凪の水帝   作:アサツラ

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幕間三 フィットア領転移事件 被害報告書

一

 

(side:エルヴィン)

 

 兄上がロアへ発って、今日で十日目だった。

 

「……よし」

 

 帳簿の最後の頁に数字を書き込んでペンを置いた。

 伯父の執務室の隣にある小さな書記の部屋だった。窓がひとつと、机がひとつと、壁一面の書類棚。今年の春から、ここで伯父の執務の手伝いをしている。まだ見習いで、書類を清書したり帳簿の数字を写したりするだけだが、机だけは一人前にひとつもらっていた。

 

「来月分の写し、終わり。フィットアの税の報告の清書、終わり。王宮に出す書類の下書き、三つのうち二つ終わり」

 

 帳面を開いて、今日やったことを書き込んだ。

 それから帳面の一番後ろの頁を開いた。

 そこには日付が並んでいた。

 兄上がロアへ発った日が、一日目。二日目。三日目。一日ごとに、線で消してある。

 

『五日目。兄上、ロアに着く予定。母上に会えたかな』

『六日目。母上、泣いたかな。兄上、今度は手袋のお礼、口で言えたかな。出る前、言うって顔してたけど。手紙の束、渡せたかな』

『七日目。父上、兄上に何か言ったかな。姉上、兄上に手合わせ挑んだかな。絶対挑んでる』

『八日目。九日目。兄上、ロアで何してるかな。手紙まだかな』

 

 今日の日付の横に線を引いた。

 それからペンを取って書き足した。

 

『十日目。兄上の手紙、そろそろ来るかな。来ないな。兄上、手紙書くの遅いもんな。僕が行った方が早いな。写しの仕事、あと三日で終わる。終わったら伯父上にロア行きのお願いをする』

 

 帳面を閉じて、にっと笑った。

 

「おい、エルヴィン」

 

 書記の部屋の扉が開いて、ユリウスが顔を出した。

 稽古着のままだった。額に汗をかいている。腰には真剣を佩いていた。

 

「昼、食べたか」

「まだです」

「食堂に何か残ってた。一緒に食え」

「従兄上、また稽古ですか」

「……エリックがいないと、ベルンハルトが張り切るんだよ。朝から三刻も振らされた」

 

 ユリウスはうんざりしたように肩を回した。

 帳面を小脇に抱えて立ち上がった。

 

「兄上、ロアで何してるかなあ」

「知るか。どうせ剣振ってにやにやしてるんだろ」

「姉上と手合わせしてると思います」

「姉上って、あいつの妹か。赤い籠手の」

「はい。絶対挑まれてます。で、兄上、全部受けて、流して、転がしてると思います」

「……妹相手に容赦ないな、あいつ」

「兄上、剣の時だけは容赦ないですから」

 

 二人は並んで廊下を歩いた。

 夏の陽射しが廊下の窓から差し込んでいた。

 

二

 

 昼食の途中で屋敷の空気が変わった。

 誰より先に、気がついた。

 食堂の窓の外。中庭を使用人が一人、走っていくのが見えた。

 走っていた。この屋敷の使用人が、中庭を。

 

 伯父は屋敷の中で使用人が走ることを嫌った。どんなに急ぎの用でも早足までだと、使用人たちは皆、厳しく言いつけられていた。

 その使用人が走っていた。

 伯父の執務室の方へ。

 

「……従兄上」

「ん?」

 

 ユリウスはパンをかじりながら顔を上げた。

 こちらも匙を置いて、立ち上がった。

 

「何かあったみたいです」

 

 執務室の前の廊下に人が集まっていた。

 老執事。使用人頭。伯父の秘書。皆、顔が青かった。

 執務室の扉は開いていた。

 中に伯父がいた。

 机の前に立ち一枚の書状を手にしていた。その向かいに泥だらけの旅装束の男が膝をついていた。伝令だった。

 

「――確かか」

 

 伯父の声が廊下まで聞こえてきた。

 いつもの平坦な声だった。

 

「確かでございます。私も、この目で見て参りました」

 

 伝令の声は震えていた。

 

「ロアの町が、ございません。城壁も、屋敷も、何も。丘の上に、ただ、草原が広がっているだけで」

 

 手から、帳面が落ちた。

 床の上で、ばさりと音を立てて開いた。

 一番後ろの頁が、開いていた。

 日付と、線と、書き込み。

 

『十日目。兄上の手紙、そろそろ来るかな』

 

 伝令の話は断片的だった。

 五日前の昼前、ロアの上空から光の奔流が押し寄せ、フィットア領全体を呑み込んだ。光が消えた後には何も残っていなかった。町も、村も、畑も、人も。

 フィットア領の外縁にいた者たちが、異変に気づいて駆けつけた時、そこにはただ、見渡す限りの草原が広がっていた。

 

「領民は」

「……消えました。一人残らず。いえ、ごく僅かに戻ってきた者はおります。遠くへ飛ばされたと申す者が。見知らぬ土地で目を覚ましたと」

「飛ばされた」

「はい。隣の領の畑で目を覚ましたと申す者がおります。街道沿いの、名も知らぬ村の井戸の脇に倒れていたと申す者も。どちらも、光を見たその刻に、もうそこにいたと。戻らぬ者は、もっと遠くへ飛ばされたのではないかと」

「……父上は」

「ご無事でございます。前の日から領境の向こうにおられました。今は領境で戻ってくる者を集めておられます」

「フィリップは」

「消息不明で」

 

 伯父は黙った。

 長い沈黙だった。

 廊下の人垣の隙間から、伯父の顔を見ていた。

 伯父は平坦な顔をしていた。いつもの何を考えているのか分からない顔。

 けれど、見えた。

 書状を持つ伯父の指が白くなるほど紙を握りしめていた。

 

「……エリックは」

 

 伯父が言った。

 息を止めた。

 伯父が兄の名前を口にした。

 祖父の次に。父の次に。

 

「五日前の昼前と言ったな。エリックは、もうロアに着いていたのか」

「……申し訳ございません。そこまでは」

「着いていたのか、着いていなかったのか、訊いている」

 

 伯父の声が、初めてわずかに揺れた。

 伝令は額を床にこすりつけた。

 

「分かりませぬ。フィリップ様のご長男の一行が街道を通られたことは、手前の宿場町で聞き及んでおります。ロアの手前で一泊されて、翌朝ロアへ入られるご予定だったと」

「……翌朝」

「その宿場町も、光に呑まれました」

 

 伯父は何も言わなかった。

 書状を机の上に置いた。

 それから、ゆっくりと窓の方へ歩いていった。

 窓の外、空を見上げた。

 

「……下がれ。皆、下がれ」

 

 伯父は振り向かずに言った。

 

「エルヴィン。お前は残れ」

 

三

 

 執務室に伯父と二人きりになった。

 伯父は窓辺に立ったまま動かなかった。

 床に落ちた帳面を拾い上げて胸に抱えていた。

 

 何を言えばいいのか、分からなかった。

 いつもなら、すぐに言葉が出てくる。思ったことをぽろりと口にしてしまう。兄上にはよく呆れられた。お前は喋りすぎだ、と。

 今は何も出てこなかった。

 喉の奥がひりひりした。

 

「……これから、フィットア領の知らせが、あちこちから届き始める」

 

 伯父が窓の外を見たまま言った。

 

「名を書き留めておきなさい。死んだ者、行方の知れぬ者、戻った者。お前の帳面でいい。私が王宮に出す報告の下敷きにする」

「……はい」

「できるか」

「……はい」

 

 帳面を握りしめた。

 伯父はしばらく黙っていた。

 それからぽつりと言った。

 

「あれは、しつこい」

 

 顔を上げた。

 伯父はまだ窓の外を見ていた。

 

「剣を握らせたら、何度転がされても、立ち上がってくる。九つの時からそうだった。水神殿にも、あの獣族の剣士にも、何百回、何千回と転がされて、それでも、もう一回と言う」

 

 伯父は窓枠に手をついた。

 

「あれは、そう簡単には死なん」

 

 伯父の背中を見つめた。

 伯父の肩が、わずかに震えていた。

 この人はずっと兄上を見ていたのだ。

 毎朝、中庭の露台から。稽古をする兄上を。弟の方には目もくれずに、兄上だけを。

 身代わりだの、護衛だの、務めだの。そういう言葉でしか、兄上のことを語らなかった人。

 

「……伯父上」

「何だ」

「兄上は、生きてます」

 

 声が震えた。

 それでも、言った。

 

「兄上は、しつこいから。絶対、帰ってきます。僕、兄上と約束したんです。金色の麦畑、見といてって。帰ってきたら、どんな色だったか、全部話してって。兄上の言葉で。顔じゃなくて」

 

 伯父は振り向かなかった。

 

「兄上、約束は守る人です」

 

 伯父はしばらく何も言わなかった。

 それから窓枠から手を離した。

 

「……下がりなさい。報告書の準備を」

「はい」

 

 執務室を出た。

 扉を閉める直前、ほんの一瞬だけ振り返った。

 伯父は執務机の引き出しを開けていた。

 中から何かを取り出していた。

 古い小さな木剣だった。

 子供用の。何十年も前のものらしい、色褪せて柄の擦り切れた木剣。

 伯父はそれを両手で持って、じっと見下ろしていた。

 

 そっと扉を閉めた。

 誰の木剣なのかは分からなかった。

 けれど、帳面には書かなかった。

 

四

 

 廊下の角を曲がったところで足が止まった。

 止まってしまった。

 動かなくなった。

 膝から力が抜けた。

 壁に背中を預けて、ずるずると床に座り込んだ。

 帳面を胸に抱えたまま。

 

 ――ロアの町が、ございません。

 ――城壁も、屋敷も、何も。

 ――丘の上に、ただ、草原が広がっているだけで。

 

 母上がいた町。

 十年前、春の夕暮れに赤い髪の母上が門の前から駆けてきた町。

 父上が書斎で兄上に何かを言っていた町。

 姉上が、兄上の髪を掴んで笑って、僕の靴下を頭にかぶった町。

 金色の麦畑。

 僕が、まだ一度も見ていない、金色の麦畑。

 

「……っ」

 

 声が漏れた。

 漏らすつもりはなかった。

 泣くつもりはなかった。

 兄上は生きてる。伯父に、そう言ったばかりだった。泣いたら、それが嘘になる気がした。

 

 なのに止まらなかった。

 涙が帳面の上に、ぽたぽたと落ちた。

 インクが滲んだ。

 

『十日目。兄上の手紙、そろそろ来るかな』

 

 その文字が滲んで読めなくなっていった。

 

「……エルヴィン」

 

 足音が近づいてきた。

 ユリウスだった。

 ユリウスは何も言わなかった。

 ただ、隣にどさりと腰を下ろした。

 廊下の床に。上級貴族の嫡男が。真剣を佩いたまま。

 

 それから腕を伸ばして、こちらの頭を、ぐいと自分の肩に押しつけた。

 乱暴だった。不器用だった。

 兄上が、いつも頭を小突く時と、同じくらい不器用だった。

 

「……泣きたきゃ、泣け」

 

 ユリウスの声はかすれていた。

 

「僕の肩、今だけ貸してやる。今だけだぞ。あいつが帰ってきたら、返してもらうからな」

「……な、何を、ですか」

「知るか。肩だよ、肩」

 

 ユリウスの肩に顔を埋めた。

 泣いた。

 声を上げて泣いた。

 十一にもなって。伯父の手伝いを任されているのに。

 子供みたいに泣いた。

 ユリウスは何も言わずに、ずっと肩を貸していた。

 ユリウスの肩も、小さく震えていた。

 

 どれくらい、そうしていただろう。

 廊下の窓から差し込む光が、橙色に変わっていた。

 ユリウスの肩から、顔を上げた。

 目が、腫れていた。鼻が、詰まっていた。

 

「……従兄上。上着、びしょびしょです」

「知ってる」

「すみません」

「別にいい。洗えば乾く」

 

 ユリウスはぐしゃぐしゃになった上着の肩を見下ろして、顔をしかめた。

 それから、ぽつりと言った。

 

「あいつ、僕の護衛なんだよ」

「……はい」

「主人の許可なしに、勝手に死ぬとか、ありえないから。行ってこいとは言ったけど、死んでこいとは言ってない」

「……はい」

「だから、帰ってくる」

 

 ユリウスは腰の剣の柄に手を置いた。

 

「帰ってくるまで、お前は、僕が守る。あいつの弟だからな。主人として、護衛の家族を守るのは、当たり前だ」

 

 ユリウスの横顔を見た。

 六年前、紋章の外套を着せられた日。従兄上の代わりに攫われたのは自分だった。

 この人はずっとそれを覚えていたのだ。

 

「……ありがとうございます、従兄上」

「礼なんかいらない。気持ち悪い」

 

 ユリウスはぷいと顔を背けた。

 耳が赤かった。

 

*

 

 その夜、書記の部屋の机に向かっていた。

 燭台をひとつ灯して。

 新しい帳面を一冊机の上に広げた。

 表紙にペンで書いた。

 

『フィットア領転移事件 被害報告書』

 

 それから最初の頁を開いた。

 

『フィットア領 領民 およそ十万』

『消息不明 およそ十万』

 

 フィットアの税の報告で、毎月写してきた数だった。

 次の頁をめくった。

 

『ボレアス家』

『フィリップ・ボレアス・グレイラット 消息不明』

『ヒルダ・ボレアス・グレイラット 消息不明』

『エリス・ボレアス・グレイラット 消息不明』

 

 ペンが止まった。

 インク壺にペン先を浸した。

 手が震えていた。

 右手だった。六年前、運河の岸壁で踏み砕かれた右手。剣を強く握ることはできなくなった。けれど、ペンなら握れる。

 右手を左手で押さえて、震えを止めた。

 そして書いた。

 

『エリック・ボレアス・グレイラット 消息不明』

 

 書いてから、しばらくその文字を見つめていた。

 それからその横に小さく書き足した。

 

『必ず帰る。しつこいから』

 

 帳面を閉じた。

 窓の外、北東の空を見上げた。

 星が出ていた。

 星は流れなかった。

 

 古い方の帳面を、引き出しから取り出した。

 涙で滲んだ一番後ろの頁。日付と、線と、書き込み。

 その下に、新しい一行を書き足した。

 

『十日目、夜。兄上、どこにいるの。帰ってきたら、麦畑の色を聞く。絶対に聞く。僕は、ここで待ってる。ここで、名前を書いて、待ってる』

 

 ペンを置いた。

 泣かなかった。

 もう泣かなかった。

 帳面を胸に抱いた。

 兄上が戻ってきた時に、ここが、ちゃんと帰ってこられる場所であるように。

 それが、剣を置いた自分にできる、たったひとつのことだった。

 

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