一
出立の朝、屋敷の門の前には思っていたよりも多くの人が集まっていた。
「エリック様。お身体にお気をつけて」
エルマが目を赤くしていた。十年前、初めてロアへ行く朝も同じ顔をしていた。
「一月で、戻ります」
「存じております。存じておりますけれど」
エルマはエリックの上着の襟を何度も何度も直した。もう直すところなど、どこにもないのに。
「ご武運を」
ベルンハルトが白い髭を撫でながら言った。六年前、水神流の道場へ送り出してくれた時と同じ言葉だった。
「ベルンハルト。ユリウスを、頼みます」
「お任せを。もっとも今のユリウス様なら、爺の出る幕はございますまい」
「聞こえてるぞ、ベルンハルト」
ユリウスが腕を組んで門柱にもたれていた。腰には真剣を佩いている。
「……行ってこい」
「はい」
「さっさと帰ってこいよ。お前がいないと、朝の稽古の相手がベルンハルトしかいない」
「爺では不足ですかな」
「そういう意味じゃない!」
ユリウスが慌てて弁解し、ベルンハルトが肩を揺らして笑った。
「兄上!」
屋敷の中からエルヴィンが駆けてきた。小脇に帳面を抱え、もう片方の手に何かを握っていた。
「これ! 持ってって!」
差し出されたのは小さな布の袋だった。中で何かがかさかさと鳴った。
「……何だ」
「干し果物。料理長に頼んで分けてもらったの。道中お腹すいたら食べて」
「……ありがとう」
「それからこれ」
エルヴィンは帳面から数枚の紙を破り取った。細かい字で、びっしりと何かが書き込まれていた。
「姉上への手紙。こないだ書いた分に追加で書いたやつ」
「……多くないか」
「半分にしたよ! ギレーヌに長すぎるって言われたから!」
「……前は何枚あったんだ」
「聞かないで」
エリックは溜息をついて、その紙を懐にしまった。
「それと」
エルヴィンは声を落とした。
「麦畑。忘れないでね」
「……ああ」
エリックは弟の顔を見た。
エルヴィンはにっと笑っていた。
「約束だよ」
「……約束だ」
門を出て最初の角を曲がろうとした時、見覚えのある人影が通りの向こうに立っているのが見えた。
青みがかった黒髪。すらりと伸びた背筋。稽古着ではなく外出用の上品な外套を羽織っていた。
「……イゾルテさん?」
イゾルテはぎくりと肩を強張らせた。
それから、まるで偶然通りかかったかのように、わざとらしく周囲を見回した。
「あら。弟弟子。奇遇ですね」
「……奇遇ですか」
「奇遇です。私は、たまたまこちらの通りに用事があって」
「この通り、貴族の屋敷しかありませんけど」
「用事があるのです」
イゾルテはつかつかと近づいてきて、エリックの前で止まった。
それから、言い淀んだ。
「……帰ってきたら、手合わせの相手をしてあげます。一月分、溜まっているでしょうから。百回でも」
「本当ですか。では、百回と、それから、一月分の」
「数えないでください」
「まだ数えていません」
「これから数える顔です!」
イゾルテは一度、外套の襟を直した。
「道中、無茶はしないこと。手合わせを申し込まれても、五十回もやらないこと」
「はい」
イゾルテはエリックの手に何かを押しつけた。
小さな銀の護符だった。ミリス教の聖印が刻まれている。
「……これは」
「たまたま持っていたのです。余っていたので差し上げます」
どこかで聞いたような言い訳だった。
「……ありがとうございます、姉弟子」
「その呼び方はやめなさいと言っているでしょう!」
イゾルテは頬を赤くして怒鳴った。
それから、ぷいと顔を背けて、小さな声で言った。
「……ミリス様の、ご加護がありますように」
イゾルテは足早に去っていった。
エリックは手の中の銀の護符を見下ろした。
それから、懐にしまった。エルヴィンの手紙と、一緒に。
二
護衛は二人の騎士だった。祖父がロアから迎えに寄越した騎士たちだった。
一人はグスタフという、ロアのボレアス本家に三十年仕える古参の騎士。白髪交じりの髭をたくわえ、無口で馬の扱いがうまかった。
もう一人はレオンという、二十歳になったばかりの若い騎士。去年ロアの騎士団に仕官したばかりで、よく喋り、よく笑い、よく腹を空かせていた。
二人とも最初からエリックを「若様」と呼んだ。十年前、アルフォンスがそう呼んだのと同じ呼び方だった。
「若様、若様! 水聖って、本当ですか!」
出立して半日も経たないうちに、レオンは馬を寄せてきて目を輝かせた。
「……本当です」
「すっげえ! 俺、剣神流の中級なんですよ! 聖級って、どれくらい強いんですか!」
「……どれくらい、と言われても」
「俺と手合わせしたら、何合もちます!?」
エリックは少し考えた。
「……三合」
「三合!? 俺が三合もつんですか! 意外と」
「いえ、僕が三合で終わらせます」
レオンの口がぽかんと開いた。
前を行くグスタフの肩が小さく揺れた。
「……若様、それ、真顔で言います?」
「真面目に答えたので」
「真面目に答えられると余計に傷つくんですけど!」
グスタフがとうとう声を上げて笑った。
二日目の夕方、街道沿いの森の中で狼の群れに出くわした。
六頭。痩せて腹を空かせた群れだった。街道の真ん中に立ち塞がり、低い唸り声を上げていた。
「若様、お下がりください」
グスタフが剣を抜いて前に出た。
「レオン、左を」
「はいっ!」
レオンが馬から飛び降りて剣を抜いた。
エリックも馬から降りた。
「若様!」
「大丈夫です」
エリックは腰の剣を抜いた。
腰には二本差していた。伯父から贈られた飾りのない剣と、道場で渡された古い剣。抜いたのは道場の剣の方だった。柄巻きはこの五年で自分で三度巻き直した。
狼が一斉に飛びかかってきた。
一頭がエリックの喉元に向かって跳んだ。
エリックは半歩踏み込んだ。
いや、踏み込むふりをした。
狼の跳躍の軌道が、わずかに変わった。エリックの踏み込みに合わせて、牙の向きを変えようとした。
その変わりかけた軌道を、受けて、流す。狼の身体が空中でくるりと回転し、背中から地面に叩きつけられる。
二頭目。三頭目。
受けて、流して、返す。
踏み込むふりで誘い、動いた瞬間を受け、その勢いのまま斬り返す。
六年間、イゾルテに何千回と転がされ、毎年ギレーヌに額のこぶを作られながら、身体に刻み込んできた剣だった。
気がつくと、立っている狼はもういなかった。
エリックは剣を振って血を払い、鞘に収めた。
振り返ると、グスタフとレオンが、剣を構えたまま固まっていた。
二人の足元には一頭ずつ狼が倒れていた。エリックの足元には四頭。
グスタフは剣を鞘に収めながら、髭の奥で小さく笑った。
「……フィリップ様のご子息と伺っておりましたが」
「はい」
「剣を振る時のお顔は、サウロス様に似ておられますな」
エリックは目を瞬いた。
祖父に似ている。
そんなことを言われたのは初めてだった。
「サウロス様も若い頃、剣を振る時は、あのようにお笑いになったものです。楽しくて仕方がないというように」
グスタフは狼の死骸を街道の脇に引きずりながら、ぽつりと付け加えた。
「ロアでお会いになったら、一度手合わせを所望なさるとよろしい。お喜びになりますぞ」
それから、グスタフは森の奥を見やって、眉を寄せた。
「それにしても、この辺りの街道で狼が群れで道を塞ぐとは。三十年、フィットアの街道を行き来しておりますが、昔はもっと静かでした」
「最近多いらしいですよ」
レオンが剣の血を拭いながら言った。
「領内のあちこちで。うちの実家の村でも、夜は門を閉めてるって、母から手紙が来ました。畑の端に見たこともない魔物の足跡があったって」
「理由は」
エリックが訊いた。
「分かんないです。森が騒がしい、ってみんな言ってますけど」
エリックは狼が出てきた森の奥を見た。
木々は静かだった。静かすぎるように見えた。
三
三日目の昼過ぎ、エリックは街道の分かれ道で馬を止めた。
古びた道標が立っていた。右がロア。左がいくつかの村の名前。
その村の名前のひとつに目が止まった。
ブエナ。
「……グスタフ」
「はい」
「ブエナ村まで、どれくらいですか」
「左の道を一刻ほど。ロアへは、少し遠回りになりますが」
エリックは道標を見上げていた。
ブエナ村。
十年前、ロアの屋敷の裏庭で三つの構えを見せてくれた男。父の古い友人。どこかの村の駐在騎士になったと母の手紙に書いてあった。
――嫁がな、腹に子供がいるんだ。
その子供は今、ロアで妹の家庭教師をしている。ギレーヌに字を教えた、ルーデウスという名の少年。
「……寄っていっても、いいですか」
ブエナ村は麦畑に囲まれた小さな村だった。
村の入り口にはまだ木肌の白い新しい柵が組まれていた。その脇に急ごしらえの見張り台が一つ。槍を持った村の若者が、台の上から街道を見張っていて、騎士の紋章を見ると、ほっとしたように手を振った。
村の入り口の近くに一軒の家があった。広い庭と手入れの行き届いた畑。庭の隅に使い込まれた木の打ち込み台が立っていた。
その打ち込み台の前で、一人の男が木剣を振っていた。
明るい茶色の髪。十年前より、目尻の皺が増えていた。けれど木剣を振る身のこなしは、あの日と何も変わっていなかった。
革の胸当てを着けたままだった。脛当てには乾いた泥がこびりついていた。
男が、ふとこちらを振り向いた。
馬上のエリックを見て眉をひそめた。それからエリックの赤い髪を見て、糸のように細い目を見て、ぱちぱちと瞬きをした。
「……おい。まさか」
男は木剣を放り出して、垣根の方へ歩いてきた。
「フィリップの倅か? 上の方の」
「……はい。エリックです」
「エリック! おお、エリックか!」
パウロは垣根をひょいと乗り越えて、エリックの馬の前に立った。そしてエリックを見上げて豪快に笑った。
「でかくなったな、坊主! いや、もう坊主じゃねえか。いくつになった!」
「十七です」
「十七! もう大人じゃねえか! 俺があの庭で会った時は、こんなちっこかったのに」
パウロは自分の腰のあたりを手で示した。
「何考えてるか分かんねえ顔は、相変わらずだな」
「……それ、十年前も言われました」
「そうだったか!」
パウロがエリックの背中をばしばしと叩いた。
「あなた、どなたか見えたの?」
家の中から金色の髪の女性が顔を出した。その後ろから、赤髪のメイドと、小さな女の子が二人、ひょこひょこと顔を覗かせた。
「ゼニス! リーリャ! フィリップの倅だ! ほら話したろ、ロアの屋敷の裏庭で会ったって!」
「まあ、あの時の」
金色の髪の女性――ゼニスが、ふわりと笑った。
「どうぞ、上がってちょうだい。ちょうどお茶の時間だったの。ノルン、アイシャ、お客様にご挨拶して」
「こんにちは!」
「……こんにちは」
二人の女の子が、ぺこりと頭を下げた。一人は元気よく、一人はゼニスの後ろに隠れるようにして。
エリックは馬から降りて、二人に頭を下げた。
「……こんにちは」
元気な方の女の子が、エリックの顔をじっと見上げた。
「おにいさん、ねてるの?」
「アイシャ!」
赤髪の女性――リーリャが、慌てて女の子の口を塞いだ。
パウロが腹を抱えて笑った。
「起きています」
エリックは真顔で答えた。
「目は開いています。細いだけです」
アイシャはエリックの顔にぐっと近づいて、しばらく目を凝らした。
「……ほんとだ。ちょっとだけ、みえる」
パウロが、腹を抱えたまま、垣根にもたれかかった。
その時、家の奥から洗濯籠を抱えた子供が一人、出てきた。
女の子だった。ノルンやアイシャよりは年上で、十歳くらいだろうか。髪が、緑色だった。若葉のような、淡い緑。耳の先が、わずかに尖っていた。
女の子は赤い髪の男を見て、ぴたりと足を止めた。それからリーリャの陰に、半分だけ身体を隠した。
「シルフィも、ご挨拶して」
ゼニスが優しく言った。
「ルディのお友達なの。ルディがロアに行ってからも、よく遊びに来てくれるのよ。うちの子たちの面倒も見てくれて」
「……こ、こんにちは」
女の子は籠を抱えたまま小さく頭を下げた。
顔を上げてエリックの視線に気づいた。
エリックは女の子の髪を見ていた。
女の子の肩が、びくりと強張った。何かを言われるのを待っている顔だった。言われ慣れている顔だった。
「きれいな緑ですね」
エリックは言った。
「十年前にロアへ来た時、丘の麦が、ちょうどその色でした。芽が出たばかりで」
「……え」
女の子はぽかんと口を開けた。
それから、見る見るうちに、耳の先まで赤くなった。
「おいおい」
パウロが、にやにやと笑った。
「フィリップの倅が、シルフィを口説いてるぞ」
「口説いていません。色の話です」
「シルフィはダメだぞ、ルディが唾をつけてるからな」
「あなた」
ゼニスが笑顔のまま、パウロの脇腹をつねった。
「いてっ!」
シルフィは籠で顔を半分隠したまま、リーリャの後ろから、じっとエリックを見ていた。
「で! 剣は! 続けてんのか!」
お茶の席でパウロは身を乗り出した。
「はい」
「流派は! 剣神流だったよな、あの時!」
「今は水神流です。水神のレイダ・リィアに」
「水神!?」
パウロの手から、焼き菓子がぽろりと落ちた。
リーリャが、はっとしたような顔をした。
「あの婆さんに!? 直に!? お前、すげえとこに弟子入りしたな!」
「……あと、毎年、ギレーヌに素振りを見てもらっています」
「ギレーヌ!?」
今度は茶器が傾いた。ゼニスがさっと手を伸ばしてそれを支えた。
ゼニスも意外そうな顔をしていた。
「九歳の時から素振りと、たまに打ち合いも」
パウロは椅子の背もたれにのけぞって、天井を見上げた。
「世の中、何が起きるか分かんねえなあ……ルディにも剣を教えてるって聞いた時も驚いたが……あいつ、そういうの、一番向いてねえ奴だと思ってたんだけどなあ……」
「……教えるのは下手だと、本人も言ってました」
「だろ!? だろうな!」
パウロはまた腹を抱えて笑った。
それから、ふと笑いを収めて、エリックの顔をじっと見た。
「……で、お前。あいつのこと、どう思ってんだ」
「……え?」
「ギレーヌのことだよ。八年も素振りを見てもらって」
エリックは少し考えた。
「……師匠です。本人は、弟子じゃないと言いますけど」
「ふうん」
パウロはにやにやと笑った。
「師匠、ねえ」
「……何ですか」
「いや。何でも」
パウロは焼き菓子を口に放り込んだ。
「あなた」
ゼニスが笑顔のまま、今度は反対側の脇腹をつねった。
「いてっ! 何だよ、何もしてねえだろ!」
「その顔は、何かしようとしている顔です」
「しねえって!」
エリックはパウロの胸当てを見た。脛当ての泥を見た。
「パウロ殿。今朝は、どこかへ」
「おう、よく見てんな」
パウロは笑いを引っ込めた。
「狩りだよ。森の縁で、魔物を三つばかり。シルフィの親父のロールズと、村の男連中とでな」
パウロは茶を一口すすった。
「近頃、森から出てくるのが妙に多いんだ。去年の倍じゃきかねえ。夜は柵を閉めて見張りを立ててる。サウロスの爺さんにも知らせてあって、兵を回すとは言ってくれてるが」
「街道でも狼の群れに会いました。六頭」
「六頭か」
パウロの眉が寄った。
「群れで街道に出るのは珍しいな。何かに追い立てられてんのか、腹が減ってんのか。理由が分かんねえのが、一番気味が悪い」
ゼニスが窓の外の森の方を見た。リーリャが、アイシャとノルンの肩に黙って手を置いた。
「まあ、ブエナは俺がいる限り大丈夫だ」
パウロはまた笑った。
夕方、エリックが村を発つ前に、パウロは庭の前で木剣を拾い上げた。
「一本、やってくか」
エリックの目がぱっと輝いた。
パウロがそれを見て吹き出した。
「おいおい、分かりやすいな、お前! フィリップの倅とは思えねえ!」
「……やります」
「おう。来い」
パウロが構えた。
剣神流の構えだった。十年前、枝で見せてくれた、あの構え。
エリックも構えた。
水神流の構えで。
パウロの眉が、ぴくりと上がった。
「……いい構えだ」
パウロが踏み込んできた。
速かった。十年前には分からなかった、本物の上級剣士の速さだった。
エリックは受けた。流した。そして、踏み込むふりをした。
パウロの剣が構えを変えた。北神流の、つかみどころのない構えに。
エリックの誘いに乗らなかった。
――すごい。
エリックは構え直した。
パウロがまた構えを変えた。今度は水神流。待つ構え。
エリックも待った。
庭に静寂が落ちた。
ノルンとアイシャとシルフィが、垣根の陰から息を呑んで見つめていた。
先に動いたのはパウロだった。
いや、動いたふりをした。
エリックの受けが、わずかに動いた。
その瞬間、パウロの木剣が、エリックの額の前で、ぴたりと止まっていた。
「……一本、だな」
パウロがにやりと笑った。
エリックは額の前の木剣を見上げた。
誘われた。
自分がいつもやっていることを、そっくりそのまま、やり返された。
「お前の剣、面白えな。踏み込むふりで誘って、受けて、返す」
パウロは木剣を下ろした。
「でも、言ったろ。誘う奴は、誘われるのに弱いって」
「十年前に、聞きました」
「覚えてたのか!」
「覚えていました。でも、身体の方は忘れていました」
エリックは額の前の木剣を見たまま言った。
「今のパウロ殿は、剣神流で踏み込んで、北神流で僕の誘いを流して、水神流で待って、最後は、待つふりで僕の受けを先に動かしました。三つの構えを、一本の中で全部使いました」
「……おう」
「もう一回、お願いします。今度は待つふりに気づいても、受けを動かさずに」
パウロはにやりと笑った。
「おう、何回でも来い」
日が赤くなり始めた頃、エリックは馬に乗った。
パウロとゼニスとリーリャと、三人の女の子が垣根の前に並んで見送ってくれた。
「ロアに行くんだろ」
パウロが言った。
「はい。祖父に、呼ばれていて。母と、父と、妹に、会いに」
「そうか」
パウロは目を細めた。
「会えるうちに、ちゃんと会っとけよ」
エリックはパウロの顔を見た。
十年前、同じ言葉を聞いた。ロアの屋敷の裏口で、扉が閉まる直前に。
「はい、やっと会いに行けます」
パウロは一瞬、きょとんとした。
それから、くしゃりと顔を崩して笑った。
「そうか。そうだな。偉いぞ、お前」
パウロはエリックの馬の首を、ぽんと叩いた。
「ルディに会ったら、よろしく言っといてくれ。親父は元気だってな。あとギレーヌにも。お前が師匠やってんの、笑ってたって」
「それは、言いません」
「言えよ!」
「言ったら、殴られます」
「あはは! 違いねえ!」
「あ、あの」
リーリャの陰からシルフィが一歩だけ出てきた。
「ロアで……ルディに、会ったら」
「はい」
「ボク、魔術の練習、続けてるって。無詠唱、前より、できるようになったって」
シルフィは籠の縁を握りしめていた。
「……それだけ、です」
「伝えます」
シルフィが顔を上げた。
それから、はにかむように、小さく笑った。
馬を歩かせる。
垣根が少しずつ遠ざかっていく。
垣根の向こうで、緑の髪が夕日に光っていた。
四
四日目の午後、街道はなだらかな丘陵地帯に入った。
そして、エリックは馬を止めた。
目の前に金色の海が広がっていた。
丘という丘が、見渡す限り一面の麦だった。重く穂を垂れた麦が、夏の日差しを浴びて、黄金色に輝いていた。
風が吹いた。
麦の穂が一斉に揺れた。
金色の波が、丘を越えて、どこまでも渡っていった。
――風が吹くと、金色の波が丘を越えて、どこまでも渡っていくのです。
十年前、まだ背の低い緑の丘を前に、アルフォンスがそう言っていた。
――フィットアの者は皆、あの景色を見て育ちます。
エリックは馬の上で、ただそれを見ていた。
ただ、きれいで。
言葉にするのが、もったいなかった。
「……若様?」
レオンが、そっと馬を寄せてきた。
「どうかなさいましたか」
「……いえ」
エリックは首を振った。
「弟に、見せたかったなと思って」
「エルヴィン様に?」
「十年前に来た時は、まだ芽が出たばかりで。弟は、赤ん坊で、何も見えていなかった」
「ああ」
レオンは金色の丘を見渡した。
「そりゃあ見せたいですよね。俺もフィットアの生まれなんですよ。この景色、何度見ても、帰ってきたって思います」
グスタフが黙って馬を降りた。
そして街道の脇の麦畑に分け入ると、穂を一本、そっと折り取った。
「若様」
グスタフはその穂を、エリックに差し出した。
「エルヴィン様への、土産に」
エリックは麦の穂を受け取った。
重かった。一粒一粒が、ぎっしりと詰まっていた。
「……ありがとう、グスタフ」
「お持ち帰りになる頃には、少し乾いてしまいましょうが」
グスタフは髭の奥で小さく笑った。
「色は、残りますゆえ」
エリックは麦の穂を荷物の一番奥にしまった。
書きかけの手紙の束の、すぐ隣に。
――それまで覚えといて。どんな色だったか。
――兄上の言葉で。顔じゃなくて。
エリックはもう一度、金色の丘を見渡した。
どんな言葉で話せばいいだろう。
金色。黄金色。いや、それだけじゃ足りない。風が吹くと波になる。丘を越えて、どこまでも。夏の光が麦の一粒一粒に宿って、丘全体が呼吸しているみたいに。
エリックは口の中で言葉を探した。
探して、ひとつずつ、拾い集めた。
弟に話すために。
日が暮れる頃、一行は街道沿いの宿場町に着いた。
石造りの小さな町。宿屋が三軒と、酒場が一軒と、鍛冶屋が一軒。旅人と、荷馬車と、フィットアの農夫たちで、夕暮れの通りは賑わっていた。
「ロアまでは、あと半日です」
宿屋の前で馬を降りながら、グスタフが言った。
「明日の昼前には着きましょう」
明日の昼前。
エリックは宿屋の二階の部屋に荷物を置き、窓を開けた。
北東の空は、もう暮れかけていた。
その下にロアがある。
祖父がいる。父がいる。母がいる。
妹がいる。十年前、髪を引っ張って笑っていた、二歳の妹。今は十二歳になっている。顔も覚えていない兄からの籠手を、指が入らなくなるまで着けていた妹。
ルーデウスという名の、パウロの息子がいる。
父親からの伝言と、緑の髪の女の子からの伝言を、預かっている。
そして。
――ロアで来年の分をやる。素振りも手合わせも、エリスと一緒に。
去年の冬、門を出る直前にギレーヌはそう言った。
ギレーヌが、いる。
エリックは窓枠に肘をついた。
明日。
母に何と言おう。
十年前、ロアでは言うべきことは全部言ったつもりだった。
手袋のことも、剣のことも、弟のことも。けれど、ありがとう、とは言わなかった。会いたかった、とも言わなかった。顔を見て、ここに立っていれば、それで伝わっていると思っていた。
今度は。
エリックは目を閉じた。
初めて、言うべき言葉を、前もって考えていた。
――手袋、ありがとうございました。毎年、ちょうどよくなりました。
それはたぶん、言いたい。
――手紙を、たくさん書きました。ほとんど、途中までですけど。全部、持ってきました。
それも言いたい。
エリックは目を開けた。
夕焼けが紫に変わり始めていた。
言いたいことが、たくさんあった。
十年分。
明日、全部言えるだろうか。
言えなくても、いい。
荷物の奥に手紙の束がある。言えなかったことは全部そこに書いてある。途中までだけれど。
それを渡せばいい。
エリックは窓を閉めた。
明日は早く発とう。
夜明けと一緒に。