一
十六歳の冬の武芸奉納で、ギレーヌは夜明けの中庭に来るなり言った。
「言った」
「……何をですか」
「籠手も、祝いも。お前からだとエリスに言った」
エリックは剣を構えかけた手を止めた。
「……そうだと思っていました」
「……」
ギレーヌは明後日の方を向いた。
耳が、じりじりと後ろに倒れていく。
去年、訊いた時も、こうだった。
「あたしは、嘘が下手だ」
「知ってます」
「一年、黙ってた。よく持った方だ」
「……いつ言ったんですか」
「籠手は、渡した日に」
「最初からじゃないですか」
「最初からだ」
エリックは額に手を当てた。
「……エリスは何と」
「会ったこともない兄貴からなんて、いらない、と言ってた」
エリックは肩を落とした。
そうだろうな、と思った。
「それで、その日から毎日着けてる」
「……え」
「寝る時も着けようとして、ヒルダ様に怒られてた」
エリックはギレーヌの顔を見た。
ギレーヌはほんの少しだけ、口の端を持ち上げていた。
「もう小さくて指が入らなくなった。でも捨てない。稽古の時は、腰に下げてる」
会ったこともない兄からなんて、いらない。
そう言いながら、指が入らなくなるまで着けた籠手を、今も腰に下げている妹。
「……すみません、慣れないことさせてしまって」
「気にするな」
「でも、僕が頼んだので」
「引き受けたのは、あたしだ。お前は関係ない」
「頼まなければ、嘘つかずに済んだはずです」
ギレーヌはしばらくエリックを見下ろしていた。
「……お前の妹だな、あれは」
「はい」
「そういうところが、そっくりだ」
「どういうところですか」
「知らん。構えろ」
ギレーヌが木剣を手に取った。
今年の手合わせは最初から違った。
ギレーヌが腰だめに構えた。
抜刀の構え。
去年の冬、エリックの木剣を断ち切った、あの構えだった。
「一年待った」
ギレーヌが言った。
「見えるか、試す」
中庭の空気が、張り詰めた。
風が止まる。鳥の声が止まる。世界の全部が、ギレーヌの木剣の一点に吸い寄せられていく。
エリックは目を開けていた。
一年間、毎日考えてきた。見えないものを、どうやって見るのか。
レイダに訊いた。「見ようとするから見えないのさ」と、茶をすすりながら言われた。
イゾルテに訊いた。「光の太刀なんて、私だって見えません」と、なぜか胸を張って言われた。
タントリスに訊いた。「剣ではなく、相手を見るのです」と、穏やかに言われた。
剣ではなく相手を。
エリックはギレーヌの木剣から目を離した。
代わりに、ギレーヌの肩を見た。腰を見た。足を見た。
――来る。
ギレーヌの左肩が、ほんのわずかに沈んだ。
その瞬間、エリックは木剣を斜めに構えていた。
考えたのではなかった。ギレーヌの肩が沈んだ、それだけで身体が勝手に動いていた。
衝撃が来た。
腕が痺れた。
木剣が手から弾き飛ばされた。
くるくると宙を舞って、中庭の石畳に落ちた。
からん、と。
エリックは自分の手を見下ろした。
空っぽだった。
けれど。
エリックは石畳の上の木剣を見た。
切れていなかった。
去年のように、半ばから断ち切られてはいなかった。弾き飛ばされただけだった。一本のまま、石畳の上に転がっていた。
「……受けたな」
ギレーヌが低い声で言った。
「受けてません。弾かれました」
「受けた。当たる場所に剣があった。だから斬れなかった」
ギレーヌは木剣を下ろした。
「見えたか」
「……見えませんでした」
エリックは正直に言った。
「剣は、見えませんでした。でも肩が。左の肩が少しだけ沈んだのが見えて。そこから来ると思って」
ギレーヌの目が、わずかに見開かれた。
獣の耳が、ぴんと立った。
「……肩か」
「はい」
「あたしの左肩」
「はい」
ギレーヌは自分の左肩に手をやった。
しばらく何も言わなかった。
それから、ふっと、息を吐いた。
「……師匠に言うなよ」
「え?」
「剣神ガル・ファリオンに。あたしの光の太刀は左肩が沈むと。知られたら叩き直される」
「……会ったこと、ないです」
「会っても言うな」
「言いません」
「約束だ」
「約束します」
ギレーヌの尻尾が、ぶんぶんと左右に大きく揺れていた。
その日の武芸奉納の後、祖父は玄関の広間でエリックの頭を鷲掴みにしながら言った。
「聞いたぞ! 水神の婆さんから! お前、来年には水聖になるそうじゃな!」
「……まだ、決まったわけでは」
「決まったも同然じゃ! 婆さんが言うとったぞ! 癖は抜けんが腕は聖級だとな!」
祖父は上機嫌に笑った。
それから声を落とした。
祖父が声を落とすのは珍しいことだった。
「水聖になったら、ロアに来い」
エリックは祖父の顔を見上げた。
「祝うてやる。ボレアスの孫が、水神流の聖級じゃ。フィットア中に自慢してやる」
「……伯父上が」
「ジェイムズが何と言おうと構わん」
祖父の声は低く、ざらついていた。
七年前の夜、寝室で「恨むなら、わしを恨め」と言った時と、同じ声だった。
「当主が呼ぶんじゃ。あれも断れはせん」
祖父はエリックの頭をがしがしと撫でた。
「ヒルダが、待っとる。フィリップも。エリスもな」
祖父の一行が発つ時、ギレーヌはいつものように馬車の後ろを徒歩でついていった。
門を出る直前一度だけ振り返った。
「……サウロス様が来いと言った」
「はい」
「なら、来年の武芸奉納は待たん」
ギレーヌはそっけなく言った。
「ロアで来年の分をやる。素振りも手合わせも、エリスと一緒に」
エリックは目を瞬いた。
「……ロアで、エリスと一緒に」
「そうだ。だから、それまでに、もう一度受けられるようになっとけ」
ギレーヌはそれだけ言うと、また前を向いて歩き出した。
二
十七歳の春、エリックは水聖になった。
「はいはい、水聖。おめでとさん」
道場の奥の板の間で、レイダは四年前と同じように、湯呑みの茶をすすりながら言った。
「……饅頭は、ありますか」
「なんだい、今年は欲しいのかい」
「四年前、訊かれたので」
「覚えてたのかい。細かい子だねえ」
レイダはくつくつと笑って、脇の盆から饅頭をひとつエリックに放った。
エリックはそれを受け止めた。
レイダは湯呑みを置いた。
「その癖は、まだ抜けないね」
「はい」
「抜く気は」
「ありません」
「だろうねえ」
レイダはしばらくエリックの顔を見ていた。皺に埋もれた小さな目が、何かを量るように細くなった。
「あんたの剣はね、面白いよ。水神流の剣士の誰も、あんな剣は振らない。踏み込むふりで相手を動かして、受けて、流して、そこからまた踏み込む。剣神流の剣王の素振りと、あたしの受けとを、ごちゃ混ぜにした剣だ」
「……はい」
「水聖にはしてやる。腕は十分に聖級だからね」
レイダは湯呑みを両手で包み込んだ。
「でもね、坊や。これだけは覚えておきな」
のんびりとした声が低くなった。
「あんたの剣は、水神にはなれない剣だよ」
エリックは饅頭を持ったまま動きを止めた。
「水神流の奥義は、受けの極みにある。待って、待って、待ち抜いた先にある。あんたみたいに、待ちきれずに踏み込む剣には、その先は見えやしない」
「……」
「悪い意味じゃないよ」
レイダはふっと口元を緩めた。
「水神になれなくたって、強くはなれる。あたしが見たこともないくらいにね。ただ、この道場を継ぐのは、あんたじゃない。それだけさ」
エリックはしばらく黙っていた。
それから饅頭を一口かじった。
「……継ぐつもりは、ありません」
「だろうねえ」
レイダは茶を一口すすった。
それから、ふと、思い出したように言った。
「……昔、同じことを言って、ここを出ていった子がいたよ」
師の目が、一度だけエリックの腰の剣に落ちた。道場で渡された古い剣に。
それから、すぐに湯呑みに戻った。
エリックは顔を上げた。
「水神にはなれない剣だと、あたしが言ったのさ。そうしたら、その子は、出ていった。自分の剣を認める場所を探すと言ってね」
「……その人は」
「さあねえ。噂も聞かない」
「僕は、出ていきません。両方守れる剣が欲しいだけなので」
レイダの眉が、ぴくりと動いた。
それから皺だらけの顔を、くしゃりと崩して笑った。
「六年前の運河から、ずっとそれかい」
「はい」
「頑固な子だねえ、本当に」
レイダは湯呑みを置いて、エリックを見上げた。
「それと、もうひとつ。あんたの剣はね、静かすぎるんだよ」
「……静か、ですか」
「踏み込む前が、あまりに静かだ。相手は風が止まったとしか思わない。それで、つい前に出る。出たところを、ひっくり返される」
レイダは皺だらけの指で自分の顎を撫でた。
「そういう剣は、褒められるより先に、怖がられるものさ。覚えておきな」
「……はい」
「まあ、あんたはまだ、誰にも怖がられちゃいないけどね」
レイダはくつくつと笑った。
板の間を出ると、廊下にイゾルテが立っていた。
四年前と同じように、腕を組み、壁にもたれて。
ただ、もう少女ではなかった。背がすらりと伸び、青みがかった黒髪は腰まで届き、稽古着の上からでも分かるほど、身のこなしに隙がなくなっていた。
去年、イゾルテは水王になった。
「水聖、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
エリックは次の言葉を待った。
来なかった。
「……言わないんですか」
「何をですか」
「私は水王です、と」
「言いません。水王にもなって、いちいち言うものではありません」
「一昨日は二回言いました」
「数えないでくださいと、何度言えば分かるのですか!」
廊下の向こうで、帳簿を抱えたタントリスが肩を震わせていた。
イゾルテはこほんと咳払いをした。
「……それで。ロアへ行くそうですね」
「はい。祖父に、呼ばれていて」
「そう」
イゾルテは目を逸らした。
「……しばらく手合わせの相手がいなくなりますね」
「一月くらいで戻ります」
「別に寂しいとは言っていません。ただ、あなたがいないと道場が静かになるというだけです。あなた、うるさいですから。手合わせの時」
「もう一回、としか言っていません」
「それを一日に五十回言うのです!」
イゾルテはぷいと顔を背けた。
それから、小さな声で言った。
「……気をつけて、行ってきなさい。弟弟子」
「はい。姉弟子」
「その呼び方は、やめなさいと言っているでしょう。歳がばれます」
「ばれないと思います」
「ばれるのです! 弟弟子が十七で、姉弟子と呼ばれたら、それより上だと皆に分かるではありませんか!」
「……それは、どうしようもないのでは」
「どうにかしなさい!」
三
祖父からの書状はエリックが水聖になった十日後に屋敷に届いた。
伯父の書斎で、伯父はそれを長いこと黙って読んでいた。
エリックは机の前に立っていた。
十七歳の今はもう椅子に座れば足が床に着く。けれど伯父は座れとは言わなかった。
「……父上がお前をロアに呼んでいる」
伯父は書状を机の上に置いた。
「水聖の祝いだそうだ。当主として、孫の昇級を領内に披露したいと」
「……はい」
「断る理由を考えていた」
伯父は机の上で指を組んだ。
「父上の言い分にも、筋は通る。ボレアスは、武勲を何より重んじる家だ。それに当主の招きだ。私が断れば父上の顔に泥を塗ることになる」
伯父は目を伏せた。
「加えて、お前はもう成人している。水聖の称号もある。道中の心配は要らんだろう。……父上も、迎えの騎士を二人寄越すと書いてきている」
「……伯父上」
「行ってきなさい」
伯父はそれだけ言った。
エリックは伯父の顔を見た。
いつもの平坦な顔だった。怒っているのか、諦めているのか、分からなかった。
けれど、ひとつだけ気づいた。
伯父の指は杯の縁をなぞっていなかった。机の上でただ静かに組まれていた。
「ただし」
伯父が顔を上げた。
「ユリウスの護衛は、どうするつもりだ」
ユリウスの護衛。物心ついた頃から担ってきた務めだった。道場に通うようになってからも、一日も欠かさなかった。
ロアまで片道五日。祝いの滞在を合わせれば、一月近く王都を離れることになる。
訊かれることは分かっていた。だから考えてあった。
「ベルンハルトに、朝夕の付き添いを頼みます。外出の日は、騎士を二人。それから、道場の門弟で、手の空いている上級を一人」
「門弟をボレアスの屋敷に入れるのか」
「タントリスさんに、もう話を」
「僕が決めます」
書斎の扉の方から声がした。
振り返るとユリウスが立っていた。
十八歳になったユリウスは背が伸び肩幅が広くなっていた。稽古着を着て、腰には六年前に受け取った真剣を佩いていた。
この頃のユリウスは、気が向いた朝だけ、ベルンハルトの稽古に顔を出すようになっていた。
「ユリウス。ノックくらいしなさい」
「すみません父上。でも僕のことなので」
ユリウスは書斎に入ってきた。
そしてエリックの隣に並んだ。
「エリックは僕の護衛です。だからエリックに休みをやるかどうかは、主人の僕が決めます」
伯父の眉が、わずかに上がった。
ユリウスはエリックの方を向いた。
「行ってこい」
「……従兄上」
「お前がいない間くらい、自分の身は自分で守る。それにベルンハルトもいる」
書斎が静かになった。
伯父は息子の顔を長いこと見ていた。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……好きにしなさい」
伯父はまた書類に目を落とした。
けれどエリックには見えた。
伯父の口の端が、ほんのわずかに持ち上がっていたのが。
書斎を出て廊下の角を曲がったところで、ユリウスが壁に手をついた。
「……は、はあ……っ」
「従兄上」
「父上の前で、主人とか、言っちゃった……」
ユリウスは壁にもたれたまま、ずるずるとしゃがみ込んだ。
「かっこつけすぎた……絶対、後で何か言われる……」
「かっこよかったです」
「え」
ユリウスが顔を上げた。
エリックは真顔で頷いた。
「かっこよかったです。主人として、送り出すって」
「……お、お前、そういうこと、真顔で言うなよ……」
ユリウスの顔が耳まで真っ赤になった。
「……気をつけて行けよ。ボレアスの孫が、道中で野盗にやられたなんて、笑い話にもならないからな」
「水聖です」
「知ってるよ! 自慢するな!」
四
その夜、エリックは寝室で荷造りをしていた。
着替え。水聖の称号を示す道場の免状。ボレアス家の印章。
そして身分証。
ボレアス・グレイラット家、ジェイムズ・ボレアス・グレイラットの子、エリック・ボレアス・グレイラット。
正式な身分証にはそう書かれていた。
見るたびに、胸の奥がかすかにざらついた。
それから机の引き出しを開けた。
書きかけの手紙の束。
『母上へ』の一行だけで止まっているもの。『お元気ですか。僕は』で止まっているもの。インクが滲んで止まっているもの。
エリックはその束を全部取り出した。
紐で、ひとつにまとめる。
荷物の一番奥に、そっとしまった。
直接渡そうと思った。
書きかけのまま、途中で止まったまま。書くまでもないと思った、その一行ずつを。
全部母上に。
「……それ、持っていくの?」
振り返ると、エルヴィンが扉のところに立っていた。
十一歳になった弟は帳面は相変わらず小脇に抱えている。
今年の春から、エルヴィンは伯父の執務の手伝いを任されるようになった。家中の者は「エルヴィン様に訊けば分かる」と言うようになっていた。
「ああ」
「書きかけの手紙でしょ。全部」
「……なんで知ってる」
「兄上の引き出し、しょっちゅう開けてるの、知ってるもん」
エルヴィンは兄の寝台に、どすんと腰を下ろした。
「僕も行きたかったなあ」
「……伯父上の手伝いがあるだろう」
「あるよ。来月の帳簿の締めと、フィットアからの税の報告の整理。まだ見習いだけど、僕がいないと、たぶん伯父上は書類の山に埋もれる」
エルヴィンは得意げに胸を張った。
「伯父上ね、最近僕に訊くんだよ。この数字どう思うって。三年前までは僕の顔もろくに見なかったのに」
「……そうか」
「うん」
エルヴィンは寝台の上で膝を抱えた。
それから、ぽつりと言った。
「兄上」
「ん」
「僕ね、ずっと言おうと思ってたことがあるんだ」
エリックは荷造りの手を止めた。
エルヴィンは自分の右手を見下ろしていた。
六年前、運河の岸壁で踏み砕かれた右手。骨はついた。日常には何の支障もない。ペンを持つにも帳簿をめくるにも。
ただ剣を強く握ることだけは最後までできなかった。
「兄上、まだ気にしてるでしょ。これ」
エルヴィンは右手をひらひらと振ってみせた。
「……気にしてる」
エリックは正直に言った。
「知ってる。顔に書いてある。この手を見るたびに、ずっと」
エルヴィンはにっと笑った。
「怪我がなくても、僕は剣を置いてたと思う」
燭台の炎が小さく揺れた。
「三年前にも言ったけどさ。あれ、慰めで言ったんじゃないよ。本当にそう思ってる」
エルヴィンは右手を胸の前でぎゅっと握った。
指がかすかに震えた。
「それに、剣を置いたから今の僕がいる。伯父上に数字を訊かれる僕が。フィットアの帳簿を任される僕が。僕は、今の僕が、けっこう好きなんだ」
タントリスさんと同じこと言ってるね、とエルヴィンは笑った。
「だから兄上。もう気にしなくていいよ」
エリックは弟の顔を見た。
三年前、「僕は兄上が持ってないもので、役に立つ」と言った弟。
あの時、弟は泣いていなかった。今も泣いていなかった。
泣きそうになっているのは自分の方だった。
「……エルヴィン」
「なに?」
「……ありがとう」
エルヴィンは目を丸くした。
それから、ぱっと顔を輝かせた。
「兄上が、ありがとうって言った!」
「……言うだろ、普通に」
「言わないよ! 帳面を見せた時とか、話を教えた時は言うけど、こういう時は、いつも顔で済ませるじゃん! 帳面に書いとこ!」
「書くな」
「書く! 何月何日、兄上が口で、ありがとうと言った!」
「書くなと言ってる」
エリックが帳面に手を伸ばすと、エルヴィンはけらけらと笑いながら、それを胸に抱えて寝台の上を転がった。
ひとしきり騒いでから、エルヴィンは寝台の上に仰向けになった。
「先に行って、母上たちによろしく伝えてね」
天井を見上げたまま、エルヴィンは言った。
「父上にも。姉上にも。籠手のことも。あれ、僕も一緒に選んだんだから」
「……ああ」
「それから、麦畑」
エルヴィンは目を細めた。
「金色になってたら、よく見といて。僕、あれ、まだ一回も見てないんだ」
エリックは手を止めた。
十年前。緑の芽が出たばかりの丘。馬車の中で眠っている赤子の弟に、指を握らせたまま言った言葉。
――いつか、見せてやる。金色の麦畑を。
弟は覚えていないはずだった。
「……なんで、麦畑を知ってる」
「母上の手紙に書いてあった。ロアの麦畑は夏になると金色になるって。兄上が赤ちゃんの僕に、いつか見せてやるって言ってたって」
エルヴィンは天井に向かって右手を伸ばした。
「……アルフォンスさんが母上に話したんだって。馬車の中で兄上がそう言ってたって」
あの時、馬車の中にいたのは、自分と、乳母と、赤子の弟と。
そしてアルフォンスだった。
「僕、それ読んでから、ずっと見たかったんだ」
エルヴィンは笑った。
「今度は僕も行く。帳簿の締めが終わったら絶対行く。伯父上が何と言おうと。兄上が水聖になれたんだから、僕だって、何かになって胸張ってロアに行く」
「……ああ」
「だから、それまで覚えといて。どんな色だったか」
「……ああ」
「兄上の言葉で。顔じゃなくて」
「……努力する」
「約束ね」
「約束だ」
エルヴィンは満足そうに笑って目を閉じた。
そのまま兄の寝台の上で、すうすうと寝息を立て始めた。
「……自分の部屋で寝ろ」
返事はなかった。
エリックは溜息をついて、弟の上に毛布をかけてやった。
それから荷物の一番奥にしまった手紙の束に、そっと手を置いた。
燭台の火を吹き消した。
窓の外、北東の空に、星がひとつ、流れた。