くことが、やはり見つからない。
エリックは目を閉じた。
夕方の食堂で、ギレーヌの足に、自分の靴の先をとん、と当てた時のことを思い出した。言葉は使わなかった。それでも、ギレーヌには伝わった。
夜の裏庭で、ギレーヌの背中に手を添えて、お辞儀の角度を教えた時のことを思い出した。間合いだと思ってください。首の後ろががら空きになります。剣の言葉でしか、教えられなかった。それでも、ギレーヌには伝わった。
伝わっていることでも、剣の言葉でなら書けるかもしれない。
母が知らないのは、たぶん、そっちの方だった。
エリックは目を開けた。
ペン先を紙に下ろした。
書き終えた時、燭台の蝋燭はほとんど燃え尽きていた。
たった一枚だった。
五年分の書きかけの手紙を全部合わせたよりも、ずっと短い手紙だった。
上手な手紙ではなかった。同じことを二度書いてしまったところもあったし、途中で一度、インクを落として染みを作ってしまった。
でも最後まで書いた。
これで、たぶん全部伝わった、と思った。
『母上へ』から、『エリック』まで。
エリックは手紙を丁寧に折り畳み、母の手紙を結んでいた細い紐で、同じように結んだ。
それから書きかけの手紙の束を、引き出しの奥にそっと戻した。
捨てることはできなかった。
四
夜明け前、エリックは中庭には下りなかった。
代わりにエルヴィンを起こした。
「……なに、兄上。まだくらいよ」
「職人街に行く」
エルヴィンの目が、ぱちりと開いた。
職人街。
半年前、エルヴィンが攫われた場所。
「……なんで?」
「ギレーヌが、エリスに土産を買っていくと約束したらしい。昨日の夜、言ってた。何を買えばいいか分からないって」
「姉上に?」
「剣がいい、って言われたそうだ」
「……それ、おみやげじゃないよ」
「ギレーヌも、そう言ったらしい」
エルヴィンは寝台の上で、しばらく膝を抱えていた。
右手をじっと見下ろしていた。まだ指の曲がりがぎこちない右手を。
「……いく」
エルヴィンは顔を上げた。
「ぼくも、いく。姉上のおみやげ、えらぶ」
伯父には昨夜のうちに断ってあった。剣王が付くなら、と伯父は一言で許した。
夜明けの職人街はもう動き出していた。
あちこちの工房から、炉に火を入れる煙が立ち上り、槌の音が響き始めていた。
ギレーヌは兄弟の後ろを黙ってついてきていた。坂道の途中で、エルヴィンの足が一度だけ止まった。荷車が倒れた、あの曲がり角の手前だった。
エリックは何も言わずに、弟の左手を取った。
エルヴィンは兄の手を握り返した。
それから、また歩き出した。
ギレーヌの尻尾が、二人の後ろで、ゆっくりと揺れていた。
革細工の工房で、エリックは小さな籠手を見つけた。
子供用の赤い革の籠手だった。手の甲の部分に剣の柄を握る時に指を守る、薄い鉄の板が縫い込まれている。
「これは」
「……剣の稽古をする子供用だよ、坊ちゃん。貴族の子が、よく買っていく」
工房の主が欠伸を噛み殺しながら言った。
エリックは籠手を手に取った。
赤い革。
ちょうど母が毎年編んでくれる手袋と、同じくらいの赤だった。
「……剣じゃ、ないけど」
エリックはギレーヌを振り返った。
「剣を握るための、ものです。エリスが剣を習ってるなら」
ギレーヌは籠手を受け取った。
大きな手の中で、それはひどく小さく見えた。
「……いいな、これは」
「かわいい!」
エルヴィンが、背伸びして籠手を覗き込んだ。
「姉上、よろこぶよ! あかいし!」
「エリスは何でも殴るからな。拳を守るのにもいい」
ギレーヌが至極真面目な顔で言った。
エリックとエルヴィンは顔を見合わせた。
「……なぐるの?」
「殴る。家庭教師を殴って、何人も辞めさせた」
「……母上のてがみに、げんきすぎるって、かいてあった」
「元気すぎる」
ギレーヌは深く頷いた。
エルヴィンが、けらけらと笑った。
エリックは籠手の代金を払った。祖父から毎年もらっている小遣いを、ずっと貯めていたものだった。
「ギレーヌ」
工房を出たところで、エリックは言った。
「それ、僕からだって、言わないでください」
「なんでだ」
「……ギレーヌが、王都の土産を買ってくるって約束したんですよね。だから、ギレーヌからで、いいです」
本当の理由は言わなかった。
顔も覚えていない兄から、いきなり贈り物が届いても、エリスは困るだろう。七つの妹が覚えているのは、たぶん五年前に手袋を片方持っていった赤い髪の誰か、くらいだ。それに、なんとなく照れくさかった。
照れくさい、と言うのはもっと照れくさかった。
ギレーヌはしばらくエリックを見下ろしていた。
それから籠手を懐にしまった。
「……分かった」
「お願いします」
「ん」
その隣で、エルヴィンが、帳面を抱えたまま首を傾げていた。
「……兄上」
「何だ」
「ギレーヌ、うそ、へたそうだけど」
ギレーヌの耳が、ぴくりと動いた。
「……下手じゃない」
「ほんとに?」
「……たぶん」
「たぶん」
エルヴィンはにやにやしながら帳面に何かを書き込んだ。
エリックはその帳面を覗き込もうとして、さっと隠された。
屋敷の門の前で、伯父がギレーヌに返書を渡した。
伯父は昨夜のことには一言も触れなかった。ただ、「父上によろしく伝えてくれ」とだけ言って、屋敷の中に戻っていった。
門の前に、ギレーヌと兄弟が残された。
「ギレーヌ」
エリックは懐から手紙を取り出した。
細い紐で結ばれた一枚の手紙。
「これを、母上に」
ギレーヌは手紙を受け取った。
手紙を、じっと見下ろした。
字は読めない。けれどギレーヌはそれを長いこと見つめていた。
「……ヒルダ様への、返事か」
「はい」
「何が書いてある」
「……」
エリックは少し考えた。
「……剣のことです。たぶん、ほとんど」
ギレーヌの口の端が、ほんのわずかに持ち上がった。
「お前らしいな」
ギレーヌは手紙を籠手と同じ懐に、そっとしまった。
「ぼくも! ぼくも、てがみかいた!」
エルヴィンが、兄の後ろから飛び出してきた。
両手に分厚い紙の束を抱えていた。
エリックの手紙の、ゆうに十倍はあった。
「……これ、全部か」
ギレーヌが紙の束を見下ろした。
「うん! 母上と、父上と、姉上に! ぼくのてのこととか、べんきょうのこととか、従兄上がねてることとか、兄上がけんのときにやにやしてることとか、ぜんぶかいた!」
「……エルヴィン。最後のは、書かなくていい」
「もうかいちゃった」
ギレーヌはエルヴィンの紙の束を受け取った。懐には入らなかったので、脇に抱えた。
「……多いな」
「だって、いっぱいかきたいことあったんだもん」
エルヴィンは胸を張った。
それから声を落とした。
「……ギレーヌ。父上に、ぼくたちのようす、はなすんでしょ」
「ああ。そう言われてる」
「なんて、いうの?」
ギレーヌはしばらく考えた。
「弟は、よく喋る。帳面を持ち歩いてる。目がいい。字が、上手くなった」
エルヴィンが嬉しそうに笑った。
エリックはギレーヌを見上げた。昨日頼んだことを覚えていた。三つ目あたりで一つ目を忘れる人が、四つ目まで覚えていた。
「兄貴は、背が伸びた」
「それで、足ります」
「それと」
ギレーヌはエリックを見下ろした。
「剣を振ってる時は、笑う」
「……それは、足さなくていいです」
「足す」
エリックは口を開きかけて、閉じた。
否定しようとして、できなかった。
昨夜の裏庭で、自分が笑っていたかどうか、覚えていなかったからだ。
「……あと、足を蹴る」
「当てただけです」
「同じだ」
ギレーヌは踵を返した。
門を出る。王都の朝の通りを一人で歩いていく。
今年は祖父の馬車はなかった。ギレーヌはたった一人でロアへの長い道のりを帰っていく。
懐に赤い籠手と、たった一枚の手紙を抱えて。脇に分厚い紙の束を挟んで。
通りの角を曲がる直前、ギレーヌは一度だけ振り返った。
何も言わなかった。
けれど、獣の耳が真っ直ぐにこちらを向いていた。
エルヴィンが、ちぎれんばかりに手を振った。
エリックも手を振った。
ギレーヌの姿が角の向こうに消えた。
「……兄上」
「ん」
「てがみ、かけたんだね」
エリックは弟を見下ろした。
エルヴィンはにっと笑っていた。
「ギレーヌにわたすとき、兄上、ずっと、てがみのほう、みてた」
エリックは弟の頭を軽く小突いた。
エルヴィンがけらけらと笑った。
王都の朝の空は高く澄んでいた。
第二部からは月・水・金の0時投稿となる予定です(第一部は予告通り毎日投稿)。
引き続き、お付き合いいただけたら幸いです。