一
幹部の天幕に通されたのは、ギレーヌと会った日の昼過ぎだった。
通行証はビゴが出してくれた。理由は訊かれなかった。
天幕の中には三人いた。
団長は白髪交じりの大柄な男だった。剣神流の上級。右目の上に古い縫い跡がある。
その隣に幹部が二人。片方は募兵所の片腕の男だった。
「水聖殿」
団長が口を開いた。
「剣王殿の出立を止めてくださったと聞いた」
「はい。ただギレーヌは二日後に発ちます。それ以上は止まりません。何日も止めておられたそうですね」
「……ああ」
「よく保った方だと思います」
団長がふっと笑った。
「それで。何が望みだ」
「三つあります。一つ。森を抜けたら第三部隊から伝令を出します。伝令が告げた日に本隊を出すと、今、約束してください。横腹を突いても正面に本隊がいなければ、囲まれて終わります」
「……本隊はまだ揃っておらん」
「ギレーヌは揃うのを待ちません。二日後には第三部隊と森へ入ります。本隊が出なければ第三部隊は盆地で囲まれて、あの人だけが南へ抜けていきます」
「脅しか」
「いえ。あの人は、そういう人です」
団長は短く息を吐いた。
「……約束しよう。合図はビゴと詰める。二つ目は」
「アスラまでの旅費を。食料と、馬も。三人分です」
「三人か」
「レオンも連れて帰ります。ロアの騎士なので」
幹部の一人が眉を上げた。
「安くないぞ」
「知っています。金貨五十枚ほどだと計算しました」
「四十枚だ」
片腕の男があっさりと訂正した。
「案内人はうちの縁故で手配できる。馬は渓谷の手前で買った方が安い」
「ありがとうございます。十枚分、計算が甘かったです」
「まだ出すとは言っておらん」
団長は椅子の背にもたれた。
「それで、三つ目は」
「戦が片付いたら僕たちを止めないでください。補給も、道も、案内も、もう理由にはなりません。引き止めるのは今日で最後にしてください」
幹部の二人が同時に団長を見た。
団長はしばらく黙っていた。
それから隣の幹部に目配せをした。
「……出そう。止めもせん」
「団長」
「四十枚だ。安いものだ。どのみちうちは今度の戦で勝たねば滅びる。勝てば四十枚はどうとでもなる。負ければ払う相手も払う金もない」
あっさりしていた。
あっさりしすぎている、と思った。何がとは分からなかった。
団長はエリックの方を見た。
「ただし条件がある。ブローズの水聖はビゴの言った通り、あんたに預ける」
「はい」
「剣王殿にはもっと前に出てもらう」
団長は卓の上の地図を指で叩いた。
「敵の本陣だ。あの人が届く場所はそこしかない。水聖を一人足止めするために、あの人を使うのは惜しい」
エリックは地図を見た。
知らない地名と癖の強い走り書きで埋まっていた。ただ森の位置と、盆地の位置と、山の位置は分かった。山は左上から下へ長く伸びていた。その一番下の端に細い切れ目が描いてあった。
「分かりました」
「勝てるか」
「分かりません」
「二度目だな、その答えは」
団長は笑った。
「よろしい。契約成立だ」
二
武具庫では思いのほか時間がかかった。
藪を裂くための鉈。夜露をしのぐ油布。履き替えの靴。
それから胴当て。第三部隊に回ってきたのは、どれも胸にブローズの紋が焼き付けてあった。先の戦で剥いだものだと武具庫の男は言った。
「若様、これ、いります?」
レオンが分厚い胴鎧を掲げた。
「重いです」
「でも守れますよ」
「重いと受けられません」
エリックは革の胸当てを選んだ。軽くて動きを邪魔しないもの。胸の紋だけはほかと同じだった。
「……若様、それ、薄すぎません?」
「斬られなければいいので」
「言い方が怖いんですよ」
レオンは胴鎧の革紐をいじりながらふと声を落とした。
「……グスタフさん、どこに飛ばされたんでしょうね」
「募兵所に頼んであります。アスラの騎士が来たら知らせてもらえるように」
「もうフィットアに着いていればいいんですけどね」
レオンは自分の胴鎧を抱えていった。
その頃、稽古場では地面が揺れていた。
「ぐおおおっ!」
ガストが木剣を振り回している。斧は稽古場の隅に大事そうに立てかけてあった。
その巨体が宙を舞った。
どすん、と地面が鳴る。
「……まだやるか」
ギレーヌは木剣を肩に担いだまま眉ひとつ動かしていなかった。
「やる!」
ガストはすぐに起き上がった。
「もう一回!」
どすん。
「もう一回!」
どすん。
稽古場の周りには兵たちが人垣を作っていた。
「十二回目だ」
「まだ立つのか、あいつ」
「女神様、全然本気じゃねえぞ」
エリックが人垣の後ろで足を止めると、隣に誰かが立った。
ザルクだった。
「おい、水聖」
「エリックです」
「どっちでもいい」
ザルクは稽古場の空いている側を顎で指した。
「やるぞ」
「手合わせですか」
「他に何がある」
ザルクは立てかけてあった木剣を一本、無造作に掴んだ。構えもしなかった。ただぶら下げていた。
「稽古場の作法は知らねえ。俺のやり方でやる。文句あるか」
「ありません」
エリックは木剣を取った。
人垣の半分がこちらを向いた。
「おい、ザルクがやるぞ」
「水聖とか」
「あいつ、稽古場じゃ誰ともやらねえくせに」
ギレーヌの耳がこちらを向いたのが見えた。ガストを投げる手は止まらなかった。
エリックは構えた。
ザルクは構えなかった。
構えがない相手は初めてだった。どこから来るのか型からは読めない。
だから目を見た。肩を見た。足を見た。
ザルクの足の指が土を掴んだ。
来る。
ザルクが、跳んだ。
速かった。上級の踏み込みではない。獣が飛びかかる時の全身を一度に投げ出す動きだった。
木剣が下から来た。
受ける。
流す。
ザルクの木剣がエリックの木剣の上を滑って手からすっぽ抜けた。
くるくると宙を舞って人垣の足元に落ちた。
一合だった。
「終わりだ」
誰かが言った。
終わらなかった。
ザルクは剣が飛んだ方を見もしなかった。
そのまま間合いの内側へ突っ込んできた。
拳だった。
革紐を巻いた右の拳がエリックの顎へ。
エリックは木剣を引かなかった。
拳の手首に木剣の腹を当てる。受ける。流す。剣の時と同じだった。
ザルクの身体が自分の勢いのまま横へ泳いだ。
泳いだ先にエリックの足があった。
ザルクが地面に転がった。
人垣がどよめいた。
転がった勢いのまま、ザルクの手が地面すれすれを走った。
エリックの足首へ。
掴まれる前にエリックは半歩引いていた。
木剣の切っ先をザルクの喉元に置いた。
触れるか触れないかの距離で。
ザルクの動きが、止まった。
地面に這いつくばったまま喉元の切っ先を見上げていた。
それから歯を見せた。
「……へえ」
「まだありますか」
「歯が残ってる」
「ではここで止めておきます」
エリックは木剣を引いた。
ザルクは起き上がって土を払った。飛んだ木剣は最後まで拾いに行かなかった。
「剣が飛んだら終わりだと思ってんのは、道場の奴だけだ」
エリックはその言葉を聞いた。
「……道場では剣が飛んだら、そこで止めます」
「だろうな」
「覚えておきます」
「覚えとけ」
ザルクは人垣の中へ戻っていった。
振り返りもしなかった。
その背中を見送っていると、人垣の反対側からどすん、と重い音がした。
「十五回目だ!」
ガストが大の字になっていた。
「……つ、つええ」
「当たり前だ」
ギレーヌは木剣を立てかけた。
それからエリックの方を見た。
「あの男」
「ザルクです」
「戦場の剣だ。型はない。だが生き残ってきた奴の動きだ」
「はい」
「お前の拳の流し方、悪くなかった」
エリックは少し考えた。
「剣と同じでした」
「同じだ。流すのは剣でも拳でも変わらん」
ギレーヌはそれだけ言って水を飲みに行った。
地面のガストが首だけ起こして叫んだ。
「女神様! 俺は!」
「あたしは女神じゃない」
「はい!」
「……通じてるのか」
人垣からどっと笑いが起きた。
エリックはその様子を見ていた。
ギレーヌはガストを十五回投げて一度も傷つけていなかった。受け身の取れる角度に投げ、頭から落ちないように手を添えていた。
三
二日目の朝、ビゴがエリックとギレーヌを呼んだ。
天幕の地面に大きな布が敷かれていた。炭で線が引かれている。地図らしかった。
「エジンの森だ」
ビゴは布の上の一点を指した。
「幅は半日で抜けられる。だが真っ直ぐには歩けん。何が出るかは行ってみんと分からん。群れで来るのもいる。一匹で軍を潰せるのもいる。A級の魔物が出る森だ」
「前の時、囲まれたと聞きました」
「十人で何もできなかった。部下を三人、目の前で喰われた」
天幕の中の空気が変わった。
「剣王殿が来なければ全員死んでいた」
ビゴはギレーヌの方を見た。
ギレーヌは何も言わなかった。布の上の線をじっと見ていた。
「今度は十二人だ。うちの七人と、俺と、水聖殿と、剣王殿。それと伝令が二人」
「七人?」
「三人喰われた。一人はまだ歩けん。代わりにレオンが入った」
ビゴは布の上に二本の線を引いた。
「森の中ほどで道が二つに分かれる。東は開けていて歩きやすいが、遠回りだ。西は藪が深いが、抜けた先が近い」
「前はどちらを」
「東だ。そして巣に出くわした」
ビゴは炭を置いた。
「今度はどちらを行くべきか。正直、分からん」
エリックはギレーヌの方を見た。
ギレーヌはまだ布の上を見ていた。
その獣の耳がぴくりとも動いていなかった。
地図を見ているのではない、とエリックは思った。
あの森を思い出している。言葉が頭から落ちて自分の名前も忘れかけた場所を。
「ギレーヌ。二つのうちどちらですか」
ギレーヌの耳が動いた。
それから布の上の線をちらりと見た。
「西だ」
即答だった。
「理由は」
「ない」
ビゴがエリックの方を見た。
エリックは頷いた。
「西でお願いします。この人は分かれ道なら当たります」
ビゴは口の端を片方だけ上げて炭を取った。西の線を太くなぞる。
「よかろう。西で行く」
それから布を丸めながら言った。
「俺は剣王殿に命を助けられた男だ。あの森で俺が最後に信じたのは、地図でも作戦でもない。血だらけで立っていた、あの人だ」
ギレーヌは黙って天幕を出ていった。
エリックは丸められた布を見ていた。
西の道は森を抜けた先で、南の渓谷へ向かう街道に近かった。
方角は分からない人が、分かれ道ではアスラに近い方を選んでいた。
四
出立の前夜、陣は騒がしかった。
あちこちの焚き火で兵たちが酒を飲んでいた。明日には森へ入る。その先には敵の陣がある。帰ってこない者が出るのは、誰もが知っていた。
だから騒ぐのだった。
第三部隊の焚き火では兵たちが装備を整えていた。
一人ずつ左の腕に布を巻いている。色褪せた紺色の布だった。マルキエンの旗と同じ色で、白い糸で三本の線が縫い込まれていた。
「それは」
エリックが訊くと、隣にいた兵が答えた。
「第三部隊の印だ。森や乱戦で味方を見分けるのに巻く。隊長が始めた。安いし誰でも巻ける」
兵は自分の胸のブローズの紋を指で叩いた。
「今度は胸がこれだからな。本隊の奴らに斬られずに済むのは、こいつだけだ」
それから腕の布をぎゅっと締めた。
「部隊の奴はみんな巻いてる」
エリックは自分の左腕を見た。
何も巻いていなかった。
巻いていない理由は訊かなくても分かった。
新入りで、聖級で、隊長格と同じ飯を食っている。部隊の一員というより、雇われた客だった。
それでいいと思った。
今はまだ。
エリックが焚き火を離れて岩の方へ行くと、ギレーヌは肉を食べ終わったところだった。
「足りましたか」
「足りん」
エリックは自分の分の干し肉を差し出した。
ギレーヌはそれを受け取って無言で食べた。
「……お前は」
「少し、食べました」
「嘘だ」
ギレーヌは食べかけの干し肉を半分に割ってエリックに押しつけた。
二人並んで岩に座って食べた。
焚き火の方から兵たちの歌声が聞こえてきた。調子の外れた下品な歌だった。
「……二日で、揃ったな」
ギレーヌがぽつりと言った。
「はい。アスラまでの旅費と、食料と、馬と、渓谷の案内人です」
「全部じゃないか」
「頼んだだけです。出すと決めたのは向こうです」
ギレーヌは干し肉を噛む手を止めた。
それからしばらくエリックの横顔を見ていた。
「あたしは十日かけて、一つも揃わなかった」
ギレーヌはまた干し肉を噛んだ。
「勘だけじゃどうにもならんことがあるな」
「でも道はギレーヌの方が知っていました」
「……その話はもういい」
尻尾が一度だけ揺れた。
エリックは火の方を見た。
胸の奥が妙にむずむずした。
昔から時々こうなる。この人が隣で何かを食べている時。尻尾が揺れる時。理由はいまだに分からなかった。
「明日、森だ」
ギレーヌが立ち上がった。
「前に出るな。お前は後ろで守れ。それがお前の仕事だ」
「はい」
ギレーヌは天幕の方へ歩いていった。
尻尾は揺れていなかった。
森へ戻ることを、この人がどう思っているのか。
訊けば答えるかもしれなかった。けれど答えさせるのは、今夜ではない気がした。
その夜、天幕の中でエリックは懐から手紙の束を取り出した。
ロアへ発つ前の晩に紐で縛ってから一度も開いていなかった。
紙は雨を吸ってよれていた。光の中を抜けて、荒れ地の雨に打たれて、乾いた。それでも字は読めた。
『母上へ』
『お元気ですか。僕は』
『手袋、ありがとうございました。今年も、ちょうどよく』
途中で止まった、五年分の言葉。
書くまでもないと思って止めたものばかりだった。母が知っているはずのことばかりだった。
エリックはその束をもう一度紐で縛った。
明日、森に入る。
その先に盆地がある。
盆地を越えて南へ下れば、赤竜の渓谷がある。
渓谷の向こうにロアがある。
そこに、母がいる。
いるはずだった。
エリックは手紙の束を懐の一番奥にしまった。