第16話 灰色の荒れ地
一
雨の匂いがした。
エリックは目を開けた。
灰色の空が見えた。
低く垂れ込めた雲。そこから冷たい雨粒がぽつり、ぽつりと落ちてきて頬を打った。
仰向けに倒れていた。
背中の下はぬかるんだ土だった。麦畑の柔らかい土ではなかった。石混じりの、硬く、痩せた土だった。
身体を起こす。
全身が軋むように痛んだ。
周りを見回す。
麦畑はなかった。
金色の丘もなかった。
ロアの城壁もなかった。
見渡す限り灰色だった。草のまばらな荒れ地。遠くに低い石垣。崩れかけた家の残骸。黒く焼け焦げた木の柱。
馬はいなかった。
グスタフも。レオンも。
誰も、いなかった。
「……グスタフ」
声を出した。掠れていた。
「レオン」
返事はなかった。
雨の音だけが灰色の荒れ地に響いていた。
エリックは自分の手を見下ろした。
右手に紐が握られていた。
細い紐。その先に手紙の束が結ばれていた。雨に濡れて端がわずかに滲んでいた。けれど全部そこにあった。
麦の穂はなかった。
荷物も、馬も、騎士もなかった。
腰には剣が二本あった。伯父から贈られた飾りのない剣と、道場で渡された古い剣。懐には身分証と、ボレアス家の印章と、イゾルテの銀の護符と、エルヴィンの手紙が入っていた。
それだけだった。
エリックは手紙の束を懐にしまった。
立ち上がる。
風が吹いた。
冷たい風だった。
アスラの風とは違う匂いがした。
乾いた土と、錆と、名前の分からない何かの匂い。
遠くで何かが燃える匂い。
そしてもっと遠くで誰かが叫ぶ声が、風に乗ってかすかに聞こえた気がした。
エリックは灰色の空を見上げた。
ロアは。
母は。
分からなかった。
何も分からなかった。
ただ雨が降っていた。
雨は三日降り続いた。
最初の一日、エリックは歩かなかった。太陽は厚い雲に隠れて北も南も分からなかった。
二日目の朝、エリックは歩き出した。
理由は単純だった。水がなかった。
方角が分からないなら、低い方へ。水は低い方へ流れる。ベルンハルトが遠征の心得として教えてくれたことだった。こんなところで役に立つとは教えた本人も思っていなかっただろう。
半日歩いて濁った小川を見つけた。
膝をついて両手で水をすくう。泥の味がした。それでも飲んだ。
顔を上げると、川向こうに村の跡があった。
村だったものだとすぐに分かった。
石積みの土台がいくつも並んでいる。その上に建っていたはずの木の壁と屋根は、黒く焼け焦げた柱を数本残して消えていた。
井戸があった。覗き込むと底の方でわずかに水が光っていた。
畑だったらしい区画には踏み荒らされた作物が腐って土に還りかけていた。
人はいなかった。
いや。
いた。
村の外れの石垣の陰に、三つ。
エリックはそこから目を逸らさなかった。
斬られる瞬間まで目を開けておけ。十歳の冬にそう教わった。今、目の前にあるのは剣ではない。それでも目を閉じる理由にはならないと思った。
大人が二人と子供が一人。この土地の農夫の服だった。
新しくはなかった。雨に打たれて土に半分沈みかけていた。
エリックは村の中で折れた鍬の柄を一本見つけて土を掘った。
浅い穴しか掘れなかった。石が多すぎた。
三人を埋めてその上に石を積んだ。
祈りの言葉をひとつも知らなかった。イゾルテが唱えるミリス教の祈りは道場で何度も聞いていたのに、一節も覚えていない。聞き流していたのだとここで初めて分かった。
帰ったら教わろう。
そう決めて石の山に頭を下げた。
二
三日目に初めて人に会った。
焼けた村から半日ほど歩いた先の街道らしき道の脇だった。
荷車が一台、車輪を壊して傾いていた。その脇に老人が一人座り込んでいた。
老人はエリックを見ると身構えた。腰の二本の剣を見て、それから泥まみれの上等な服を見て眉をひそめた。
「……兵隊か」
「違います」
老人の目が腰の剣からエリックの手に落ちた。
「だろうな。この辺の兵隊は畑から引っ張られた連中だ。そんな柔い手をしとる奴はおらん」
「剣だこは、あります」
エリックは掌を開いて見せた。
老人はそれを見てしゃがれた声で笑った。それから咳き込んだ。
「……そういうことを言っとるんじゃない」
エリックは荷車の脇に膝をついた。
「どこか、怪我を」
「怪我はない。足が動かんだけだ。もう歳でな」
老人は壊れた車輪を顎で示した。
「これももう直らん。畑も焼かれた。倅は去年の徴兵で取られたきりだ」
「……戻ってくる見込みは」
「さあな」
老人は肩をすくめた。
「訊いたのはお前さんが初めてだ。この辺の連中は訊かん。答えが分かっとるからな」
エリックはそれ以上は訊かなかった。
「お前さん、どこから来た」
「分かりません。気がついたらあの荒れ地にいました。その前はロアの手前の宿場町にいました」
「ロア」
老人はしばらく口の中でその言葉を転がした。
「聞かん名だな。どこの国だ」
「アスラ王国のフィットア領です」
老人の眉が跳ね上がった。
「アスラ!?」
老人はエリックの顔をまじまじと見た。それからまた咳き込みながら笑い出した。
「アスラだと。北西の、あの豊かな国か。赤竜の山の向こうだぞ。そこからまだ馬で何十日だ」
赤竜山脈。アスラ王国と中央大陸の他の地域を隔てる、あの山脈。
その向こう側。
エリックは頭の中で地図を広げた。王都の書斎で弟が指でなぞっていた地図を。
赤竜山脈の向こうにあるのは、紛争地帯と呼ばれる小国の群れだった。
「……ここは紛争地帯ですか」
老人の目がわずかに細くなった。
「分かっとるなら、訊くな」
「確かめたかったので」
「今はマルキエンの領地と言われとる。去年まではディクトの領地だった。その前はブローズだ。三月ごとに旗が変わる。旗が変わるたびに、畑が焼かれる」
老人は遠くを見た。
「小国が飽きもせず殺し合っとる土地だ」
エリックは老人に水を汲んできた。
井戸のある村まで戻って、拾った革袋に詰めてまた半日かけて戻ってきた。
老人は驚いた顔をした。
「戻ってきたのか」
「水を持っていないようだったので」
「馬鹿だな」
どこかで聞いた言葉だった。十一の秋、木剣一本で賊を追った時に水神の老婆に言われた。
エリックは荷車の陰で老人と並んで座った。
「南に行け」
水を飲みながら老人は言った。
「この道を南だ。三日も歩けばマルキエンの町がある。傭兵の国だ。剣の使える奴なら誰でも雇う。素性も訊かん」
「……傭兵」
「食い物と寝床がなきゃ、アスラどころか明日まで生きられん。その剣、飾りじゃないんだろう」
「飾りでは、ありません」
「二本もいるのか」
「一本は伯父からもらいました。もう一本は道場で渡されました」
「どっちが大事だ」
エリックは少し考えた。
「……両方です」
「欲張りだな」
「よく言われます」
老人はふんと鼻を鳴らした。
エリックは懐に手を入れた。
身分証とボレアス家の印章。それを取り出して老人に見せた。
「これがあれば、どこかの領主のもとで事情を説明して」
老人は印章をちらりと見て鼻で笑った。
「読めんな」
「……字が、ですか」
「字が読めん。この辺の連中はみんなそうだ」
老人は水をもう一口飲んだ。
「仮に読めたとしてもだ。アスラの紋章なんぞ、ここじゃ紙より安い。むしろ危ない」
「間諜だと思われる、ということですか」
老人は目を瞬いた。
「……話が早いな。身元の知れん余所者はみんなまず間諜を疑われる。……ここじゃな、名乗るもんじゃない。喋るもんじゃない。誰だと訊かれたら、剣を見せておけ」
「はい」
エリックは印章を懐に戻した。
三
その夜雨が上がった。
エリックは荷車の陰で火を焚いた。老人が持っていた干し肉を分けてもらい、代わりに自分の上着の裏地を裂いて老人の膝に掛けた。
「……坊主」
「エリックです」
「名乗るなと言ったろうが」
「あなたには、言います」
老人は呆れたように鼻を鳴らした。それからぽつりと言った。
「ヨナスだ」
「はい」
「明日、南へ行け。わしはここで次の荷車を待つ。通りかかれば誰か乗せてくれるだろう」
「一緒に行きます」
「足が動かんと言ったろう」
「背負います」
「三日だぞ」
「三日なら、背負えます」
ヨナスはしばらく黙っていた。
それからまた笑った。
「馬鹿だな、お前さん」
夜明け前に目が覚めた。
九歳の冬から、光に呑まれた日のほかは一日も欠かしたことのない習慣だった。
エリックは火の脇に置いた剣を取って立ち上がった。
道場で渡された古い方の剣。柄巻きは自分で三度巻き直してある。
空はまだ薄い青だった。
構える。
ギレーヌの構えで。
振り上げる。
振り下ろす。
音がいつもと違った。王都の中庭には壁があった。音が跳ね返って耳に戻ってきた。ここには何もない。振り下ろした音はそのまま荒れ地に吸い込まれて、消えた。
もう一回。
振り上げる。振り下ろす。
――ロアで来年の分をやる。素振りも手合わせも、エリスと一緒に。
もう一回。
ロアがどこにあるのかも分からない。
それでも振った。
三十回ほど振ったところで、背後から声がした。
「……不思議なもんだな」
ヨナスが起きていた。
「何がですか」
「こんな土地でそんなきれいなものを振る奴がおる」
エリックは手を止めた。
「きれい、ですか」
「わしは剣なんぞ知らん。じいさんの見立てだ」
ヨナスは火の残りに手をかざした。
「誰かに習ったんだろう」
「はい。九つの時にきれいだと思った人の振り方です」
「……そのまま言うのか、そういうことを」
「本当のことなので」
ヨナスはなぜか困ったような顔をした。
「いい師匠だな」
「師匠ではないそうです。本人がそう言います」
「なんだそりゃ」
エリックはまた剣を構えた。
その日の素振りはいつもより長くなった。
四
それが来たのは、朝日が昇りきった頃だった。
街道の北から、三人。
馬はなく徒歩だった。革の胴当てをつけ、それぞれ剣と斧を持っている。兵にしては装備がばらばらだった。
ヨナスの顔から血の気が引いた。
「……逃げろ」
「あなたは」
「足が動かんと言ったろうが! いいから逃げろ、若いの!」
エリックは立ち上がった。
荷車の前に出る。
三人が足を止めた。
「おい。荷車だ」
「中は空だぞ」
「じいさんとガキか」
先頭の男がエリックの腰を見て笑った。
「上等な剣が二本もあるじゃねえか。寄越せ。あとは持ってる物を全部だ。そうすりゃ命は取らん」
エリックは三人を順に見た。
先頭の男は剣を握る手に力が入りすぎている。右の男の斧は刃が欠けている。左の男は仲間の半歩後ろにいて、目が街道の先を気にしている。
一人はたぶん逃げる。
二人は来る。
王都なら、名乗ればよかった。ボレアスの名を、祖父の名を出せば、たいていのことは片がついた。
――アスラの紋章なんぞ、ここじゃ紙より安い。
――誰だと訊かれたら、剣を見せておけ。
エリックは道場の剣を抜いた。
伯父の剣は鞘に残したまま。
三人の顔から笑いが消えた。
「……おい。ガキが抜いたぞ」
「やる気か?」
「やめとけ、坊主。痛い目見るぞ」
エリックは構えた。
身体をわずかに斜めに。剣を胸の前で寝かせるように。
水神流の構え。
――だから、次は守れるようになれ。
十一の年、雨の軒下でギレーヌはそう言った。
守れなかったことがあった。弟の右手は元に戻らなかった。
あの時、次は両方守ると決めた。
今、背中にいるのは一人だ。
「下がっていてください」
エリックは振り返らずに言った。
「すぐに、済ませます」
自分の声とは思えないほど低かった。
先頭の男が斬りかかってきた。
五
剣神流の踏み込みではなかった。ただの荒っぽい振り下ろしだった。
速さは街道の狼と変わらない。いや、狼の方が速かった。
エリックは半歩踏み込んだ。
いや、踏み込むふりをした。
男の剣の軌道がわずかに変わった。エリックの踏み込みに合わせて当てる位置を変えようとした。
その変わりかけた軌道を受けた。
流す。
男の身体が自分の勢いのまま前につんのめる。
その首筋が目の前にあった。
返す。
手応えが、あった。
狼を斬った時とはまるで違った。
重くて、柔らかくて、途中で何かに引っかかるような手応えだった。
男が倒れた。
二人目が斧を振りかぶって突っ込んできた。
受ける。流す。返す。
三人目は思った通り逃げた。背を向けて街道を北へ走っていく。
エリックは追わなかった。
剣を持ったまま立っていた。
血を流して倒れた男を見ていた。
朝日が荒れ地を照らしていた。
風が吹いて草が鳴った。
それから静かになった。
剣を鞘に収めようとした。
入らなかった。
手が震えていた。
何度やっても、切っ先が鞘の口に入らない。かちかちと金属のぶつかる音が鳴るだけだった。
エリックは剣を取り落とした。
膝が勝手に折れた。
草の上に四つん這いになる。
胃の中のものが全部出た。
昨夜の干し肉も、濁った水も、全部。
何も出なくなっても、身体が勝手に痙攣した。
手を見た。
赤かった。
この手で、握った。踏み込んだ。受けた。流した。返した。
九つの冬から毎朝振ってきた。何万回も。
理屈では分かっていた。剣は人を斬るための道具だ。道場でも、中庭でも、それを知らずに振ったことは一度もない。
知っていることと、手の中にあることは違った。
エリックはまた吐いた。
「……若いの」
背後で声がした。
ヨナスが荷車の陰から這い出てきていた。動かない足を引きずって。
エリックの背中に皺だらけの手が置かれた。
「初めてか」
「……はい」
「そうか」
ヨナスはそれ以上何も訊かなかった。
ただ背中をさすり続けた。
どれくらいそうしていたのか分からない。
やがてエリックは顔を上げた。
街道の遠くに、逃げた男の背中が小さくなって消えていくところだった。
「追った方がよかったですか」
「いや」
ヨナスは首を振った。
「仲間を連れて戻ってくるかもしれん。だが、背中を追って斬るのは別の話だ」
ヨナスはエリックの顔を見た。
「お前さんは今、守った。そこまでだ。それ以上は殺しになる」
「……はい」
エリックは落とした剣を拾った。
今度は鞘に入った。
手はまだ震えていた。
「ヨナスさん」
「なんだ」
「背中、ありがとうございました」
ヨナスは目を瞬いた。
それからそっぽを向いた。
「……礼を言われるようなことはしとらん」
六
二人を埋めるのに半日かかった。
「そこまでせんでもいい」
ヨナスはそう言った。
「この辺じゃ野盗の死骸なんぞ放っておくもんだ」
「はい」
それでもエリックは掘った。
石混じりの土を、折れた鍬の柄で。爪の間に土が入り込み、指先が切れて血が出ても掘り続けた。
一昨日、村の外れで三人を埋めた時と同じ深さの穴を掘った。
二人を埋めて上に石を積んだ。
祈りの言葉はやはり知らなかった。
頭を下げた。
「……お前さん」
ヨナスがぽつりと言った。
「ここじゃ長生きせんぞ。そういう奴は」
「分かっています」
「分かっとってやるのか」
「埋めないと、たぶん僕は明日から剣を振れなくなります」
エリックは土のついた手を見下ろした。
「剣が振れないとここでは生きられません。だから埋めます。理屈は合っていると思います」
ヨナスはしばらく黙っていた。
それから皺だらけの顔をくしゃりと歪めた。
「……そういうのを理屈とは言わん」
翌朝二人は南へ向かって歩き出した。
エリックはヨナスを背負っていた。老人は驚くほど軽かった。
「重いだろう」
「軽いです」
「……変わった坊主だ」
街道はどこまでも灰色だった。
痩せた草。石混じりの土。遠くに見える焼けた村の跡。
アスラの金色の麦畑はどこにもなかった。
弟への土産の麦の穂も光の中で失くした。
――それまで覚えといて。どんな色だったか。
なら言葉で話すしかない。
金色の波が丘を越えていった、あの景色を。一つずつ拾い集めた言葉で。
そのためには帰らなければならなかった。
空も灰色だった。
北西がどちらなのかも分からない。
それでもエリックは歩いた。
背中に老人を負って、腰に二本の剣を差して。
懐にはここでは何の役にも立たない身分証と、家の印章と、イゾルテの銀の護符と、弟の手紙と、紐で縛った手紙の束が入っていた。
五年分の、母に渡すはずだった手紙。
三日歩けば、傭兵団の町があるという。
そこで剣が金になるという。
――その剣、飾りじゃないんだろう。
エリックは歩き続けた。
その日の夜明けも、素振りだけは休まなかった。