凪の水帝   作:アサツラ

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第14話 金色の野

一

 

 出立の朝、屋敷の門の前には思っていたよりも多くの人が集まっていた。

 

「エリック様。お身体にお気をつけて」

 

 エルマが目を赤くしていた。十年前、初めてロアへ行く朝も同じ顔をしていた。

 

「一月で、戻ります」

「存じております。存じておりますけれど」

 

 エルマはエリックの上着の襟を何度も何度も直した。もう直すところなど、どこにもないのに。

 

「ご武運を」

 

 ベルンハルトが白い髭を撫でながら言った。六年前、水神流の道場へ送り出してくれた時と同じ言葉だった。

 

「ベルンハルト。ユリウスを、頼みます」

「お任せを。もっとも今のユリウス様なら、爺の出る幕はございますまい」

「聞こえてるぞ、ベルンハルト」

 

 ユリウスが腕を組んで門柱にもたれていた。腰には真剣を佩いている。

 

「……行ってこい」

「はい」

「さっさと帰ってこいよ。お前がいないと、朝の稽古の相手がベルンハルトしかいない」

「爺では不足ですかな」

「そういう意味じゃない!」

 

 ユリウスが慌てて弁解し、ベルンハルトが肩を揺らして笑った。

 

「兄上!」

 

 屋敷の中からエルヴィンが駆けてきた。小脇に帳面を抱え、もう片方の手に何かを握っていた。

 

「これ! 持ってって!」

 

 差し出されたのは小さな布の袋だった。中で何かがかさかさと鳴った。

 

「……何だ」

「干し果物。料理長に頼んで分けてもらったの。道中お腹すいたら食べて」

「……ありがとう」

「それからこれ」

 

 エルヴィンは帳面から数枚の紙を破り取った。細かい字で、びっしりと何かが書き込まれていた。

 

「姉上への手紙。こないだ書いた分に追加で書いたやつ」

「……多くないか」

「半分にしたよ! ギレーヌに長すぎるって言われたから!」

「……前は何枚あったんだ」

「聞かないで」

 

 エリックは溜息をついて、その紙を懐にしまった。

 

「それと」

 

 エルヴィンは声を落とした。

 

「麦畑。忘れないでね」

「……ああ」

 

 エリックは弟の顔を見た。

 エルヴィンはにっと笑っていた。

 

「約束だよ」

「……約束だ」

 

 門を出て最初の角を曲がろうとした時、見覚えのある人影が通りの向こうに立っているのが見えた。

 青みがかった黒髪。すらりと伸びた背筋。稽古着ではなく外出用の上品な外套を羽織っていた。

 

「……イゾルテさん?」

 

 イゾルテはぎくりと肩を強張らせた。

 それから、まるで偶然通りかかったかのように、わざとらしく周囲を見回した。

 

「あら。弟弟子。奇遇ですね」

「……奇遇ですか」

「奇遇です。私は、たまたまこちらの通りに用事があって」

「この通り、貴族の屋敷しかありませんけど」

「用事があるのです」

 

 イゾルテはつかつかと近づいてきて、エリックの前で止まった。

 それから、言い淀んだ。

 

「……帰ってきたら、手合わせの相手をしてあげます。一月分、溜まっているでしょうから。百回でも」

「本当ですか。では、百回と、それから、一月分の」

「数えないでください」

「まだ数えていません」

「これから数える顔です!」

 

 イゾルテは一度、外套の襟を直した。

 

「道中、無茶はしないこと。手合わせを申し込まれても、五十回もやらないこと」

「はい」

 

 イゾルテはエリックの手に何かを押しつけた。

 小さな銀の護符だった。ミリス教の聖印が刻まれている。

 

「……これは」

「たまたま持っていたのです。余っていたので差し上げます」

 

 どこかで聞いたような言い訳だった。

 

「……ありがとうございます、姉弟子」

「その呼び方はやめなさいと言っているでしょう!」

 

 イゾルテは頬を赤くして怒鳴った。

 それから、ぷいと顔を背けて、小さな声で言った。

 

「……ミリス様の、ご加護がありますように」

 

 イゾルテは足早に去っていった。

 エリックは手の中の銀の護符を見下ろした。

 それから、懐にしまった。エルヴィンの手紙と、一緒に。

 

二

 

 護衛は二人の騎士だった。祖父がロアから迎えに寄越した騎士たちだった。

 一人はグスタフという、ロアのボレアス本家に三十年仕える古参の騎士。白髪交じりの髭をたくわえ、無口で馬の扱いがうまかった。

 もう一人はレオンという、二十歳になったばかりの若い騎士。去年ロアの騎士団に仕官したばかりで、よく喋り、よく笑い、よく腹を空かせていた。

 二人とも最初からエリックを「若様」と呼んだ。十年前、アルフォンスがそう呼んだのと同じ呼び方だった。

 

「若様、若様! 水聖って、本当ですか!」

 

 出立して半日も経たないうちに、レオンは馬を寄せてきて目を輝かせた。

 

「……本当です」

「すっげえ! 俺、剣神流の中級なんですよ! 聖級って、どれくらい強いんですか!」

「……どれくらい、と言われても」

「俺と手合わせしたら、何合もちます!?」

 

 エリックは少し考えた。

 

「……三合」

「三合!? 俺が三合もつんですか! 意外と」

「いえ、僕が三合で終わらせます」

 

 レオンの口がぽかんと開いた。

 前を行くグスタフの肩が小さく揺れた。

 

「……若様、それ、真顔で言います?」

「真面目に答えたので」

「真面目に答えられると余計に傷つくんですけど!」

 

 グスタフがとうとう声を上げて笑った。

 

*

 

 二日目の夕方、街道沿いの森の中で狼の群れに出くわした。

 六頭。痩せて腹を空かせた群れだった。街道の真ん中に立ち塞がり、低い唸り声を上げていた。

 

「若様、お下がりください」

 

 グスタフが剣を抜いて前に出た。

 

「レオン、左を」

「はいっ!」

 

 レオンが馬から飛び降りて剣を抜いた。

 エリックも馬から降りた。

 

「若様!」

「大丈夫です」

 

 エリックは腰の剣を抜いた。

 腰には二本差していた。伯父から贈られた飾りのない剣と、道場で渡された古い剣。抜いたのは道場の剣の方だった。柄巻きはこの五年で自分で三度巻き直した。

 

 狼が一斉に飛びかかってきた。

 一頭がエリックの喉元に向かって跳んだ。

 エリックは半歩踏み込んだ。

 いや、踏み込むふりをした。

 狼の跳躍の軌道が、わずかに変わった。エリックの踏み込みに合わせて、牙の向きを変えようとした。

 その変わりかけた軌道を、受けて、流す。狼の身体が空中でくるりと回転し、背中から地面に叩きつけられる。

 

 二頭目。三頭目。

 受けて、流して、返す。

 踏み込むふりで誘い、動いた瞬間を受け、その勢いのまま斬り返す。

 六年間、イゾルテに何千回と転がされ、毎年ギレーヌに額のこぶを作られながら、身体に刻み込んできた剣だった。

 

 気がつくと、立っている狼はもういなかった。

 エリックは剣を振って血を払い、鞘に収めた。

 振り返ると、グスタフとレオンが、剣を構えたまま固まっていた。

 二人の足元には一頭ずつ狼が倒れていた。エリックの足元には四頭。

 グスタフは剣を鞘に収めながら、髭の奥で小さく笑った。

 

「……フィリップ様のご子息と伺っておりましたが」

「はい」

「剣を振る時のお顔は、サウロス様に似ておられますな」

 

 エリックは目を瞬いた。

 祖父に似ている。

 そんなことを言われたのは初めてだった。

 

「サウロス様も若い頃、剣を振る時は、あのようにお笑いになったものです。楽しくて仕方がないというように」

 

 グスタフは狼の死骸を街道の脇に引きずりながら、ぽつりと付け加えた。

 

「ロアでお会いになったら、一度手合わせを所望なさるとよろしい。お喜びになりますぞ」

 

 それから、グスタフは森の奥を見やって、眉を寄せた。

 

「それにしても、この辺りの街道で狼が群れで道を塞ぐとは。三十年、フィットアの街道を行き来しておりますが、昔はもっと静かでした」

「最近多いらしいですよ」

 

 レオンが剣の血を拭いながら言った。

 

「領内のあちこちで。うちの実家の村でも、夜は門を閉めてるって、母から手紙が来ました。畑の端に見たこともない魔物の足跡があったって」

「理由は」

 

 エリックが訊いた。

 

「分かんないです。森が騒がしい、ってみんな言ってますけど」

 

 エリックは狼が出てきた森の奥を見た。

 木々は静かだった。静かすぎるように見えた。

 

三

 

 三日目の昼過ぎ、エリックは街道の分かれ道で馬を止めた。

 古びた道標が立っていた。右がロア。左がいくつかの村の名前。

 その村の名前のひとつに目が止まった。

 ブエナ。

 

「……グスタフ」

「はい」

「ブエナ村まで、どれくらいですか」

「左の道を一刻ほど。ロアへは、少し遠回りになりますが」

 

 エリックは道標を見上げていた。

 ブエナ村。

 十年前、ロアの屋敷の裏庭で三つの構えを見せてくれた男。父の古い友人。どこかの村の駐在騎士になったと母の手紙に書いてあった。

 ――嫁がな、腹に子供がいるんだ。

 その子供は今、ロアで妹の家庭教師をしている。ギレーヌに字を教えた、ルーデウスという名の少年。

 

「……寄っていっても、いいですか」

 

 ブエナ村は麦畑に囲まれた小さな村だった。

 村の入り口にはまだ木肌の白い新しい柵が組まれていた。その脇に急ごしらえの見張り台が一つ。槍を持った村の若者が、台の上から街道を見張っていて、騎士の紋章を見ると、ほっとしたように手を振った。

 

 村の入り口の近くに一軒の家があった。広い庭と手入れの行き届いた畑。庭の隅に使い込まれた木の打ち込み台が立っていた。

 その打ち込み台の前で、一人の男が木剣を振っていた。

 明るい茶色の髪。十年前より、目尻の皺が増えていた。けれど木剣を振る身のこなしは、あの日と何も変わっていなかった。

 革の胸当てを着けたままだった。脛当てには乾いた泥がこびりついていた。

 男が、ふとこちらを振り向いた。

 馬上のエリックを見て眉をひそめた。それからエリックの赤い髪を見て、糸のように細い目を見て、ぱちぱちと瞬きをした。

 

「……おい。まさか」

 

 男は木剣を放り出して、垣根の方へ歩いてきた。

 

「フィリップの倅か? 上の方の」

「……はい。エリックです」

「エリック! おお、エリックか!」

 

 パウロは垣根をひょいと乗り越えて、エリックの馬の前に立った。そしてエリックを見上げて豪快に笑った。

 

「でかくなったな、坊主! いや、もう坊主じゃねえか。いくつになった!」

「十七です」

「十七! もう大人じゃねえか! 俺があの庭で会った時は、こんなちっこかったのに」

 

 パウロは自分の腰のあたりを手で示した。

 

「何考えてるか分かんねえ顔は、相変わらずだな」

「……それ、十年前も言われました」

「そうだったか!」

 

 パウロがエリックの背中をばしばしと叩いた。

 

「あなた、どなたか見えたの?」

 

 家の中から金色の髪の女性が顔を出した。その後ろから、赤髪のメイドと、小さな女の子が二人、ひょこひょこと顔を覗かせた。

 

「ゼニス! リーリャ! フィリップの倅だ! ほら話したろ、ロアの屋敷の裏庭で会ったって!」

「まあ、あの時の」

 

 金色の髪の女性――ゼニスが、ふわりと笑った。

 

「どうぞ、上がってちょうだい。ちょうどお茶の時間だったの。ノルン、アイシャ、お客様にご挨拶して」

「こんにちは!」

「……こんにちは」

 

 二人の女の子が、ぺこりと頭を下げた。一人は元気よく、一人はゼニスの後ろに隠れるようにして。

 エリックは馬から降りて、二人に頭を下げた。

 

「……こんにちは」

 

 元気な方の女の子が、エリックの顔をじっと見上げた。

 

「おにいさん、ねてるの?」

「アイシャ!」

 

 赤髪の女性――リーリャが、慌てて女の子の口を塞いだ。

 パウロが腹を抱えて笑った。

 

「起きています」

 

 エリックは真顔で答えた。

 

「目は開いています。細いだけです」

 

 アイシャはエリックの顔にぐっと近づいて、しばらく目を凝らした。

 

「……ほんとだ。ちょっとだけ、みえる」

 

 パウロが、腹を抱えたまま、垣根にもたれかかった。

 

 その時、家の奥から洗濯籠を抱えた子供が一人、出てきた。

 女の子だった。ノルンやアイシャよりは年上で、十歳くらいだろうか。髪が、緑色だった。若葉のような、淡い緑。耳の先が、わずかに尖っていた。

 女の子は赤い髪の男を見て、ぴたりと足を止めた。それからリーリャの陰に、半分だけ身体を隠した。

 

「シルフィも、ご挨拶して」

 

 ゼニスが優しく言った。

 

「ルディのお友達なの。ルディがロアに行ってからも、よく遊びに来てくれるのよ。うちの子たちの面倒も見てくれて」

「……こ、こんにちは」

 

 女の子は籠を抱えたまま小さく頭を下げた。

 顔を上げてエリックの視線に気づいた。

 エリックは女の子の髪を見ていた。

 女の子の肩が、びくりと強張った。何かを言われるのを待っている顔だった。言われ慣れている顔だった。

 

「きれいな緑ですね」

 

 エリックは言った。

 

「十年前にロアへ来た時、丘の麦が、ちょうどその色でした。芽が出たばかりで」

「……え」

 

 女の子はぽかんと口を開けた。

 それから、見る見るうちに、耳の先まで赤くなった。

 

「おいおい」

 

 パウロが、にやにやと笑った。

 

「フィリップの倅が、シルフィを口説いてるぞ」

「口説いていません。色の話です」

「シルフィはダメだぞ、ルディが唾をつけてるからな」

「あなた」

 

 ゼニスが笑顔のまま、パウロの脇腹をつねった。

 

「いてっ!」

 

 シルフィは籠で顔を半分隠したまま、リーリャの後ろから、じっとエリックを見ていた。

 

*

 

「で! 剣は! 続けてんのか!」

 

 お茶の席でパウロは身を乗り出した。

 

「はい」

「流派は! 剣神流だったよな、あの時!」

「今は水神流です。水神のレイダ・リィアに」

「水神!?」

 

 パウロの手から、焼き菓子がぽろりと落ちた。

 リーリャが、はっとしたような顔をした。

 

「あの婆さんに!? 直に!? お前、すげえとこに弟子入りしたな!」

「……あと、毎年、ギレーヌに素振りを見てもらっています」

「ギレーヌ!?」

 

 今度は茶器が傾いた。ゼニスがさっと手を伸ばしてそれを支えた。

 ゼニスも意外そうな顔をしていた。

 

「九歳の時から素振りと、たまに打ち合いも」

 

 パウロは椅子の背もたれにのけぞって、天井を見上げた。

 

「世の中、何が起きるか分かんねえなあ……ルディにも剣を教えてるって聞いた時も驚いたが……あいつ、そういうの、一番向いてねえ奴だと思ってたんだけどなあ……」

「……教えるのは下手だと、本人も言ってました」

「だろ!? だろうな!」

 

 パウロはまた腹を抱えて笑った。

 それから、ふと笑いを収めて、エリックの顔をじっと見た。

 

「……で、お前。あいつのこと、どう思ってんだ」

「……え?」

「ギレーヌのことだよ。八年も素振りを見てもらって」

 

 エリックは少し考えた。

 

「……師匠です。本人は、弟子じゃないと言いますけど」

「ふうん」

 

 パウロはにやにやと笑った。

 

「師匠、ねえ」

「……何ですか」

「いや。何でも」

 

 パウロは焼き菓子を口に放り込んだ。

 

「あなた」

 

 ゼニスが笑顔のまま、今度は反対側の脇腹をつねった。

 

「いてっ! 何だよ、何もしてねえだろ!」

「その顔は、何かしようとしている顔です」

「しねえって!」

 

 エリックはパウロの胸当てを見た。脛当ての泥を見た。

 

「パウロ殿。今朝は、どこかへ」

「おう、よく見てんな」

 

 パウロは笑いを引っ込めた。

 

「狩りだよ。森の縁で、魔物を三つばかり。シルフィの親父のロールズと、村の男連中とでな」

 

 パウロは茶を一口すすった。

 

「近頃、森から出てくるのが妙に多いんだ。去年の倍じゃきかねえ。夜は柵を閉めて見張りを立ててる。サウロスの爺さんにも知らせてあって、兵を回すとは言ってくれてるが」

「街道でも狼の群れに会いました。六頭」

「六頭か」

 

 パウロの眉が寄った。

 

「群れで街道に出るのは珍しいな。何かに追い立てられてんのか、腹が減ってんのか。理由が分かんねえのが、一番気味が悪い」

 

 ゼニスが窓の外の森の方を見た。リーリャが、アイシャとノルンの肩に黙って手を置いた。

 

「まあ、ブエナは俺がいる限り大丈夫だ」

 

 パウロはまた笑った。

 

*

 

 夕方、エリックが村を発つ前に、パウロは庭の前で木剣を拾い上げた。

 

「一本、やってくか」

 

 エリックの目がぱっと輝いた。

 パウロがそれを見て吹き出した。

 

「おいおい、分かりやすいな、お前! フィリップの倅とは思えねえ!」

「……やります」

「おう。来い」

 

 パウロが構えた。

 剣神流の構えだった。十年前、枝で見せてくれた、あの構え。

 エリックも構えた。

 水神流の構えで。

 パウロの眉が、ぴくりと上がった。

 

「……いい構えだ」

 

 パウロが踏み込んできた。

 速かった。十年前には分からなかった、本物の上級剣士の速さだった。

 エリックは受けた。流した。そして、踏み込むふりをした。

 パウロの剣が構えを変えた。北神流の、つかみどころのない構えに。

 エリックの誘いに乗らなかった。

 

 ――すごい。

 

 エリックは構え直した。

 パウロがまた構えを変えた。今度は水神流。待つ構え。

 エリックも待った。

 庭に静寂が落ちた。

 ノルンとアイシャとシルフィが、垣根の陰から息を呑んで見つめていた。

 

 先に動いたのはパウロだった。

 いや、動いたふりをした。

 エリックの受けが、わずかに動いた。

 その瞬間、パウロの木剣が、エリックの額の前で、ぴたりと止まっていた。

 

「……一本、だな」

 

 パウロがにやりと笑った。

 エリックは額の前の木剣を見上げた。

 誘われた。

 自分がいつもやっていることを、そっくりそのまま、やり返された。

 

「お前の剣、面白えな。踏み込むふりで誘って、受けて、返す」

 

 パウロは木剣を下ろした。

 

「でも、言ったろ。誘う奴は、誘われるのに弱いって」

「十年前に、聞きました」

「覚えてたのか!」

「覚えていました。でも、身体の方は忘れていました」

 

 エリックは額の前の木剣を見たまま言った。

 

「今のパウロ殿は、剣神流で踏み込んで、北神流で僕の誘いを流して、水神流で待って、最後は、待つふりで僕の受けを先に動かしました。三つの構えを、一本の中で全部使いました」

「……おう」

「もう一回、お願いします。今度は待つふりに気づいても、受けを動かさずに」

 

 パウロはにやりと笑った。

 

「おう、何回でも来い」

 

*

 

 日が赤くなり始めた頃、エリックは馬に乗った。

 パウロとゼニスとリーリャと、三人の女の子が垣根の前に並んで見送ってくれた。

 

「ロアに行くんだろ」

 

 パウロが言った。

 

「はい。祖父に、呼ばれていて。母と、父と、妹に、会いに」

「そうか」

 

 パウロは目を細めた。

 

「会えるうちに、ちゃんと会っとけよ」

 

 エリックはパウロの顔を見た。

 十年前、同じ言葉を聞いた。ロアの屋敷の裏口で、扉が閉まる直前に。

 

「はい、やっと会いに行けます」

 

 パウロは一瞬、きょとんとした。

 それから、くしゃりと顔を崩して笑った。

 

「そうか。そうだな。偉いぞ、お前」

 

 パウロはエリックの馬の首を、ぽんと叩いた。

 

「ルディに会ったら、よろしく言っといてくれ。親父は元気だってな。あとギレーヌにも。お前が師匠やってんの、笑ってたって」

「それは、言いません」

「言えよ!」

「言ったら、殴られます」

「あはは! 違いねえ!」

「あ、あの」

 

 リーリャの陰からシルフィが一歩だけ出てきた。

 

「ロアで……ルディに、会ったら」

「はい」

「ボク、魔術の練習、続けてるって。無詠唱、前より、できるようになったって」

 

 シルフィは籠の縁を握りしめていた。

 

「……それだけ、です」

「伝えます」

 

 シルフィが顔を上げた。

 それから、はにかむように、小さく笑った。

 

 馬を歩かせる。

 垣根が少しずつ遠ざかっていく。

 垣根の向こうで、緑の髪が夕日に光っていた。

 

四

 

 四日目の午後、街道はなだらかな丘陵地帯に入った。

 そして、エリックは馬を止めた。

 目の前に金色の海が広がっていた。

 丘という丘が、見渡す限り一面の麦だった。重く穂を垂れた麦が、夏の日差しを浴びて、黄金色に輝いていた。

 

 風が吹いた。

 麦の穂が一斉に揺れた。

 金色の波が、丘を越えて、どこまでも渡っていった。

 

 ――風が吹くと、金色の波が丘を越えて、どこまでも渡っていくのです。

 十年前、まだ背の低い緑の丘を前に、アルフォンスがそう言っていた。

 ――フィットアの者は皆、あの景色を見て育ちます。

 

 エリックは馬の上で、ただそれを見ていた。

 ただ、きれいで。

 言葉にするのが、もったいなかった。

 

「……若様?」

 

 レオンが、そっと馬を寄せてきた。

 

「どうかなさいましたか」

「……いえ」

 

 エリックは首を振った。

 

「弟に、見せたかったなと思って」

「エルヴィン様に?」

「十年前に来た時は、まだ芽が出たばかりで。弟は、赤ん坊で、何も見えていなかった」

「ああ」

 

 レオンは金色の丘を見渡した。

 

「そりゃあ見せたいですよね。俺もフィットアの生まれなんですよ。この景色、何度見ても、帰ってきたって思います」

 

 グスタフが黙って馬を降りた。

 そして街道の脇の麦畑に分け入ると、穂を一本、そっと折り取った。

 

「若様」

 

 グスタフはその穂を、エリックに差し出した。

 

「エルヴィン様への、土産に」

 

 エリックは麦の穂を受け取った。

 重かった。一粒一粒が、ぎっしりと詰まっていた。

 

「……ありがとう、グスタフ」

「お持ち帰りになる頃には、少し乾いてしまいましょうが」

 

 グスタフは髭の奥で小さく笑った。

 

「色は、残りますゆえ」

 

 エリックは麦の穂を荷物の一番奥にしまった。

 書きかけの手紙の束の、すぐ隣に。

 ――それまで覚えといて。どんな色だったか。

 ――兄上の言葉で。顔じゃなくて。

 

 エリックはもう一度、金色の丘を見渡した。

 どんな言葉で話せばいいだろう。

 金色。黄金色。いや、それだけじゃ足りない。風が吹くと波になる。丘を越えて、どこまでも。夏の光が麦の一粒一粒に宿って、丘全体が呼吸しているみたいに。

 エリックは口の中で言葉を探した。

 探して、ひとつずつ、拾い集めた。

 弟に話すために。

 

*

 

 日が暮れる頃、一行は街道沿いの宿場町に着いた。

 

 石造りの小さな町。宿屋が三軒と、酒場が一軒と、鍛冶屋が一軒。旅人と、荷馬車と、フィットアの農夫たちで、夕暮れの通りは賑わっていた。

 

「ロアまでは、あと半日です」

 

 宿屋の前で馬を降りながら、グスタフが言った。

 

「明日の昼前には着きましょう」

 

 明日の昼前。

 エリックは宿屋の二階の部屋に荷物を置き、窓を開けた。

 

 北東の空は、もう暮れかけていた。

 その下にロアがある。

 祖父がいる。父がいる。母がいる。

 妹がいる。十年前、髪を引っ張って笑っていた、二歳の妹。今は十二歳になっている。顔も覚えていない兄からの籠手を、指が入らなくなるまで着けていた妹。

 ルーデウスという名の、パウロの息子がいる。

 父親からの伝言と、緑の髪の女の子からの伝言を、預かっている。

 

 そして。

 ――ロアで来年の分をやる。素振りも手合わせも、エリスと一緒に。

 去年の冬、門を出る直前にギレーヌはそう言った。

 ギレーヌが、いる。

 

 エリックは窓枠に肘をついた。

 明日。

 母に何と言おう。

 十年前、ロアでは言うべきことは全部言ったつもりだった。

 手袋のことも、剣のことも、弟のことも。けれど、ありがとう、とは言わなかった。会いたかった、とも言わなかった。顔を見て、ここに立っていれば、それで伝わっていると思っていた。

 

 今度は。

 エリックは目を閉じた。

 初めて、言うべき言葉を、前もって考えていた。

 

 ――手袋、ありがとうございました。毎年、ちょうどよくなりました。

 それはたぶん、言いたい。

 ――手紙を、たくさん書きました。ほとんど、途中までですけど。全部、持ってきました。

 それも言いたい。

 

 エリックは目を開けた。

 夕焼けが紫に変わり始めていた。

 言いたいことが、たくさんあった。

 十年分。

 

 明日、全部言えるだろうか。

 言えなくても、いい。

 荷物の奥に手紙の束がある。言えなかったことは全部そこに書いてある。途中までだけれど。

 それを渡せばいい。

 

 エリックは窓を閉めた。

 明日は早く発とう。

 夜明けと一緒に。

 

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 幼馴染と親友の喧嘩を仲裁していた少年は突っ込んできたトラックにはねられて即死したと思いきや剣と魔法の世界にルーデウスの双子の兄として転生していた。▼ 剣にのめり込んでいく彼は次第にその秘めたる才を開花させていき…


総合評価:729/評価:8.07/連載:3話/更新日時:2026年07月16日(木) 02:08 小説情報

天剣へと至る愚者(作者:一般通過害悪)(原作:無職転生)

ルーデウス・グレイラットの双子の弟は転生者である。▼後世には『天剣』として伝えられることになる。▼これは、彼が生前に書いた日記を辿っていく物語。▼※アンチ・ヘイトとクロスオーバーは念の為。


総合評価:3661/評価:8.14/連載:10話/更新日時:2026年08月22日(土) 15:30 小説情報


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