一
(side:エルヴィン)
兄上がロアへ発って、今日で十日目だった。
「……よし」
帳簿の最後の頁に数字を書き込んでペンを置いた。
伯父の執務室の隣にある小さな書記の部屋だった。窓がひとつと、机がひとつと、壁一面の書類棚。今年の春から、ここで伯父の執務の手伝いをしている。まだ見習いで、書類を清書したり帳簿の数字を写したりするだけだが、机だけは一人前にひとつもらっていた。
「来月分の写し、終わり。フィットアの税の報告の清書、終わり。王宮に出す書類の下書き、三つのうち二つ終わり」
帳面を開いて、今日やったことを書き込んだ。
それから帳面の一番後ろの頁を開いた。
そこには日付が並んでいた。
兄上がロアへ発った日が、一日目。二日目。三日目。一日ごとに、線で消してある。
『五日目。兄上、ロアに着く予定。母上に会えたかな』
『六日目。母上、泣いたかな。兄上、今度は手袋のお礼、口で言えたかな。出る前、言うって顔してたけど。手紙の束、渡せたかな』
『七日目。父上、兄上に何か言ったかな。姉上、兄上に手合わせ挑んだかな。絶対挑んでる』
『八日目。九日目。兄上、ロアで何してるかな。手紙まだかな』
今日の日付の横に線を引いた。
それからペンを取って書き足した。
『十日目。兄上の手紙、そろそろ来るかな。来ないな。兄上、手紙書くの遅いもんな。僕が行った方が早いな。写しの仕事、あと三日で終わる。終わったら伯父上にロア行きのお願いをする』
帳面を閉じて、にっと笑った。
「おい、エルヴィン」
書記の部屋の扉が開いて、ユリウスが顔を出した。
稽古着のままだった。額に汗をかいている。腰には真剣を佩いていた。
「昼、食べたか」
「まだです」
「食堂に何か残ってた。一緒に食え」
「従兄上、また稽古ですか」
「……エリックがいないと、ベルンハルトが張り切るんだよ。朝から三刻も振らされた」
ユリウスはうんざりしたように肩を回した。
帳面を小脇に抱えて立ち上がった。
「兄上、ロアで何してるかなあ」
「知るか。どうせ剣振ってにやにやしてるんだろ」
「姉上と手合わせしてると思います」
「姉上って、あいつの妹か。赤い籠手の」
「はい。絶対挑まれてます。で、兄上、全部受けて、流して、転がしてると思います」
「……妹相手に容赦ないな、あいつ」
「兄上、剣の時だけは容赦ないですから」
二人は並んで廊下を歩いた。
夏の陽射しが廊下の窓から差し込んでいた。
二
昼食の途中で屋敷の空気が変わった。
誰より先に、気がついた。
食堂の窓の外。中庭を使用人が一人、走っていくのが見えた。
走っていた。この屋敷の使用人が、中庭を。
伯父は屋敷の中で使用人が走ることを嫌った。どんなに急ぎの用でも早足までだと、使用人たちは皆、厳しく言いつけられていた。
その使用人が走っていた。
伯父の執務室の方へ。
「……従兄上」
「ん?」
ユリウスはパンをかじりながら顔を上げた。
こちらも匙を置いて、立ち上がった。
「何かあったみたいです」
執務室の前の廊下に人が集まっていた。
老執事。使用人頭。伯父の秘書。皆、顔が青かった。
執務室の扉は開いていた。
中に伯父がいた。
机の前に立ち一枚の書状を手にしていた。その向かいに泥だらけの旅装束の男が膝をついていた。伝令だった。
「――確かか」
伯父の声が廊下まで聞こえてきた。
いつもの平坦な声だった。
「確かでございます。私も、この目で見て参りました」
伝令の声は震えていた。
「ロアの町が、ございません。城壁も、屋敷も、何も。丘の上に、ただ、草原が広がっているだけで」
手から、帳面が落ちた。
床の上で、ばさりと音を立てて開いた。
一番後ろの頁が、開いていた。
日付と、線と、書き込み。
『十日目。兄上の手紙、そろそろ来るかな』
伝令の話は断片的だった。
五日前の昼前、ロアの上空から光の奔流が押し寄せ、フィットア領全体を呑み込んだ。光が消えた後には何も残っていなかった。町も、村も、畑も、人も。
フィットア領の外縁にいた者たちが、異変に気づいて駆けつけた時、そこにはただ、見渡す限りの草原が広がっていた。
「領民は」
「……消えました。一人残らず。いえ、ごく僅かに戻ってきた者はおります。遠くへ飛ばされたと申す者が。見知らぬ土地で目を覚ましたと」
「飛ばされた」
「はい。隣の領の畑で目を覚ましたと申す者がおります。街道沿いの、名も知らぬ村の井戸の脇に倒れていたと申す者も。どちらも、光を見たその刻に、もうそこにいたと。戻らぬ者は、もっと遠くへ飛ばされたのではないかと」
「……父上は」
「ご無事でございます。前の日から領境の向こうにおられました。今は領境で戻ってくる者を集めておられます」
「フィリップは」
「消息不明で」
伯父は黙った。
長い沈黙だった。
廊下の人垣の隙間から、伯父の顔を見ていた。
伯父は平坦な顔をしていた。いつもの何を考えているのか分からない顔。
けれど、見えた。
書状を持つ伯父の指が白くなるほど紙を握りしめていた。
「……エリックは」
伯父が言った。
息を止めた。
伯父が兄の名前を口にした。
祖父の次に。父の次に。
「五日前の昼前と言ったな。エリックは、もうロアに着いていたのか」
「……申し訳ございません。そこまでは」
「着いていたのか、着いていなかったのか、訊いている」
伯父の声が、初めてわずかに揺れた。
伝令は額を床にこすりつけた。
「分かりませぬ。フィリップ様のご長男の一行が街道を通られたことは、手前の宿場町で聞き及んでおります。ロアの手前で一泊されて、翌朝ロアへ入られるご予定だったと」
「……翌朝」
「その宿場町も、光に呑まれました」
伯父は何も言わなかった。
書状を机の上に置いた。
それから、ゆっくりと窓の方へ歩いていった。
窓の外、空を見上げた。
「……下がれ。皆、下がれ」
伯父は振り向かずに言った。
「エルヴィン。お前は残れ」
三
執務室に伯父と二人きりになった。
伯父は窓辺に立ったまま動かなかった。
床に落ちた帳面を拾い上げて胸に抱えていた。
何を言えばいいのか、分からなかった。
いつもなら、すぐに言葉が出てくる。思ったことをぽろりと口にしてしまう。兄上にはよく呆れられた。お前は喋りすぎだ、と。
今は何も出てこなかった。
喉の奥がひりひりした。
「……これから、フィットア領の知らせが、あちこちから届き始める」
伯父が窓の外を見たまま言った。
「名を書き留めておきなさい。死んだ者、行方の知れぬ者、戻った者。お前の帳面でいい。私が王宮に出す報告の下敷きにする」
「……はい」
「できるか」
「……はい」
帳面を握りしめた。
伯父はしばらく黙っていた。
それからぽつりと言った。
「あれは、しつこい」
顔を上げた。
伯父はまだ窓の外を見ていた。
「剣を握らせたら、何度転がされても、立ち上がってくる。九つの時からそうだった。水神殿にも、あの獣族の剣士にも、何百回、何千回と転がされて、それでも、もう一回と言う」
伯父は窓枠に手をついた。
「あれは、そう簡単には死なん」
伯父の背中を見つめた。
伯父の肩が、わずかに震えていた。
この人はずっと兄上を見ていたのだ。
毎朝、中庭の露台から。稽古をする兄上を。弟の方には目もくれずに、兄上だけを。
身代わりだの、護衛だの、務めだの。そういう言葉でしか、兄上のことを語らなかった人。
「……伯父上」
「何だ」
「兄上は、生きてます」
声が震えた。
それでも、言った。
「兄上は、しつこいから。絶対、帰ってきます。僕、兄上と約束したんです。金色の麦畑、見といてって。帰ってきたら、どんな色だったか、全部話してって。兄上の言葉で。顔じゃなくて」
伯父は振り向かなかった。
「兄上、約束は守る人です」
伯父はしばらく何も言わなかった。
それから窓枠から手を離した。
「……下がりなさい。報告書の準備を」
「はい」
執務室を出た。
扉を閉める直前、ほんの一瞬だけ振り返った。
伯父は執務机の引き出しを開けていた。
中から何かを取り出していた。
古い小さな木剣だった。
子供用の。何十年も前のものらしい、色褪せて柄の擦り切れた木剣。
伯父はそれを両手で持って、じっと見下ろしていた。
そっと扉を閉めた。
誰の木剣なのかは分からなかった。
けれど、帳面には書かなかった。
四
廊下の角を曲がったところで足が止まった。
止まってしまった。
動かなくなった。
膝から力が抜けた。
壁に背中を預けて、ずるずると床に座り込んだ。
帳面を胸に抱えたまま。
――ロアの町が、ございません。
――城壁も、屋敷も、何も。
――丘の上に、ただ、草原が広がっているだけで。
母上がいた町。
十年前、春の夕暮れに赤い髪の母上が門の前から駆けてきた町。
父上が書斎で兄上に何かを言っていた町。
姉上が、兄上の髪を掴んで笑って、僕の靴下を頭にかぶった町。
金色の麦畑。
僕が、まだ一度も見ていない、金色の麦畑。
「……っ」
声が漏れた。
漏らすつもりはなかった。
泣くつもりはなかった。
兄上は生きてる。伯父に、そう言ったばかりだった。泣いたら、それが嘘になる気がした。
なのに止まらなかった。
涙が帳面の上に、ぽたぽたと落ちた。
インクが滲んだ。
『十日目。兄上の手紙、そろそろ来るかな』
その文字が滲んで読めなくなっていった。
「……エルヴィン」
足音が近づいてきた。
ユリウスだった。
ユリウスは何も言わなかった。
ただ、隣にどさりと腰を下ろした。
廊下の床に。上級貴族の嫡男が。真剣を佩いたまま。
それから腕を伸ばして、こちらの頭を、ぐいと自分の肩に押しつけた。
乱暴だった。不器用だった。
兄上が、いつも頭を小突く時と、同じくらい不器用だった。
「……泣きたきゃ、泣け」
ユリウスの声はかすれていた。
「僕の肩、今だけ貸してやる。今だけだぞ。あいつが帰ってきたら、返してもらうからな」
「……な、何を、ですか」
「知るか。肩だよ、肩」
ユリウスの肩に顔を埋めた。
泣いた。
声を上げて泣いた。
十一にもなって。伯父の手伝いを任されているのに。
子供みたいに泣いた。
ユリウスは何も言わずに、ずっと肩を貸していた。
ユリウスの肩も、小さく震えていた。
どれくらい、そうしていただろう。
廊下の窓から差し込む光が、橙色に変わっていた。
ユリウスの肩から、顔を上げた。
目が、腫れていた。鼻が、詰まっていた。
「……従兄上。上着、びしょびしょです」
「知ってる」
「すみません」
「別にいい。洗えば乾く」
ユリウスはぐしゃぐしゃになった上着の肩を見下ろして、顔をしかめた。
それから、ぽつりと言った。
「あいつ、僕の護衛なんだよ」
「……はい」
「主人の許可なしに、勝手に死ぬとか、ありえないから。行ってこいとは言ったけど、死んでこいとは言ってない」
「……はい」
「だから、帰ってくる」
ユリウスは腰の剣の柄に手を置いた。
「帰ってくるまで、お前は、僕が守る。あいつの弟だからな。主人として、護衛の家族を守るのは、当たり前だ」
ユリウスの横顔を見た。
六年前、紋章の外套を着せられた日。従兄上の代わりに攫われたのは自分だった。
この人はずっとそれを覚えていたのだ。
「……ありがとうございます、従兄上」
「礼なんかいらない。気持ち悪い」
ユリウスはぷいと顔を背けた。
耳が赤かった。
その夜、書記の部屋の机に向かっていた。
燭台をひとつ灯して。
新しい帳面を一冊机の上に広げた。
表紙にペンで書いた。
『フィットア領転移事件 被害報告書』
それから最初の頁を開いた。
『フィットア領 領民 およそ十万』
『消息不明 およそ十万』
フィットアの税の報告で、毎月写してきた数だった。
次の頁をめくった。
『ボレアス家』
『フィリップ・ボレアス・グレイラット 消息不明』
『ヒルダ・ボレアス・グレイラット 消息不明』
『エリス・ボレアス・グレイラット 消息不明』
ペンが止まった。
インク壺にペン先を浸した。
手が震えていた。
右手だった。六年前、運河の岸壁で踏み砕かれた右手。剣を強く握ることはできなくなった。けれど、ペンなら握れる。
右手を左手で押さえて、震えを止めた。
そして書いた。
『エリック・ボレアス・グレイラット 消息不明』
書いてから、しばらくその文字を見つめていた。
それからその横に小さく書き足した。
『必ず帰る。しつこいから』
帳面を閉じた。
窓の外、北東の空を見上げた。
星が出ていた。
星は流れなかった。
古い方の帳面を、引き出しから取り出した。
涙で滲んだ一番後ろの頁。日付と、線と、書き込み。
その下に、新しい一行を書き足した。
『十日目、夜。兄上、どこにいるの。帰ってきたら、麦畑の色を聞く。絶対に聞く。僕は、ここで待ってる。ここで、名前を書いて、待ってる』
ペンを置いた。
泣かなかった。
もう泣かなかった。
帳面を胸に抱いた。
兄上が戻ってきた時に、ここが、ちゃんと帰ってこられる場所であるように。
それが、剣を置いた自分にできる、たったひとつのことだった。