凪の水帝   作:アサツラ

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第15話 ターニングポイント

一

 

 夜中に目が覚めた。

 理由は分からなかった。物音がしたわけでもない。夢を見ていたわけでもない。ただ眠りの底から、何かに肩を叩かれたように、ふっと意識が浮かび上がった。

 宿屋の二階の部屋は暗かった。隣の寝台でレオンが派手ないびきをかいている。その向こうの寝台のグスタフは、寝息ひとつ立てていなかった。

 

 エリックは寝台を抜け出して、窓辺に立った。

 鎧戸をそっと押し開ける。

 夏の夜風が、頬を撫でた。麦の匂いがした。

 

 そして、エリックはそれを見た。

 北東の空。

 ロアの方角の低い夜空に。

 光があった。

 星ではなかった。星にしては大きすぎた。月でもなかった。月は反対側の空に、細く浮かんでいた。

 ぼんやりとした、赤い光の塊だった。夜空に滲むように、じっと、そこに浮かんでいた。瞬きもせず、動きもせず。

 

 エリックはしばらくそれを見上げていた。

 何なのかは分からなかった。

 ただ胸の奥が妙にざわついた。

 

「……見えますかな、若様」

 

 背後で低い声がした。

 振り返ると、グスタフが寝台の上で身を起こしていた。やはり眠ってはいなかったらしい。

 

「あの光は」

「分かりませぬ。宿の主の話では、ここ十日ほど、ああして浮かんでおるそうで」

 

 グスタフは寝台から降りて、エリックの隣に並んだ。

 

「最初は小さかったのが、日ごとに大きくなっておると。ロアの方でも、見えておるそうです。領主様が、魔術師を呼んで調べさせておるとか」

「……危ないものですか」

「さて」

 

 グスタフは髭を撫でた。

 

「三十年、ボレアスに仕えておりますが、あのようなものは初めて見ます」

 

 二人はしばらく黙って、北東の空の光を見上げていた。

 レオンのいびきだけが部屋に響いていた。

 

「若様」

 

 やがてグスタフが言った。

 

「明日は、夜明けと共に発ちましょう。早うロアに着いて、サウロス様にお会いになるのがよろしい」

「……はい」

「何があっても、ロアにはサウロス様がおられます。フィリップ様も。それに、あの獣族の剣王殿も」

 

 グスタフは髭の奥で小さく笑った。

 

「あの御仁がおれば、光の玉のひとつやふたつ、斬って落としてくれましょう」

 

 エリックはグスタフの横顔を見た。

 それから北東の空を見た。

 赤い光はまだそこにあった。

 

「……そうですね」

 

 エリックは鎧戸を閉めた。

 寝台に戻っても、なかなか眠れなかった。

 

二

 

 夜明け前に宿を発った。

 空はまだ暗かった。東の地平が、うっすらと白み始めているだけだった。

 北東の空の光は変わらずそこに見えていた。

 

「若様、若様」

 

 街道を進みながらレオンが馬を寄せてきた。

 

「今日、お母上にお会いになるんですよね」

「……はい」

「何て言うんですか? 最初に」

「……何で、そんなことを訊くんですか」

「いや、若様、昨日の夜、窓のとこでずっと何かぶつぶつ言ってたから」

 

 手綱を握る手に、力がこもった。

 

「……聞いてたんですか」

「聞こえたんですよ。俺、いびきかいてても耳はいいんで」

「いびきをかいてる時点で寝てますよね」

「寝ながら聞いてたんです」

「……」

 

 前を行くグスタフの肩が小さく揺れた。

 

「で、何て言うんです?」

 

 エリックはしばらく黙っていた。

 それから、ぽつりと言った。

 

「……手袋、ありがとうございました」

「手袋?」

「母が、毎年、編んでくれていたんです。赤い手袋を。僕の誕生日に。少しだけ大きく編んであって、次の冬に、ちょうどよくなるように」

「……それ、いいですね」

 

 レオンは照れくさそうに鼻の頭を掻いた。

 

「俺のお袋も、昔そういうのやってくれたんですよ。靴下でしたけど。騎士になって家出てから、全然会ってないや」

「……フィットアの生まれだと、言ってましたよね」

「はい。ロアの東の小さな村です」

「帰りに寄りますか」

 

 レオンが目を丸くした。

 

「え、いいんですか」

「一月あります。一日くらいなら」

「……若様」

 

 レオンはしばらくエリックの顔を見ていた。

 それからくしゃりと笑った。

 

「ありがとうございます。じゃあ、お袋にも靴下ありがとうって言っときます。二十歳にもなって、恥ずかしいけど」

「恥ずかしくないです」

 

 エリックは真っ直ぐ前を向いたまま言った。

 

「言えるうちに、言った方がいいと、言われたので」

 

 グスタフが振り返らずに言った。

 

「良い言葉ですな」

 

 日が昇り始めた。

 東の地平から、光が溢れ出す。金色の麦畑が、朝日を受けて、一斉に輝き出した。

 昨日よりも、さらに美しかった。

 丘の稜線が、光の縁取りを帯びていた。麦の穂先についた朝露が、無数の小さな宝石のようにきらめいていた。

 

 その丘の向こうに、ロアの城壁が見えた。

 まだ遠かった。けれど確かに見えた。

 城壁に囲まれた町。その中心の丘の上に、小さく屋敷の屋根が見えた。

 十年前、春の夕暮れに篝火に照らされて見上げた屋敷。

 赤い髪の母が、ぬかるんだ地面を駆けてきた、あの門。

 

「……見えた」

 

 エリックは呟いた。

 昼前には着く。

 母に会う。父に会う。祖父に会う。

 妹に会う。

 ルーデウスに会う。パウロの息子に。

 そして。

 

 ――ロアで来年の分をやる。素振りも手合わせも、エリスと一緒に。

 ギレーヌに、会う。

 今年は光の太刀をもう一度受けてみたい。去年は弾き飛ばされた。今年は弾き飛ばされずに、受けきりたい。受けて、流して、返したい。

 それができたら。

 それができたら何を言おう。

 

 エリックは手綱を握りしめた。

 胸の奥がむずむずした。

 なぜなのかはまだ、分からなかった。

 

三

 

 最初に気づいたのは馬だった。

 エリックの馬が、突然足を止めた。

 手綱を引いても、腹を蹴っても、動かなかった。耳を後ろに倒し、鼻を鳴らし、四本の脚を突っ張って、その場に立ち尽くしていた。

 

「どうした」

 

 グスタフの馬も、レオンの馬も、同じだった。三頭の馬が、揃って足を止め、北東の空を見上げて震えていた。

 雲雀の声が消えていた。

 さっきまで麦畑のあちこちで鳴いていたのに、一羽も聞こえなかった。風だけが吹いていた。金色の穂が、同じ方へ、同じ方へと倒れ続けていた。

 エリックも北東の空を見上げた。

 ロアの上空。

 その一角だけ、空が青くなかった。

 その中心に、昨夜の赤い光の塊ははっきりと浮かんでいた。

 そしてそれは昨夜よりもずっと大きかった。

 

「……グスタフ」

「若様、お下がりを」

 

 グスタフが剣の柄に手をかけた。

 けれど剣で斬れるものではないことは、誰の目にも明らかだった。

 レオンが馬から飛び降りて、轡を引いた。馬は首を振るばかりで、一歩も動かなかった。

 

「若様、宿場町まで戻りましょう! あれ、絶対まずいですって!」

 

 エリックは答えなかった。

 城壁が見えていた。

 その真ん中の丘に、屋敷の屋根が見えていた。

 昼前には着く距離だった。

 エリックは手綱を握り直した。

 腹を蹴った。前へ。

 馬は動かなかった。首を振り、後ずさり、乗り手を振り落とそうとするように身をよじった。

 前へ。

 あの屋根の下に、全部ある。

 空が膨らみ始めた。

 ゆっくりと。

 いや、ゆっくりに見えたのは遠すぎたからだった。

 白い光が、ロアの城壁を消した。町を消した。

 

「……お袋の村が」

 

 レオンが、轡を握ったまま呟いた。

 ロアの東の、小さな村。帰りに寄るはずだった村。

 光は止まらなかった。金色の麦畑を、手前へ、手前へと消しながら、こちらへ来た。

 

「若様! 逃げ――」

 

 レオンの声が途中で途切れた。

 グスタフが馬を寄せて、エリックの前に出た。剣を抜いていた。斬れないと分かっている剣を、光に向けて構えていた。

 エリックは馬の上で動けなかった。

 逃げる場所などどこにもなかった。

 迫ってくる光の向こうに、ロアの屋敷が、まだかすかに見えた気がした。

 

 門の前に、母が立っている。

 昼前と言っても、あの人はきっと待ちきれずに、門の外まで出てきている。十年前の夕暮れのように、裾が汚れるのも構わずに駆けてくる。

 手紙の束を渡したら、たぶん泣く。十年前の夜のように。今度は自分は泣かずに、全部言おう。

 

 父はその後ろで、何を考えているのか分からない顔をしている。それでも口の端だけは、少し動く。

 

 エリスは、会ったこともない兄など知らない、という顔をする。それなのに腰には赤い籠手を下げていて、挨拶より先に手合わせを挑んでくる。

 

 ルーデウスに、親父は元気だと伝える。緑の髪の女の子からの伝言も。

 

 祖父は、遅い、と怒鳴る。屋敷中に響く声で。それから頭を鷲掴みにする。

 

 ギレーヌは中庭にいる。たぶん、夜明け前から。

 

 ――ロアで来年の分をやる。素振りも手合わせも、エリスと一緒に。

 

 そして夜。

 食卓。

 十年前、上座の一番大きな椅子だけが空いていた。

 今夜は空かない。祖父がいる。父がいる。母がいる。妹がいる。

 空くのは、エルヴィンの椅子だけだ。

 ――今度は、僕も行く。

 来年は、それも埋まる。

 そうしたら、全部だった。

 一度も揃ったことのない家族が、一つの食卓に。

 

 エリックは荷物に手を伸ばした。

 荷物の一番奥に手紙の束がある。書きかけの手紙。その隣に麦の穂がある。弟への土産の金色の麦の穂が。

 ――それまで覚えといて。どんな色だったか。

 ――約束だよ。

 話す言葉は、もう拾い集めてあった。風が吹くと波になる。丘を越えて、どこまでも。

 指先が紐で結んだ手紙の束に触れた。

 ――会えるうちに、ちゃんと会っとけよ。

 ――やっと会いに行けます。

 一昨日、そう答えたばかりだった。

 ――ただいま、戻りました。

 違う。

 ――お久しぶりです、母上。

 堅すぎる。

 ――手袋、ありがとうございました。毎年、ちょうどよくなりました。

 それは言いたい。

 言いたかった。

 あと、半日だった。

 

 光がエリックを呑み込んだ。

 白。

 どこまでも白。

 上も下もなかった。音もなかった。自分の身体が、どこにあるのかも分からなかった。

 ただ指先に紐の感触だけが残っていた。

 手紙の束を結んだ、細い紐の感触だけが。

 エリックはそれを握りしめた。

 離すものか、と思った。

 これだけは。

 これだけは、渡すまで――。

 

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