一
ギレーヌが一人で王都を訪れ、赤い籠手と一枚の手紙を懐に帰っていった、その数日後のことだった。
十二になった年の春、エリックは真剣を受け取った。
ボレアス家の習いだった。十二になった家の男子には真剣を持たせる。去年の秋、ユリウスがそうしたように。
ただし扱いは同じではなかった。
ユリウスの剣は王都一の刀匠が半年かけて打ったものだった。柄には金の飾りが巻かれ、鞘には家紋が刻まれていた。伯父はそれをユリウス自身に受け取りに行かせた。
エリックの剣は伯父の執務室の机の上に置かれていた。
「持っていきなさい」
伯父は書類から目も上げずに言った。
鞘も柄も飾りのない、黒一色の剣だった。刃を少しだけ抜いてみる。よく研がれてはいたが、刀匠の銘もなかった。見た目だけなら、騎士団が新兵に配る剣と変わらなかった。
けれど手に取った瞬間、柄が掌に吸いついた。
長さも、重さの乗り方も、握りの太さも。
去年の秋、職人街の工房にはたどり着けなかった。その冬の初めに、見知らぬ職人が屋敷に来て、黙ってエリックの腕に紐を当てていった。伯父が呼んだのだと、後でベルンハルトから聞いた。
エリックは伯父の顔を見た。伯父は書類から目を上げなかった。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。護衛に持たせるものだ」
伯父はそれだけ言った。
エリックは剣を持って書斎を出た。
廊下でユリウスとすれ違った。
ユリウスはエリックの手の中の黒い鞘を見た。それから自分の腰の剣を見た。金の飾りのついた、自分の剣を。
「……なあ」
「はい」
「それ、父上から?」
「はい」
ユリウスは何か言いかけて、やめた。
それから、ぶっきらぼうに言った。
「……いい剣だな」
「飾りがありません」
「飾りなんか、どうでもいいだろ。斬れれば」
ユリウスはそっぽを向いて歩いていった。
エリックはその背中をしばらく見ていた。
言い方は下手だった。
けれど、たぶん、そういうことなのだろうと思った。
「ふうん。これかい」
その日の午後、道場でレイダに見せると、老婆は剣を手に取って、二、三度振ってみせた。
「悪かないよ。よく斬れる。まっすぐで、頑丈だ」
レイダは柄を握ったまま、目を細めた。
「それに、あんたの腕に合わせて打ってあるね。飾りは一つもないくせに、握りだけは、あつらえだ」
「……はい」
「ふうん。でも、水神流の剣じゃないね」
レイダは剣をエリックに返した。
「水神流の剣はね、もう少し反りが浅くて、身が薄い。受けて流すには、その方がいいのさ。この剣は、斬るために作られてる。騎士の剣だ」
レイダは板の間の奥の棚から、一振りの剣を取り出した。
古い剣だった。鞘は擦れて色が変わり、柄巻きも解けかけている。けれど抜いてみると、刃だけは静かに光っていた。
「道場の剣だ。誰が使ってたのかも、もう分からない。好きに使いな」
板の間の外の廊下で、雑巾がけをしていたタントリスの手が止まった。
エリックがそちらを見ると、タントリスは何も言わずに、また床を拭き始めた。
「……いいんですか」
「あんたの伯父さんの剣は、大事に持っときな。護衛として、いざという時に使うんだろう」
レイダは皺だらけの手をひらひらと振った。
「水神流の稽古には、こっちをお使い。二本持ってりゃ、どっちが自分の剣か、そのうち分かるさ」
夜明け前の中庭で、エリックは初めて真剣で素振りをした。
構える。
重い。
木剣とはまるで違った。同じくらいの長さなのに、腕にかかる重さが何倍も違う。持ち上げるだけで、肩が張る。
振り上げる。
振り下ろす。
音が、違った。
木剣は空気を「切る」音がした。ぶん、という、太くて鈍い音。
真剣は空気を「裂く」音だった。細くて、鋭くて、耳の奥にまで届く音。
切っ先が止まらなかった。
振り終えた刃が、自分の重さに引きずられて、わずかに流れる。木剣ではもう何年も前に止められるようになっていたのに。
もう一度。
止まらない。
もう一度。
止まらない。
エリックは剣を下ろして、自分の手を見下ろした。
――これが人を斬る剣。
ふと、そう思った。
半年前、運河の岸壁で大人の男が振り下ろしてきた剣。木剣ごと自分を吹き飛ばした、あの重さ。あれと同じものが、今、自分の手の中にある。
あの男はこれを自分に向けて振り下ろしてきた。
斬るために。
エリックはもう一度剣を構えた。
振り上げる。
振り下ろす。
止まらない。
また、一からだ、と思った。
その年の冬。
武芸奉納の朝、中庭に下りたエリックの腰に真剣があるのを見て、ギレーヌは眉を上げた。
「……持ったか」
「はい。十二になったので」
「見せろ」
エリックは伯父から贈られた黒い剣を差し出した。
ギレーヌはそれを受け取ると、鞘から抜き刃を陽に透かすように眺めた。そして一度だけ、無造作に振った。
風が鋭く鳴った。
「……よく研いである」
ギレーヌは剣を鞘に戻して、エリックに返した。
それから中庭の隅に立てかけてあった木剣を二本取り、片方をエリックに放った。
「構えろ」
エリックは木剣を受け取って、戸惑った。
「……真剣では、やらないんですか」
「やらん」
ギレーヌは即座に答えた。
「お前の剣は、まだ人を斬る剣じゃない」
エリックはギレーヌの顔を見上げた。
「お前は、まだ剣で人を殺したことがない。人を斬る剣は殺す覚悟のある奴が持つ剣だ。稽古で振り回すもんじゃない」
ギレーヌは自分の腰の剣を軽く叩いた。
「あたしは、この剣で人を斬った。何人も」
その声には誇りも後悔もなかった。
ただ事実を述べる声だった。
「お前が、いつかそうなったら、その時は真剣で打ち合ってやる」
「……いつか」
「なりたいか」
エリックは考えた。
人を斬る。
なりたい、とは思わなかった。
けれど、あの日運河の岸壁で、もし自分が真剣を持っていたら。弟の手は踏み砕かれずに済んだのかもしれない。
「……分かりません」
「それでいい」
ギレーヌは木剣を構えた。
「分からんまま振っとけ。分かった時には、もう遅い」
一合。二合。三合。四合。こつん。
春より一合多かった。
素振りだけはその日から真剣で見てもらうことになった。
「重いだろう」
「はい」
「切っ先が止まらんだろう」
「はい」
「一年やれば、止まる」
ギレーヌは腕を組んだ。
「もう一回」
エリックは剣を構えた。
夜明けの空気を鋭い音が裂いた。
二
十三歳の秋、エリックは水神流の上級になった。
「はいはい、上級。おめでとさん」
道場の奥の板の間で、レイダは湯呑みの茶をすすりながら、それだけ言った。
それだけだった。
免状を渡されるわけでもなく、門弟たちの前で名を呼ばれるわけでもなく。座布団の上の小さな老婆が、茶のついでのように「上級」と言った。それで終わりだった。
「……それだけですか」
「何か欲しいのかい。饅頭ならあるよ」
「いえ」
「じゃあ、稽古に戻りな」
レイダは皺だらけの手をひらひらと振った。
それから湯呑みを置いて、ふと付け加えた。
「その踏み込みの癖は、まだ抜けないねえ」
「……はい」
「抜く気、あるかい」
「ありません」
「だろうねえ」
レイダはくつくつと喉の奥で笑った。
板の間を出ると、廊下にイゾルテが立っていた。
腕を組み壁にもたれて、明らかに待ち構えていた顔だった。
「上級、おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
「私は、先月、聖級になりました」
イゾルテは胸を張った。
「知ってます」
「水聖です。水聖イゾルテです」
「知ってます。道場の全員が知ってます。先月から毎日言ってるので」
イゾルテの頬が、ほんのりと赤くなった。
「……毎日は、言っていません」
「昨日は三回言いました」
「数えないでください!」
イゾルテはこほんと咳払いをした。
「とにかく。あなたは上級。私は聖級。私の方が上です。ですから、今日も私が胸を貸してあげます。……何回ですか」
「五十回くらい」
イゾルテは窓の外の日の高さを見た。
「足ります」
壁から背を離して、道場の方へ歩き出した。
「では、五十回。途中で私がやめると言うとは、思わないでくださいね」
「もう一回」
イゾルテは袖で額の汗を拭うと、もう構え直していた。
「四十二回目です。そろそろ一本、取ってもいいんですよ?」
「次で取ります」
「どうぞ」
踏み込む。
いや踏み込むふりをする。
二年前、イゾルテに三十回、転がされた末に、一度だけ偶然できたこと。踏み込むと見せて、止まる。相手の受けが先に動く。その動きに合わせて、改めて踏み込む。
あれから二年、エリックはそれを、ひたすら繰り返してきた。
イゾルテの木剣が、わずかに動いた。
――来た。
エリックは改めて踏み込んだ。
イゾルテの受けが空を切る。エリックの木剣が、イゾルテの肩口に向かって伸びる。
届く、と思った。
その瞬間、イゾルテの身体が水のようにするりと沈んだ。空を切ったはずの木剣が、下から跳ね上がってきて、エリックの木剣を横から弾いた。
こつん。
イゾルテの木剣の先が、エリックの額に当たっていた。
「……今の」
エリックは額を押さえたまま、イゾルテの顔を見た。
「今の、どうやったんですか。受けを外されたのに、下から返しましたよね。沈んで、そこから。もう一回やらせてください。今度は、沈んだところを狙います。沈むのが分かっていれば、その先に」
「教えません」
イゾルテはつんと顎を上げた。肩はまだ大きく上下していた。
「自分の目で見て、気づくことが大事です、弟弟子」
言い終えると、満足げに一つ頷いた。いかにも姉弟子らしいことを言った、という顔だった。
道場の隅で床を拭いていたタントリスが、雑巾の上で背を丸めた。肩が小刻みに震えていた。
イゾルテは木剣を下ろして、自分の左の肩口に目を落とした。エリックの木剣が届きかけた所だった。
「……ただ今のは、私が半拍遅れました。次は遅れません。狙われると分かっていても、返します」
タントリスが雑巾を置いて、顔を上げた。
「イゾルテ。そろそろ日が暮れますよ」
「まだ暮れていません」
「昨日も、そう言って灯りをつけましたよね」
イゾルテは兄の方を見もしなかった。木剣を構え直し、エリックの顔を見た。
その目がエリックの口元に落ちて、眉が寄った。三合目あたりから、何度か同じ顔をされていた。
「もう一回」
「来なさい、弟弟子」
三
道場から屋敷に戻ると、裏庭の方から乾いた音が聞こえてきた。
木剣が地面に落ちる音だった。
エリックは裏庭に回った。
エルヴィンがいた。
七歳になった弟はこの二年でずいぶん背が伸びた。けれど右手だけはあの日のままだった。
添え木が外れてから、もう二年になる。骨はついた、と医者は言った。けれど踏みつけられた時に痛めた筋は、まだ元に戻っていなかった。
エルヴィンは落とした木剣を拾い上げた。右手で握る。振り上げる。
振り下ろす途中で、また指がほどけた。
からん、と。木剣が地面に転がった。
エルヴィンはしばらくそれを見下ろしていた。それから、また拾い上げた。
「……エルヴィン」
声をかけると、エルヴィンの肩が跳ねた。
「あ、兄上。おかえり」
振り返ったエルヴィンは笑っていた。いつもより、少しだけ大げさに。
「みてた?」
「……少し」
「そっか」
エルヴィンは木剣を背中に隠すようにした。
「まだね、ちょっとだけ、ゆびがいうこときかないんだ。でも、まいにちふれば、なおるって」
「誰が言ってた」
「……ぼくが、そうおもってる」
エリックは何か言おうとした。
その時、裏庭の垣根の向こうで、がさりと音がした。
二人が振り向くと、垣根の隙間から見覚えのある顔が覗いていた。
「……従兄上?」
ユリウスだった。
見つかったと分かった瞬間、ユリウスはあからさまに狼狽えた。垣根から顔を引っ込め、また出し、また引っ込め、それから観念したように、垣根を回り込んで裏庭に入ってきた。
手に何かを持っていた。
小さな革の袋だった。
「……べ、別に、覗いてたわけじゃない」
誰も何も言っていないのに、ユリウスは言った。
「たまたま、通りかかっただけだ!」
「裏庭をですか」
「裏庭をだ」
エルヴィンがエリックの袖を引いた。そして小声で囁いた。
「兄上。従兄上、きのうもおとといも、あそこから覗いてたよ」
「聞こえてるぞ!」
ユリウスが顔を真っ赤にして怒鳴った。
それから手に持っていた革の袋を、エルヴィンに向かって、ぐいと突き出した。
「……やる」
「え?」
「やるって言ってるんだ。受け取れ」
エルヴィンはおそるおそる袋を受け取った。
中から出てきたのは、手のひらに収まるくらいの、丸い玉だった。固い革を何重にも縫い合わせてあって、握ると、ぎゅっと手応えがある。
「商人が持ってきたんだ。指の力を戻す道具らしい。毎日握ってれば、握る力が戻るって」
ユリウスはそっぽを向いたまま、早口で言った。
「僕の部屋に、余ってたんだ。使わないから、やる。それだけだ」
「……余ってた、の?」
「余ってた」
「従兄上、ゆび、けがしてないのに?」
「余ってたんだよ!」
ユリウスは耳まで真っ赤にして踵を返した。
「じゃあな!」
そう言い捨てて、垣根の向こうに消えていった。
裏庭に兄弟二人が残された。
エルヴィンは革の玉を右手で握ってみた。指が、少しだけ震えた。
「……兄上」
「ん」
「従兄上って、うそ、へたっぴだね」
「……ああ」
「兄上より、へたっぴ」
「僕は嘘なんかつかない」
「よくいわれます、っていつもいってるの、あれ、うそでしょ」
エリックは黙った。
エルヴィンが、くすくすと笑った。
久しぶりに心の底から笑っている顔だった。
四
それから一年近くが経った。
エルヴィンは毎日、革の玉を握り続けた。朝も、昼も、勉強の合間も。
握る力は少しずつ戻った。日常のことなら、もう何の不自由もなかった。ペンを持つのも、帳面をめくるのも、食事をするのも。
けれど、剣だけは駄目だった。
振り下ろす勢いに指が耐えられない。強く握ろうとすると手首から先が痺れる。
八歳になった年の秋の終わりだった。
エリックが寝室に戻ると、エルヴィンは寝台の上に座っていた。
膝の上に小さな木剣を置いていた。
五歳の春に、ベルンハルトから初めてもらった木剣。エリックの木剣よりも一回り小さな、ほとんど棒切れのような木剣。エルヴィンは三年間、それを宝物のように大事にしてきた。
その木剣を、エルヴィンはじっと見下ろしていた。
「兄上」
エリックが寝台に腰を下ろすと、エルヴィンは顔を上げずに言った。
「僕、剣、やめる」
燭台の炎が小さく揺れた。
エリックは何も言わなかった。
言えなかった、のではなかった。何か言うべきではない気がした。
「指のせいじゃ、ないよ」
エルヴィンは木剣の柄を左手の指でそっと撫でた。
「指がなおっても、たぶん、兄上みたいにはなれない。ずっとまえから、わかってた。兄上は、まいにちふって、まいにちうまくなる。僕は、まいにちふっても、ぜんぜん変わらない」
「……」
「僕、ずっと、兄上はいいなって思ってた」
エルヴィンは小さく笑った。
「三つの頃から、ずっと。兄上と同じことがしたくて、剣、はじめたんだ。でも、いくら振っても、追いつかなくて。兄上はいいな、って思うたびに、自分がいやになった」
エリックは弟の横顔を見た。
毎朝の中庭。ぼくも、と言って駆けてきた三歳の弟。五歳で木剣を持たせてもらって、転んでも転んでも立ち上がっていた弟。
その全部の日に、この子はそう思っていたのだ。
「でもね」
エルヴィンは顔を上げた。
泣いてはいなかった。
「ギレーヌが、いってたでしょ。僕は目がいいって。剣とは別の才能だって」
「……ああ」
「あのとき、うれしかった。僕にも、あるんだって。兄上が持ってないもの」
エルヴィンは木剣を両手で持ち上げた。
それから、それを、兄の膝の上に、そっと置いた。
「だから、僕は、兄上が持ってないもので、役に立つ」
エリックは膝の上の小さな木剣を見下ろした。
軽かった。
こんなに軽いものを、弟は三年間、毎日必死で振り続けてきたのだ。
何か言わなければ、と思った。
けれど何を言えばいいのか。
お前は悪くない、とか。怪我をさせたのは僕のせいだ、とか。あの時、先にユリウスの前に立たなければ、とか。
どれも違う気がした。どれも弟の決心を、自分の後悔で塗りつぶしてしまうような気がした。
「……兄上」
エルヴィンが、首を傾げた。
「なにも、いわなくていいよ」
「……」
「かおに、ぜんぶ、かいてあるから」
エルヴィンはにっと笑った。
「兄上のかお、みんなは、なにかんがえてるかわかんないっていうでしょ。でも、僕はわかるよ。いまは、僕のかわりに、くやしがってるかお」
「……剣の時は、どういう顔だ」
「にやにやしてる」
「してない」
「イゾルテさんが、いってたって、タントリスさんにきいたよ」
「いつの間に」
「僕、目がいいから」
エルヴィンは得意げに胸を張った。
エリックは膝の上の木剣を見下ろした。
それから、ふと、夕暮れの道場で聞いた言葉を思い出した。
雑巾を絞りながら穏やかに笑っていた男の言葉。
「……エルヴィン」
「なに?」
「水神流の道場に、タントリスって人がいる」
「うん。イゾルテさんのお兄さんでしょ」
「剣の才能が、なかったんだ。妹に、十にならないうちに追い抜かれた」
エルヴィンは黙って聞いていた。
「だから剣士はやめた。でも今は道場を全部回してる。帳簿をつけて、門弟の顔と名前を全部覚えて。妹が思う存分剣を振れるように。師匠が剣のこと以外で煩わされないように」
エリックは言葉を探した。
探して見つけた。自分の言葉ではなかったけれど。
「剣を置いたからって、剣から離れなきゃいけないわけじゃないって。剣士じゃなくても、剣のそばで生きることはできるって。剣士を、支えることもできるって」
エルヴィンはしばらく何も言わなかった。
それから、ぽつりと言った。
「……それ、兄上がかんがえたの?」
「タントリスさんが言った」
「だよね」
「……だよね、って何だ」
「兄上がかんがえたら、ぜったい、とちゅうから剣の話になるもん。ふみこみがどうとか、うけがどうとか」
エリックは弟の頭を軽く小突いた。
エルヴィンは声を上げて笑った。
それから、笑いながら少しだけ目の端を拭った。
「……ありがと、兄上」
エリックは膝の上の小さな木剣を手に取った。
寝台の脇の箱を開ける。母から届いた贈り物が全部しまってある箱。赤い手袋。赤い襟巻き。赤い帽子。片方だけになった、七つの年の手袋。
その一番上に、小さな木剣を、そっと置いた。
「……捨てないの?」
「捨てない」
エリックは箱の蓋を閉めた。
「お前が、三年間振った剣だ」
五
翌朝の食卓でエルヴィンは伯父に言った。
「伯父上。お願いがあります」
伯父が、茶器を持つ手を止めた。
食卓でエルヴィンの方から伯父に話しかけるのは、初めてのことだった。ユリウスが焼き菓子を口に運びかけたまま固まった。
「……何だ」
「僕に、家庭教師をつけてください。算術と、歴史と、それから、帳簿のつけ方を習いたいです」
伯父はしばらく黙ってエルヴィンを見ていた。
エリックは息を詰めた。
伯父がエルヴィンの顔をまともに見るのは、久しぶりかもしれなかった。
「剣は、どうする」
「やめます」
エルヴィンはきっぱりと言った。
「僕は、剣では、兄上や従兄上の役に立てません。だから、別のことで役に立ちたいです」
伯父の目が、ほんのわずかに細くなった。
何かを量るような目だった。七年前、ロアの書斎で父が見せたのと同じ目。
この子供に、どれほどの使い道があるのか、推し量る目。
胸の奥が、ざわりとした。
けれど伯父が口を開くより先に、ユリウスが言った。
「僕の家庭教師を、使えばいいじゃないか」
全員の目がユリウスに向いた。
ユリウスは焼き菓子を皿に戻して、そっぽを向いた。
「どうせ僕、あいつの授業、半分寝てるし。二人で聞けば、半分ずつで、ちょうどいいだろ」
「……ユリウス。それは、ちょうどいいとは言わない」
伯父が珍しく呆れたような声を出した。
「半分寝ているのか」
「……三分の一くらいです」
「さっき、半分と言ったな」
「……三分の二くらい、起きてます」
エルヴィンが吹き出しそうになって、慌てて口を押さえた。
伯父はしばらく息子の顔を見ていた。それから、ゆっくりと茶を一口すすった。
「……よかろう。明日から、エルヴィンもユリウスの授業に加わりなさい。それから、ユリウス」
「はい」
「寝るな」
「……はい」
食卓に妙な沈黙が落ちた。
エリックは伯父の顔を盗み見た。
伯父はもういつもの平坦な顔に戻っていた。けれど、ほんの一瞬だけ口の端が動いたように見えた。
気のせいかもしれなかった。
翌朝、夜明け前の中庭でエリックは剣を振っていた。
真剣で。ギレーヌの構えで。
振り上げる。振り下ろす。
一年前は止まらなかった切っ先が、今はかろうじて止まるようになっていた。
回廊の柱のそばに、人影があった。
エルヴィンだった。膝の上に分厚い本を広げていた。算術の教本らしかった。まだ暗くて文字など読めないだろうに、燭台をひとつ脇に置いて、熱心に頁をめくっている。
「……寒くないのか」
「へいき。兄上が、まいあさ、なにしてるのか、ちゃんとみておきたいから」
「見てどうする」
「わかんない。でも、みておく」
エルヴィンは本から顔を上げずに言った。
「いつか、役に立つかも」
エリックはまた剣を構えた。
振り上げる。振り下ろす。
もう一回。
振り上げる。振り下ろす。
空が、白み始めていた。
ギレーヌの一振りを思い出しながら、一回一回、丁寧に。剣に握らせるように。
ほんの少しだけ、今日の一振りはいつもより軽かった。
「……兄上」
回廊からエルヴィンの声がした。
「いまの、うまくいったんでしょ」
「……ああ」
「やっぱり」
エルヴィンは本に目を落としたまま、何かを書きつけた。
くすくすという笑い声が、夜明けの中庭に小さく響いた。