一
(side:ギレーヌ)
眠れなかった。
寝台の上で何度も寝返りを打ち、最後には諦めてまだ真っ暗なうちに中庭へ下りた。
夏の夜明け前の空気はひんやりとしていた。
剣を抜く。
構える。
振り上げる。振り下ろす。
身体はいつも通りに動いた。剣を握ったあの日から毎朝欠かさず振ってきた剣だった。考えなくても、腕が、腰が、足が、勝手に同じ軌跡をなぞる。
なのに、今朝は何度振っても落ち着かなかった。
尻尾が勝手に揺れていた。
止めようとしても止まらなかった。
「……ちっ」
剣を下ろして、自分の尻尾を睨みつけた。
尻尾は持ち主の意思とは関係なくゆらゆらと揺れ続けていた。
理由は分かっていた。
今日あいつが来る。
腰だめに構える。
抜刀の構え。
光の太刀。
去年の冬、あいつに左肩を読まれた。
師匠にも、剣の聖地の誰にも、気づかれたことはなかった。光の太刀を放つ直前、左肩がほんのわずかに沈む。自分でもあいつに言われるまで知らなかった癖だった。
この一年、その癖を消すために光の太刀を振り続けた。
毎朝。毎晩。エリスお嬢様とルーデウスが寝静まった後の、誰もいない中庭で。
左肩を沈めずに放つ。
沈めずに。
沈めずに。
息を吐いた。
放った。
空気が裂けた。
剣を収める。
左肩は沈んでいなかった。たぶん。自分では分からない。
あいつに見せなければ分からない。
「……今年は読ません」
誰もいない中庭で、呟いた。
尻尾がまた勝手に揺れた。
あいつに初めて会ったのは八年前の冬だった。
サウロス様に拾われて、まだ日の浅かった頃。王都の屋敷の磨き上げられた大理石の床の上で、生きた心地がしなかった。どこに立てばいいのか分からなかった。何をすればいいのか分からなかった。周りの人間が、皆、自分を珍しい獣でも見るような目で見ていた。
その中で、一人だけ違う目で見ている子供がいた。
赤い髪の九つの子供。
獣を見る目ではなかった。怖がる目でも蔑む目でもなかった。
何かひどく眩しいものでも見るような目だった。
次の日の夜明け、その子供は柱の陰から、素振りをずっと見ていた。そして剣を教えてくれと、前に回り込んできた。
――きれいだったから。
強いと言われたことはある。怖いと言われたことも。獣だと、狂犬だと言われたことも、数えきれないほど。
きれいだと言われたことは一度もなかった。
「……しつこい奴だった」
また剣を構えた。
八年間、毎年素振りを見てきた。一日も休まずに振ってきたことは一振り見れば分かった。
目をつぶるなと言えば、次の年にはつぶらなくなっていた。
水神の婆さんに取られたと思ったら、どっちでもない剣で袖をかすめてきた。
字を覚えて最初に手紙を書いたら、細かい字で三枚も四枚も返してきた。剣のことばかり。イゾルテとかいう姉弟子に何回転がされたか。水神の婆さんに何と言われたか。エルヴィンが帳面に何を書いたか。
読みにくかった。
ルーデウスに手伝ってもらわないと読めない字もあった。
それでも一通も捨てずに、部屋の棚にしまってあった。
――弟子じゃない。
――素振りを見てるだけだ。
何度もそう言ってきた。
でも今年は。
今年光の太刀を受けられたら。
いや。
受けられなくても。
剣を振り上げた。
振り下ろす。
尻尾が揺れていた。
二
「ギレーヌ! また振ってるの!?」
朝食が済んでしばらくして、エリスお嬢様が中庭に飛び込んできた。
「さっき、廊下に立ってただけで、ちっとも食べてないじゃない! お母様が、ギレーヌの分も取ってあるって!」
「……後で食べる」
「後でって、すぐ出かけるのよ!」
お嬢様は腰に手を当てて、こちらを見上げた。
十二歳になったお嬢様はもう胸のあたりまで背が伸びていた。燃えるような赤い髪を後ろで束ね、左手首に赤い革の紐を巻いていた。腰には小さな赤い籠手を下げていた。
「……ギレーヌ」
「ん」
「兄様が来るから落ち着かないんでしょ」
尻尾が、ぴたりと止まった。
「……違う」
「嘘。尻尾、ずっと揺れてたもの。朝からずっと」
「……」
「ギレーヌって、嘘、下手よね」
お嬢様は得意げに胸を張った。
「兄様も、嘘、下手なんでしょ。ギレーヌが言ってたじゃない。よく言われますって言うけど、本当は誰にも言われてないって」
「……言ったか、そんなこと」
「言ったわよ。去年の冬」
お嬢様はふん、と鼻を鳴らした。
「兄様なんて、知らないわよ。会ったこともないんだから」
お嬢様は左手首の赤い紐を右手で握りしめた。
「でも手合わせはするわ。ギレーヌが八年も見てきた剣なんて、私が一撃でのしてやるわ」
「……無理だ」
「なんでよ!」
「あいつは、待つ剣だ。お嬢様みたいに突っ込んでいったら、全部受けられて、流されて、転がされる」
「そんなの、やってみなきゃ分からないじゃない!」
「分かる」
剣を鞘に収めた。
「八年、見てきたからな」
お嬢様が何か言い返そうとして、口を開けた。
「ずるいわよ、ギレーヌばっかり! 私だって――」
「エリス様ー! ルーデウス様がお呼びですー!」
屋敷の方からメイドの声がした。
お嬢様はちっと舌打ちをして、それから、ぱっと顔を輝かせた。
「そうだ、ギレーヌ。ルーデウスの杖を草原で試すの、忘れてないわよね」
「……ヒルダ様に、頼まれた。昼前には戻る、と言った」
「戻るわよ。兄様が来る前にちゃんと戻るわ」
お嬢様は中庭を駆け出していった。
途中で一度だけ振り返った。
「ギレーヌ! 兄様が来たら、最初に私が手合わせするんだからね! ギレーヌは二番目よ!」
「……ん」
お嬢様の赤い髪が回廊の向こうに消えた。
しばらく、その場に立っていた。
頬のあたりが、妙に強ばっていた。
自分の口元に手をやった。
上がっていた。
いつから。
「……ちっ」
あいつの癖が、うつった。
三
屋敷の門を出ると、お嬢様が走り出した。
ルーデウスが杖を抱えて、その後ろを小走りで追いかけていく。
「お嬢様、そんなに急がなくても」
「兄様が来る前に戻るのよ!」
お嬢様の腰で、小さな赤い籠手が跳ねていた。
二人の少し後ろを歩いた。
町の門を抜けると、街道の両側は一面の麦だった。重く垂れた穂が、風が来るたびに同じ方へ傾いた。
街道は丘を越えて、その先へ続いていた。
王都の方へ。
足が止まった。
耳を立てた。蹄の音はしなかった。麦の擦れる音と、遠くの荷車の軋みと、雲雀の声だけだった。
まだ早い。分かっていた。
また歩き出した。
「ギレーヌ」
ルーデウスが振り返っていた。
「さっきから、何度も止まってますよね。何か、いますか」
「……いない」
「魔物じゃなくて?」
「いない」
ルーデウスは街道の先を見た。それからこちらの顔を見て、何か言いかけて、やめた。
頭のいい子供だった。字を教わっている間に、それはよく分かった。
「……お兄様って、どんな方なんですか」
代わりに、そう訊いてきた。
「……しつこい」
「手紙の字は、すごくきれいでしたけど」
「読みにくいだけだ」
ルーデウスが小さく笑った。
「剣は、どんな」
答えようとして、口を閉じた。
受けて、流して、返す。踏み込むふりで、こっちの剣を先に動かす。袖をかすめた。左の肩を読まれた。
どれも、言葉にすると違う気がした。
「見れば分かる」
「……楽しみです」
前の方で、お嬢様が丘の手前から手を振っていた。早く来いと叫んでいた。
丘の上の空に、あの光が浮かんでいた。
ここ十日ほど、ずっとそこにある。今朝は、昨日より大きく見えた。
耳が、勝手に後ろへ倒れた。
「ルーデウス。杖を試したら、すぐ戻るぞ」
「はい。昼前には」
歩きながら、もう一度だけ街道を振り返った。
金色の丘があるだけだった。
左の肩を、一度だけ回した。