凪の水帝   作:アサツラ

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第13話 再びロアへ

一

 

 十六歳の冬の武芸奉納で、ギレーヌは夜明けの中庭に来るなり言った。

 

「言った」

「……何をですか」

「籠手も、祝いも。お前からだとエリスに言った」

 

 エリックは剣を構えかけた手を止めた。

 

「……そうだと思っていました」

「……」

 

 ギレーヌは明後日の方を向いた。

 耳が、じりじりと後ろに倒れていく。

 去年、訊いた時も、こうだった。

 

「あたしは、嘘が下手だ」

「知ってます」

「一年、黙ってた。よく持った方だ」

「……いつ言ったんですか」

「籠手は、渡した日に」

「最初からじゃないですか」

「最初からだ」

 

 エリックは額に手を当てた。

 

「……エリスは何と」

「会ったこともない兄貴からなんて、いらない、と言ってた」

 

 エリックは肩を落とした。

 そうだろうな、と思った。

 

「それで、その日から毎日着けてる」

「……え」

「寝る時も着けようとして、ヒルダ様に怒られてた」

 

 エリックはギレーヌの顔を見た。

 ギレーヌはほんの少しだけ、口の端を持ち上げていた。

 

「もう小さくて指が入らなくなった。でも捨てない。稽古の時は、腰に下げてる」

 

 会ったこともない兄からなんて、いらない。

 そう言いながら、指が入らなくなるまで着けた籠手を、今も腰に下げている妹。

 

「……すみません、慣れないことさせてしまって」

「気にするな」

「でも、僕が頼んだので」

「引き受けたのは、あたしだ。お前は関係ない」

「頼まなければ、嘘つかずに済んだはずです」

 

 ギレーヌはしばらくエリックを見下ろしていた。

 

「……お前の妹だな、あれは」

「はい」

「そういうところが、そっくりだ」

「どういうところですか」

「知らん。構えろ」

 

 ギレーヌが木剣を手に取った。

 今年の手合わせは最初から違った。

 ギレーヌが腰だめに構えた。

 抜刀の構え。

 去年の冬、エリックの木剣を断ち切った、あの構えだった。

 

「一年待った」

 

 ギレーヌが言った。

 

「見えるか、試す」

 

 中庭の空気が、張り詰めた。

 風が止まる。鳥の声が止まる。世界の全部が、ギレーヌの木剣の一点に吸い寄せられていく。

 エリックは目を開けていた。

 

 一年間、毎日考えてきた。見えないものを、どうやって見るのか。

 レイダに訊いた。「見ようとするから見えないのさ」と、茶をすすりながら言われた。

 イゾルテに訊いた。「光の太刀なんて、私だって見えません」と、なぜか胸を張って言われた。

 タントリスに訊いた。「剣ではなく、相手を見るのです」と、穏やかに言われた。

 

 剣ではなく相手を。

 エリックはギレーヌの木剣から目を離した。

 代わりに、ギレーヌの肩を見た。腰を見た。足を見た。

 

 ――来る。

 

 ギレーヌの左肩が、ほんのわずかに沈んだ。

 その瞬間、エリックは木剣を斜めに構えていた。

 考えたのではなかった。ギレーヌの肩が沈んだ、それだけで身体が勝手に動いていた。

 

 衝撃が来た。

 腕が痺れた。

 木剣が手から弾き飛ばされた。

 くるくると宙を舞って、中庭の石畳に落ちた。

 からん、と。

 

 エリックは自分の手を見下ろした。

 空っぽだった。

 けれど。

 エリックは石畳の上の木剣を見た。

 切れていなかった。

 去年のように、半ばから断ち切られてはいなかった。弾き飛ばされただけだった。一本のまま、石畳の上に転がっていた。

 

「……受けたな」

 

 ギレーヌが低い声で言った。

 

「受けてません。弾かれました」

「受けた。当たる場所に剣があった。だから斬れなかった」

 

 ギレーヌは木剣を下ろした。

 

「見えたか」

「……見えませんでした」

 

 エリックは正直に言った。

 

「剣は、見えませんでした。でも肩が。左の肩が少しだけ沈んだのが見えて。そこから来ると思って」

 

 ギレーヌの目が、わずかに見開かれた。

 獣の耳が、ぴんと立った。

 

「……肩か」

「はい」

「あたしの左肩」

「はい」

 

 ギレーヌは自分の左肩に手をやった。

 しばらく何も言わなかった。

 それから、ふっと、息を吐いた。

 

「……師匠に言うなよ」

「え?」

「剣神ガル・ファリオンに。あたしの光の太刀は左肩が沈むと。知られたら叩き直される」

「……会ったこと、ないです」

「会っても言うな」

「言いません」

「約束だ」

「約束します」

 

 ギレーヌの尻尾が、ぶんぶんと左右に大きく揺れていた。

 

*

 

 その日の武芸奉納の後、祖父は玄関の広間でエリックの頭を鷲掴みにしながら言った。

 

「聞いたぞ! 水神の婆さんから! お前、来年には水聖になるそうじゃな!」

「……まだ、決まったわけでは」

「決まったも同然じゃ! 婆さんが言うとったぞ! 癖は抜けんが腕は聖級だとな!」

 

 祖父は上機嫌に笑った。

 それから声を落とした。

 祖父が声を落とすのは珍しいことだった。

 

「水聖になったら、ロアに来い」

 

 エリックは祖父の顔を見上げた。

 

「祝うてやる。ボレアスの孫が、水神流の聖級じゃ。フィットア中に自慢してやる」

「……伯父上が」

「ジェイムズが何と言おうと構わん」

 

 祖父の声は低く、ざらついていた。

 七年前の夜、寝室で「恨むなら、わしを恨め」と言った時と、同じ声だった。

 

「当主が呼ぶんじゃ。あれも断れはせん」

 

 祖父はエリックの頭をがしがしと撫でた。

 

「ヒルダが、待っとる。フィリップも。エリスもな」

 

 祖父の一行が発つ時、ギレーヌはいつものように馬車の後ろを徒歩でついていった。

 門を出る直前一度だけ振り返った。

 

「……サウロス様が来いと言った」

「はい」

「なら、来年の武芸奉納は待たん」

 

 ギレーヌはそっけなく言った。

 

「ロアで来年の分をやる。素振りも手合わせも、エリスと一緒に」

 

 エリックは目を瞬いた。

 

「……ロアで、エリスと一緒に」

「そうだ。だから、それまでに、もう一度受けられるようになっとけ」

 

 ギレーヌはそれだけ言うと、また前を向いて歩き出した。

 

二

 

 十七歳の春、エリックは水聖になった。

 

「はいはい、水聖。おめでとさん」

 

 道場の奥の板の間で、レイダは四年前と同じように、湯呑みの茶をすすりながら言った。

 

「……饅頭は、ありますか」

「なんだい、今年は欲しいのかい」

「四年前、訊かれたので」

「覚えてたのかい。細かい子だねえ」

 

 レイダはくつくつと笑って、脇の盆から饅頭をひとつエリックに放った。

 エリックはそれを受け止めた。

 レイダは湯呑みを置いた。

 

「その癖は、まだ抜けないね」

「はい」

「抜く気は」

「ありません」

「だろうねえ」

 

 レイダはしばらくエリックの顔を見ていた。皺に埋もれた小さな目が、何かを量るように細くなった。

 

「あんたの剣はね、面白いよ。水神流の剣士の誰も、あんな剣は振らない。踏み込むふりで相手を動かして、受けて、流して、そこからまた踏み込む。剣神流の剣王の素振りと、あたしの受けとを、ごちゃ混ぜにした剣だ」

「……はい」

「水聖にはしてやる。腕は十分に聖級だからね」

 

 レイダは湯呑みを両手で包み込んだ。

 

「でもね、坊や。これだけは覚えておきな」

 

 のんびりとした声が低くなった。

 

「あんたの剣は、水神にはなれない剣だよ」

 

 エリックは饅頭を持ったまま動きを止めた。

 

「水神流の奥義は、受けの極みにある。待って、待って、待ち抜いた先にある。あんたみたいに、待ちきれずに踏み込む剣には、その先は見えやしない」

「……」

「悪い意味じゃないよ」

 

 レイダはふっと口元を緩めた。

 

「水神になれなくたって、強くはなれる。あたしが見たこともないくらいにね。ただ、この道場を継ぐのは、あんたじゃない。それだけさ」

 

 エリックはしばらく黙っていた。

 それから饅頭を一口かじった。

 

「……継ぐつもりは、ありません」

「だろうねえ」

 

 レイダは茶を一口すすった。

 それから、ふと、思い出したように言った。

 

「……昔、同じことを言って、ここを出ていった子がいたよ」

 

 師の目が、一度だけエリックの腰の剣に落ちた。道場で渡された古い剣に。

 それから、すぐに湯呑みに戻った。

 エリックは顔を上げた。

 

「水神にはなれない剣だと、あたしが言ったのさ。そうしたら、その子は、出ていった。自分の剣を認める場所を探すと言ってね」

「……その人は」

「さあねえ。噂も聞かない」

「僕は、出ていきません。両方守れる剣が欲しいだけなので」

 

 レイダの眉が、ぴくりと動いた。

 それから皺だらけの顔を、くしゃりと崩して笑った。

 

「六年前の運河から、ずっとそれかい」

「はい」

「頑固な子だねえ、本当に」

 

 レイダは湯呑みを置いて、エリックを見上げた。

 

「それと、もうひとつ。あんたの剣はね、静かすぎるんだよ」

「……静か、ですか」

「踏み込む前が、あまりに静かだ。相手は風が止まったとしか思わない。それで、つい前に出る。出たところを、ひっくり返される」

 

 レイダは皺だらけの指で自分の顎を撫でた。

 

「そういう剣は、褒められるより先に、怖がられるものさ。覚えておきな」

「……はい」

「まあ、あんたはまだ、誰にも怖がられちゃいないけどね」

 

 レイダはくつくつと笑った。

 

 板の間を出ると、廊下にイゾルテが立っていた。

 四年前と同じように、腕を組み、壁にもたれて。

 ただ、もう少女ではなかった。背がすらりと伸び、青みがかった黒髪は腰まで届き、稽古着の上からでも分かるほど、身のこなしに隙がなくなっていた。

 去年、イゾルテは水王になった。

 

「水聖、おめでとうございます」

「ありがとうございます」

 

 エリックは次の言葉を待った。

 来なかった。

 

「……言わないんですか」

「何をですか」

「私は水王です、と」

「言いません。水王にもなって、いちいち言うものではありません」

「一昨日は二回言いました」

「数えないでくださいと、何度言えば分かるのですか!」

 

 廊下の向こうで、帳簿を抱えたタントリスが肩を震わせていた。

 イゾルテはこほんと咳払いをした。

 

「……それで。ロアへ行くそうですね」

「はい。祖父に、呼ばれていて」

「そう」

 

 イゾルテは目を逸らした。

 

「……しばらく手合わせの相手がいなくなりますね」

「一月くらいで戻ります」

「別に寂しいとは言っていません。ただ、あなたがいないと道場が静かになるというだけです。あなた、うるさいですから。手合わせの時」

「もう一回、としか言っていません」

「それを一日に五十回言うのです!」

 

 イゾルテはぷいと顔を背けた。

 それから、小さな声で言った。

 

「……気をつけて、行ってきなさい。弟弟子」

「はい。姉弟子」

「その呼び方は、やめなさいと言っているでしょう。歳がばれます」

「ばれないと思います」

「ばれるのです! 弟弟子が十七で、姉弟子と呼ばれたら、それより上だと皆に分かるではありませんか!」

「……それは、どうしようもないのでは」

「どうにかしなさい!」

 

三

 

 祖父からの書状はエリックが水聖になった十日後に屋敷に届いた。

 伯父の書斎で、伯父はそれを長いこと黙って読んでいた。

 エリックは机の前に立っていた。

 十七歳の今はもう椅子に座れば足が床に着く。けれど伯父は座れとは言わなかった。

 

「……父上がお前をロアに呼んでいる」

 

 伯父は書状を机の上に置いた。

 

「水聖の祝いだそうだ。当主として、孫の昇級を領内に披露したいと」

「……はい」

「断る理由を考えていた」

 

 伯父は机の上で指を組んだ。

 

「父上の言い分にも、筋は通る。ボレアスは、武勲を何より重んじる家だ。それに当主の招きだ。私が断れば父上の顔に泥を塗ることになる」

 

 伯父は目を伏せた。

 

「加えて、お前はもう成人している。水聖の称号もある。道中の心配は要らんだろう。……父上も、迎えの騎士を二人寄越すと書いてきている」

「……伯父上」

「行ってきなさい」

 

 伯父はそれだけ言った。

 エリックは伯父の顔を見た。

 いつもの平坦な顔だった。怒っているのか、諦めているのか、分からなかった。

 けれど、ひとつだけ気づいた。

 伯父の指は杯の縁をなぞっていなかった。机の上でただ静かに組まれていた。

 

「ただし」

 

 伯父が顔を上げた。

 

「ユリウスの護衛は、どうするつもりだ」

 

 ユリウスの護衛。物心ついた頃から担ってきた務めだった。道場に通うようになってからも、一日も欠かさなかった。

 ロアまで片道五日。祝いの滞在を合わせれば、一月近く王都を離れることになる。

 訊かれることは分かっていた。だから考えてあった。

 

「ベルンハルトに、朝夕の付き添いを頼みます。外出の日は、騎士を二人。それから、道場の門弟で、手の空いている上級を一人」

「門弟をボレアスの屋敷に入れるのか」

「タントリスさんに、もう話を」

「僕が決めます」

 

 書斎の扉の方から声がした。

 振り返るとユリウスが立っていた。

 十八歳になったユリウスは背が伸び肩幅が広くなっていた。稽古着を着て、腰には六年前に受け取った真剣を佩いていた。

 この頃のユリウスは、気が向いた朝だけ、ベルンハルトの稽古に顔を出すようになっていた。

 

「ユリウス。ノックくらいしなさい」

「すみません父上。でも僕のことなので」

 

 ユリウスは書斎に入ってきた。

 そしてエリックの隣に並んだ。

 

「エリックは僕の護衛です。だからエリックに休みをやるかどうかは、主人の僕が決めます」

 

 伯父の眉が、わずかに上がった。

 ユリウスはエリックの方を向いた。

 

「行ってこい」

「……従兄上」

「お前がいない間くらい、自分の身は自分で守る。それにベルンハルトもいる」

 

 書斎が静かになった。

 伯父は息子の顔を長いこと見ていた。

 それから、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……好きにしなさい」

 

 伯父はまた書類に目を落とした。

 けれどエリックには見えた。

 伯父の口の端が、ほんのわずかに持ち上がっていたのが。

 

 書斎を出て廊下の角を曲がったところで、ユリウスが壁に手をついた。

 

「……は、はあ……っ」

「従兄上」

「父上の前で、主人とか、言っちゃった……」

 

 ユリウスは壁にもたれたまま、ずるずるとしゃがみ込んだ。

 

「かっこつけすぎた……絶対、後で何か言われる……」

「かっこよかったです」

「え」

 

 ユリウスが顔を上げた。

 エリックは真顔で頷いた。

 

「かっこよかったです。主人として、送り出すって」

「……お、お前、そういうこと、真顔で言うなよ……」

 

 ユリウスの顔が耳まで真っ赤になった。

 

「……気をつけて行けよ。ボレアスの孫が、道中で野盗にやられたなんて、笑い話にもならないからな」

「水聖です」

「知ってるよ! 自慢するな!」

 

四

 

 その夜、エリックは寝室で荷造りをしていた。

 着替え。水聖の称号を示す道場の免状。ボレアス家の印章。

 そして身分証。

 ボレアス・グレイラット家、ジェイムズ・ボレアス・グレイラットの子、エリック・ボレアス・グレイラット。

 正式な身分証にはそう書かれていた。

 見るたびに、胸の奥がかすかにざらついた。

 

 それから机の引き出しを開けた。

 書きかけの手紙の束。

 

 『母上へ』の一行だけで止まっているもの。『お元気ですか。僕は』で止まっているもの。インクが滲んで止まっているもの。

 

 エリックはその束を全部取り出した。

 紐で、ひとつにまとめる。

 荷物の一番奥に、そっとしまった。

 

 直接渡そうと思った。

 書きかけのまま、途中で止まったまま。書くまでもないと思った、その一行ずつを。

 全部母上に。

 

「……それ、持っていくの?」

 

 振り返ると、エルヴィンが扉のところに立っていた。

 十一歳になった弟は帳面は相変わらず小脇に抱えている。

 今年の春から、エルヴィンは伯父の執務の手伝いを任されるようになった。家中の者は「エルヴィン様に訊けば分かる」と言うようになっていた。

 

「ああ」

「書きかけの手紙でしょ。全部」

「……なんで知ってる」

「兄上の引き出し、しょっちゅう開けてるの、知ってるもん」

 

 エルヴィンは兄の寝台に、どすんと腰を下ろした。

 

「僕も行きたかったなあ」

「……伯父上の手伝いがあるだろう」

「あるよ。来月の帳簿の締めと、フィットアからの税の報告の整理。まだ見習いだけど、僕がいないと、たぶん伯父上は書類の山に埋もれる」

 

 エルヴィンは得意げに胸を張った。

 

「伯父上ね、最近僕に訊くんだよ。この数字どう思うって。三年前までは僕の顔もろくに見なかったのに」

「……そうか」

「うん」

 

 エルヴィンは寝台の上で膝を抱えた。

 それから、ぽつりと言った。

 

「兄上」

「ん」

「僕ね、ずっと言おうと思ってたことがあるんだ」

 

 エリックは荷造りの手を止めた。

 エルヴィンは自分の右手を見下ろしていた。

 六年前、運河の岸壁で踏み砕かれた右手。骨はついた。日常には何の支障もない。ペンを持つにも帳簿をめくるにも。

 ただ剣を強く握ることだけは最後までできなかった。

 

「兄上、まだ気にしてるでしょ。これ」

 

 エルヴィンは右手をひらひらと振ってみせた。

 

「……気にしてる」

 

 エリックは正直に言った。

 

「知ってる。顔に書いてある。この手を見るたびに、ずっと」

 

 エルヴィンはにっと笑った。

 

「怪我がなくても、僕は剣を置いてたと思う」

 

 燭台の炎が小さく揺れた。

 

「三年前にも言ったけどさ。あれ、慰めで言ったんじゃないよ。本当にそう思ってる」

 

 エルヴィンは右手を胸の前でぎゅっと握った。

 指がかすかに震えた。

 

「それに、剣を置いたから今の僕がいる。伯父上に数字を訊かれる僕が。フィットアの帳簿を任される僕が。僕は、今の僕が、けっこう好きなんだ」

 

 タントリスさんと同じこと言ってるね、とエルヴィンは笑った。

 

「だから兄上。もう気にしなくていいよ」

 

 エリックは弟の顔を見た。

 三年前、「僕は兄上が持ってないもので、役に立つ」と言った弟。

 あの時、弟は泣いていなかった。今も泣いていなかった。

 泣きそうになっているのは自分の方だった。

 

「……エルヴィン」

「なに?」

「……ありがとう」

 

 エルヴィンは目を丸くした。

 それから、ぱっと顔を輝かせた。

 

「兄上が、ありがとうって言った!」

「……言うだろ、普通に」

「言わないよ! 帳面を見せた時とか、話を教えた時は言うけど、こういう時は、いつも顔で済ませるじゃん! 帳面に書いとこ!」

「書くな」

「書く! 何月何日、兄上が口で、ありがとうと言った!」

「書くなと言ってる」

 

 エリックが帳面に手を伸ばすと、エルヴィンはけらけらと笑いながら、それを胸に抱えて寝台の上を転がった。

 ひとしきり騒いでから、エルヴィンは寝台の上に仰向けになった。

 

「先に行って、母上たちによろしく伝えてね」

 

 天井を見上げたまま、エルヴィンは言った。

 

「父上にも。姉上にも。籠手のことも。あれ、僕も一緒に選んだんだから」

「……ああ」

「それから、麦畑」

 

 エルヴィンは目を細めた。

 

「金色になってたら、よく見といて。僕、あれ、まだ一回も見てないんだ」

 

 エリックは手を止めた。

 十年前。緑の芽が出たばかりの丘。馬車の中で眠っている赤子の弟に、指を握らせたまま言った言葉。

 ――いつか、見せてやる。金色の麦畑を。

 弟は覚えていないはずだった。

 

「……なんで、麦畑を知ってる」

「母上の手紙に書いてあった。ロアの麦畑は夏になると金色になるって。兄上が赤ちゃんの僕に、いつか見せてやるって言ってたって」

 

 エルヴィンは天井に向かって右手を伸ばした。

 

「……アルフォンスさんが母上に話したんだって。馬車の中で兄上がそう言ってたって」

 

 あの時、馬車の中にいたのは、自分と、乳母と、赤子の弟と。

 そしてアルフォンスだった。

 

「僕、それ読んでから、ずっと見たかったんだ」

 

 エルヴィンは笑った。

 

「今度は僕も行く。帳簿の締めが終わったら絶対行く。伯父上が何と言おうと。兄上が水聖になれたんだから、僕だって、何かになって胸張ってロアに行く」

「……ああ」

「だから、それまで覚えといて。どんな色だったか」

「……ああ」

「兄上の言葉で。顔じゃなくて」

「……努力する」

「約束ね」

「約束だ」

 

 エルヴィンは満足そうに笑って目を閉じた。

 そのまま兄の寝台の上で、すうすうと寝息を立て始めた。

 

「……自分の部屋で寝ろ」

 

 返事はなかった。

 エリックは溜息をついて、弟の上に毛布をかけてやった。

 それから荷物の一番奥にしまった手紙の束に、そっと手を置いた。

 燭台の火を吹き消した。

 窓の外、北東の空に、星がひとつ、流れた。

 

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