凪の水帝   作:アサツラ

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第2話 届く贈り物

一

 

 弟がやってきたのは、エリックが六歳の春、その半ばのことだった。

 その日、屋敷の門の前に一台の馬車が停まった。飾り気のない、けれど造りのしっかりした馬車だった。ボレアス家の紋章を付けた騎士が、二人付き添っていた。

 馬車の扉が開いて最初に降りてきたのは、見知らぬ中年の女だった。乳母なのだろう。胸に白い布の包みを抱えていた。

 包みの中から、泣き声が聞こえた。

 細くて、かすれた、けれどちっとも止む気配のない泣き声だった。

 

「あれが、弟ですか」

 

 玄関の広間の窓から、エリックは門の方を見下ろしていた。

 

「ええ。エルヴィン様と仰るそうですよ」

 

 隣でエルマが答えた。

 

「フィリップ様とヒルダ様が、お名前をつけてからお送りになったそうです」

「エルヴィン」

 

 エリックはその名前を口の中で転がしてみた。

 エリック。エリス。エルヴィン。

 

「三人とも、エから始まります。偶然にしては、揃いすぎています」

「ええ。きっと、お母上がそうお考えになったのでしょうね」

 

 エルマは目を細めた。

 

「離れて暮らしても、兄弟だと分かるように」

「なら、成功しています。僕は今、分かりました」

 

 エルマは何か言おうとして、口元を押さえた。

 乳母の腕から、弟はエルマの腕に移された。

 伯父は玄関の広間で一度だけ包みの中を覗き込み、「そうか」とだけ言って書斎へ戻っていった。

 ユリウスは少し離れたところから、背伸びをして包みを覗き込んだ。

 

「……これが、僕の二人目の護衛か?」

「そうなるかもしれないと、伯父上が」

「小さすぎるだろ!」

「生まれて、ひと月だそうです」

「ひと月で、剣が振れるようになるのか?」

「なりません」

「じゃあ、いつ振れるんだよ」

「僕が剣を持ったのが五歳なので、五年後くらいだと思います。それまでは、僕が二人分やります」

「長いな!」

 

 ユリウスはもう一度包みを覗き込んだ。

 赤ん坊は真っ赤な顔で泣き続けていた。

 ユリウスはしばらくその場を離れなかった。

 

*

 

 揺り籠はエリックの部屋に運び込まれた。

 寝台の隣にちょうど一つ分、空けてあった場所だった。一昨年の冬、伯父は「その時に考えておく」と言った。考えた結果が、これだったらしい。

 その夜、弟は泣き止まなかった。

 エルマが抱いても、揺すっても、乳母が乳を含ませても、子守唄を歌っても。揺り籠の中で弟はひと晩じゅう泣き続けた。

 エリックは自分の寝台を抜け出して、揺り籠のそばに座った。

 

「エリック様。お休みにならないと」

「僕もここに来た夜は、ひと晩じゅう泣いていたんですよね」

「……ええ」

「その時、誰がそばにいましたか」

「私が、おりました」

「なら、今夜は僕の番です。エルマは休んでください。明日の朝、エルマが眠そうだと、エルヴィンが困ります」

「明日のお稽古に障りますよ」

「稽古は眠くてもできます」

 

 エルマはしばらく黙ってエリックを見ていた。それから、黙って毛布を一枚持ってきた。

 エリックは揺り籠の縁に手をかけた。

 弟の顔を覗き込む。

 小さかった。信じられないほど、小さかった。握りしめた拳が、エリックの親指の先ほどしかない。

 母の腕から離されて、知らない匂いの知らない場所で、どうしていいか分からなくて、ただ泣くことしかできない。

 覚えていない。でも、たぶん、自分もこうだったのだ。

 

 その時は自分がそばにいてやろう。

 一年前の夜、窓辺でそう決めた。

 エリックは揺り籠の中に、そっと指を差し入れた。

 弟の小さな拳に、指先が触れた。

 拳が、ほどけた。

 そして、エリックの人差し指を、ぎゅっと握った。

 思っていたよりも、ずっと強い力だった。

 

 泣き声が、わずかに細くなった。

 しゃくり上げるような声になり、それから、ぐずるような声になり。やがて、すうすうという小さな寝息に変わっていった。

 エリックは動かなかった。

 指を握られたまま、揺り籠の縁に寄りかかって、じっとしていた。

 

「……まあ」

 

 エルマが口元を手で覆っていた。

 

「エリック様の指を握ったら、泣き止みましたね」

「離してくれません」

「離さないでしょうねえ」

「僕、このまま寝るんですか」

「そうなりますねえ」

「……掴んだら離さないのは、僕だけじゃなかったんですね」

 

 エルマはくすくすと笑いながら、エリックの肩に毛布をかけてくれた。

 エリックは揺り籠の縁に頭を乗せた。

 指の先に小さな温かい手があった。

 その夜、エリックは揺り籠のそばで眠った。

 

 夜明け前、泣き声で目が覚めた。

 エリックは揺り籠の縁から顔を上げた。まだ指を握られていた。

 弟を見下ろした。真顔だった。

 

「……エルヴィンは、今日はもう、泣かないでください」

 

二

 

 七歳の誕生日の朝、目を覚ますと枕元に小さな包みが置かれていた。

 麻布で丁寧にくるまれ、赤い紐で結ばれている。手に取ると、軽くて、柔らかい。

 開けなくても中身は分かっていた。

 紐をほどく。麻布を広げる。

 中から出てきたのは、手袋だった。

 赤い毛糸で編まれた、子供用の手袋。手の甲の部分に、白い糸で小さな模様が編み込まれている。よく見ると、それは剣の形をしていた。

 

「剣だ」

 

 思わず声が漏れた。

 去年は襟巻きだった。その前は帽子。その前のことは覚えていないが、エルマによれば、エリックがこの屋敷に来た年から、毎年欠かさず届いているのだという。

 どれも手編みで、どれも赤い毛糸で、差出人の名前はどこにもない。

 

「あー! う!」

 

 隣の小さな寝台から声がした。

 もうすぐ一歳になる弟が、寝台の柵につかまって、立ち上がっていた。

 この屋敷に来てから、エルヴィンは驚くほど大きくなった。這い回り、つかまり立ちをし、最近では柵につかまったまま、横に数歩歩けるようになった。そして兄の姿を見つけると、決まってこうして声を上げる。

 

「あー!」

「おはよう、エルヴィン」

「う!」

 

 エルヴィンは柵を掴んだまま手をばたばたさせた。兄の手の中の赤い手袋に手を伸ばしていた。

 

「これは僕のだ」

「あう!」

「お前のは、ここに来た時に届いただろう」

 

 エルヴィンがこの屋敷に来た時、その荷物の中にも贈り物がひとつ入っていた。白い毛糸の小さな帽子だった。てっぺんに兎の耳のような飾りが二つ付いていた。エルヴィンはそれを、寒い日には必ずかぶせられている。

 

「う! う!」

 

 エルヴィンは諦めずに手を伸ばし続けた。

 エリックは少し考えてから、手袋を片方、弟の手の届くところに差し出した。

 エルヴィンはそれをぎゅっと掴んだ。

 そして口に入れた。

 

「食べ物じゃない」

「あぶー」

「返せ。それは食べても腹は膨れない。僕が保証する」

「あー!」

 

 手袋は涎まみれになって返ってきた。

 エリックは濡れた手袋を見下ろして、溜息をついた。

 それから、改めて、乾いている方の手袋を右手にはめてみた。

 少しだけ大きかった。来年の冬にはちょうどよくなるだろう。

 

 エリックは手袋の内側に指先を押し当てた。

 赤い毛糸。

 エルマは母の髪は燃えるような赤だったと言っていた。

 毎年少しだけ大きい。一年でどれくらい大きくなるかを知っている人。あるいは知りたいと思っている人。

 

「エルマ」

 

 朝食の後エリックは訊いた。

 

「この手袋、母上からですよね」

 

 エルマの手が止まった。

 

「……なぜ、そう思われます」

「赤い毛糸で、毎年、少しだけ大きいです。エルヴィンの帽子と、編み目が同じです。エルヴィンは、母上から離されてすぐに、ここへ来ました。母上以外に、僕とエルヴィンの両方に毎年編んでくれる人を、僕は思いつきません」

 

 エルマはしばらくエリックの顔を見ていた。

 それから、毎年と同じ笑顔で、毎年と同じ答えを返した。

 

「お二人のことを、とても大切に思っていらっしゃる方からですよ」

「それは、答えになっていません」

「ええ。私の口から申し上げることでは、ございませんから」

 

 エルマはエリックの頬を両手でそっと挟んだ。

 

「いつか、ご自分で確かめてくださいまし」

 

三

 

 冬の中庭は吐く息が白い。

 エリックは赤い手袋をはめて木剣を構えていた。毛糸越しの感触はいくらか頼りなかったが、手がかじかまない分、いつもより振りやすかった。

 

「おい」

 

 声がした。

 振り向くと、ユリウスが中庭の入り口に立っていた。珍しく、きちんと着替えている。八歳になった従兄はこの一年でずいぶん背が伸びた。

 

「おはようございます、従兄上」

「なんだそれ」

 

 ユリウスの目はエリックの手元に向いていた。

 

「その手袋。女みたいな色だな」

「赤です。女の色でも、男の色でもありません。従兄上の外套の裏地も赤です」

「う、うるさい。誰からもらったんだ」

「たぶん、母上です」

「たぶん?」

 

 ユリウスは眉をひそめて近づいてきた。そして、エリックが何か言うより早く、その右手から手袋をひったくった。

 

「従兄上」

「ふうん。手編みか。下手くそだな、これ」

 

 ユリウスは手袋を指先でつまんで、ひらひらと振った。

 

「僕のところには、こんな安物は届かないぞ。父上が商人に言って、ちゃんとしたものを買ってくれるからな」

「返してください」

「なんで? たぶん、なんだろ。誰がくれたかも、はっきりしないんだろ。どうでもいいじゃないか」

「返してください」

 

 エリックの声が、低くなった。

 ユリウスは面白がるように口の端を吊り上げた。そして、手袋を持った手を中庭の隅の方へ向けた。

 そこには昨夜の雨が溜まった泥の水溜まりがあった。

 

「いらないなら、捨ててやるよ」

 

 ユリウスの腕が振りかぶられた。

 エリックは迷わなかった。

 木剣を持ったまま、もう片方の手でユリウスの手首を掴んだ。掴んで捻り上げた。自分でも驚くほど力が入っていた。

 

「い、いたっ、痛い! 離せ!」

 

 ユリウスの手から赤い手袋が落ちた。

 水溜まりの、ほんの手前に。

 

「エリック様!」

 

 ベルンハルトの声がした。

 太い腕が、エリックの身体を後ろから抱え込むようにして引き剥がした。エリックの手がユリウスの手首から離れる。

 ユリウスは手首を押さえて地面に尻もちをついていた。目に涙が浮かんでいる。

 

「お、お前……っ、何するんだ! 父上に言いつけてやる!」

 

 ユリウスは叫ぶと、使用人に助け起こされながら屋敷の中へ駆け込んでいった。

 中庭にしんと静寂が落ちた。

 

 エリックはベルンハルトの腕の中で、自分の手を見下ろしていた。

 指先がまだ熱かった。

 いつもなら待てた。ユリウスが飽きるのを黙って待てた。今日も待とうと思えば待てたはずだった。

 待たなかった。

 

「……ベルンハルト」

「はい」

「僕は、悪いことをしましたか」

 

 ベルンハルトはエリックを下ろして、しばらく髭を撫でていた。

 

「主家のご嫡男に手を上げた。それは、悪いことでございます」

「はい」

「ですが、手袋を守った。それは、悪いことではございません」

「両方ですか」

「両方でございます。剣の世界では、よくあることで」

 

 回廊の方からエルマが駆けてきた。腕にエルヴィンを抱いていた。

 エルマは水溜まりの手前に落ちていた赤い手袋を、そっと拾い上げた。泥がついていないか、何度も何度も確かめてから、エリックに差し出した。

 

「汚れておりませんよ。大丈夫です」

 

 エリックは手袋を受け取った。

 毛糸はかすかに湿っていた。

 

「あう」

 

 エルマの腕の中で、エルヴィンがエリックの方に手を伸ばしていた。

 エリックは手袋をはめていない方の手を、弟の方に差し出した。

 エルヴィンが、その人差し指をぎゅっと掴んだ。

 一年前の夜と同じ力だった。

 

四

 

 伯父の書斎に呼ばれたのは、それから一刻ほど後のことだった。

 二年前と同じように、エリックは机の前の椅子に座った。今度は足の先がかろうじて床に届いた。

 伯父は書類から目を上げなかった。

 

「ユリウスの手首が、腫れているそうだ」

「はい。僕が捻りました」

「理由を言いなさい」

「従兄上が、手袋を水溜まりに捨てようとしたからです」

 

 エリックは膝の上で両手を握った。

 右手にはまだ赤い手袋をはめたままだった。外すのを忘れていた。

 

「手首を捻ったことは、謝ります。痛い思いをさせるほどの力は、要りませんでした」

「……それで」

「手袋を守ったことは、謝りません」

 

 羽根ペンの音が、止まった。

 伯父はゆっくりと顔を上げた。

 その視線がエリックの右手に落ちた。赤い毛糸の手袋。手の甲に編み込まれた、白い剣の模様。

 伯父は長いこと、それを見ていた。

 何かを確かめるように。あるいは何かを思い出すように。

 

「……そうか」

 

 ぽつりと、それだけを言った。

 エリックは伯父の顔を見上げた。怒っているのかどうか、やはり分からなかった。けれど、いつもの平坦な声とはどこか違って聞こえた。

 

「理由はどうあれ、主家の嫡男に手を上げたことは許されない。三日間、稽古を禁ずる」

「はい」

「ユリウスには私から言っておく。二度と、お前の持ち物に手を出すなと」

 

 エリックは伯父の顔を見た。

 それはエリックが言おうと思っていたことだった。言う前に伯父の方から言われた。

 伯父はもう書類に目を戻していた。

 

「下がりなさい。……いや、待て」

 

 腰を浮かしかけたエリックを伯父は呼び止めた。

 そして、机の引き出しから一通の書状を取り出し机の上に置いた。封蝋が割られている。

 

「雪が解けたら、ロアへ行け」

 

 エリックは動きを止めた。

 

「エルヴィンも連れて行きなさい。迎えは向こうから寄越すそうだ。滞在は七日」

「どうして、春なのですか」

「エルヴィンはまだ乳飲み子だ。冬の道中に耐えられん」

 

 エリックは何を言われたのか、一度だけ頭の中で並べ直した。

 ロア。

 父と、母と、妹がいる町。

 

「……どうして、ですか」

 

 今度の「どうして」は春の理由を訊いたのではなかった。伯父にも、それは分かったらしかった。

 伯父はしばらく黙っていた。窓の外の白銀の王城の方を見ていた。

 

「フィリップが、頭を下げてきた」

 

 伯父はエリックの方を見ないまま言った。

 

「あれが私に頭を下げるのは、生まれて初めてのことだ」

 

 その声には二年前に「フィリップによく似ている」と言った時と同じ、エリックには名前の分からない響きがあった。

 

「ただし」

 

 伯父はエリックの方に向き直った。

 

「一度きりだ」

 

 エリックは息を止めた。

 

「二度目はない。それがフィリップとの約束だ。そのつもりで、行ってきなさい」

「……はい」

「下がりなさい」

 

五

 

 その夜、寝室に戻ると、エルヴィンは小さな寝台の上で、すやすやと眠っていた。

 白い毛糸の帽子を、枕元に置いて。

 エリックは寝台の脇の小さな箱をそっと開けた。

 中には今までに届いた贈り物が全部しまってあった。一番上に今日の赤い手袋。その下に去年の赤い襟巻き。その下に赤い帽子。そのさらに下に、もう小さすぎて入らなくなった赤ん坊用の靴下。

 全部赤い毛糸だった。全部少しだけ大きかった。

 

 エリックは手袋を取り出して両手で包み込んだ。

 それから、エルヴィンの枕元の白い帽子を見た。

 同じ人の手の、同じ編み目。

 エリックは手袋を胸に押し当てた。

 

 確かめたいと思った。

 顔を見て、声を聞いて、この手袋を編んだ手を、自分の目で見て。

 

六

 

 冬が過ぎ、雪が解けた。

 エルヴィンは春の初めに一歳になった。

 誕生日の朝、枕元には贈り物がなかった。

 

「エルヴィンの贈り物が、届いていません」

 

 エリックはエルマに言った。

 

「今年は届きませんねえ」

「毎年届いていました。僕の分は、七年、一度も遅れていません。遅れるなら、理由があるはずです」

「さて。どんな理由でしょうね」

 

 エルマはなぜか嬉しそうに笑ってエリックの襟を直した。直す必要のない襟だった。

 

*

 

 迎えが来たのは、それから数日後の、よく晴れた春の朝だった。

 屋敷の門の前に一台の馬車が停まっていた。一年前、弟を乗せてきたのと同じ馬車だった。その周りをボレアス家の紋章を付けた騎士が四人、馬上で囲んでいる。

 馬車の前に一人の老人が立っていた。

 白い髪をきっちりと撫でつけ、黒い執事服に身を包んでいる。背筋はまっすぐに伸び、朝の光の中で微動だにしない。

 エリックと、エルマに手を引かれたエルヴィンが門の前に出ると、老人は深々と頭を下げた。

 

「お初にお目にかかります。フィットア領主、サウロス・ボレアス・グレイラット様の執事を務めております、アルフォンスと申します」

 

 低く、落ち着いた声だった。

 

「フィリップ様と、ヒルダ様のお言いつけにより、お迎えにあがりました。若様方」

 

 若様方。

 

「若様、と呼ばれたのは、初めてです」

 

 エリックは正直に言った。

 

「ロアでは若様とお呼びいたします。慣れていただきとうございます」

「慣れるまで、何日かかりますか」

「七日あれば、十分かと」

「滞在は、七日です」

「では、ちょうどでございますな」

 

 アルフォンスはゆっくりと顔を上げた。

 その目がエリックの手元に落ちた。

 赤い毛糸の手袋。春の朝にはもう暑いのに、エリックはそれをはめていた。

 それから、エルヴィンの頭の白い毛糸の帽子。

 ほんの一瞬、老執事の目元が柔らかく緩んだ。

 

「……よくお似合いでございます。お二人とも」

 

 アルフォンスは馬車の扉を開けた。

 中には柔らかい敷物と、いくつもの毛布が用意されていた。

 

「乳飲み子がおられますゆえ、道中は急ぎませぬ。日に少しずつ進み、宿では十分に休みを取ります。五日の道のりを、七日ほどかけて参りましょう」

「七日かけて行って、七日いて、七日かけて帰るんですか」

「左様でございます」

「なら、エルヴィンは、道の上で一番大きくなりますね」

 

 アルフォンスは口元を緩めた。

 

「若様も、道中、弟君の様子をよく見ていて差し上げてください」

「はい。見ます。夜も見ます」

「夜は、乳母殿にお任せくださいませ」

「……起こされると、機嫌が悪くなるので、そうします」

 

 エリックはエルマを振り返った。

 エルマはエルヴィンの手を、アルフォンスの連れてきた若い乳母の手に移した。それから、目を赤くして、それでも笑っていた。

 

「行ってらっしゃいませ、エリック様。エルヴィン様」

「行ってきます」

「あう!」

 

 エルヴィンが、乳母に抱き上げられて、手をばたばたさせた。

 馬車に乗り込む前に、エリックは一度だけ屋敷の二階を見上げた。

 書斎の窓に人影があった。

 伯父だった。

 伯父は何も言わず、ただこちらを見下ろしていた。そしてエリックと目が合うと、すっと窓辺から姿を消した。

 

 それから、もうひとつ窓があった。

 二階のユリウスの部屋の窓だった。

 窓の端から顔が半分だけ覗いていた。エリックが見上げると、その顔は慌てて引っ込んだ。

 エリックは首を傾げた。

 手首に、まだ包帯が巻いてあるのが見えた。

 帰ったらもう一度謝ろうと思った。手首のことだけ。

 

 馬車の扉が閉まる。

 車輪が乾いた石畳を噛んで動き出す。

 向かいの席で、乳母の腕に抱かれたエルヴィンが、兄の方に手を伸ばしていた。

 エリックは手袋を外して、人差し指を差し出した。

 エルヴィンが、それを、ぎゅっと握った。

 

 まだ見ぬ家族のいる町へ。

 




「凪の水帝」を読んでいただき、ありがとうございます。
第一部の3話以降は毎日0時に投稿する予定です。
第二部以降は決まり次第あとがき、もしくは活動報告で告知予定です。
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