一
傭兵団の朝は火の匂いで始まる。
炊事場の大鍋から立ち上る煙。昨夜の焚き火の燃え残り。そしてどこかで革を焼いて継いでいる匂い。
エリックが水を汲みに行くと、井戸の脇で兵が二人、死んだ男の靴を脱がせていた。
「その人は」
「昨日、南の小競り合いでな」
兵は顔も上げずに答えた。
「第五部隊の奴だ。靴だけは無事だった。こいつはもう困らん。困るのは裸足で戦場に出る奴の方だ」
もう一人の兵が剥いだ胴当ての革紐を確かめながら、鼻を鳴らした。
「新入り。お前の剣も死んだら誰かが持っていくぞ。二本もあるなら取り合いだな」
「一本は伯父のものです。持っていかれると困ります」
「なら死ぬな」
エリックは水桶を持ってその場を離れた。
振り返ると二人はもう死んだ男を筵で巻き始めていた。手際が良すぎて日常の作業にしか見えなかった。
水を汲んで戻ると、第三部隊の焚き火で兵たちが何か話していた。
近づくと声が止んだ。
エリックは気づかないふりをして天幕の隅に座った。
しばらくすると話が再開した。声を潜めてはいたが、この距離では聞こえた。
「……だから聖級ってのはすげえんだろ。隊長を三合だぞ」
「稽古場でだろ」
低い声だった。
焚き火の向こうで痩せた男が膝を抱えていた。昨夜、椀も持たずにこちらを見ていた男だった。右の耳の上半分が欠けている。
「稽古場で強い奴が戦場で使えるとは限らねえ。型の見事な奴が初陣で腰抜かして、囲まれて死ぬのを何人も見た」
「ザルク、お前は誰でもそう言うじゃねえか」
「誰でもそうだからだ」
ザルクと呼ばれた男は歯を見せた。
「あの細い剣で鎧の男が斬れるのか。人を斬ったことがあるのか、あのガキは」
「野盗を二人斬ったって聞いたぞ」
「野盗二人か」
ザルクは鼻で笑った。
「それで戦場に出せるかよ」
「おい」
地面を揺らすような声が割って入った。
ガストだった。
「あいつは強えよ」
「お前、流されただけだろ」
「流されただけだ」
ガストは胸を張った。
「だが、俺の斧を流した奴は後にも先にもあいつだけだ」
「稽古場でな」
「うるせえ、野良犬」
「なんだと、でくの坊」
兵たちがげらげらと笑った。
エリックは天幕の隅でその笑い声を聞いていた。
腹は立たなかった。
ザルクの言うことは筋が通っていた。自分が戦場で何の役に立つのか、エリック自身が分かっていなかった。
二
夜明け前にエリックは天幕を抜け出した。
陣の外れの誰もいない空き地へ。歩哨の目の届く範囲で、誰の邪魔にもならない場所をこの三日で見つけてあった。
空はまだ薄い青だった。
道場の剣を抜く。
構える。
振り上げる。
振り下ろす。
音が荒れ地に吸い込まれて消える。
三十回。五十回。
八十回を超えたあたりで、背後の草が鳴った。
エリックは剣を振り上げたまま動きを止めた。
風ではなかった。
何かがそこにいた。
足音の重さと間の取り方で、誰なのかは分かった。
分かったから、振り返る前に剣を下ろした。
背後で息を呑む音がした。
それから。
「エリック!」
肩を掴まれた。
強い力だった。そのまま乱暴に向き直らされる。
「エリック。お前、エリックだな」
目の前に、顔があった。
褐色の肌。白い眼帯。獣の耳。
「……ギレーヌ」
ギレーヌだった。
痩せていた。頬がこけて、腕の筋が浮き出ていた。着ているのは傭兵団の支給品らしい継ぎ接ぎだらけの革の胴当てで、腕にも首筋にも見覚えのない傷跡があった。
そして背中に荷を負っていた。
布を巻いた干し肉。水袋。丸めた毛布。旅に出る者の荷だった。
エリックは剣を鞘に戻そうとした。
切っ先が鞘口に当たって、滑った。もう一度当てて、また滑った。目をつぶっていても外したことのない鞘口だった。
ようやく収めた手でギレーヌの袖を掴んだ。
「……はい。エリックです」
「無事か」
ギレーヌはエリックの肩を掴んだまま身体を前後に揺さぶった。
「どこか斬られてないか。腕は。足は。腹は」
ギレーヌはエリックの腕を掴み、袖をめくり上げた。それから肩、首、脇腹。馬の傷でも検めるように、上から下まで確かめていく。
「痩せたな」
「ギレーヌもです」
「あたしはいい」
ギレーヌはエリックの両肩をもう一度掴んだ。
そしてそのまましばらく動かなかった。
掴む手に力がこもっていた。
ギレーヌの尻尾が背後で大きく左右に振れていた。
本人は気づいていないようだった。
「ギレーヌ。肩が痛いです。それと尻尾がすごく振れています」
「……ああ」
ギレーヌはぱっと手を離した。尻尾がぴたりと止まった。
それから自分の袖に目を落とした。
「……お前も離せ」
「……」
ギレーヌの目が揺れた。
何か言いかけて、やめた。袖を引き抜こうとはしなかった。
気まずそうに顔を背けて、それからエリックの腰の剣を見下ろした。
「……まだやっていたのか」
その声はかすかに掠れていた。
「はい」
「毎朝か」
「毎朝です」
「あの日から一日も休まずにか」
「一日だけ、休みました」
エリックは正直に答えた。
「光に呑まれた日です。気がついたら荒れ地にいて、その日は振れませんでした。次の日からは振っています」
ギレーヌは何も言わなかった。
ただエリックの剣の柄に一度だけ目をやって、それから小さく息を吐いた。
「……そうか」
それだけだった。
エリックは袖を離して草の上に座った。ギレーヌも隣に座った。
並んで夜明け前の空を見ていた。
「エリスお嬢様は」
ギレーヌが訊いた。
「見てないか。赤い髪の十二の娘だ」
「見ていません。ギレーヌと一緒では」
「光に呑まれた時、近くにいた」
ギレーヌは膝の上で拳を握った。
「手を伸ばした。届かなかった。ルーデウスも隣にいた」
「生きているかどうかは」
「分からん」
ギレーヌの獣の耳が力なく倒れた。
「あたしはあいつの護衛だった。八年そばを離れたことがなかった」
エリックは少し考えた。
それから自分の分かっていることを順に話した。
ロアの手前の宿場町にいたこと。あと半日だったこと。護衛の騎士が二人いて、一人はレオンで、ここにいること。グスタフは行方が分からないこと。両親には会えなかったこと。
ギレーヌは黙って聞いていた。
聞き終えると、膝の上の拳をほどいた。
「フィリップ様とヒルダ様は屋敷にいた。あの時、屋敷にいた者がどこへ飛ばされたかは誰にも分からん。どこかで生きてるかもしれん」
慰めには聞こえなかった。事実を並べただけのように聞こえた。
それがこの人の慰め方なのだと、エリックは知っていた。
三
空が白み始めていた。
「……あたしは森にいた」
ギレーヌが唐突に言った。
「エジンの森だ。気がついたら木の下にいた。お嬢様もルーデウスもいなかった。代わりに魔物がいた」
ギレーヌは自分の掌を見下ろした。
「斬った。何日斬ったかは覚えてない。そのうち言葉が頭から落ちた。お嬢様の名前も自分の名前もだ」
淡々とした声だった。
「獣に戻りかけてた」
エリックは息を止めた。
「そこに人が来た。魔物に囲まれて死にかけてた。十人くらいだ。あたしは魔物を斬った。人だとも思わずに動くものを斬っただけだ」
ギレーヌは立ち上がった。
「斬り終わって男たちの方を見た。一人だけ逃げなかった。その男が剣を鞘に収めた。血だらけのあたしの前で武器を捨てたんだ」
ギレーヌはエリックの前で礼を取った。
右足を半歩引く。左手を胸に。腰を折る。深すぎず、浅すぎず。
剣神流の門下がより高位の剣士に敬意を示す礼だった。
「そして名前を呼んだ。剣王、ギレーヌ・デドルディア、と」
ギレーヌは身体を起こした。
「それで言葉が戻ってきた。気がついたら同じ礼を返してた」
風が草を鳴らした。
エリックはその姿を見ていた。
五年前の月明かりの裏庭を思い出していた。
「その角度は僕が教えたものです」
エリックは言った。
ギレーヌの耳がぴくりと動いた。
「五年前、伯父上の晩餐の前の晩に、裏庭で。首の後ろががら空きにならない角度です。覚えていてくれて、役に立ってよかったです」
ギレーヌはしばらく黙っていた。
耳がゆっくりと後ろへ倒れていった。
「……そういうことを、今、言うな」
「今しか言う機会がなかったので」
「言わなくていい」
エリックは首を傾げた。
事実を言っただけだった。
ギレーヌの尻尾が草の上でばしばしと二度鳴った。
四
空が金色に変わり始めていた。
「南へ行く」
ギレーヌが言った。
エリックはその背中の荷を見た。
夜明け前に荷を負って陣を出るところだったのだ。この空き地を通りかかったのは、たまたまだった。
「今日、発つつもりだったんですか」
「陣に来てからずっと言い続けた。補給が要る、道が塞がってる、案内が要る。ビゴも団長も毎日何か理由をつけて止めてくる」
ギレーヌは荷を背負い直した。
「もう待たん。エリスお嬢様を探す。アスラに戻れば何か分かるかもしれん。アスラへ戻るなら、南だ」
「逆です」
エリックは言った。
ギレーヌの足が止まった。
「……何?」
「アスラは北西です。赤竜の山の向こうです」
ギレーヌが振り返った。
エリックは東の空を指した。日が昇る方角を。それから振り返って北西の地平を指した。
「ここに来る途中で足の悪い老人に教わりました。王都で弟と見ていた地図とも合っています」
「越えられん」
ギレーヌは短く言った。
「あの山は赤竜の巣だ。上を通れば食われる。人の通れる道は山の南の端に一本しかない。赤竜の下顎という谷だ」
ギレーヌは顎で南の地平を指した。
「アスラへ戻るなら、そこを抜けるしかない。だから南だ」
エリックは自分の指の先を見た。
王都の屋敷でエルヴィンと地図を広げた。赤竜の山は茶色の線が一本引いてあるだけだった。その線の上に何が棲んでいて、人がどこを通るのか。地図には描いていなかった。
エリックは指を下ろした。
「……知りませんでした。詳しいんですね」
「昔、冒険者だった頃に一度通った」
ギレーヌは南の地平から目を離さなかった。
「地図は読めん。道は覚えてる。……遠回りだ。だから今日発つ」
ギレーヌは荷の紐を握り直した。
「エリスお嬢様は十二だ。ルーデウスと一緒にいるならまだいい。ルーデウスは頭が回る。だが、あたしみたいに一人で飛ばされてるかもしれん」
ギレーヌの拳が握られた。
「あたしはあの森で何日も彷徨った。剣があって、この身体があって、それでも獣になりかけた。お嬢様にそれは無理だ」
その声は静かだった。静かすぎて焦りがはっきり伝わってきた。
「一日遅れれば一日分、死ぬ可能性が増える」
「南には敵がいます」
エリックは立ち上がった。
「ブローズ帝国とディクト王国です。両方が森の南の盆地に軍を集めています。昨夜、陣でそう聞きました」
「それがどうした。目の前に出てきたものを斬るだけだ」
止められないと思った。
この人は本気で、軍の真ん中を一人で歩いて抜けるつもりでいる。そしてたぶん、ある程度までは本当にやってのける。
ある程度までは。
「僕も行きます」
「お前は残れ」
「嫌です」
「足手まといだ」
「足手まといでも、行きます」
ギレーヌの目が鋭くなった。
「お前は水聖だが、戦場を知らん。軍の中を突っ切るのがどういうことか分かってない」
「分かりません」
エリックは正直に答えた。
「僕も両親とエリスを探さないといけません。それに何千の中を二人で突っ切るなら、たぶんどちらかは死にます」
エリックはギレーヌの顔を見上げた。
「ギレーヌが死んだら、誰がエリスを見つけるんですか」
ギレーヌの動きが止まった。
「……じゃあ、どうしろと言うんだ」
「二日ください」
エリックは頭の中で組み立て始めていた。
「盆地を開けるのは傭兵団の戦です。傭兵団は森を抜けて敵の横腹を突こうとしています。剣王の手は喉から手が出るほど欲しいはずです」
ギレーヌの獣の耳がぴくりと動いた。
「二日で傭兵団を動かします。一緒に盆地を開けて、開いたところを南へ抜けます。その方が二人とも生きて着けます」
「金は」
「それも交渉します」
ギレーヌは長いことエリックの顔を見ていた。
それから大きく息を吐いた。
「……二日だ。二日で動かなければ、あたしは行く。一人でもだ」
「はい」
ギレーヌは剣の柄に手を置いた。
「……お前、フィリップ様に似てきたな」
「褒めていますか」
「知らん」
ギレーヌは陣の方へ歩き出した。
エリックはその隣に並んだ。
しばらく歩いてからエリックは訊いた。
「ギレーヌ」
「ん」
「道が二つに分かれている時は自分に決めさせろと言われていた、と前に聞きました」
「そうだ。パーティを組んでた頃だ。右か左か、どっちだと訊かれたら答えるだけだ。理由は考えん。考えると外れる」
「今でも当たりますか」
「当たる」
「方角は二択ではないんですか」
ギレーヌは黙った。
「……四つある」
「はい」
「四つは多い」
エリックは少し考えた。
「では地図は僕が読みます。道はギレーヌが決めてください」
ギレーヌがちらりとこちらを見た。
それから口の端をわずかに持ち上げた。
「……二人でちょうどいいな」
朝日が二人の影を灰色の荒れ地に長く伸ばしていた。
五
第三部隊の天幕に戻ると、朝の点呼が始まるところだった。
エリックの後ろからギレーヌが入ってきた瞬間、兵たちが一斉に固まった。
「……め」
「女神様だ」
「お、おい、拝め、拝め」
数人がその場に膝をついて手を合わせ始めた。
ギレーヌの獣の耳がじりじりと後ろに倒れていった。
膝をつかなかった者が一人だけいた。
天幕の柱にもたれたザルクだった。腕を組んで、歯を見せて、ギレーヌを見ていた。
ギレーヌの目がそちらを向いた。
「……お前は拝まんのか」
「拝まねえ」
ザルクは言った。
「いつか、殴る」
天幕の中が凍りついた。
ギレーヌはしばらくザルクを見ていた。
それから倒れていた耳がすっと立った。
「いつでも来い」
「おう」
ザルクはまた歯を見せた。
拝まれている時より、ギレーヌの尻尾の機嫌がいい。エリックはそれを見て少し分かった気がした。
「剣王殿!」
レオンが駆け寄ってきた。
「ご無事だったんですね! え、じゃあ森の女神様って……」
レオンは膝をついている兵たちとギレーヌの顔を何度も見比べた。
「剣王殿のことだったんですか!? 若様、知ってたんですか!」
「今朝、会いました」
「よかったですね若様。剣王殿、毎年王都に行ってましたもんね。若様の素振りを見に」
「弟子じゃない」
ギレーヌがすかさず言った。
「素振りを見てるだけだ」
「それ、ロアでもずっと言ってましたよね」
ギレーヌは明後日の方を向いた。
「みんな女神様って呼んでますけど、俺もそう呼んだ方が――」
「やめろ。ギレーヌでいい」
「は、はい!」
「おい、水聖」
天幕の入り口から、地面を揺らすような足音が近づいてきた。
ガストだった。初日の手合わせで首に木剣を当てられてから、この男は毎朝現れる。肩に革の覆いをかけた戦斧を担いでいた。
「今日も一回だ。俺はあんな流され方をする男じゃ――」
ガストの声が途中で止まった。
エリックの隣に立っている人物に気づいたからだ。
巨体がそのまま固まった。
それからゆっくりと地面に膝をついた。
「……め、女神様」
「やめろ」
「命を、お救いいただき」
「あたしはお前の命を救った覚えはない」
「エジンの森でうちの隊長を」
「……それは隊長にやったことだ」
「隊長は俺たちの命です」
ガストは頭を垂れたまま震える声で言った。
ギレーヌの耳がぺたりと完全に倒れた。
助けを求めるようにエリックの方を見た。
エリックは少し考えてから言った。
「ガスト。この人は手合わせをしてくれます」
ガストが顔を上げた。
「……は?」
「剣の相手ならしてくれます。神ではなく剣士なので」
ギレーヌの尻尾がぴくりと動いた。
ガストはしばらくぽかんとしていた。
それから恐る恐る立ち上がった。
「……女神様。俺と、手合わせを」
「……剣なら、やる」
ガストの顔がぱっと輝いた。三十を過ぎた大男が子供のような顔をした。
「ありがてえ! 一生の自慢だ!」
「ただし」
ギレーヌはガストの肩の戦斧をじろりと見た。
「その斧、柄ごと折るぞ」
「え」
「折られたくなければ木剣を持ってこい」
ガストは自分の斧とギレーヌの顔を何度も見比べた。
それから斧を抱えたまま、猛然と武具庫の方へ走っていった。
天幕の中に笑いが起きた。
ザルクだけが笑わずにその背中を見ていた。
「……でくの坊が」
「そこまでだ」
太い声が天幕の入り口から飛んできた。
ビゴだった。
兵たちが慌てて整列する。
ビゴはギレーヌに向かって短く頭を下げた。
「剣王殿」
エリックとレオンを除けば、この陣であの人を女神と呼ばない者は、ビゴとザルクだけなのだと気づいた。
「言っておくが、拝むな」
ビゴは兵たちを見回した。
「剣王殿は神ではない。剣士だ。神は飯を食わんが、剣王殿は食う。俺の倍食う」
ギレーヌの尻尾がばしっと地面を叩いた。
兵たちがどっと笑った。
「それと話がある」
ビゴはエリックとギレーヌの二人を見た。
「先ほど発つと伺った」
「南だ」
「お止めはしません。恩人を縛る気はない」
ビゴはあっさりと言った。
「ですが下顎へ行くにはこの先の盆地を通るしかない。盆地には両国の軍が集まりつつある。真っ直ぐ行けば何千の真ん中だ」
「それがどうした」
「エジンの森を南へ抜けるなら、ご一緒します。うちの部隊は一度あの森を抜けている。そして森を抜けた先は、盆地のブローズの横腹だ」
ビゴは頭を下げた。
「我々にとっては奇襲になる。剣王殿にとっては南へ向かう道すがらだ。それだけのことです」
ギレーヌはしばらくビゴを見ていた。
それからふんと鼻を鳴らした。
「……勝手にしろ」
「感謝する」
ビゴは兵たちの方を向いた。
「今度は部隊全員で森を抜ける。団の本隊が盆地で当たる前に敵の横腹を突く。前に抜けた実績があるのはうちだけだ。そして今度は剣王殿がいる」
兵たちの間にざわめきが走った。
安堵と興奮の混じったざわめきだった。
「それと、ブローズの親衛隊には水聖がいる。クライン・ディノルタス」
ざわめきが止んだ。
「うちの隊長格を三人斬った男だ。剣神流の上級が三人、誰も一合もたなかった」
ビゴはエリックの方を見た。
「水聖殿。あんたにその男を頼みたい」
天幕が静まり返った。
昨日、焚き火の向こうで「稽古場だろ」と言っていた兵たちも、黙ってこちらを見ていた。
期待しているのではなかった。
どうするのか、見ているのだった。
エリックはギレーヌの方を見た。
ギレーヌは何も言わなかった。ただこちらを見返しただけだった。
「やります」
エリックは言った。
「ただし、勝てるかどうかは分かりません」
柱の方でザルクが鼻で笑った。
ビゴは笑わなかった。
「結構」
それだけ言って天幕を出ていった。
その日の夕方、稽古の後でエリックは訊いた。
「ギレーヌ。戦は稽古とはどう違いますか」
ギレーヌは木剣を布で拭きながら、こちらを見もせずに答えた。
「数が多い。味方がいる。地面が悪い。疲れる。腹が減る。誰かが叫んでる。誰かが死んでる」
ギレーヌは木剣を立てかけた。
「次に何が起こるか分からん。一対一にはならん」
エリックは自分の手を見下ろした。
道場でも、中庭でも、いつも目の前には一人しかいなかった。
「僕は役に立ちますか」
「知らん。戦はやってみないと分からん。剣王だろうが何だろうが、初陣で死ぬ奴は死ぬ」
「はい」
「だが」
ギレーヌは歩き出しながら言った。
「六年前、雨の軒下であたしは言ったな。次は守れるようになれ、と」
エリックは顔を上げた。
「……はい」
「なら守れ。それができる奴は戦場に一番足りん」
ギレーヌは振り返らなかった。
「斬る奴は、いくらでもいる」
森を抜ければ、盆地に出る。
盆地を抜けて南へ下れば、赤竜の下顎だ。
谷を越えれば、アスラへ帰れる。
そのためなら、何でもやる。
夕日が陣を赤く染めていた。