凪の水帝   作:アサツラ

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第10話 たった一枚の返事

一

 

 食堂の扉が開いた時、エリックは自分の心臓の音がうるさいと思った。

 長い食卓。燭台の炎。銀の食器。上座に伯父。その右手に、客人のピレモン・ノトス・グレイラット。伯父の左手にユリウス。その隣に、エリック。

 ユリウスの口添えは本当に通ったのだった。

 

 ――エリックは、あの剣士に剣を見てもらう約束をしてるんです。武芸奉納の時以外に会える機会なんて、滅多にないじゃないですか。

 

 今朝、朝食の席でユリウスがそう言うと、伯父はわずかに眉を上げ、それから「好きにしなさい」とだけ言った。

 その時のユリウスの、得意げな顔といったらなかった。

 

 扉の向こうにギレーヌが立っていた。

 いつもの使い古した革の胸当てではなかった。祖父が持たせたのだろう、黒い上着を着ていた。窮屈そうだった。腰の剣はさすがに外していた。

 

 ギレーヌは敷居をまたいだ。

 一歩。二歩。三歩。

 伯父の前、ちょうど三歩の距離で、ぴたりと止まった。

 伯父の背後に控えていた護衛の騎士が、剣の柄にかけかけていた手を、そっと下ろしたのが見えた。

 エリックは息を吐いた。

 

 ギレーヌが右足を半歩引いた。

 腰を折る。

 深すぎず、浅すぎず。昨夜、背中に手を添えて教えた角度。

 目は伏せていなかった。伯父の手元を、じっと見ていた。

 一。二。三。

 身体を起こす。

 

「……サウロス様の剣士、ギレーヌ・デドルディアだ。です」

 

 語尾がわずかに怪しかった。

 けれど、伯父は何も言わなかった。ただ、ほんのわずかに目を細めた。

 

「よく来た。席に着きなさい」

 

 ギレーヌの席は伯父の左手の少し離れたところだった。エリックが昨夜、地面に描いた図の通りだった。

 ギレーヌは椅子の前で立ち止まった。

 それから伯父とピレモンが座るのを待った。

 

 ――相手が先に座るまで座るな。座った瞬間が、一番隙が大きい。

 

 昨夜、教えたことだった。

 伯父とピレモンが腰を下ろしてから、ギレーヌは椅子に座った。背もたれには寄りかからなかった。

 

「ほう」

 

 ピレモンが声を上げた。

 

「獣族の剣士と聞いて、どんな野蛮な者が来るかと思えば。存外、作法を心得ているではないか」

 

 ピレモンはにやにやと笑いながら、ギレーヌの顔から首筋へ、首筋から胸元へと、ゆっくりと視線を下ろしていった。

 値踏みするような目だった。

 伯父がエルヴィンを見た時の目とも、父が自分を見た時の目とも違う。もっと粘ついた、嫌な目だった。

 ギレーヌの獣の耳が、わずかに後ろに倒れた。

 エリックは卓の下で、膝の上の手を握りしめた。

 

 食事は静かに進んだ。

 伯父とピレモンが、王宮の噂話や、どこそこの貴族の縁組の話をする。ユリウスが、時々相槌を打つ。エリックとギレーヌは黙って皿の上のものを口に運ぶ。

 ギレーヌは肉料理が出た時だけ、尻尾がわずかに揺れた。

 エリックはそれを見て、肩の力がわずかに抜けた。

 

「ところで、ギレーヌとやら」

 

 三皿目が下げられた頃、ピレモンが言った。

 

「先の武芸奉納では、我がノトスの騎士が世話になったな」

 

 ギレーヌはピレモンを見た。

 

「……世話は、してない」

「一歩でのしたではないか。聖級の騎士を」

「立ち合いだった。だから、立ち合った」

 

 ピレモンの顔が、わずかに引きつった。

 伯父が、杯を傾けた。

 そして、その指が、杯の縁を、ゆっくりとなぞった。

 

 ――伯父上は、何か企んでいる時、指で杯の縁をなぞる癖があります。

 

 ギレーヌの目が、伯父の指を捉えたのを、エリックは見た。

 

「ギレーヌ」

 

 伯父が穏やかな声で言った。

 

「父上の剣士として、よく仕えてくれているそうだな。礼を言う」

「……サウロス様に、拾われた。恩がある」

「そうか。だが、父上ももう歳だ。いつまでも剣士を侍らせておく必要もなかろう」

 

 伯父は杯を置いた。

 

「どうだ。この屋敷に来ないか。父上のもとでの倍を出そう。この王都でボレアスの次期当主の剣として、存分に腕を振るえばいい」

 

 食堂が静まり返った。

 ユリウスが匙を持ったまま固まっていた。

 

「おやジェイムズ殿。抜け駆けはいけませんな」

 

 ピレモンが身を乗り出した。

 

「実は私も、同じことを考えておりましてな。ギレーヌ、ノトスに来ぬか。私ならば、三倍出そう。何なら私の身辺の警護だけでよい。夜も、昼も、ずっと私のそばにいてくれればいい」

 

 ピレモンの目が、またギレーヌの胸元に下りた。

 ギレーヌの耳が、ぺたりと完全に後ろに倒れた。

 卓の上に置かれたギレーヌの手が、ぎゅっと握られた。腰の剣の柄を握ろうとして、そこに剣がないことに気づいた手だった。

 まずい、とエリックは思った。

 ギレーヌが、ここで何かすれば。

 

 ――サウロス様に、迷惑はかけられん。

 

 エリックは卓の下で、自分の足を、ギレーヌの足にそっと当てた。

 ほんの少しだけ。靴の先で、とん、と。

 ギレーヌの身体が、一瞬だけ強張った。

 それから、目だけが、ちらりとエリックを見た。

 エリックは何も言わなかった。

 

 ギレーヌは目を閉じた。

 ひとつ、息を吐いた。

 そして、目を開けた。

 

「……断る」

 

 静かな声だった。

 

「あたしは、サウロス様の剣だ。サウロス様が、もういいと言うまで、他の誰の剣にもならん」

 

 ピレモンの顔が赤くなった。

 

「な、無礼な。獣族風情が、この私の申し出を」

「ピレモン殿」

 

 伯父が穏やかに遮った。

 

「剣士というものは、主に忠実なものです。それはそれで、美徳でしょう」

 

 伯父の指はもう杯の縁をなぞっていなかった。

 

「残念だが、仕方あるまい。ギレーヌ、食事の後で、書斎に来なさい。話の続きがある」

 

 伯父の指が、また杯の縁に戻っていた。

 エリックの背筋が冷たくなった。

 まだ、終わっていない。

 ピレモンのいない所で、続けるつもりだ。

 

「伯父上」

 

 声が出ていた。

 全員の目がエリックに向いた。

 

「ギレーヌには、食事の後、剣を見てもらう約束をしています」

「……後にしなさい」

「夜明け前に発たれるので、今夜しかありません。一年に一度の約束なんです」

 

 伯父はエリックを見つめた。

 エリックは目を逸らさなかった。

 剣が振り下ろされる瞬間まで、目を開けておけ。ギレーヌにそう教わった。今、目の前にあるのは剣ではなかった。けれど同じことだと思った。

 

「父上」

 

 ユリウスが、口を開いた。

 

「話の続きなら、明日の朝、出立の前でいいんじゃないですか。エリックの剣の稽古、僕も見たいです。この人の剣、見てみたいし」

「……ユリウス」

「だって、武芸奉納の時は、遠くからしか見られないじゃないですか」

 

 ユリウスは何でもないことのように言った。

 けれど卓の下の膝が、小刻みに震えているのを、エリックは見た。

 

 伯父はしばらく黙っていた。

 それから、ふっと息を吐いた。

 

「……いいだろう。明朝にする」

 

 ピレモンが不満そうに鼻を鳴らした。

 伯父はそれ以上何も言わなかった。

 ただ食事の最後まで、一度もギレーヌの方を見なかった。

 

二

 

 食堂を出て長い廊下を歩く。

 ギレーヌが前を。エリックがその少し後ろを。ユリウスが、さらにその後ろを。

 誰も何も言わなかった。

 廊下の角を曲がって、食堂の明かりが見えなくなったところで、ユリウスが壁に手をついて、ずるずるとしゃがみ込んだ。

 

「……こ、こわかった」

「従兄上」

「父上に、口答えしたの、はじめてだ……」

 

 ユリウスは両手で顔を覆った。

 

「ピレモン様、すごい顔してたし。父上、ずっと僕のこと見てたし。明日、絶対何か言われる……」

「……ありがとうございました」

 

 エリックが言うと、ユリウスは顔を覆ったまま首を振った。

 

「別に。本当に、剣が見たかっただけだ」

「嘘が下手ですね」

「お前にだけは言われたくない!」

 

 ユリウスは顔を上げて怒鳴った。それから、はっとしたようにギレーヌを見て、また縮こまった。

 ギレーヌはユリウスを見下ろしていた。

 しばらく何も言わなかった。

 それからユリウスの前にしゃがみ込んだ。目の高さがユリウスと同じになった。

 

「……お前、足が震えてたな」

「え」

「卓の下で。ずっと」

 

 ユリウスの顔が真っ赤になった。

 

「み、見てたのか」

「片目でも、よく見える」

 

 ギレーヌはユリウスの頭に、ぽんと手を置いた。

 

「震えてても、言った。それでいい」

 

 ユリウスはぽかんとギレーヌを見上げた。

 ギレーヌはそれだけ言うと、立ち上がった。

 そして、エリックの方を振り向いた。

 

「……お前」

「はい」

「足、蹴ったな。卓の下で」

「……蹴ってません。当てただけです」

「同じだ」

 

 ギレーヌはしばらくエリックを見下ろしていた。

 それから、ぽつりと言った。

 

「役に立った」

 

 エリックは顔を上げた。

 

「三歩も。お辞儀も。座る順番も。杯の縁も。お前の足も」

 

 ギレーヌの獣の耳が、ゆっくりと、元の位置に戻っていった。

 

「全部、役に立った」

 

 それだけ言うと、ギレーヌはまた前を向いて歩き出した。

 裏庭で、約束通り剣を見てもらった。

 ユリウスも、石のベンチに座って見ていた。途中で、帳面を抱えたエルヴィンもやってきて、ユリウスの隣に座った。

 

「従兄上、ねぼけてるの? めがあかいよ」

「泣いてない!」

「ないてるなんていってないよ」

「……!」

 

 ユリウスが言葉に詰まり、エルヴィンがくすくすと笑い、ギレーヌが「集中しろ」とエリックの額をこつんと叩いた。

 月が高く昇っていた。

 

三

 

 皆が寝静まった後、エリックは寝室の机に向かっていた。

 燭台をひとつだけ灯して。

 机の上に母の手紙を広げていた。

 昨日、ギレーヌから受け取ってから、まだ一度も開いていなかった。紐を解くのが、なんだか怖かった。

 

 紐を、解く。

 折り畳まれた紙を、そっと広げる。

 少し右に傾いた、几帳面な文字が、紙いっぱいに並んでいた。

 

『エリックへ

 ギレーヌがあなたのところへ行くと聞いて、急いでこれを書いています。字が乱れていたらごめんなさい。

 あなたは元気にしていますか。背は伸びましたか。ギレーヌが毎年、あなたの剣を見てくれていると聞きました。あなたが、毎朝欠かさず剣を振っているとも。あの人が褒めることなんて滅多にないのに、あなたのことは「しつこい」と言っていました。あの人なりの褒め言葉なのだと、父上が言っていました。

 エルヴィンの手のことを、去年の手紙で読みました。あれから、ずっと考えています。あの子の手を、この目で見て、触れてあげられたらと思わない日はありません。あなたのせいではないのよ、エリック。あなたがあの子を助けに行ってくれたことを、私と父上は、何度も何度も、ギレーヌに聞き返しました。

 エリスは七つになりました。毎日ギレーヌに剣を習っていて、とても元気です。元気すぎて、家庭教師が何人も辞めてしまいました。あなたに似ているのは、髪の色だけかもしれません。

 今年の手袋は、少し大きく編みすぎたかもしれません。あなたの手が、どれくらいになったのか、分からなかったから。来年の冬には、ちょうどよくなるといいのだけれど。

 返事は、いりません。

 あなたが元気でいてくれれば、それでいいの。

 でも、もし、いつか。書けたら。

 一行だけでもいいから。

 母より』

 

 エリックは手紙を持ったまま、しばらく動けなかった。

 

 エリックは机の引き出しを開けた。

 中には紙の束が入っていた。

 どれも、書きかけの手紙だった。

 

『母上へ』

 

 その一行だけで止まっているもの。

 

『母上へ。お元気ですか。僕は』

 

 そこで止まっているもの。

 

『母上へ。手袋、ありがとうございました。今年も、ちょうどよく』

 

 そこで、インクが滲んで、止まっているもの。

 五年前、ロアの門の前で返事のことを言わなかった日から。母から手紙が届くたびにエリックは返事を書こうとした。書こうとして、書き出しの数行で、いつも手を止めた。

 

『お元気ですか』。母が元気かどうかは、母の手紙に書いてある。

『僕は』。自分が元気なことは、ギレーヌが毎年、ロアへ伝えている。背が伸びたことも、剣を振っていることも。

『手袋、ありがとうございました』。毎年、冬になればはめている。はめていることは、ギレーヌが見ている。

 

 どうせ伯父の手を経るのだから、とも思った。封を切られて、読まれて、届くかどうかも分からない手紙に、伝わっていることを書き直す理由は、見つからなかった。

 だから引き出しの中に、書き出しだけが溜まっていった。

 

 エリックはもう一度母の手紙に目を落とした。

 返事はいりません。

 でも、もし、いつか。書けたら。

 一行だけでもいいから。

 知っていることを、それでも、紙で欲しいのだ。

 欲しいと言われたものを、渡さない理由はない。

 

 それに今は違った。

 ギレーヌが明日の朝、ロアへ帰る。

 伯父の手を経ずに、母のもとへ直接届けてくれる。

 今しかなかった。

 エリックは新しい紙を一枚、机の上に広げた。

 ペンを取る。インク壺に浸す。

 

『母上へ』

 

 そこで手が止まった。

 何を書けばいいのか。書くことが、やはり見つからない。

 

 エリックは目を閉じた。

 夕方の食堂で、ギレーヌの足に、自分の靴の先をとん、と当てた時のことを思い出した。言葉は使わなかった。それでも、ギレーヌには伝わった。

 夜の裏庭で、ギレーヌの背中に手を添えて、お辞儀の角度を教えた時のことを思い出した。間合いだと思ってください。首の後ろががら空きになります。剣の言葉でしか、教えられなかった。それでも、ギレーヌには伝わった。

 伝わっていることでも、剣の言葉でなら書けるかもしれない。

 母が知らないのは、たぶん、そっちの方だった。

 エリックは目を開けた。

 ペン先を紙に下ろした。

 

 書き終えた時、燭台の蝋燭はほとんど燃え尽きていた。

 たった一枚だった。

 五年分の書きかけの手紙を全部合わせたよりも、ずっと短い手紙だった。

 上手な手紙ではなかった。同じことを二度書いてしまったところもあったし、途中で一度、インクを落として染みを作ってしまった。

 でも最後まで書いた。

 これで、たぶん全部伝わった、と思った。

 

『母上へ』から、『エリック』まで。

 

 エリックは手紙を丁寧に折り畳み、母の手紙を結んでいた細い紐で、同じように結んだ。

 それから書きかけの手紙の束を、引き出しの奥にそっと戻した。

 捨てることはできなかった。

 

四

 

 夜明け前、エリックは中庭には下りなかった。

 代わりにエルヴィンを起こした。

 

「……なに、兄上。まだくらいよ」

「職人街に行く」

 

 エルヴィンの目が、ぱちりと開いた。

 職人街。

 半年前、エルヴィンが攫われた場所。

 

「……なんで?」

「ギレーヌが、エリスに土産を買っていくと約束したらしい。昨日の夜、言ってた。何を買えばいいか分からないって」

「姉上に?」

「剣がいい、って言われたそうだ」

「……それ、おみやげじゃないよ」

「ギレーヌも、そう言ったらしい」

 

 エルヴィンは寝台の上で、しばらく膝を抱えていた。

 右手をじっと見下ろしていた。まだ指の曲がりがぎこちない右手を。

 

「……いく」

 

 エルヴィンは顔を上げた。

 

「ぼくも、いく。姉上のおみやげ、えらぶ」

 

*

 

 伯父には昨夜のうちに断ってあった。剣王が付くなら、と伯父は一言で許した。

 夜明けの職人街はもう動き出していた。

 あちこちの工房から、炉に火を入れる煙が立ち上り、槌の音が響き始めていた。

 

 ギレーヌは兄弟の後ろを黙ってついてきていた。坂道の途中で、エルヴィンの足が一度だけ止まった。荷車が倒れた、あの曲がり角の手前だった。

 エリックは何も言わずに、弟の左手を取った。

 エルヴィンは兄の手を握り返した。

 それから、また歩き出した。

 ギレーヌの尻尾が、二人の後ろで、ゆっくりと揺れていた。

 

 革細工の工房で、エリックは小さな籠手を見つけた。

 子供用の赤い革の籠手だった。手の甲の部分に剣の柄を握る時に指を守る、薄い鉄の板が縫い込まれている。

 

「これは」

「……剣の稽古をする子供用だよ、坊ちゃん。貴族の子が、よく買っていく」

 

 工房の主が欠伸を噛み殺しながら言った。

 エリックは籠手を手に取った。

 赤い革。

 ちょうど母が毎年編んでくれる手袋と、同じくらいの赤だった。

 

「……剣じゃ、ないけど」

 

 エリックはギレーヌを振り返った。

 

「剣を握るための、ものです。エリスが剣を習ってるなら」

 

 ギレーヌは籠手を受け取った。

 大きな手の中で、それはひどく小さく見えた。

 

「……いいな、これは」

「かわいい!」

 

 エルヴィンが、背伸びして籠手を覗き込んだ。

 

「姉上、よろこぶよ! あかいし!」

「エリスは何でも殴るからな。拳を守るのにもいい」

 

 ギレーヌが至極真面目な顔で言った。

 エリックとエルヴィンは顔を見合わせた。

 

「……なぐるの?」

「殴る。家庭教師を殴って、何人も辞めさせた」

「……母上のてがみに、げんきすぎるって、かいてあった」

「元気すぎる」

 

 ギレーヌは深く頷いた。

 エルヴィンが、けらけらと笑った。

 エリックは籠手の代金を払った。祖父から毎年もらっている小遣いを、ずっと貯めていたものだった。

 

「ギレーヌ」

 

 工房を出たところで、エリックは言った。

 

「それ、僕からだって、言わないでください」

「なんでだ」

「……ギレーヌが、王都の土産を買ってくるって約束したんですよね。だから、ギレーヌからで、いいです」

 

 本当の理由は言わなかった。

 顔も覚えていない兄から、いきなり贈り物が届いても、エリスは困るだろう。七つの妹が覚えているのは、たぶん五年前に手袋を片方持っていった赤い髪の誰か、くらいだ。それに、なんとなく照れくさかった。

 照れくさい、と言うのはもっと照れくさかった。

 

 ギレーヌはしばらくエリックを見下ろしていた。

 それから籠手を懐にしまった。

 

「……分かった」

「お願いします」

「ん」

 

 その隣で、エルヴィンが、帳面を抱えたまま首を傾げていた。

 

「……兄上」

「何だ」

「ギレーヌ、うそ、へたそうだけど」

 

 ギレーヌの耳が、ぴくりと動いた。

 

「……下手じゃない」

「ほんとに?」

「……たぶん」

「たぶん」

 

 エルヴィンはにやにやしながら帳面に何かを書き込んだ。

 エリックはその帳面を覗き込もうとして、さっと隠された。

 

 屋敷の門の前で、伯父がギレーヌに返書を渡した。

 伯父は昨夜のことには一言も触れなかった。ただ、「父上によろしく伝えてくれ」とだけ言って、屋敷の中に戻っていった。

 門の前に、ギレーヌと兄弟が残された。

 

「ギレーヌ」

 

 エリックは懐から手紙を取り出した。

 細い紐で結ばれた一枚の手紙。

 

「これを、母上に」

 

 ギレーヌは手紙を受け取った。

 手紙を、じっと見下ろした。

 字は読めない。けれどギレーヌはそれを長いこと見つめていた。

 

「……ヒルダ様への、返事か」

「はい」

「何が書いてある」

「……」

 

 エリックは少し考えた。

 

「……剣のことです。たぶん、ほとんど」

 

 ギレーヌの口の端が、ほんのわずかに持ち上がった。

 

「お前らしいな」

 

 ギレーヌは手紙を籠手と同じ懐に、そっとしまった。

 

「ぼくも! ぼくも、てがみかいた!」

 

 エルヴィンが、兄の後ろから飛び出してきた。

 両手に分厚い紙の束を抱えていた。

 エリックの手紙の、ゆうに十倍はあった。

 

「……これ、全部か」

 

 ギレーヌが紙の束を見下ろした。

 

「うん! 母上と、父上と、姉上に! ぼくのてのこととか、べんきょうのこととか、従兄上がねてることとか、兄上がけんのときにやにやしてることとか、ぜんぶかいた!」

「……エルヴィン。最後のは、書かなくていい」

「もうかいちゃった」

 

 ギレーヌはエルヴィンの紙の束を受け取った。懐には入らなかったので、脇に抱えた。

 

「……多いな」

「だって、いっぱいかきたいことあったんだもん」

 

 エルヴィンは胸を張った。

 それから声を落とした。

 

「……ギレーヌ。父上に、ぼくたちのようす、はなすんでしょ」

「ああ。そう言われてる」

「なんて、いうの?」

 

 ギレーヌはしばらく考えた。

 

「弟は、よく喋る。帳面を持ち歩いてる。目がいい。字が、上手くなった」

 

 エルヴィンが嬉しそうに笑った。

 エリックはギレーヌを見上げた。昨日頼んだことを覚えていた。三つ目あたりで一つ目を忘れる人が、四つ目まで覚えていた。

 

「兄貴は、背が伸びた」

「それで、足ります」

「それと」

 

 ギレーヌはエリックを見下ろした。

 

「剣を振ってる時は、笑う」

「……それは、足さなくていいです」

「足す」

 

 エリックは口を開きかけて、閉じた。

 否定しようとして、できなかった。

 昨夜の裏庭で、自分が笑っていたかどうか、覚えていなかったからだ。

 

「……あと、足を蹴る」

「当てただけです」

「同じだ」

 

 ギレーヌは踵を返した。

 門を出る。王都の朝の通りを一人で歩いていく。

 今年は祖父の馬車はなかった。ギレーヌはたった一人でロアへの長い道のりを帰っていく。

 懐に赤い籠手と、たった一枚の手紙を抱えて。脇に分厚い紙の束を挟んで。

 

 通りの角を曲がる直前、ギレーヌは一度だけ振り返った。

 何も言わなかった。

 けれど、獣の耳が真っ直ぐにこちらを向いていた。

 エルヴィンが、ちぎれんばかりに手を振った。

 エリックも手を振った。

 ギレーヌの姿が角の向こうに消えた。

 

「……兄上」

「ん」

「てがみ、かけたんだね」

 

 エリックは弟を見下ろした。

 エルヴィンはにっと笑っていた。

 

「ギレーヌにわたすとき、兄上、ずっと、てがみのほう、みてた」

 

 エリックは弟の頭を軽く小突いた。

 エルヴィンがけらけらと笑った。

 王都の朝の空は高く澄んでいた。




第二部からは月・水・金の0時投稿となる予定です(第一部は予告通り毎日投稿)。
引き続き、お付き合いいただけたら幸いです。
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