一
十四歳の冬の武芸奉納で、祖父はいつにも増して上機嫌だった。
「エリスにな、家庭教師がついたんじゃ!」
玄関の広間で、祖父はエリックとエルヴィンの頭をまとめて鷲掴みにしながら、大声で言った。
「今度のは長続きしとる! もう半年になるぞ! 読み書きも算術も魔術も、あのエリスが大人しく習っとる!」
「……エリスが、ですか」
エリックは母の手紙を思い出した。家庭教師を何人も殴って辞めさせた妹。元気すぎる妹。
「おう! 大したもんじゃ、あの小僧は! まだ七つか八つかそこらのくせに、魔術は無詠唱で使いおる!」
「七つか、八つ?」
エルヴィンが目を丸くした。
「姉上より、年下なんですか」
「年下じゃ! 年下の小僧に、エリスが言うことを聞いとる! わははは!」
祖父は上機嫌に笑い続けた。
その後ろで、ギレーヌが、敷居の外に控えていた。
「ギレーヌ!」
エルヴィンが、するりと祖父の手を抜けて、敷居の方へ駆けていった。
「あのね、僕、算術、二桁の掛け算までできるようになりました!」
「……そうか」
「あと、帳面、七冊目です!」
「……そうか」
「見ますか!?」
「……いや」
ギレーヌの耳が、じりじりと後ろに倒れていった。
エルヴィンはそれに気づく様子もなく、七冊目の帳面を開いてギレーヌの目の前に突き出した。
「ここ! ギレーヌのこと、書いてあります!」
「……何を書いた」
「ギレーヌは、片目でも、よく見えるって。あと、尻尾がふわふわで、しっぽの毛は季節で変わるかもって。あと――」
エルヴィンは最後まで読み上げると、満足したように帳面を閉じて走っていった。
エリックはその様子を眺めていた。
「……ギレーヌは、子供に好かれますね」
「好かれてない」
「今のは、好かれていたと思います」
「……好かれてない」
尻尾が、ゆっくりと一度だけ揺れた。
夜明けの中庭で今年も手合わせをした。
十五合目で額にこつんと当たった。
「……十五か」
ギレーヌが木剣を下ろして言った。
「去年は、五合だった」
「はい」
「……伸びるな、お前は」
エリックは額を押さえたままギレーヌを見上げた。
褒められた、と思った。
「ギレーヌ」
「ん」
「今の、十五合目。左から来ると思って、右を空けました。空けたところに来たので、読みは合っていました。でも、受けが半拍遅れました。半拍早く受ければ、十六合目がありました」
「……」
「もう一回」
ギレーヌはしばらくエリックを見下ろしていた。
「……褒めた直後に、それか」
「褒められたので、次が欲しくなりました」
手合わせの後、ギレーヌは何か言いかけるように、何度か口を開きかけた。
けれど結局、何も言わなかった。
そのかわりに、別れ際、祖父の馬車の後ろを歩き出す前に、こう言った。
「……お前の道場、どこだ」
「え?」
「水神の婆さんの道場。場所」
場所を教えると、ギレーヌは何も説明せずに歩いていった。
エリックは首を傾げた。
二
十五歳の春、エリックは初めて、返しを使うイゾルテから一本取った。
踏み込むふりで受けを先に動かす。イゾルテの身体が水のように沈む。
これまでは沈んだところから返されてきた。
その日は、沈んだ先にエリックの木剣が待っていた。
こつん、と。
イゾルテの肩だった。初日と同じ場所だった。
「……一本です」
イゾルテは肩の木剣を指先でつまんでどけた。
「まぐれではないと、認めてあげます。四年もかかりましたけれど」
イゾルテはつんと顎を上げて、こちらに向き直った。木剣を握り直した指の節が、白くなっていた。
「もう一回です」
エリックは目を瞬いた。
いつもは、エリックが言う言葉だった。
「……はい」
「次は、沈む先を変えます」
「では、変えた先を狙います」
「狙わせません」
その日の残りの手合わせで、エリックはもう一本も取れなかった。
同じ日の午後、道場に一通の手紙が届いた。
「エリック様。お手紙です」
稽古の合間、タントリスが、にこにこと笑いながら封書を差し出してきた。
「……僕にですか。道場に?」
「ええ。ロアから、商人の荷と一緒に。宛名が、『水神の道場の、エリック』とだけ」
タントリスは封書の表をエリックに見せた。
宛名の字は大きくて角ばっていて、ひどくぎこちなかった。一文字一文字を、ゆっくりと、力を込めて書いたような字だった。
差出人の名はなかった。
けれどエリックには分かった。
「……ギレーヌだ」
「ほう。あのボレアスの剣王殿からですか」
タントリスの目が細くなった。とても楽しそうに。
「わざわざ道場宛てに。お屋敷ではなく」
「……伯父上の屋敷に送ると、封を切られるので」
「なるほど、なるほど」
タントリスはにこにこしたまま頷いた。
「兄様、何ですかその顔は」
道場の奥からイゾルテがやってきた。
「エリック様に、恋文が届いたのですよ」
「恋文!?」
「違います。剣の師匠からです」
「師匠!? あの獣族の剣王!? この子、師匠と文通しているのですか!?」
「文通じゃないです。初めて届いたんです」
「初めての恋文!」
「恋文じゃないです」
エリックは手紙を懐にしまって、道場の裏手へ逃げた。
背後でイゾルテが「後で内容を教えなさい!」と叫んでいた。
道場の裏手の古い井戸の縁に腰を下ろして、封を切った。
中から出てきたのは、紙が一枚だけだった。
表と同じ、大きくて角ばって、ぎこちない字が、紙いっぱいに並んでいた。一行ごとに、字の大きさが違った。途中で何度も書き直した跡があった。
『エリックへ
字を おぼえた。
エリスの かていきょうしの ルーデウスに ならった。パウロの むすこだ。
ルーデウスは まじゅつが うまい。むえいしょうで つかう。あたまも いい。字と さんじゅつを おしえてくれる。あたしも まじゅつを すこし ならっている。
エリスは つよくなった。まいにち けんを ふっている。おまえより すじが いいかも しれない。
ヒルダさまが おまえの てがみを まいにち よんでいる。ぼろぼろに なった。
エルヴィンの てがみも よんでいる。あれは まいにち よむには ながすぎる。
字を おぼえたら さいしょに おまえに かこうと おもっていた。
ふゆに また みる。すぶりを やめるな。
ギレーヌ』
字の大きさはばらばらで、行はまっすぐでなかった。
なのにエリックはその手紙を三度読み返した。
四度目を読もうとした時、ある一行で目が止まった。
――パウロの むすこだ。
パウロ。
八年前、ロアの屋敷の裏庭で、枝を使って三つの構えを見せてくれた男。
――嫁がな、腹に子供がいるんだ。
あの時、父に照れくさそうにそう言っていた。あの腹の中の子供が。
「……ルーデウス」
エリックはその名前を声に出してみた。
妹の家庭教師。無詠唱で魔術を使う、七つか八つの少年。祖父が「大したもんじゃ、あの小僧は」と上機嫌に笑っていた少年。
パウロの息子。
そして、もう一行。
エリックはそこを何度も読み返した。
――字を おぼえたら さいしょに おまえに かこうと おもっていた。
三年前の、月明かりの裏庭を思い出した。
――教えましょうか。
――いい。今さら遅い。
――それに、お前に教わるのは、なんか嫌だ。
あの時、エリックの胸に残った小さなしこりが、ゆっくりとほどけていくのが分かった。
教わるのは嫌だと言った人が。
他の誰かに教わってまで。
最初に自分に書いた。
エリックは手紙を丁寧に折り畳んだ。
それから、しばらく井戸の縁に座ったまま、空を見上げていた。
春の空は高くて青かった。
胸の奥が妙にむずむずした。
屋敷に戻ると、エルヴィンが廊下を駆けてきた。
九歳になった弟は相変わらず帳面を小脇に抱えている。
「兄上! ギレーヌから手紙が来たって、本当!?」
「……なんで知ってる」
「タントリスさんに聞いた」
「いつ会ったんだ」
「今日、道場の近くを通ったから、ついでに寄ったんだよ。タントリスさん、兄上に恋文が来たって、すごく嬉しそうに教えてくれた」
「恋文じゃない」
「見せて!」
「嫌だ」
「なんで! 僕だってギレーヌの字、見たい!」
押し問答の末、エリックは手紙の後ろ半分を指で隠して弟に見せた。
エルヴィンは食い入るように手紙を読んだ。
そして、ある一行で目を見開いた。
「ルーデウス……パウロの、息子!?」
「ああ」
「パウロさんって、兄上がロアで会った人でしょ!? 父上の友達で、剣を三つ全部使える人!」
「ああ」
「その人の息子が、姉上の家庭教師!? すごい、世界って狭いね!」
エルヴィンは帳面を開いて、何やら猛然と書き込み始めた。
「ルーデウス、パウロさんの息子、七つか八つ、無詠唱、姉上の家庭教師、ギレーヌに字を教えた……」
「何を書いてるんだ」
「情報だよ。いつか役に立つかも」
エルヴィンは顔を上げた。それから兄の顔をじっと見た。
「……兄上」
「何だ」
「隠したところ、何て書いてあったの」
「……何も」
「嘘だ。顔に書いてある」
「何も書いてない」
「すごく書いてある。赤くなってる」
エリックは弟の頭を小突いた。
エルヴィンはけらけらと笑いながら、帳面にまた何か書き込んだ。
「それより、僕の手紙のこと、書いてなかった?」
「……長すぎる、と」
「え!?」
「毎日読むには長すぎる、と書いてあった」
エルヴィンはしばらく固まっていた。
それから、がくりと肩を落とした。
「……次は、半分にする」
「その方がいい」
同じ頃、母からも手紙が届いた。
伯父の手を経て届いた手紙で、封は一度切られていた。
『エリックへ
今度、エリスの十歳の誕生日の祝いをします。ロアの屋敷で、ささやかな宴を開くつもりです。
もし、あなたとエルヴィンが来られるなら。
伯父上には、父上から頼んでもらっています』
エリックは手紙を持って、伯父の書斎を訪ねた。
伯父は手紙の内容をすでに知っていた。封を切ったのは伯父自身だったのだから。
「駄目だ」
伯父は書類から目を上げずに言った。
「その時期はユリウスの成人の準備で、王宮への出入りが増える。護衛が王都を離れるわけにはいかない」
「……数日だけでも」
「それに今の王都は物騒だ。王位継承をめぐって、第一王子派と第二王女派の争いが激しくなっている。四年前のようなことが、また起きないとも限らない」
四年前。
職人街。紋章の外套。
エリックは黙った。
「何より、ロアへは一度きりと、お前の父と約束した」
伯父は初めて顔を上げた。
「あの約束は、まだ生きている」
「……はい」
「フィリップには、私から返事を書いておく。下がりなさい」
エリックは書斎を出た。
廊下を歩きながら、母の手紙の最後の一行を思い出していた。
――伯父上には、父上から頼んでもらっています。
父は、兄に頼んだのだろう。
それでも駄目だった。
八年前、父は頭を下げて一度きりの面会を勝ち取った。二度目はない。
寝室に戻ると、エリックは机の引き出しを開けた。
書きかけの手紙の束。その上に、ギレーヌの手紙をそっと置いた。
それから新しい紙を一枚、机の上に広げた。
ペンを取る。
『ギレーヌへ』
今度は手が止まらなかった。
書くことはたくさんあった。上級になったこと。イゾルテが毎日聖級を自慢すること。そのイゾルテから一本取ったこと。タントリスが手紙を恋文と呼んだこと。エルヴィンが帳面に全部書き込んだこと。弟が剣を置いたこと。ルーデウスという名前を見て、八年前の裏庭を思い出したこと。
そして最後に。
『エリスの誕生日に行けなくなりました。
代わりに、おめでとうと伝えてください。
兄からだとは言わなくていいです。
ギレーヌから、ということにしてください。
冬にまた見てください。素振りはやめていません。
エリック』
書き終えた手紙を読み返して、エリックは少しだけ驚いた。
母への手紙は一枚書くのに五年かかった。
ギレーヌへの手紙は一晩で三枚になっていた。
なぜなのかは分からなかった。
三
十五歳の冬の武芸奉納の朝、ギレーヌは中庭に来るなり、懐から紙の束を取り出した。
「読んだ」
エリックが春から秋までに送った手紙だった。全部で五通あった。
「お前の字は、読みにくい」
「……え?」
「細かい。ぎっしり書きすぎる。一枚に、字が多すぎる」
ギレーヌは至極真面目な顔で言った。
「ルーデウスに、読むのを手伝ってもらった」
「……読ませたんですか」
「読むのを手伝ってもらった。全部じゃない。分からん字だけだ」
エリックは少しだけ顔が熱くなった。
あの手紙の、どこを読まれたのだろう。
「ルーデウスが、お前の字はきれいだと言ってた。貴族の字だと」
「……そうですか」
「あたしには、読みにくいだけだ」
「……次から、大きく書きます」
「ん。そうしろ」
ギレーヌは紙の束を懐に戻した。
捨てずに、大事そうに懐の奥に。
「それと」
エリックは一瞬迷ってから訊いた。
「エリスに伝えてくれましたか。誕生日のこと」
「伝えた」
「……僕からだとは」
ギレーヌの獣の耳が、ぴくりと動いた。
わずかに後ろに倒れた。
「……言ってない」
「本当ですか」
「……ん」
「ギレーヌ」
「……言ってない」
ギレーヌは明後日の方を向いていた。
尻尾が落ち着きなく揺れていた。
エリックはその横顔をじっと見た。
それ以上は訊かなかった。
「……エリスは、何と」
「ふん、と言ってた。あたしの顔を見てから、そっぽを向いて。あと、殴られた」
「え」
「照れ隠しだ。あいつは嬉しいと殴る」
ギレーヌは左の二の腕をさすった。
「籠手を着けてたから、痛かった」
エリックは目を瞬いた。
「……籠手」
「三年前の。赤いやつだ」
ギレーヌはほんの少しだけ口の端を持ち上げた。
「毎日着けてる。もう小さくなりかけてるが、外さん。お気に入りだそうだ」
「……そうですか」
エリックはそれだけ言った。
それ以上は言わなくてもよかった。
その朝の手合わせは何合目で額に当たったのか分からなかった。
二十を過ぎたあたりで、エリックは数えるのを忘れていた。
「……何合だ」
「……分かりません」
「お前が、数えてないのか」
ギレーヌは木剣を下ろしたまま、しばらくエリックを見下ろしていた。
「構えろ」
ギレーヌが木剣を構え直した。
エリックも構えた。水神流の構えで。
「今年は少し違うことをする」
ギレーヌが言った。
「お前は、もう十五だ。一応大人だ。だから一度だけ本気を見せる」
エリックは息を呑んだ。
本気。
五年間、手合わせをしてきた。年々、ギレーヌの剣は重く、速くなっていった。それでも、本気ではないと、エリックには分かっていた。
「見えなくてもいい。見えないのが、当たり前だ」
ギレーヌは木剣を腰だめに構えた。
抜刀の構えだった。
鞘などない、ただの木剣なのに。まるで、見えない鞘から、剣を抜き放とうとしているかのような。
「剣神流の奥義だ。光の太刀、という」
中庭の空気が変わった。
夜明け前の冷たい空気が、ぴんと張り詰めた。風が止まった。鳥の声が止まった。世界の全部が、ギレーヌの木剣の一点に吸い寄せられていくような気がした。
エリックは目を開けていた。
最後まで開けていた。
斬られる瞬間まで目を開けておけ。十歳の冬にそう教わった。
なのに。
見えなかった。
何も。
ギレーヌの腕が動いたのかどうかも。木剣が振られたのかどうかも。
ただ、気がついた時にはエリックの木剣が、半ばからすっぱりと断ち切られていた。
からん、と。
切り離された木剣の先が石畳に落ちた。
振り返ると、ギレーヌは自分の真後ろで、木剣を振り切った姿勢で止まっていた。
エリックは自分の手の中の、半分になった木剣を見下ろした。
断面は刃物で切ったように滑らかだった。
木剣で。
木剣を。
「……見えたか」
ギレーヌが訊いた。
「……いいえ」
エリックは正直に答えた。
「何も。何も見えませんでした」
「そうか」
ギレーヌは頷いた。
「それでいい。今はな」
それからぽつりと言った。
「エリスは、お前より筋がいい」
エリックは顔を上げた。
「剣神流の筋だ。あいつは先に動く剣が身体に合ってる。たぶん、いつかこれを使えるようになる」
ギレーヌはエリックの手の中の、切られた木剣を顎で指した。
「お前は、たぶん、これは使えん」
「……はい」
「お前の剣は、待つ剣だからだ」
ギレーヌはエリックを見下ろした。
「だからお前は、これを受けられるようになれ」
エリックは息を止めた。
「光の太刀を受けて、流して、返す。水神流の剣士ならそれができるはずだ。水神の婆さんなら朝飯前だ」
ギレーヌの目が真っ直ぐにエリックを見ていた。
「お前が、いつかこれを受けられるようになったら」
ギレーヌはそこで言葉を切った。
何か続けようとして、やめたように見えた。
「……その時は、お前はもう、あたしが素振りを見る必要はない」
エリックは半分になった木剣を握りしめた。
見えなかった。何も。
でも。
「……受けます」
エリックは言った。
「いつか、必ず受けます。見えるようになって、受けて流して、返します」
ギレーヌは何も言わなかった。
ただ獣の耳が、ぴんと立って、真っ直ぐにこちらを向いていた。
「……それまで、素振りを見てください」
「ああ」
「毎年」
「……ああ」
「受けられるようになるまで、ずっと」
ギレーヌはふいと顔を背けた。
「……しつこいな、お前は」
「よく言われます」
「……あたしにな」
ギレーヌの尻尾が、ゆっくりと、左右に揺れていた。
東の空が白み始めていた。