一
白が、ほどけた。
馬は、止まらなかった。
雲雀が鳴いていた。麦畑のあちこちで、昨日と同じように。風が吹くたびに、金色の穂が同じ方へ傾いて、波になって丘を越えていった。
北東の空には、あの赤い光がまだ浮かんでいた。昨夜と同じ大きさで、瞬きもせず、ロアの真上に。
グスタフが一度だけそれを見上げて、何も言わずに前を向いた。
レオンは干し果物をかじっていた。エルヴィンが持たせてくれた袋は、もう半分以上、レオンの腹に収まっていた。
城壁の門をくぐったのは、昼前だった。
大通りを抜けて、丘の上へ続く坂を上る。十年前は篝火に照らされていた坂だった。今は夏の日差しが、石畳を白く光らせていた。
屋敷の門が見えた。
門の前に、人が立っていた。
赤い髪だった。日傘も差さずに。
エリックが馬の上でそれを見つけたのと、向こうがこちらを見つけたのは、たぶん同じ時だった。
母が、駆けてきた。
十年前と同じだった。裾が汚れるのも構わずに。今日はぬかるみではなく、乾いた石畳の上を。
エリックは馬を降りた。
手綱をグスタフに渡したかどうか、覚えていなかった。
言うことは決めてあった。
昨夜、宿の窓辺で。今朝、馬の上で。何度も、順番まで。
――手袋、ありがとうございました。
まずそれを。それから、手紙の束を。
母が目の前で止まった。
十年前は、見上げていた。母の肩にも届かなかった。今は、母のつむじが見えた。
母の口が開いた。
「お――」
閉じた。
もう一度、開いた。
「おおきく……」
また閉じた。
母は両手で自分の口を押さえた。それから、その手を下ろして、エリックの両腕を掴んだ。肘のあたりを、確かめるように、何度も。
エリックも口を開いた。
「手――」
出てこなかった。
決めてあった言葉が、順番ごと、どこかへ行ってしまっていた。
代わりに出てきたのは、別の言葉だった。
「……ただいま、戻りました」
昨夜、違う、と思って捨てた言葉だった。
母が笑った。泣きながら。
「おかえりなさい」
母も、たぶん、別のことを言うつもりだったのだろう。
門の内側に、父が立っていた。
何を考えているのか分からない顔だった。十年前と同じ顔で、十年前より、髪に白いものが混じっていた。
「……よく来た」
父はそれだけ言った。
口の端が、かすかに動いていた。
――会えるうちに、ちゃんと会っとけよ。
会えた。
エリックは、それだけを思った。
母に手を引かれて、客間に通された。
十年前と同じ部屋だった。寝台が二つ。窓から、ロアの町と、金色の丘が見えた。
寝台の一つの枕元に、赤いものが置いてあった。
手袋だった。
片方だけ。
「今朝、編み上がったの」
母が言った。
「もう片方は、まだ。昨日のうちに仕上げるつもりだったのに、間に合わなくて」
母はそれを手に取って、エリックの前に立った。
「手を」
エリックは右手を差し出した。
剣だこだらけの手だった。
母はその手を、しばらく両手で包んでいた。指を一本ずつ、確かめるように撫でた。剣だこの硬いところで、指が止まった。
それから、手袋をはめた。
指先まで、するりと入った。
折り返しが、ちょうど手首の骨の上で止まった。
余っているところは、どこにもなかった。
「ギレーヌにね、聞いたの。あなたの手の大きさ」
母が言った。
「去年の冬に。根掘り葉掘り。あの子、耳をぺたんとさせて、自分の手と比べて、これくらいだって」
エリックは自分の右手を見下ろした。
毎年届いた手袋は、いつも少しだけ大きかった。次の冬に、ちょうどよくなるように。
これは、今、ちょうどよかった。
夏だった。窓の外では麦が光っていた。手袋の中で、手がじわりと汗ばんだ。
それでも、外したくなかった。
ここなら、言えた。
「手袋、ありがとうございました」
母が顔を上げた。
「毎年、ちょうどよくなりました」
一年遅れで。毎年。
母は何か言おうとして、言えなかった。
代わりに、手袋の上から、エリックの手を握った。
エリックは荷物の一番奥から、紐で結んだ束を取り出した。
「これも」
「……なあに」
「手紙です。書きかけの」
母の手が止まった。
「七つの春から、十二の時までの分です。途中で止まったものばかりです。母上へ、の一行で止まっているものもあります。インクが滲んで、読めないところもあります。読めないところは、たぶん、大したことは書いていないと思います」
エリックは束を差し出した。
「全部、母上に」
母は束を受け取った。
紐をほどかないまま、胸に抱えた。
それから、自分の胸元に手を入れて、一枚の紙を取り出した。
ぼろぼろだった。折り目が擦り切れて、端が丸くなって、ところどころ字が薄くなっていた。
見覚えのある字だった。
十二の時に書いた、たった一枚の返事だった。
「五年間、毎日読んだの。朝と、昼と、眠る前に」
母は、どこか得意そうに言った。
「フィリップには、読みすぎだって呆れられたわ。エリスにも」
「……破れそうです」
「破れそうなのよ」
「写しを、作りましょうか」
母はきょとんとした。
それから、ふっと笑った。
「あなた、本当に、そういうことを真顔で言うのね」
笑いながら、目元を指で拭った。
母は手紙の束を、ほどかないまま膝の上に置いた。
「これは、今は読まないわ。あなたがいる間は」
「……なぜですか」
「途中で止まっているんでしょう」
母は束の上に、そっと手を置いた。
「続きは、あなたの声で聞かせて」
二
エリスたちが帰ってきたのは、昼を少し回った頃だった。
客間を出て玄関の広間に下りたところで、表の方から、ばたばたと足音が近づいてきた。
「戻ったわよ! まだ着いてないわよね!? 兄様、まだよね!?」
広間に、赤い髪の少女が飛び込んできた。
そしてエリックを見て、ぴたりと止まった。
燃えるような赤い髪を、後ろで束ねていた。吊り上がった目。母によく似た目だった。
腰に、小さな赤い籠手が下がっていた。
左の手首に、赤い革の紐が巻かれていた。
少女の後ろから、杖を抱えた茶色い髪の少年が、息を切らして駆け込んできた。それから、褐色の肌の剣士が。
ギレーヌは、敷居のところで止まった。
耳が、ぴんと立った。
エリックはギレーヌを見て、それから、もう一度少女を見た。
少女は、エリックを睨んでいた。
「……着いてるじゃない」
「はい。昼前に」
「昼前に戻るって言ったのに! ルーデウスが、杖をもう一回、もう一回って言うから!」
「お嬢様、もう一回って言ったのはお嬢様です」
「言ってないわよ!」
エリスはくるりとエリックの方に向き直った。
「最初に会うのは、私のはずだったのに」
「……母上が、門の前にいたので」
「知ってるわよ! お母様、朝から門の前をうろうろしてたもの!」
エリスは地団駄を踏んだ。
それから、腰の籠手をぐっと握った。
「いいわ。会うのは二番目でも、手合わせは一番目よ」
「エリス」
後ろから、母の声がした。
「まず、ご挨拶を」
「後でするわ!」
エリスはつかつかと中庭の方へ歩き出した。
途中で振り返った。
「何してるのよ! 来なさいよ、あんた!」
あんた、と呼ばれた。
兄とも、名前とも、呼ばれなかった。
それでも、来いと言われた。
「……はい」
中庭で、エリスは木剣を構えた。
剣神流の構えだった。前のめりの、先に動いて先に斬る構え。
エリックは、ギレーヌが黙って放ってよこした木剣を受け取った。
構える。
水神流の構えで。
エリスの眉が吊り上がった。
「待つ剣ね。ギレーヌから聞いてるわ」
「はい」
「待ってたら、終わるわよ」
エリスが踏み込んできた。
速かった。
十二歳の速さではなかった。先に動くことだけを、ずっと練ってきた足だった。
――エリスは、お前より筋がいい。
ギレーヌの言った通りだ、と思った。
受けた。
重かった。腕に、じんと響いた。
流す。エリスの木剣が空を切り、身体が前に泳ぐ。そこへ、木剣の腹で背中を軽く押した。
エリスは石畳の上を、ころりと転がった。
すぐに跳ね起きた。
「もう一回!」
二回目。三回目。
エリスは毎回、違うところから来た。同じ転び方は、二度しなかった。
六回目で、木剣の先がエリックの袖をかすめた。
七回目、エリックは受けずに、踏み込むふりをした。
エリスは、乗らなかった。
――乗らない。
エリックの口元が、勝手に緩んだ。
「ギレーヌ、今の見た!?」
「……見た」
敷居の柱にもたれて、ギレーヌが言った。
「そいつは、剣の時だけ笑う」
十二回目で、エリスは石畳の上に大の字になった。
息が上がっていた。赤い髪が石畳に広がっていた。
空を見上げたまま、エリスが言った。
「……あんた、ずるいわ」
「何がですか」
「全部、受けるじゃない。どこから行っても、そこに剣があるのよ」
「そういう剣なので」
「ずるいわよ」
エリスは腕で目元を覆った。
「……でも、さっきのは乗らなかったわよ。踏み込むふり」
「はい。乗りませんでした」
「ギレーヌに言われてたもの。あんたは踏み込むふりをするって。冬に王都から帰ってくるたびに、毎年、毎年」
エリスは腕の下から、ちらりとエリックを見た。
「ずっと聞かされてたんだから。あんたの話」
エリックは何と答えればいいか分からなかった。
エリスの腰の籠手が、石畳の上で日の光を受けていた。
小さかった。もう、指は入らないだろう。
「……籠手」
「な、なによ」
「まだ、持っていてくれたんですね」
エリスが、がばりと身を起こした。
顔が、髪と同じ色になっていた。
「も、持ってないわよ! これは、たまたま、腰に下げてただけよ!」
「下げているのを、持っていると言うのでは」
「言わないわよ!」
エリスは立ち上がって、木剣の先をエリックの胸に突きつけた。
「明日も、やるわよ」
「はい」
「明後日も」
「……はい」
「あんたが帰るまで、毎日よ」
エリスはふん、と鼻を鳴らして、背を向けた。
中庭を出ていく途中で、左手首の赤い紐を、右手でぎゅっと握っていた。
エリスがいなくなると、中庭の隅で杖を抱えていた少年が、おずおずと近づいてきた。
「あの……はじめまして。ルーデウス・グレイラットです。お嬢様の家庭教師をしています」
十歳と聞いていた。
ずいぶん落ち着いた目をした子供だった。大人が子供の顔をしているようだ、とエリックは思った。
「エリックです。……パウロ殿の、息子さんですね」
少年の目が、わずかに見開かれた。
「父を、ご存じなんですか」
「一昨日、ブエナ村に寄りました。伝言を預かっています。二つ」
「……二つ、ですか」
「一つ目は、パウロ殿から」
エリックは、そのまま言った。
「親父は元気だ、と」
ルーデウスは黙っていた。
「狩りから帰ってきたところでした。胸当てを着けたまま、脛当てに泥が付いていました。一本、手合わせをしてもらいました。負けました」
「……父が、勝ったんですか」
「三つの構えを、一本の中で全部使われました。剣神流で踏み込んで、北神流で流して、最後は水神流で待つふりをされました」
「……ああ」
ルーデウスは、なぜか小さく笑った。
「父らしいです」
「奥様も、リーリャさんも、お元気でした。妹さんたちも。アイシャさんには、寝ているのかと訊かれました」
「……すみません、妹が」
「起きていると答えました」
ルーデウスが、今度ははっきりと吹き出した。
「二つ目は」
エリックは一拍、間を置いた。
「緑の髪の女の子から」
ルーデウスの顔から、笑いが消えた。
「魔術の練習を、続けているそうです。無詠唱も、前よりできるようになった、と。それだけ伝えてほしい、と言っていました」
ルーデウスは杖を抱えたまま、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうですか」
声が、かすかに掠れていた。
「シルフィが」
「籠の縁を、握っていました。洗濯籠の」
「……そうですか」
ルーデウスは目を伏せた。
十歳の子供の顔に戻っていた。
「ありがとうございます。伝えてくださって」
「約束したので」
ルーデウスが顔を上げた。
それから、ふと中庭の入り口の方を見た。
ギレーヌが、まだ柱にもたれていた。
「……あの。父から、ギレーヌに伝言は」
「ありません」
柱の方で、ギレーヌの耳がぴくりと動いた。
ルーデウスはエリックの顔をじっと見た。
「……今、少しも間がありませんでしたね」
「ありません」
「あったんですね」
「ありません」
三
日が傾き始めた頃、ギレーヌが中庭に下りてきた。
手に木剣を二本持っていた。一本を、エリックに放った。
「遅い」
「昼前です。予定通りです」
「……知ってる」
ギレーヌは構えなかった。
代わりにエリックの前に立って、上から下まで、じろりと見た。
「背が、また伸びた」
「少しだけ」
「ヒルダ様に言ったのより、伸びてる」
ギレーヌの目が、エリックの右手に落ちた。
まだ、赤い手袋をしていた。
「……合ったか」
「はい。ちょうどでした」
「ん」
尻尾が一度だけ、大きく揺れた。
ギレーヌはぷいと顔を背けた。
「外せ。剣が滑る」
「……はい」
エリックは手袋を外して、丁寧に畳み、懐にしまった。
素振りから始めた。
ギレーヌの前で、エリックは剣を振った。振り上げる。振り下ろす。九つの冬から、毎年見せてきた素振りだった。
ギレーヌは黙って見ていた。
百を数えたところで、ギレーヌが言った。
「……いい」
それだけだった。
それから、ギレーヌは木剣を腰だめに構えた。
抜刀の構え。
「一年待った」
去年と同じことを言った。
「今年は、読ません」
中庭の空気が張り詰めた。
風が止まる。鳥の声が止まる。
エリックは、ギレーヌの左肩を見た。
沈まなかった。
――消した。
一年で。剣神にも、剣の聖地の誰にも気づかれなかった癖を。
肩からは何も読めなかった。腰からも。足からも。
剣ではなく、相手を見る。
エリックは、ギレーヌの全部を見た。
耳を。尻尾を。
尻尾が揺れていた。広間で会った時から、ずっと揺れていた。手袋を見た時も揺れていた。構えてからも、まだ、ゆらゆらと。
その尻尾が。
ぴたりと、止まった。
エリックの木剣は、もう斜めに構えられていた。
衝撃が来た。
腕が痺れた。肩の骨まで、鳴るように痺れた。
足が、石畳の上を半歩滑った。
それでも、木剣は手の中にあった。
折れていなかった。弾き飛ばされてもいなかった。
ギレーヌの木剣が、エリックの木剣の上で止まっていた。
受けた。
流そうとした。手首を返そうとした。
腕が動かなかった。痺れたまま、言うことを聞かなかった。
返せなかった。
二人は剣を合わせたまま、しばらく動かなかった。
「……受けたな」
ギレーヌが言った。
「受けました」
今年は、そう言えた。
「でも、返せませんでした」
「……ああ」
「流そうとしました。腕が動きませんでした」
「見てた」
ギレーヌは木剣を引いた。
それからエリックを見下ろした。見下ろす角度が、去年より浅かった。
「……何で読めた」
「尻尾です」
ギレーヌの耳が、ぺたりと後ろに倒れた。
「放つ前に、止まりました。それまで、ずっと揺れていたので」
「…………」
ギレーヌは自分の尻尾を振り返った。
尻尾は、気まずそうに、ゆっくりと揺れていた。
「……師匠に言うなよ」
「言いません」
「約束だ」
「約束します。去年のと、二つ目です」
ギレーヌは木剣を下ろしたまま、しばらく黙っていた。
何か言いかけて、口を閉じた。
それから、言った。
「……お前が、これを受けられるようになったら。その時は、お前はもう、あたしが素振りを見る必要はない」
一昨年の冬と、同じ言葉だった。
「受けただけです」
エリックは言った。
「返していません。いつか受けて、流して、返します、と言いました。僕が」
「……」
「だから、まだ見てください」
ギレーヌの耳が、ぴくりと動いた。
「来年も」
「ああ」
「返せるようになるまで」
「……ああ」
「返せるようになっても」
ギレーヌが、エリックを見た。
エリックも、ギレーヌを見ていた。
――それができたら、何を言おう。
今朝、馬の上でそう思った。
まだ、できていなかった。
だから、まだ、言わなくてよかった。
「……しつこいな、お前は」
「よく言われます」
「……あたしにな」
尻尾が、ゆっくりと、左右に揺れていた。
門の方が、急に騒がしくなった。
蹄の音。馬のいななき。使用人たちの慌てた声。そして、それを全部かき消す、屋敷じゅうに響く声。
「エリックはどこじゃああ!」
ギレーヌの耳が、両方とも後ろに倒れた。
中庭に、祖父が飛び込んできた。旅装束のまま。土埃にまみれて。腰に、使い込まれた古い剣を佩いて。
「おったか!」
「……お帰りなさい、祖父上」
「遅い!」
「……昼前に着きました」
「わしが遅いと言うとるんじゃ!」
祖父は、自分で自分を怒鳴りつけた。
「水路の連中がぐずぐずと! 馬を二頭潰したわ! 昼前に着くと分かっとったのに!」
祖父はエリックの頭を鷲掴みにした。
去年までと同じ手つきだった。けれど、手を少し上に伸ばさなければならないことに、祖父も気づいたらしかった。
頭の上で、祖父の手が止まった。
声が落ちた。
「……よう来た」
ざらついた声だった。
「十年前は、この家で迎えてやれんかった」
「はい」
「今度は、わしも迎えたぞ」
「はい。迎えてもらいました」
「遅れたがな!」
祖父はまた怒鳴った。それから、腰の古い剣をがちゃりと鳴らした。
「さあ、構えい! 水聖の剣を、この手で受けてみたい!」
「お義父様!」
回廊の方から、母の声が飛んできた。
「夕食の前です! それに、着いたばかりで!」
「着いたばかりだから構えるんじゃ!」
「お義父様が、です!」
ギレーヌが黙って、自分の木剣を祖父に放った。
祖父はそれを片手で受け止めて、にやりと笑った。
一合だけだった。
祖父の剣は重かった。曲がらない剣だった。声と同じだった。
まだ痺れの残る腕で、エリックはそれを受けた。流しきれずに、膝が折れた。石畳に片膝をついて、それでも木剣は、祖父の木剣の下にあった。
「受けおった!」
祖父が、中庭の窓が震えるほどの声で笑った。
「わしの剣を、孫が受けおったわ! ギレーヌ、見たか!」
「……見た」
「明日じゃ! 明日、続きじゃ!」
エリックは片膝をついたまま、祖父を見上げた。
口元が、また勝手に緩んでいた。
祖父は、まだ笑っていた。
その夜の食卓は、椅子が一つしか空いていなかった。
上座の一番大きな椅子に、祖父がいた。
十年前、そこは空いていた。
父がいた。母がいた。エリスがいた。ルーデウスがいた。
エリックの隣には、ギレーヌがいた。
背もたれの隙間から尻尾をはみ出させて、当たり前のような顔で座っていた。
空いているのは、エリックの向かいの、一つだけだった。
食卓は、うるさかった。
祖父が水路の連中の文句を言い、エリスが中庭の手合わせのずるさを言い、ルーデウスがそれをなだめて、エリスに肩を叩かれた。
祖父がギレーヌの杯に、なみなみと酒を注いだ。
「飲め! 今夜の酒は、うまいぞ!」
「……ん」
ギレーヌは一息で干した。祖父が膝を叩いて笑い、また注いだ。
父は静かに杯を傾けていた。時々、口の端が動いた。
母は、ほとんど食べていなかった。ずっと、こちらを見ていた。
ギレーヌは肉を食べていた。皿が空になるたびに、母が黙って肉を足した。エリスが自分の皿から一切れ足した。ギレーヌは黙ってそれも食べた。
椅子の後ろで、尻尾がゆっくりと揺れていた。
「エリス」
エリックは懐から、紙の束を取り出した。
「エルヴィンからです」
「……多いわね」
「半分にしたそうです」
「これで!?」
エリスは束を受け取って、ぱらぱらとめくった。
それから、手を止めて、一枚を黙って読んだ。
もう一枚。
食卓の喧騒の中で、エリスだけが静かになっていた。
「……何よ、これ」
しばらくして、エリスが言った。
「姉上、兄上と手合わせしたら、絶対転がされるから、転がされた回数を数えて僕に教えて、って書いてあるわ」
「……数えましたか」
「数えないわよ!」
エリスは束を胸に抱えて、エリックの向かいの空いた椅子を見た。
「……来年は、来るんでしょ。あの子」
「はい。本人が、そう言っていました。帳簿の締めが終わったら、絶対行く、と」
「ジェイムズが何と言おうと、わしが呼ぶ!」
祖父が杯を叩きつけるように置いた。
「来年は、あの椅子も埋めるぞ!」
空いた椅子の皿の上に、母が、麦の穂を一本、そっと置いた。
エリックが荷物の奥から出して、預けておいた穂だった。
グスタフが、弟への土産にと折り取ってくれた穂。
燭台の明かりの中で、それは金色に光っていた。
夜が更けて、エリックは客間の窓辺にいた。
母が窓辺の椅子に座って、編み棒を動かしていた。膝の上の籠から、赤い毛糸が伸びていた。
手袋の、もう片方だった。
「今夜のうちに、仕上げてしまうわ」
「明日でも」
「今夜がいいの」
編み棒が、小さく鳴っていた。
窓の外は、星の多い夜だった。
エリックは窓から身を乗り出して、空を見上げた。
屋根の端の上に、赤い光が見えた。
十日ほど前から浮かんでいるのだと、宿の主が言っていた。祖父が魔術師を呼んで調べさせているのだと。
その赤い色が、少しずつ、薄くなっていった。
滲んだ墨が、水に溶けていくように。
やがて、まわりの星と見分けがつかなくなった。
それから、星だけになった。
「……母上」
「なあに」
「光が、消えました」
母が編み棒を止めて、窓の外を見上げた。
「……本当ね」
「何だったんでしょう」
「さあ。お義父様の呼んだ魔術師も、分からないって言っていたわ」
何だったのかは、誰にも分からなかった。
中庭に、ギレーヌが立っているのが見えた。
空を見上げて、耳を立てていた。しばらくそうしていて、それから、耳を下ろした。
剣を抜いて、振り始めた。
振り上げる。振り下ろす。
いつもの素振りだった。
編み棒の音が止まった。
「できたわ」
母が、編み上がったばかりの手袋を持って立ち上がった。
「手を」
エリックは、左手を差し出した。
エリックは懐から、昼に外した右の手袋を取り出した。母はそれも一緒に、両方の手に、はめた。
ちょうどよかった。
両方とも。
夏の夜に、赤い手袋をはめた手を、エリックはしばらく見下ろしていた。
母はもう一度椅子に座って、膝の上に、紐で結んだ手紙の束を置いた。
ほどかないまま。
「それで」
母が言った。
「七つの春の手紙には、何て書いてあったの」
エリックは、手袋をはめた手を膝の上に置いた。
少し考えた。
それから、話し始めた。
十年分の、途中から。
四
母が客間を出ていったのは、夜半を過ぎてからだった。
七つの春の分と、八つの冬の分まで話した。九つの冬の分に入ったところで、母が欠伸を噛み殺したのを、エリックは見た。
「続きは、明日ね」
母はそう言って、手紙の束を胸に抱えたまま出ていった。
ほどかないまま。
エリックは窓辺の机に向かった。
両手の手袋を外して、机の端に揃えて置いた。
燭台をひとつ灯した。
紙を広げて、ペンを取った。
『エルヴィンへ』
手が止まらなかった。
母への手紙は、一枚書くのに五年かかった。
今夜は、ペン先が紙から離れなかった。
着いたこと。門の前に母がいたこと。今年の手袋が、今年ちょうどよかったこと。祖父が自分を怒鳴っていたこと。妹に十二回挑まれて、十二回とも転がしたこと。光の太刀を受けて、返せなかったこと。食卓の椅子が、一つしか空いていなかったこと。
それから、麦畑のこと。
金色、と書いて、ペンが止まった。
それだけでは足りなかった。
風が吹くと波になること。丘を越えて、どこまでも渡っていくこと。丘全体が、息をしているみたいだったこと。昨日、馬の上で拾い集めた言葉を、一つずつ紙に置いていった。
残りは、帰ってから話す、と書いた。
いつもなら、ここで止まる。
途中まで。書くまでもないと思って。
エリックはペン先をインク壺に浸した。
一行、空けた。
『最後まで書きました。』
三枚になっていた。
インクが乾くのを待って、丁寧に折り畳んだ。封をした。
表に、宛名を書いた。
明日の朝、グスタフに頼もう。王都へ向かう誰かに預ければ、十日もすれば届く。
十日目。
弟は、帳面に何と書くだろう。
エリックは封書を、手袋の隣に置いた。
中庭から、素振りの音が聞こえていた。
振り上げる。振り下ろす。
燭台の炎が、揺れた。
風は吹いていなかった。
炎が、ゆっくりと横に伸びた。机の木目が、水に映したように波打った。封書の宛名の字が、滲んで、ほどけていく。
エリックは目をこすった。
窓の外の星が、ひとつずつ、溶けるように滲んでいた。
素振りの音が、遠くなった。振り上げる。振り下ろす。その間が、少しずつ長くなっていく。
手袋に手を伸ばした。
届かなかった。
手の届くところにあったはずの机が、ずっと遠くにあった。
壁が、窓が、燭台が、少しずつ傾いて、色を失っていく。
廊下の向こうで、誰かが笑った気がした。祖父の声だったか、妹の声だったか、分からなかった。
――母上。
呼ぼうとした。
声が出なかった。
燭台の火が、白くなった。
五
白。
どこまでも白。
上も下もなかった。音もなかった。
指先に、細い紐の感触があった。
手紙の束を結んだ紐だった。
渡したはずの束だった。
封をしたはずの弟への手紙は、どこにもなかった。
服の上から、誰かが胸元を握りしめていた。
擦り切れた紙が一枚、その下で、かさりと鳴った。
草原で、獣の耳が、王都へ続く街道の方を向いていた。
客間の寝台の枕元に、赤い手袋が片方だけ置かれていた。
もう片方は、籠の中で、編みかけのままだった。
白が、遠くなっていった。
手袋も、獣の耳も、胸元を握る手も、その向こうへ沈んでいった。
紐だけが、指に残っていた。
エリックはそれを握りしめた。
冷たく、湿っていた。
どこかで、細かい音が土を叩いていた。
少しずつ、近くなった。
白が、灰色に濁った。