凪の水帝   作:アサツラ

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幕間二 待ち焦がれた朝

一

 

(side:ヒルダ)

 

 その朝、夜明けよりずっと前に目を覚ました。

 眠れなかったのではなかった。

 十年前、息子たちがこの屋敷に来る前の晩は一睡もできなかった。何度も寝台から起き上がり、客間の支度を確かめ、窓の外の真っ暗な街道を見つめ、夜明けを待った。

 昨夜はちゃんと眠れた。

 ただ目が覚めてしまっただけだった。嬉しくて。

 隣でフィリップが静かな寝息を立てていた。夫を起こさないようにそっと寝台を抜け出し、肩掛けを羽織って窓辺の椅子に腰を下ろした。

 

 膝の上の籠には赤い毛糸の玉が入っていた。

 編みかけの手袋が片方だけ。

 編み棒を手に取った。

 毎年こうして編んできた。十七年間一度も欠かさずに。

 赤ん坊の頃は小さな靴下を。歩けるようになってからは帽子を。襟巻きを。手袋を。

 

 一度もあの子の手に直接はめてやったことはなかった。

 寸法も分からなかった。どれくらい大きくなったのか、どんな手をしているのか。だから、いつも少しだけ大きく編んだ。一年後にちょうどよくなるように。

 でも今年は違った。

 

 ――背が伸びた。あたしの肩くらいだ。

 ――手は剣だこだらけだ。指が長い。フィリップ様の手に似てる。

 去年の冬、ギレーヌが武芸奉納から帰ってきた時、あの子の手の大きさを根掘り葉掘り訊いた。ギレーヌは耳を倒しながら、自分の手と比べて「これくらいだ」と教えてくれた。

 

 だから今年の手袋はちょうどいい大きさに編んでいる。

 来年ではなく、今あの子の手に合うように。

 今日この手で、はめてやれるように。

 編み棒を動かした。

 窓の外はまだ暗かった。

 

 編み棒の手を止めて、胸元に手をやった。

 寝間着の内側に、紙が一枚しまってあった。

 細い紐で結ばれていた一枚の手紙。

 五年前、ギレーヌが王都から持ち帰ってきたあの子からの、たった一枚の返事。

 

 それを取り出して燭台の明かりの下で広げた。

 紙はもうぼろぼろだった。

 折り目のところが擦り切れて今にも破れそうだった。端は丸くなり、ところどころ、字が薄くなっていた。インクの染みがひとつ真ん中あたりにあった。あの子が書いている途中で落としてしまったのだろう。

 

 五年間、毎日読んだ。

 朝起きて一度。昼、一度。眠る前に一度。

 フィリップにはさすがに読みすぎだと呆れられた。エリスにはお母様はそればっかり、と頬を膨らませられた。

 それでも読むのをやめられなかった。

 あの子の字は父親に似ていた。几帳面で少し角ばっていて一文字一文字を丁寧に書く字。

 

 同じことを二度書いているところがあった。途中で何を書こうとしたのか分からなくなって一行まるごと線で消してあるところがあった。

 書き慣れていない手紙だった。

 上手な手紙ではなかった。

 手紙のほとんどは剣のことだった。ギレーヌに素振りを見てもらっていること。水神の道場に通い始めたこと。姉弟子に三十回転がされたこと。三十回目で一度だけ相手の受けを先に動かせたこと。

 剣のことはよく分からなかった。

 けれどあの子がそれを書く時、どんな顔をしていたのかは分かる気がした。

 

 そして最後の数行。

 そこを指先でそっとなぞった。

 擦り切れて、もうほとんど読めなくなっていた。何度も何度も指でなぞったせいだった。

 けれど読めなくても覚えていた。

 一字一句、全部。

 

 手紙を丁寧に折り畳んだ。

 それから寝間着ではなく、今日着る服の胸元にそっとしまった。

 今日あの子に見せよう。

 あなたの手紙こんなになるまで読んだのよ、と。

 

 あの子はきっと困った顔をするだろう。困った顔のまま真顔で何か妙に筋の通ったことを言うのだろう。

 十年前の夜、居間で赤い手袋を見せてくれた時のように。泣きながら今年のは来年ちょうどよくなります、来年のは再来年に、だから大丈夫です、と。何が大丈夫なのか、あの子自身も分かっていない顔で。

 ありがとう、とはあの子は言わなかった。会いたかった、とも。

 言わなくても分かっていた。あの子の顔は誰にも読めないと皆が言う。けれどあの夜の顔だけは読めた。

 

 それでもいい。

 今度はこちらから、言いたいことを全部言おう。

 十七年分。

 

二

 

「お母様、また読んでたの?」

 

 朝食の席でエリスが頬を膨らませた。

 十二歳になった娘はこの頃ますます自分に似てきた。燃えるような赤い髪。吊り上がった目。そして何でも顔に出るところ。

 

「読んでいたわよ。朝の分」

「なんで服にまで入れてるのよ」

「今日、エリックに見せようと思って」

「見せてどうするのよ」

「こんなになるまで読んだのよ、って」

「そんなの見せられたら困るわよ、きっと」

 

 エリスはそっぽを向いた。

 それからパンを乱暴にちぎって口に放り込んだ。

 

「別に私はどうでもいいけど。会ったこともない兄様なんて」

「エリス。あなた二つの時に会っているのよ」

「覚えてないもの。覚えてないのは会ってないのと同じよ」

 

 エリスはもう一切れパンをちぎった。

 娘の手元を見た。

 エリスの左手の手首の少し上に赤い革の紐が巻かれていた。

 五年前、ギレーヌが王都から持ち帰ってきた、子供用の赤い籠手。指が入らなくなって、もう着けられなくなった籠手。エリスはそれを捨てずに、稽古の時は腰に下げていた。

 その籠手の留め紐だった。

 いつの間にか外して自分の手首に巻いていた。

 

「……エリス。その紐」

「なによ」

「籠手の」

「ち、違うわよ! これは、たまたま、髪を結ぶ紐がなかったから!」

「手首に巻いているじゃない」

「手首で髪を結ぶのよ!」

 

 エリスは顔を真っ赤にして手首を卓の下に隠した。

 向かいの席でフィリップが静かに茶をすすっていた。その口元がほんのわずかに緩んでいるのを、見逃さなかった。

 

「おはようございます、ヒルダ様、フィリップ様」

 

 食堂の入り口から礼儀正しい声がした。

 ルーデウスだった。

 エリスの家庭教師。十歳の茶色い髪の少年。パウロの息子。

 三年前にこの屋敷に来てからエリスは見違えるように変わった。読み書きを覚え、算術を覚え、魔術を覚えた。何人もの家庭教師を殴って辞めさせた娘が、この少年の言うことだけは文句を言いながらも聞いた。

 

「おはようルーデウス。よく眠れた?」

「はい。……あの、お嬢様のお兄様が、今日いらっしゃるそうですね」

「ええ。昼前には着くはずよ」

「ルーデウス! あんたまで、兄様兄様って!」

 

 エリスが椅子から立ち上がりかけた。

 

「え、いや、僕はただ」

「兄様が来たら、私、手合わせするんだから! 水聖だか何だか知らないけど、私の方が強いって、証明してやるんだから!」

「お嬢様、それ昨日も一昨日も言ってましたよね」

 

 エリスは胸を張った。

 

「それにね、水聖なんて大したことないのよ。ルーデウスなんか、五歳で水聖になったんだから!」

「……え」

「兄様は十七で水聖でしょ。ルーデウスは五歳よ、五歳! 兄様より、ルーデウスの方がすごいんだから!」

「あのお嬢様。僕の水聖は魔術の水聖級で、お兄様のは水神流の剣の水聖で」

「同じ水聖でしょ!」

「名前は同じですけど、中身は全然」

「同じ水聖よ! 水の聖なのよ! どっちも!」

 

 エリスはルーデウスの肩をばしばしと叩いた。叩かれるたびにルーデウスの身体が椅子の上で傾いた。

 

「だから兄様が来たら言ってやるの。ルーデウスは五歳で水聖だったのよ、って!」

「言わないでください……お兄様に、どんな顔をされるか……」

 

 ルーデウスが頭を抱えた。

 向かいの席でフィリップが茶器を置いた。

 

「エリス。エリックはたぶん真顔でこう言うぞ」

「なによ」

「では、剣の水聖と魔術の水聖、どちらが強いか確かめてみましょう、と」

 

 エリスが、ぴたりと固まった。

 

「……それルーデウスと兄様が戦うってこと?」

「あの子なら言い出しかねん」

「だ、駄目よ! ルーデウスは私の家庭教師なんだから! 兄様には貸さないわよ!」

「貸すとか貸さないとかの話でしたっけ……」

 

 エリスが拳を振り上げ、ルーデウスが慌てて頭を庇った。

 思わず、笑ってしまった。

 声を上げて笑うのは久しぶりだった。

 

「あの、ヒルダ様」

 

 ルーデウスが頭を庇ったまま言った。

 

「午前中、少し外に出てもよろしいでしょうか。新しい杖の具合を試しておきたくて」

「あの、光の玉の近くの草原?」

「はい。開けていて誰もいないので」

「私も行くわ!」

 

 エリスが、椅子から立ち上がった。

 

「兄様が来る前に、ルーデウスの杖、見ておきたいもの」

「エリス。お客様が来るのよ。お客様というか、お兄様だけれど」

「昼前でしょ。それまでに帰ってくるわよ」

 

 一瞬、迷った。

 それから給仕の手を止めて、廊下に立っていた影の方を見た。

 

「……ギレーヌ」

「ああ」

「ついていってくれる?」

「わかった」

 

 ギレーヌは短く頷いた。

 

「昼前には戻る」

「お願いね」

 

 そう言って、娘の赤い髪を撫でた。

 

「気をつけて。走らないで。転ばないで」

「転ばないわよ!」

「あなた先週も転んだでしょう」

「あれは転んだんじゃないわ。飛び込んだのよ!」

 

 エリスはそう言い張って朝食のパンの残りを口に押し込んだ。

 

三

 

 食事の後、客間の支度を確かめに行った。

 十年前と同じ部屋だった。

 寝台が二つ。窓からはロアの町と、その向こうの丘が見える。十年前は芽を出したばかりの緑の丘だった。今は金色の麦畑がどこまでも広がっていた。

 

 寝台の一つに新しい敷布を掛けた。

 もう一つの寝台は使わない。今日来るのはエリックだけだった。

 エルヴィンは義兄の執務の手伝いがあるから王都を離れられないと、手紙に書いてきた。まだ見習いなのに僕がいないと書類の山が崩れるのだと、得意げに。

 使わない方の寝台の上に、そっと手を置いた。

 

 エルヴィンの手紙はいつも分厚かった。五年前にギレーヌが持ち帰ってきた、十枚以上もある手紙。それから毎年、あの子は何かの機会を見つけては、長い長い手紙を書いてよこした。剣を置いたこと。勉強のこと。帳面が何冊になったか。従兄が授業中に寝ていること。兄上が剣の時ににやにやしていること。

 あの子はいつも兄の分まで書いてくれた。

 兄上は母上が知ってることは書くまでもないって思ってるから、代わりに僕が全部書くね、と。

 その一行を読んだ時、声を上げて笑って、それから少し泣いた。

 

 ――今度は、僕も行く。

 今年の春に届いた手紙の最後の一行だった。

 

「……待っているわ、エルヴィン」

 

 誰もいない寝台に向かって、小さく呟いた。

 それから窓辺に歩み寄った。

 窓の外に門へ続く道が見えた。

 ちょうど三人が屋敷を出ていくところだった。

 先頭を、赤い髪の娘が駆けていく。その後ろを杖を抱えた茶色い髪の少年が、小走りで追いかけていく。少年が何か言い、娘が振り返って何か言い返し、また走り出す。

 その二人の少し後ろを、褐色の肌の剣士が、ゆっくりと歩いていた。

 

 しばらく、その姿を見ていた。

 ギレーヌは時々、足を止めて街道の方を見やっていた。

 獣の耳を、ぴんと立てて。

 尻尾を、ゆっくりと揺らしながら。

 見ているうちに、頬が緩んだ。

 

 ――ロアで来年の分をやる、と約束した。

 去年の冬、武芸奉納から帰ってきたギレーヌが、ぽつりとそう言っていた。今年はあいつがロアに来る。だからここで見てやる、と。

 昼前には戻る、とギレーヌは言った。

 あの子が着くのも昼前だ。

 あの無口な剣王が自分から約束の話をするのは珍しいことだった。

 

四

 

 義父は昨日の夕方に発った。

 隣の領との境で水路の取り決めが揉めていた。領主が顔を出さなければ話がつかないと言われ、よりによって、この日取りになった。

 

「明日の夕方には戻る! 馬を潰してでも戻る!」

 

 出がけに、サウロスは廊下じゅうに響く声で言った。腰には剣を佩いていた。儀礼用の剣ではなかった。若い頃戦場で振っていたという使い込まれた剣だった。

 

「お義父様、その剣は」

「エリックと手合わせをするんじゃ! 水聖じゃぞ、水聖! ボレアスの孫が! 孫の剣を、この手で受けてみたい」

「お身体に障ります」

「障らん! わしはまだまだ若い! わしが戻るまで、エリスに先を越させるなよ」

 

 それから、ふと声を落とした。

 この人が声を落とすのは、珍しいことだった。

 

「……ヒルダ。十年前は、この家で迎えてやれんかった。今度は、わしも迎える」

「はい。お待ちしております」

 

 胸元の手紙を、服の上からそっと押さえた。

 夕方には義父も戻る。今夜は久しぶりに、食卓の椅子が、一つを残して埋まる。

 

五

 

 昼が近づいていた。

 屋敷の門の前に立っていた。

 まだ早い、とフィリップには言われた。昼前と言っても少しは遅れることもあるだろう、と。

 それでも中で待っていることはできなかった。

 十年前の春の夕暮れと同じように。

 

 門の両脇には篝火の代わりに、夏の日差しが降り注いでいた。石畳が白く光っていた。

 街道の向こうに金色の丘が連なっていた。

 あの丘を越えて、あの子は来る。

 胸元に手を当てた。

 手紙の、かさりとした感触。

 

 言いたいことを頭の中で何度も繰り返した。

 おかえりなさい。

 大きくなったわね。

 手紙ありがとう。

 こんなになるまで読んだのよ。

 手袋、今年のはちょうどいい大きさのはずよ。ギレーヌに、あなたの手の大きさを聞いたの。

 それから。

 それから――。

 

「ヒルダ」

 

 背後でフィリップの声がした。

 振り向くと夫が門の中から出てきていた。いつもの何を考えているのか分からない静かな顔で。けれどその足取りはどこか急いでいた。

 

「空を」

 

 フィリップが空を見上げていた。

 つられて見上げた。

 屋敷の上に光があった。

 ここ十日ほど浮かんでいた光の塊。義父がずっと気にしていた光。

 その周りだけ、真昼の空が青くなかった。

 そして膨らみ始めていた。

 

「……あなた」

「屋敷に入れ、ヒルダ」

 

 フィリップが、こちらの腕を掴んだ。

 その手が震えているのを、初めて知った。

 白い光が降りてくる。

 ロアの町を、白く、白く、塗りつぶしていく。

 

 街道の方を振り返った。

 金色の丘。その向こうから来るはずの、あの子。

 まだ来ていなかった。

 そして草原へ出かけた三人もまだ帰ってきていなかった。

 まだ会えていなかった。

 

 胸元の手紙を、服の上から強く握りしめた。

 これだけは。

 これだけは、あの子に見せるまで――。

 

 光が全てを呑み込んだ。

 その朝編み上げた赤い手袋は客間の寝台の枕元に、そっと置かれたままだった。

 片方だけ。

 もう片方はまだ籠の中で編みかけのままだった。

 

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