凪の水帝   作:アサツラ

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一つの食卓

一

 

 白が、ほどけた。

 馬は、止まらなかった。

 雲雀が鳴いていた。麦畑のあちこちで、昨日と同じように。風が吹くたびに、金色の穂が同じ方へ傾いて、波になって丘を越えていった。

 北東の空には、あの赤い光がまだ浮かんでいた。昨夜と同じ大きさで、瞬きもせず、ロアの真上に。

 グスタフが一度だけそれを見上げて、何も言わずに前を向いた。

 レオンは干し果物をかじっていた。エルヴィンが持たせてくれた袋は、もう半分以上、レオンの腹に収まっていた。

 

 城壁の門をくぐったのは、昼前だった。

 大通りを抜けて、丘の上へ続く坂を上る。十年前は篝火に照らされていた坂だった。今は夏の日差しが、石畳を白く光らせていた。

 屋敷の門が見えた。

 門の前に、人が立っていた。

 赤い髪だった。日傘も差さずに。

 エリックが馬の上でそれを見つけたのと、向こうがこちらを見つけたのは、たぶん同じ時だった。

 母が、駆けてきた。

 十年前と同じだった。裾が汚れるのも構わずに。今日はぬかるみではなく、乾いた石畳の上を。

 エリックは馬を降りた。

 手綱をグスタフに渡したかどうか、覚えていなかった。

 

 言うことは決めてあった。

 昨夜、宿の窓辺で。今朝、馬の上で。何度も、順番まで。

 ――手袋、ありがとうございました。

 まずそれを。それから、手紙の束を。

 母が目の前で止まった。

 十年前は、見上げていた。母の肩にも届かなかった。今は、母のつむじが見えた。

 母の口が開いた。

 

「お――」

 

 閉じた。

 もう一度、開いた。

 

「おおきく……」

 

 また閉じた。

 母は両手で自分の口を押さえた。それから、その手を下ろして、エリックの両腕を掴んだ。肘のあたりを、確かめるように、何度も。

 エリックも口を開いた。

 

「手――」

 

 出てこなかった。

 決めてあった言葉が、順番ごと、どこかへ行ってしまっていた。

 代わりに出てきたのは、別の言葉だった。

 

「……ただいま、戻りました」

 

 昨夜、違う、と思って捨てた言葉だった。

 母が笑った。泣きながら。

 

「おかえりなさい」

 

 母も、たぶん、別のことを言うつもりだったのだろう。

 

 門の内側に、父が立っていた。

 何を考えているのか分からない顔だった。十年前と同じ顔で、十年前より、髪に白いものが混じっていた。

 

「……よく来た」

 

 父はそれだけ言った。

 口の端が、かすかに動いていた。

 

 ――会えるうちに、ちゃんと会っとけよ。

 会えた。

 エリックは、それだけを思った。

 

*

 

 母に手を引かれて、客間に通された。

 十年前と同じ部屋だった。寝台が二つ。窓から、ロアの町と、金色の丘が見えた。

 寝台の一つの枕元に、赤いものが置いてあった。

 手袋だった。

 片方だけ。

 

「今朝、編み上がったの」

 

 母が言った。

 

「もう片方は、まだ。昨日のうちに仕上げるつもりだったのに、間に合わなくて」

 

 母はそれを手に取って、エリックの前に立った。

 

「手を」

 

 エリックは右手を差し出した。

 剣だこだらけの手だった。

 母はその手を、しばらく両手で包んでいた。指を一本ずつ、確かめるように撫でた。剣だこの硬いところで、指が止まった。

 それから、手袋をはめた。

 指先まで、するりと入った。

 折り返しが、ちょうど手首の骨の上で止まった。

 余っているところは、どこにもなかった。

 

「ギレーヌにね、聞いたの。あなたの手の大きさ」

 

 母が言った。

 

「去年の冬に。根掘り葉掘り。あの子、耳をぺたんとさせて、自分の手と比べて、これくらいだって」

 

 エリックは自分の右手を見下ろした。

 毎年届いた手袋は、いつも少しだけ大きかった。次の冬に、ちょうどよくなるように。

 これは、今、ちょうどよかった。

 夏だった。窓の外では麦が光っていた。手袋の中で、手がじわりと汗ばんだ。

 それでも、外したくなかった。

 ここなら、言えた。

 

「手袋、ありがとうございました」

 

 母が顔を上げた。

 

「毎年、ちょうどよくなりました」

 

 一年遅れで。毎年。

 母は何か言おうとして、言えなかった。

 代わりに、手袋の上から、エリックの手を握った。

 

 エリックは荷物の一番奥から、紐で結んだ束を取り出した。

 

「これも」

「……なあに」

「手紙です。書きかけの」

 

 母の手が止まった。

 

「七つの春から、十二の時までの分です。途中で止まったものばかりです。母上へ、の一行で止まっているものもあります。インクが滲んで、読めないところもあります。読めないところは、たぶん、大したことは書いていないと思います」

 

 エリックは束を差し出した。

 

「全部、母上に」

 

 母は束を受け取った。

 紐をほどかないまま、胸に抱えた。

 それから、自分の胸元に手を入れて、一枚の紙を取り出した。

 ぼろぼろだった。折り目が擦り切れて、端が丸くなって、ところどころ字が薄くなっていた。

 見覚えのある字だった。

 十二の時に書いた、たった一枚の返事だった。

 

「五年間、毎日読んだの。朝と、昼と、眠る前に」

 

 母は、どこか得意そうに言った。

 

「フィリップには、読みすぎだって呆れられたわ。エリスにも」

「……破れそうです」

「破れそうなのよ」

「写しを、作りましょうか」

 

 母はきょとんとした。

 それから、ふっと笑った。

 

「あなた、本当に、そういうことを真顔で言うのね」

 

 笑いながら、目元を指で拭った。

 母は手紙の束を、ほどかないまま膝の上に置いた。

 

「これは、今は読まないわ。あなたがいる間は」

「……なぜですか」

「途中で止まっているんでしょう」

 

 母は束の上に、そっと手を置いた。

 

「続きは、あなたの声で聞かせて」

 

二

 

 エリスたちが帰ってきたのは、昼を少し回った頃だった。

 客間を出て玄関の広間に下りたところで、表の方から、ばたばたと足音が近づいてきた。

 

「戻ったわよ! まだ着いてないわよね!? 兄様、まだよね!?」

 

 広間に、赤い髪の少女が飛び込んできた。

 そしてエリックを見て、ぴたりと止まった。

 燃えるような赤い髪を、後ろで束ねていた。吊り上がった目。母によく似た目だった。

 腰に、小さな赤い籠手が下がっていた。

 左の手首に、赤い革の紐が巻かれていた。

 少女の後ろから、杖を抱えた茶色い髪の少年が、息を切らして駆け込んできた。それから、褐色の肌の剣士が。

 ギレーヌは、敷居のところで止まった。

 耳が、ぴんと立った。

 エリックはギレーヌを見て、それから、もう一度少女を見た。

 少女は、エリックを睨んでいた。

 

「……着いてるじゃない」

「はい。昼前に」

「昼前に戻るって言ったのに! ルーデウスが、杖をもう一回、もう一回って言うから!」

「お嬢様、もう一回って言ったのはお嬢様です」

「言ってないわよ!」

 

 エリスはくるりとエリックの方に向き直った。

 

「最初に会うのは、私のはずだったのに」

「……母上が、門の前にいたので」

「知ってるわよ! お母様、朝から門の前をうろうろしてたもの!」

 

 エリスは地団駄を踏んだ。

 それから、腰の籠手をぐっと握った。

 

「いいわ。会うのは二番目でも、手合わせは一番目よ」

「エリス」

 

 後ろから、母の声がした。

 

「まず、ご挨拶を」

「後でするわ!」

 

 エリスはつかつかと中庭の方へ歩き出した。

 途中で振り返った。

 

「何してるのよ! 来なさいよ、あんた!」

 

 あんた、と呼ばれた。

 兄とも、名前とも、呼ばれなかった。

 それでも、来いと言われた。

 

「……はい」

 

*

 

 中庭で、エリスは木剣を構えた。

 剣神流の構えだった。前のめりの、先に動いて先に斬る構え。

 エリックは、ギレーヌが黙って放ってよこした木剣を受け取った。

 構える。

 水神流の構えで。

 エリスの眉が吊り上がった。

 

「待つ剣ね。ギレーヌから聞いてるわ」

「はい」

「待ってたら、終わるわよ」

 

 エリスが踏み込んできた。

 速かった。

 十二歳の速さではなかった。先に動くことだけを、ずっと練ってきた足だった。

 ――エリスは、お前より筋がいい。

 ギレーヌの言った通りだ、と思った。

 受けた。

 重かった。腕に、じんと響いた。

 流す。エリスの木剣が空を切り、身体が前に泳ぐ。そこへ、木剣の腹で背中を軽く押した。

 エリスは石畳の上を、ころりと転がった。

 すぐに跳ね起きた。

 

「もう一回!」

 

 二回目。三回目。

 エリスは毎回、違うところから来た。同じ転び方は、二度しなかった。

 六回目で、木剣の先がエリックの袖をかすめた。

 七回目、エリックは受けずに、踏み込むふりをした。

 エリスは、乗らなかった。

 ――乗らない。

 エリックの口元が、勝手に緩んだ。

 

「ギレーヌ、今の見た!?」

「……見た」

 

 敷居の柱にもたれて、ギレーヌが言った。

 

「そいつは、剣の時だけ笑う」

 

 十二回目で、エリスは石畳の上に大の字になった。

 息が上がっていた。赤い髪が石畳に広がっていた。

 空を見上げたまま、エリスが言った。

 

「……あんた、ずるいわ」

「何がですか」

「全部、受けるじゃない。どこから行っても、そこに剣があるのよ」

「そういう剣なので」

「ずるいわよ」

 

 エリスは腕で目元を覆った。

 

「……でも、さっきのは乗らなかったわよ。踏み込むふり」

「はい。乗りませんでした」

「ギレーヌに言われてたもの。あんたは踏み込むふりをするって。冬に王都から帰ってくるたびに、毎年、毎年」

 

 エリスは腕の下から、ちらりとエリックを見た。

 

「ずっと聞かされてたんだから。あんたの話」

 

 エリックは何と答えればいいか分からなかった。

 エリスの腰の籠手が、石畳の上で日の光を受けていた。

 小さかった。もう、指は入らないだろう。

 

「……籠手」

「な、なによ」

「まだ、持っていてくれたんですね」

 

 エリスが、がばりと身を起こした。

 顔が、髪と同じ色になっていた。

 

「も、持ってないわよ! これは、たまたま、腰に下げてただけよ!」

「下げているのを、持っていると言うのでは」

「言わないわよ!」

 

 エリスは立ち上がって、木剣の先をエリックの胸に突きつけた。

 

「明日も、やるわよ」

「はい」

「明後日も」

「……はい」

「あんたが帰るまで、毎日よ」

 

 エリスはふん、と鼻を鳴らして、背を向けた。

 中庭を出ていく途中で、左手首の赤い紐を、右手でぎゅっと握っていた。

 

*

 

 エリスがいなくなると、中庭の隅で杖を抱えていた少年が、おずおずと近づいてきた。

 

「あの……はじめまして。ルーデウス・グレイラットです。お嬢様の家庭教師をしています」

 

 十歳と聞いていた。

 ずいぶん落ち着いた目をした子供だった。大人が子供の顔をしているようだ、とエリックは思った。

 

「エリックです。……パウロ殿の、息子さんですね」

 

 少年の目が、わずかに見開かれた。

 

「父を、ご存じなんですか」

「一昨日、ブエナ村に寄りました。伝言を預かっています。二つ」

「……二つ、ですか」

「一つ目は、パウロ殿から」

 

 エリックは、そのまま言った。

 

「親父は元気だ、と」

 

 ルーデウスは黙っていた。

 

「狩りから帰ってきたところでした。胸当てを着けたまま、脛当てに泥が付いていました。一本、手合わせをしてもらいました。負けました」

「……父が、勝ったんですか」

「三つの構えを、一本の中で全部使われました。剣神流で踏み込んで、北神流で流して、最後は水神流で待つふりをされました」

「……ああ」

 

 ルーデウスは、なぜか小さく笑った。

 

「父らしいです」

「奥様も、リーリャさんも、お元気でした。妹さんたちも。アイシャさんには、寝ているのかと訊かれました」

「……すみません、妹が」

「起きていると答えました」

 

 ルーデウスが、今度ははっきりと吹き出した。

 

「二つ目は」

 

 エリックは一拍、間を置いた。

 

「緑の髪の女の子から」

 

 ルーデウスの顔から、笑いが消えた。

 

「魔術の練習を、続けているそうです。無詠唱も、前よりできるようになった、と。それだけ伝えてほしい、と言っていました」

 

 ルーデウスは杖を抱えたまま、しばらく動かなかった。

 それから、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……そうですか」

 

 声が、かすかに掠れていた。

 

「シルフィが」

「籠の縁を、握っていました。洗濯籠の」

「……そうですか」

 

 ルーデウスは目を伏せた。

 十歳の子供の顔に戻っていた。

 

「ありがとうございます。伝えてくださって」

「約束したので」

 

 ルーデウスが顔を上げた。

 それから、ふと中庭の入り口の方を見た。

 ギレーヌが、まだ柱にもたれていた。

 

「……あの。父から、ギレーヌに伝言は」

「ありません」

 

 柱の方で、ギレーヌの耳がぴくりと動いた。

 ルーデウスはエリックの顔をじっと見た。

 

「……今、少しも間がありませんでしたね」

「ありません」

「あったんですね」

「ありません」

 

三

 

 日が傾き始めた頃、ギレーヌが中庭に下りてきた。

 手に木剣を二本持っていた。一本を、エリックに放った。

 

「遅い」

「昼前です。予定通りです」

「……知ってる」

 

 ギレーヌは構えなかった。

 代わりにエリックの前に立って、上から下まで、じろりと見た。

 

「背が、また伸びた」

「少しだけ」

「ヒルダ様に言ったのより、伸びてる」

 

 ギレーヌの目が、エリックの右手に落ちた。

 まだ、赤い手袋をしていた。

 

「……合ったか」

「はい。ちょうどでした」

「ん」

 

 尻尾が一度だけ、大きく揺れた。

 ギレーヌはぷいと顔を背けた。

 

「外せ。剣が滑る」

「……はい」

 

 エリックは手袋を外して、丁寧に畳み、懐にしまった。

 

 素振りから始めた。

 ギレーヌの前で、エリックは剣を振った。振り上げる。振り下ろす。九つの冬から、毎年見せてきた素振りだった。

 ギレーヌは黙って見ていた。

 百を数えたところで、ギレーヌが言った。

 

「……いい」

 

 それだけだった。

 それから、ギレーヌは木剣を腰だめに構えた。

 抜刀の構え。

 

「一年待った」

 

 去年と同じことを言った。

 

「今年は、読ません」

 

 中庭の空気が張り詰めた。

 風が止まる。鳥の声が止まる。

 エリックは、ギレーヌの左肩を見た。

 沈まなかった。

 

 ――消した。

 一年で。剣神にも、剣の聖地の誰にも気づかれなかった癖を。

 肩からは何も読めなかった。腰からも。足からも。

 剣ではなく、相手を見る。

 エリックは、ギレーヌの全部を見た。

 耳を。尻尾を。

 尻尾が揺れていた。広間で会った時から、ずっと揺れていた。手袋を見た時も揺れていた。構えてからも、まだ、ゆらゆらと。

 その尻尾が。

 ぴたりと、止まった。

 エリックの木剣は、もう斜めに構えられていた。

 

 衝撃が来た。

 腕が痺れた。肩の骨まで、鳴るように痺れた。

 足が、石畳の上を半歩滑った。

 それでも、木剣は手の中にあった。

 折れていなかった。弾き飛ばされてもいなかった。

 ギレーヌの木剣が、エリックの木剣の上で止まっていた。

 受けた。

 流そうとした。手首を返そうとした。

 腕が動かなかった。痺れたまま、言うことを聞かなかった。

 返せなかった。

 二人は剣を合わせたまま、しばらく動かなかった。

 

「……受けたな」

 

 ギレーヌが言った。

 

「受けました」

 

 今年は、そう言えた。

 

「でも、返せませんでした」

「……ああ」

「流そうとしました。腕が動きませんでした」

「見てた」

 

 ギレーヌは木剣を引いた。

 それからエリックを見下ろした。見下ろす角度が、去年より浅かった。

 

「……何で読めた」

「尻尾です」

 

 ギレーヌの耳が、ぺたりと後ろに倒れた。

 

「放つ前に、止まりました。それまで、ずっと揺れていたので」

「…………」

 

 ギレーヌは自分の尻尾を振り返った。

 尻尾は、気まずそうに、ゆっくりと揺れていた。

 

「……師匠に言うなよ」

「言いません」

「約束だ」

「約束します。去年のと、二つ目です」

 

 ギレーヌは木剣を下ろしたまま、しばらく黙っていた。

 何か言いかけて、口を閉じた。

 それから、言った。

 

「……お前が、これを受けられるようになったら。その時は、お前はもう、あたしが素振りを見る必要はない」

 

 一昨年の冬と、同じ言葉だった。

 

「受けただけです」

 

 エリックは言った。

 

「返していません。いつか受けて、流して、返します、と言いました。僕が」

「……」

「だから、まだ見てください」

 

 ギレーヌの耳が、ぴくりと動いた。

 

「来年も」

「ああ」

「返せるようになるまで」

「……ああ」

「返せるようになっても」

 

 ギレーヌが、エリックを見た。

 エリックも、ギレーヌを見ていた。

 ――それができたら、何を言おう。

 今朝、馬の上でそう思った。

 まだ、できていなかった。

 だから、まだ、言わなくてよかった。

 

「……しつこいな、お前は」

「よく言われます」

「……あたしにな」

 

 尻尾が、ゆっくりと、左右に揺れていた。

 

*

 

 門の方が、急に騒がしくなった。

 蹄の音。馬のいななき。使用人たちの慌てた声。そして、それを全部かき消す、屋敷じゅうに響く声。

 

「エリックはどこじゃああ!」

 

 ギレーヌの耳が、両方とも後ろに倒れた。

 中庭に、祖父が飛び込んできた。旅装束のまま。土埃にまみれて。腰に、使い込まれた古い剣を佩いて。

 

「おったか!」

「……お帰りなさい、祖父上」

「遅い!」

「……昼前に着きました」

「わしが遅いと言うとるんじゃ!」

 

 祖父は、自分で自分を怒鳴りつけた。

 

「水路の連中がぐずぐずと! 馬を二頭潰したわ! 昼前に着くと分かっとったのに!」

 

 祖父はエリックの頭を鷲掴みにした。

 去年までと同じ手つきだった。けれど、手を少し上に伸ばさなければならないことに、祖父も気づいたらしかった。

 頭の上で、祖父の手が止まった。

 声が落ちた。

 

「……よう来た」

 

 ざらついた声だった。

 

「十年前は、この家で迎えてやれんかった」

「はい」

「今度は、わしも迎えたぞ」

「はい。迎えてもらいました」

「遅れたがな!」

 

 祖父はまた怒鳴った。それから、腰の古い剣をがちゃりと鳴らした。

 

「さあ、構えい! 水聖の剣を、この手で受けてみたい!」

「お義父様!」

 

 回廊の方から、母の声が飛んできた。

 

「夕食の前です! それに、着いたばかりで!」

「着いたばかりだから構えるんじゃ!」

「お義父様が、です!」

 

 ギレーヌが黙って、自分の木剣を祖父に放った。

 祖父はそれを片手で受け止めて、にやりと笑った。

 一合だけだった。

 祖父の剣は重かった。曲がらない剣だった。声と同じだった。

 まだ痺れの残る腕で、エリックはそれを受けた。流しきれずに、膝が折れた。石畳に片膝をついて、それでも木剣は、祖父の木剣の下にあった。

 

「受けおった!」

 

 祖父が、中庭の窓が震えるほどの声で笑った。

 

「わしの剣を、孫が受けおったわ! ギレーヌ、見たか!」

「……見た」

「明日じゃ! 明日、続きじゃ!」

 

 エリックは片膝をついたまま、祖父を見上げた。

 口元が、また勝手に緩んでいた。

 祖父は、まだ笑っていた。

 

*

 

 その夜の食卓は、椅子が一つしか空いていなかった。

 上座の一番大きな椅子に、祖父がいた。

 十年前、そこは空いていた。

 父がいた。母がいた。エリスがいた。ルーデウスがいた。

 エリックの隣には、ギレーヌがいた。

 背もたれの隙間から尻尾をはみ出させて、当たり前のような顔で座っていた。

 空いているのは、エリックの向かいの、一つだけだった。

 

 食卓は、うるさかった。

 祖父が水路の連中の文句を言い、エリスが中庭の手合わせのずるさを言い、ルーデウスがそれをなだめて、エリスに肩を叩かれた。

 祖父がギレーヌの杯に、なみなみと酒を注いだ。

 

「飲め! 今夜の酒は、うまいぞ!」

「……ん」

 

 ギレーヌは一息で干した。祖父が膝を叩いて笑い、また注いだ。

 父は静かに杯を傾けていた。時々、口の端が動いた。

 母は、ほとんど食べていなかった。ずっと、こちらを見ていた。

 ギレーヌは肉を食べていた。皿が空になるたびに、母が黙って肉を足した。エリスが自分の皿から一切れ足した。ギレーヌは黙ってそれも食べた。

 椅子の後ろで、尻尾がゆっくりと揺れていた。

 

「エリス」

 

 エリックは懐から、紙の束を取り出した。

 

「エルヴィンからです」

「……多いわね」

「半分にしたそうです」

「これで!?」

 

 エリスは束を受け取って、ぱらぱらとめくった。

 それから、手を止めて、一枚を黙って読んだ。

 もう一枚。

 食卓の喧騒の中で、エリスだけが静かになっていた。

 

「……何よ、これ」

 

 しばらくして、エリスが言った。

 

「姉上、兄上と手合わせしたら、絶対転がされるから、転がされた回数を数えて僕に教えて、って書いてあるわ」

「……数えましたか」

「数えないわよ!」

 

 エリスは束を胸に抱えて、エリックの向かいの空いた椅子を見た。

 

「……来年は、来るんでしょ。あの子」

「はい。本人が、そう言っていました。帳簿の締めが終わったら、絶対行く、と」

「ジェイムズが何と言おうと、わしが呼ぶ!」

 

 祖父が杯を叩きつけるように置いた。

 

「来年は、あの椅子も埋めるぞ!」

 

 空いた椅子の皿の上に、母が、麦の穂を一本、そっと置いた。

 エリックが荷物の奥から出して、預けておいた穂だった。

 グスタフが、弟への土産にと折り取ってくれた穂。

 燭台の明かりの中で、それは金色に光っていた。

 

*

 

 夜が更けて、エリックは客間の窓辺にいた。

 母が窓辺の椅子に座って、編み棒を動かしていた。膝の上の籠から、赤い毛糸が伸びていた。

 手袋の、もう片方だった。

 

「今夜のうちに、仕上げてしまうわ」

「明日でも」

「今夜がいいの」

 

 編み棒が、小さく鳴っていた。

 窓の外は、星の多い夜だった。

 エリックは窓から身を乗り出して、空を見上げた。

 屋根の端の上に、赤い光が見えた。

 十日ほど前から浮かんでいるのだと、宿の主が言っていた。祖父が魔術師を呼んで調べさせているのだと。

 その赤い色が、少しずつ、薄くなっていった。

 滲んだ墨が、水に溶けていくように。

 やがて、まわりの星と見分けがつかなくなった。

 それから、星だけになった。

 

「……母上」

「なあに」

「光が、消えました」

 

 母が編み棒を止めて、窓の外を見上げた。

 

「……本当ね」

「何だったんでしょう」

「さあ。お義父様の呼んだ魔術師も、分からないって言っていたわ」

 

 何だったのかは、誰にも分からなかった。

 中庭に、ギレーヌが立っているのが見えた。

 空を見上げて、耳を立てていた。しばらくそうしていて、それから、耳を下ろした。

 剣を抜いて、振り始めた。

 振り上げる。振り下ろす。

 いつもの素振りだった。

 

 編み棒の音が止まった。

 

「できたわ」

 

 母が、編み上がったばかりの手袋を持って立ち上がった。

 

「手を」

 

 エリックは、左手を差し出した。

 エリックは懐から、昼に外した右の手袋を取り出した。母はそれも一緒に、両方の手に、はめた。

 ちょうどよかった。

 両方とも。

 夏の夜に、赤い手袋をはめた手を、エリックはしばらく見下ろしていた。

 母はもう一度椅子に座って、膝の上に、紐で結んだ手紙の束を置いた。

 ほどかないまま。

 

「それで」

 

 母が言った。

 

「七つの春の手紙には、何て書いてあったの」

 

 エリックは、手袋をはめた手を膝の上に置いた。

 少し考えた。

 それから、話し始めた。

 十年分の、途中から。

 

四

 

 母が客間を出ていったのは、夜半を過ぎてからだった。

 七つの春の分と、八つの冬の分まで話した。九つの冬の分に入ったところで、母が欠伸を噛み殺したのを、エリックは見た。

 

「続きは、明日ね」

 

 母はそう言って、手紙の束を胸に抱えたまま出ていった。

 ほどかないまま。

 

 エリックは窓辺の机に向かった。

 両手の手袋を外して、机の端に揃えて置いた。

 燭台をひとつ灯した。

 紙を広げて、ペンを取った。

 

『エルヴィンへ』

 

 手が止まらなかった。

 母への手紙は、一枚書くのに五年かかった。

 今夜は、ペン先が紙から離れなかった。

 着いたこと。門の前に母がいたこと。今年の手袋が、今年ちょうどよかったこと。祖父が自分を怒鳴っていたこと。妹に十二回挑まれて、十二回とも転がしたこと。光の太刀を受けて、返せなかったこと。食卓の椅子が、一つしか空いていなかったこと。

 それから、麦畑のこと。

 金色、と書いて、ペンが止まった。

 それだけでは足りなかった。

 風が吹くと波になること。丘を越えて、どこまでも渡っていくこと。丘全体が、息をしているみたいだったこと。昨日、馬の上で拾い集めた言葉を、一つずつ紙に置いていった。

 残りは、帰ってから話す、と書いた。

 いつもなら、ここで止まる。

 途中まで。書くまでもないと思って。

 エリックはペン先をインク壺に浸した。

 一行、空けた。

 

『最後まで書きました。』

 

 三枚になっていた。

 インクが乾くのを待って、丁寧に折り畳んだ。封をした。

 表に、宛名を書いた。

 明日の朝、グスタフに頼もう。王都へ向かう誰かに預ければ、十日もすれば届く。

 十日目。

 弟は、帳面に何と書くだろう。

 エリックは封書を、手袋の隣に置いた。

 中庭から、素振りの音が聞こえていた。

 振り上げる。振り下ろす。

 

 燭台の炎が、揺れた。

 風は吹いていなかった。

 炎が、ゆっくりと横に伸びた。机の木目が、水に映したように波打った。封書の宛名の字が、滲んで、ほどけていく。

 エリックは目をこすった。

 窓の外の星が、ひとつずつ、溶けるように滲んでいた。

 素振りの音が、遠くなった。振り上げる。振り下ろす。その間が、少しずつ長くなっていく。

 手袋に手を伸ばした。

 届かなかった。

 手の届くところにあったはずの机が、ずっと遠くにあった。

 壁が、窓が、燭台が、少しずつ傾いて、色を失っていく。

 廊下の向こうで、誰かが笑った気がした。祖父の声だったか、妹の声だったか、分からなかった。

 

 ――母上。

 呼ぼうとした。

 声が出なかった。

 燭台の火が、白くなった。

 

五

 

 白。

 どこまでも白。

 上も下もなかった。音もなかった。

 

 指先に、細い紐の感触があった。

 手紙の束を結んだ紐だった。

 渡したはずの束だった。

 封をしたはずの弟への手紙は、どこにもなかった。

 

 服の上から、誰かが胸元を握りしめていた。

 擦り切れた紙が一枚、その下で、かさりと鳴った。

 

 草原で、獣の耳が、王都へ続く街道の方を向いていた。

 

 客間の寝台の枕元に、赤い手袋が片方だけ置かれていた。

 もう片方は、籠の中で、編みかけのままだった。

 

 白が、遠くなっていった。

 手袋も、獣の耳も、胸元を握る手も、その向こうへ沈んでいった。

 紐だけが、指に残っていた。

 エリックはそれを握りしめた。

 冷たく、湿っていた。

 

 どこかで、細かい音が土を叩いていた。

 少しずつ、近くなった。

 

 白が、灰色に濁った。

 

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