一
夜中に目が覚めた。
理由は分からなかった。物音がしたわけでもない。夢を見ていたわけでもない。ただ眠りの底から、何かに肩を叩かれたように、ふっと意識が浮かび上がった。
宿屋の二階の部屋は暗かった。隣の寝台でレオンが派手ないびきをかいている。その向こうの寝台のグスタフは、寝息ひとつ立てていなかった。
エリックは寝台を抜け出して、窓辺に立った。
鎧戸をそっと押し開ける。
夏の夜風が、頬を撫でた。麦の匂いがした。
そして、エリックはそれを見た。
北東の空。
ロアの方角の低い夜空に。
光があった。
星ではなかった。星にしては大きすぎた。月でもなかった。月は反対側の空に、細く浮かんでいた。
ぼんやりとした、赤い光の塊だった。夜空に滲むように、じっと、そこに浮かんでいた。瞬きもせず、動きもせず。
エリックはしばらくそれを見上げていた。
何なのかは分からなかった。
ただ胸の奥が妙にざわついた。
「……見えますかな、若様」
背後で低い声がした。
振り返ると、グスタフが寝台の上で身を起こしていた。やはり眠ってはいなかったらしい。
「あの光は」
「分かりませぬ。宿の主の話では、ここ十日ほど、ああして浮かんでおるそうで」
グスタフは寝台から降りて、エリックの隣に並んだ。
「最初は小さかったのが、日ごとに大きくなっておると。ロアの方でも、見えておるそうです。領主様が、魔術師を呼んで調べさせておるとか」
「……危ないものですか」
「さて」
グスタフは髭を撫でた。
「三十年、ボレアスに仕えておりますが、あのようなものは初めて見ます」
二人はしばらく黙って、北東の空の光を見上げていた。
レオンのいびきだけが部屋に響いていた。
「若様」
やがてグスタフが言った。
「明日は、夜明けと共に発ちましょう。早うロアに着いて、サウロス様にお会いになるのがよろしい」
「……はい」
「何があっても、ロアにはサウロス様がおられます。フィリップ様も。それに、あの獣族の剣王殿も」
グスタフは髭の奥で小さく笑った。
「あの御仁がおれば、光の玉のひとつやふたつ、斬って落としてくれましょう」
エリックはグスタフの横顔を見た。
それから北東の空を見た。
赤い光はまだそこにあった。
「……そうですね」
エリックは鎧戸を閉めた。
寝台に戻っても、なかなか眠れなかった。
二
夜明け前に宿を発った。
空はまだ暗かった。東の地平が、うっすらと白み始めているだけだった。
北東の空の光は変わらずそこに見えていた。
「若様、若様」
街道を進みながらレオンが馬を寄せてきた。
「今日、お母上にお会いになるんですよね」
「……はい」
「何て言うんですか? 最初に」
「……何で、そんなことを訊くんですか」
「いや、若様、昨日の夜、窓のとこでずっと何かぶつぶつ言ってたから」
手綱を握る手に、力がこもった。
「……聞いてたんですか」
「聞こえたんですよ。俺、いびきかいてても耳はいいんで」
「いびきをかいてる時点で寝てますよね」
「寝ながら聞いてたんです」
「……」
前を行くグスタフの肩が小さく揺れた。
「で、何て言うんです?」
エリックはしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「……手袋、ありがとうございました」
「手袋?」
「母が、毎年、編んでくれていたんです。赤い手袋を。僕の誕生日に。少しだけ大きく編んであって、次の冬に、ちょうどよくなるように」
「……それ、いいですね」
レオンは照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「俺のお袋も、昔そういうのやってくれたんですよ。靴下でしたけど。騎士になって家出てから、全然会ってないや」
「……フィットアの生まれだと、言ってましたよね」
「はい。ロアの東の小さな村です」
「帰りに寄りますか」
レオンが目を丸くした。
「え、いいんですか」
「一月あります。一日くらいなら」
「……若様」
レオンはしばらくエリックの顔を見ていた。
それからくしゃりと笑った。
「ありがとうございます。じゃあ、お袋にも靴下ありがとうって言っときます。二十歳にもなって、恥ずかしいけど」
「恥ずかしくないです」
エリックは真っ直ぐ前を向いたまま言った。
「言えるうちに、言った方がいいと、言われたので」
グスタフが振り返らずに言った。
「良い言葉ですな」
日が昇り始めた。
東の地平から、光が溢れ出す。金色の麦畑が、朝日を受けて、一斉に輝き出した。
昨日よりも、さらに美しかった。
丘の稜線が、光の縁取りを帯びていた。麦の穂先についた朝露が、無数の小さな宝石のようにきらめいていた。
その丘の向こうに、ロアの城壁が見えた。
まだ遠かった。けれど確かに見えた。
城壁に囲まれた町。その中心の丘の上に、小さく屋敷の屋根が見えた。
十年前、春の夕暮れに篝火に照らされて見上げた屋敷。
赤い髪の母が、ぬかるんだ地面を駆けてきた、あの門。
「……見えた」
エリックは呟いた。
昼前には着く。
母に会う。父に会う。祖父に会う。
妹に会う。
ルーデウスに会う。パウロの息子に。
そして。
――ロアで来年の分をやる。素振りも手合わせも、エリスと一緒に。
ギレーヌに、会う。
今年は光の太刀をもう一度受けてみたい。去年は弾き飛ばされた。今年は弾き飛ばされずに、受けきりたい。受けて、流して、返したい。
それができたら。
それができたら何を言おう。
エリックは手綱を握りしめた。
胸の奥がむずむずした。
なぜなのかはまだ、分からなかった。
三
最初に気づいたのは馬だった。
エリックの馬が、突然足を止めた。
手綱を引いても、腹を蹴っても、動かなかった。耳を後ろに倒し、鼻を鳴らし、四本の脚を突っ張って、その場に立ち尽くしていた。
「どうした」
グスタフの馬も、レオンの馬も、同じだった。三頭の馬が、揃って足を止め、北東の空を見上げて震えていた。
雲雀の声が消えていた。
さっきまで麦畑のあちこちで鳴いていたのに、一羽も聞こえなかった。風だけが吹いていた。金色の穂が、同じ方へ、同じ方へと倒れ続けていた。
エリックも北東の空を見上げた。
ロアの上空。
その一角だけ、空が青くなかった。
その中心に、昨夜の赤い光の塊ははっきりと浮かんでいた。
そしてそれは昨夜よりもずっと大きかった。
「……グスタフ」
「若様、お下がりを」
グスタフが剣の柄に手をかけた。
けれど剣で斬れるものではないことは、誰の目にも明らかだった。
レオンが馬から飛び降りて、轡を引いた。馬は首を振るばかりで、一歩も動かなかった。
「若様、宿場町まで戻りましょう! あれ、絶対まずいですって!」
エリックは答えなかった。
城壁が見えていた。
その真ん中の丘に、屋敷の屋根が見えていた。
昼前には着く距離だった。
エリックは手綱を握り直した。
腹を蹴った。前へ。
馬は動かなかった。首を振り、後ずさり、乗り手を振り落とそうとするように身をよじった。
前へ。
あの屋根の下に、全部ある。
空が膨らみ始めた。
ゆっくりと。
いや、ゆっくりに見えたのは遠すぎたからだった。
白い光が、ロアの城壁を消した。町を消した。
「……お袋の村が」
レオンが、轡を握ったまま呟いた。
ロアの東の、小さな村。帰りに寄るはずだった村。
光は止まらなかった。金色の麦畑を、手前へ、手前へと消しながら、こちらへ来た。
「若様! 逃げ――」
レオンの声が途中で途切れた。
グスタフが馬を寄せて、エリックの前に出た。剣を抜いていた。斬れないと分かっている剣を、光に向けて構えていた。
エリックは馬の上で動けなかった。
逃げる場所などどこにもなかった。
迫ってくる光の向こうに、ロアの屋敷が、まだかすかに見えた気がした。
門の前に、母が立っている。
昼前と言っても、あの人はきっと待ちきれずに、門の外まで出てきている。十年前の夕暮れのように、裾が汚れるのも構わずに駆けてくる。
手紙の束を渡したら、たぶん泣く。十年前の夜のように。今度は自分は泣かずに、全部言おう。
父はその後ろで、何を考えているのか分からない顔をしている。それでも口の端だけは、少し動く。
エリスは、会ったこともない兄など知らない、という顔をする。それなのに腰には赤い籠手を下げていて、挨拶より先に手合わせを挑んでくる。
ルーデウスに、親父は元気だと伝える。緑の髪の女の子からの伝言も。
祖父は、遅い、と怒鳴る。屋敷中に響く声で。それから頭を鷲掴みにする。
ギレーヌは中庭にいる。たぶん、夜明け前から。
――ロアで来年の分をやる。素振りも手合わせも、エリスと一緒に。
そして夜。
食卓。
十年前、上座の一番大きな椅子だけが空いていた。
今夜は空かない。祖父がいる。父がいる。母がいる。妹がいる。
空くのは、エルヴィンの椅子だけだ。
――今度は、僕も行く。
来年は、それも埋まる。
そうしたら、全部だった。
一度も揃ったことのない家族が、一つの食卓に。
エリックは荷物に手を伸ばした。
荷物の一番奥に手紙の束がある。書きかけの手紙。その隣に麦の穂がある。弟への土産の金色の麦の穂が。
――それまで覚えといて。どんな色だったか。
――約束だよ。
話す言葉は、もう拾い集めてあった。風が吹くと波になる。丘を越えて、どこまでも。
指先が紐で結んだ手紙の束に触れた。
――会えるうちに、ちゃんと会っとけよ。
――やっと会いに行けます。
一昨日、そう答えたばかりだった。
――ただいま、戻りました。
違う。
――お久しぶりです、母上。
堅すぎる。
――手袋、ありがとうございました。毎年、ちょうどよくなりました。
それは言いたい。
言いたかった。
あと、半日だった。
光がエリックを呑み込んだ。
白。
どこまでも白。
上も下もなかった。音もなかった。自分の身体が、どこにあるのかも分からなかった。
ただ指先に紐の感触だけが残っていた。
手紙の束を結んだ、細い紐の感触だけが。
エリックはそれを握りしめた。
離すものか、と思った。
これだけは。
これだけは、渡すまで――。