凪の水帝   作:アサツラ

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第20話 エジンの森

一

 

 森は遠くから見るとただの黒い帯だった。

 荒れ地の果てに地平線に沿って横たわっている。近づくにつれて、それが木の壁だと分かってくる。幹が太く、背が高く、枝が絡み合って日の光をほとんど通さない。

 十二人は夜明け前に陣を出て昼過ぎに森の縁に着いた。

 ギレーヌのほかは全員、ブローズの紋の入った胴当てを着ていた。

 

「ここからは隊列を崩すな」

 

 ビゴが低い声で言った。

 

「先頭は俺だ。後ろから、ガスト、ザルク、ヨーク、マルコ、ダン、ルカ。伝令の二人は真ん中。レオン、お前は殿だ」

「はい!」

「返事がでかい。森では声も命取りだ」

「……はい」

 

 レオンが慌てて口を押さえた。

 

「剣王殿は前でも後ろでも、好きなところに」

「前だ」

「水聖殿は」

「殿の少し前に」

 

 ビゴが頷いた。

 

「行くぞ」

 

 森に入った瞬間、音が変わった。

 荒れ地では風の音しかしなかった。ここでは風が枝を鳴らし、落ち葉が足元で鳴り、遠くでどこかの鳥が鳴いている。

 匂いも違った。

 湿った土、腐った葉、苔。そしてその下から立ち上ってくる獣の臭い。

 

 十歩ほど進んだところで、前方のギレーヌの足が止まった。

 誰も気づいていなかった。ビゴも兵たちも先を見て歩いている。

 エリックだけがその背中を見ていた。

 獣の耳がぴんと立っている。尻尾がぶわりと膨らんでいた。

 呼吸が浅くなっていた。

 エリックは列を抜けて前へ出た。

 

「ギレーヌ」

 

 ギレーヌが振り返った。

 その目が一瞬、何も映していなかった。

 

「……エリック」

「はい」

「……ああ」

 

 ギレーヌは何度か瞬きをした。それから自分の膨らんだ尻尾に気づいて苛立たしげに払った。

 

「匂いが同じだ。あの時と全部同じだ」

「はい」

 

 ギレーヌは剣の柄を握りしめた。

 

「行くぞ」

「ギレーヌ。何かあったら名前を呼びます」

 

 ギレーヌはしばらくエリックを見ていた。

 それから前を向いた。耳だけが一度こちらを向いた。

 

 エリックは列の後ろへ戻った。

 ビゴが一度だけ振り返ってエリックの顔を見た。

 何も言わなかった。

 

二

 

 最初に来たのは、日が傾きかけた頃だった。

 前方でビゴが手を上げた。

 全員が足を止める。

 風の音。葉のこすれる音。

 その下に低い唸りがあった。一つではない。

 左。右。後ろ。

 

「囲まれてる」

 

 ガストが背中の戦斧を下ろして構えた。今日は刃に覆いがかかっていなかった。

 茂みが揺れた。

 跳び出してきたのは赤い獣だった。

 体長は人ひとり分。四肢が太く背の毛が鮮やかな赤で、葉のように幾重にも重なっている。

 

「レッドリーフタイガーだ! 十……いや、もっと!」

 

 最初の一頭が伝令の一人に跳びかかった。

 伝令は剣も抜けていなかった。

 

 エリックは動いていた。

 伝令の前に身体を割り込ませ、道場の剣を抜きながら半歩踏み込むふりをする。

 獣の跳躍がわずかに変わった。エリックに合わせて牙の向きを変えようとした。

 その変わりかけた軌道を受ける。

 流す。

 獣の身体が空中で回転し、木の幹に叩きつけられた。

 返す。

 一頭目が動かなくなった。

 

「うわ、うわ、うわ!」

「僕の後ろに」

「は、はい!」

 

 二頭目。右から受ける。流す。返す。

 三頭目。左。受ける。流す。返す。

 

 視界の端で戦況を見た。

 前方ではビゴが二頭を相手にしている。剣神流の上級。踏み込みが速く無駄がない。二頭が同時に来れば一頭は防げない。

 その一頭をギレーヌが斬っていた。

 斬るという動作が見えなかった。ただ獣が倒れていく。

 その脇でザルクが獣と組み合っていた。

 剣はもう手になかった。獣の顎の下に左腕をねじ込み、右手の短刀を何度も脇腹に突き立てている。獣が暴れても離れなかった。自分の顔のすぐそばで牙が鳴っても、歯を剥いたまま刺し続けていた。

 獣が動かなくなった。

 ザルクは血まみれの顔で立ち上がり、転がっていた自分の剣を足で跳ね上げて掴んだ。

 

 右翼ではガストが斧を振り回している。当たれば一撃だが振り切れば隙になる。その脇腹に獣が迫っていた。

 エリックは駆けた。

 ガストと獣の間に身体を入れて受ける。流す。獣の身体が横へ逸れる。

 

「おわっ!?」

「振ってください」

「お、おう!」

 

 ガストの斧が逸れた獣の胴を捉えた。

 鈍い音がして獣が吹き飛んだ。

 

「……やった!」

「後ろです」

「え!?」

 

 エリックはガストの背後に回り込んだ獣を受けて、流して、返した。

 それからレオンの方を見た。

 殿のレオンは二頭に囲まれていた。腕の傷がまだ治りきっていない。動きが鈍い。

 エリックが間に入った。

 一頭目を受け、流し、その流した先にもう一頭が突っ込んできた。

 二頭が絡まった。

 その絡まった塊をまとめて返した。

 

 獣の唸りが止まった。

 森が静かになった。

 全部で数十呼吸のことだった。

 

「死んだ者は」

 

 ビゴが剣を下ろした。

 

「いません!」

「怪我人は」

「マルコが腕を。あとはかすり傷です」

「血の臭いが残る。移動する」

 

 隊列が組み直された時、エリックの位置が変わっていた。

 殿の少し前ではなく、列の中ほど。伝令の二人と、腕を斬られたマルコのすぐ隣だった。

 誰が決めたわけでもなかった。兵たちが自然とそこを空けていた。

 歩き出してすぐ、伝令の一人が無言で水袋を差し出してきた。

 エリックは受け取った。

 一口飲んで返した。

 

「ありがとうございます」

 

三

 

 日が落ちる前に二度目の遭遇があった。

 道の先にそれがいた。

 緑だった。苔のような緑。体長は人の背丈の三倍ほど。巨大なトカゲが倒木の上に腹這いになっていた。

 全員が足を止めた。

 トカゲは動かなかった。小さな目がこちらを向いている。それだけだった。

 

「迂回する」

 

 ビゴが言った。

 

「皮が厚い。前に一度やった。剣が通らん」

「俺の斧なら」

「潰れるのはお前の方だ」

 

 その時ギレーヌが言った。

 

「斬るな。そいつは腹が減ってない」

 

 ギレーヌはトカゲを見ていた。

 

「腹が減ってる奴は目が違う。そいつの目はこっちを喰う気がない」

 

 ギレーヌは剣を鞘に収めたまま歩き出した。トカゲの十歩ほど脇を。

 トカゲは動かなかった。

 兵たちが息を殺してその後に続いた。

 エリックは最後尾でトカゲの目を見た。確かに何の関心もなさそうだった。

 通り過ぎてからガストが小声で言った。

 

「……なんで分かるんだ、あんなこと」

「獣だからだろ」

 

 ザルクがぼそりと言った。

 

「腹が減ってるかどうかくらい目を見りゃ分かる。分からねえ奴から喰われる」

「お前も分かるのか、野良犬」

「分かる」

 

 エリックは前を歩くギレーヌの背中を見た。

 尻尾がずっとわずかに膨らんだままだった。

 

四

 

 森の中ほどで道が二つに分かれた。

 東は木がまばらで地面が見えている。西は人の背丈ほどの下草が道を塞いでいた。

 

「……本当に西でいいんだな」

 

 ビゴがギレーヌに訊いた。

 

「西だ」

 

 ビゴはしばらく東の道を見ていた。それから鉈を抜いた。

 

「西だ。藪を切れ」

 

 進むのは遅かった。鉈で下草を切り開きながら一歩ずつ進む。

 二刻ほど進んだ時、後方から音がした。

 遠かった。けれどはっきりと聞こえた。

 地面を揺らすような重い足音。そして木がへし折れる音。

 全員が動きを止めた。

 

「……東だ」

 

 ビゴが呟いた。

 音は遠ざかっていった。しばらくして完全に消えた。

 ビゴがゆっくりとギレーヌの方を見た。

 ギレーヌは藪の先を見たまま、何も言わなかった。

 

「……ガスト」

「はい」

「拝んでいいぞ」

「はい!」

 

 ガストがその場に膝をついた。

 

「やめろ」

「はい!」

 

 ザルクがガストの尻を蹴った。

 

「進め、でくの坊」

 

五

 

 それが来たのは森を抜ける手前、あと半刻という頃だった。

 風向きが変わった。

 ギレーヌの耳がぴんと立った。

 

「……止まれ。来る」

「どこからだ」

「……上だ」

 

 次の瞬間、木が倒れた。

 一本ではない。三本。四本。太い幹が内側から押し倒されるように、こちらへ向かって倒れ込んできた。

 兵たちが散った。

 倒れた木の向こうからそれが現れた。

 トカゲだった。さっきの緑のものと同じ形をしている。けれど大きさが違った。頭だけで人ひとり分ある。鱗は濡れた鉄のような色をしていた。

 そして目が違った。

 喰う気のある目だった。

 

「カレントサウルスだ!」

「散れ! 一箇所に固まるな!」

 

 ビゴが叫んだ。

 その判断は正しかった。けれど間に合わなかった。

 カレントサウルスが動いた。

 あの巨体で馬よりも速かった。

 尻尾の一撃で伝令の一人が吹き飛んだ。木にぶつかり動かなくなる。

 二人目に顎が迫る。

 エリックは走っていた。

 距離が遠すぎる。

 

「伏せてください!」

 

 兵がその場に突っ伏した。

 顎がその頭上を通過した。

 エリックが間に入った。

 

 カレントサウルスの前足が横から薙いできた。人の胴ほどもある太さの腕が、丸太をへし折る速さで。

 エリックは半歩内側へ入った。

 逃げるのではない。当たる場所へ、自分から。

 六年間道場で何千回と転がされながら、身体に叩き込んだことだった。

 剣の腹を前足の付け根に当てる。

 受ける。

 重い。

 狼とも、大人の男とも、ガストの斧とも、何もかもが違った。足の裏が地面をこすった。腕が軋んだ。肩の関節が外れそうになった。

 それでも逸らした。

 力の向きが横へ滑る。

 前足が狙った場所から半歩外れて地面を抉った。土と石が爆ぜた。

 

 その反動でエリックの身体が大きく後ろへよろめいた。

 膝が折れる。脇腹のどこかが鈍い音を立てた。

 剣を地面に突き立てて身体を支えた。

 目は開けていた。

 カレントサウルスの巨体が抉った地面に引きずられて、わずかに泳いだ。

 その首が無防備に伸びていた。

 

 その一瞬にもう一つの影が動いていた。

 空気が変わった。

 森の音が止まった。

 風が止まり、鳥が鳴き止み、兵たちの悲鳴さえどこかへ吸い込まれた。

 エリックはその感覚を知っていた。夜明けの中庭で、二度。

 ギレーヌが立っていた。

 腰だめの構え。抜刀の構え。

 左肩を見た。

 沈まなかった。

 ――消したのか。

 十六の冬に読んだ癖がなかった。

 

 次の瞬間。

 カレントサウルスの首が、落ちた。

 目は開けていたのに、見えなかった。

 鉄色の巨体がゆっくりと横倒しになっていくのだけを見た。

 地面が揺れた。

 森が静かになった。

 ギレーヌはその死骸の前に立っていた。

 剣を下げたまま。肩が大きく上下していた。

 

「……女神様」

 

 誰かが呟いた。

 ギレーヌは振り返らなかった。

 代わりにゆっくりと剣を持ち上げた。

 もう一度、死骸に向かって。

 斬った。

 もう死んでいるものを、もう一度。

 そして、また。

 また。

 

「……おい」

 

 ガストが一歩踏み出した。

 

「女神様? もう死んで――」

「下がれ!」

 

 ビゴの声が飛んだ。ガストがその場で凍りついた。

 ギレーヌが振り返った。

 焦点が結んでいなかった。

 森に入った時に一瞬だけ見たのと同じ目。けれど今度は戻ってこなかった。

 ギレーヌが一歩こちらへ踏み出した。

 兵たちが後ずさった。

 剣を構えようとして、構えられない者。腰を抜かして動けない者。

 ビゴが前に出ようとした。

 その前にエリックが立ち上がっていた。

 脇腹が痛かった。それでも立った。

 そして剣を鞘に収めた。

 

「水聖殿!」

 

 エリックは答えなかった。

 ギレーヌの前まで歩いた。

 血の臭いが濃かった。焦点の合わない目がこちらを向いた。

 エリックはその両肩を掴んだ。

 

「ギレーヌ!」

 

 揺さぶった。

 返事はなかった。

 

「ギレーヌ!」

 

 もう一度。強く。

 夜明けの空き地で、この人が自分にしたのと同じように。

 目が、揺れた。

 

「……エリック」

 

 声が返ってきた。

 焦点が戻っていた。

 ギレーヌは自分の手の中の剣を、それから足元の死骸を、順に見下ろした。原型を留めていない鉄色の肉塊を。

 

「……あたしは」

「大丈夫です。誰も斬っていません」

 

 ギレーヌはしばらく自分の手を見ていた。

 震えていた。

 それから乱暴に剣を鞘に収めた。

 

「……行くぞ」

 

 それだけ言って歩き出した。

 

六

 

 森を抜けたのは日が落ちきった後だった。

 最後の木を抜けると視界が開けた。

 眼下に灯りが見えた。

 無数の焚き火。天幕の列。旗。

 真下の森の裾にあるのはディクトの陣だった。一番大きな天幕が森の木々のすぐ下に張られていた。

 その西、盆地の北の斜面をブローズ帝国の陣が埋めていた。こちらに横腹を晒していた。

 篝火に照らされたディクトの柵は、盆地の真ん中を向いていなかった。ブローズの陣の方へ高く密に打ち込まれていた。

 

「……味方を見張る陣だな」

 

 ビゴは小さく言ってから部隊を数えた。

 

「……十二人」

 

 それからもう一度数えた。

 

「十二人だ」

 

 吹き飛ばされた伝令は仲間に肩を借りて立っていた。

 兵たちが顔を見合わせた。

 誰も声を上げなかった。声を上げれば敵に届く距離だった。

 ビゴは伝令の二人を呼んだ。

 

「本隊に知らせろ。三日後の夜明け、こちらから仕掛ける」

 

 ビゴは盆地の西の縁を指でなぞった。篝火の列がまばらになるあたりで指が止まった。

 

「今夜のうちにあそこを抜けろ。見張りの間を縫っていけ。二人とも別々の道でだ。どちらか一人が着けばいい」

 

 ビゴの目が、肩を借りていた方の伝令に止まった。

 

「歩けるか」

「歩けます」

「行け」

 

 伝令の二人が別々の方へ闇の中に消えていった。

 十二人で歩けば、見つかる道だった。二人なら、夜に紛れて抜けられるかもしれない道だった。

 その夜は火を焚かずに野営した。

 森の縁の窪地に身を寄せ合って。毛布にくるまり、冷えた干し肉を齧る。

 エリックは脇腹を押さえて木の根元に座っていた。

 息を吸うと、鈍い痛みが走った。

 ガストが斧を担いで近づいてきた。

 

「おい、水聖。折れてんのか」

「たぶん、一本」

「馬鹿か。巻いとけ」

 

 ガストは自分の服の裾を破ってエリックに押しつけた。

 エリックは上着の下に布を回して脇腹に巻いた。自分で巻くのは初めてだった。締めると息が詰まって、結び目は緩いところで止まった。

 

「陣に戻ったら治癒の奴に診せろ。初級が二人だ。骨はつく。完全には戻らん」

 

 ガストは自分の左肩を叩いた。

 

「俺のここも二年前に折れてな。雨の日は痛え」

 

 それからガストは懐から何かを取り出した。

 紺の布だった。

 色褪せていて白い糸で三本の線が縫い込まれていた。

 ガストは何も言わずにエリックの左腕を掴んだ。

 布を巻いてきつく縛った。

 

「……これは」

「巻いとけ」

 

 それだけだった。

 ガストは離れたところに座って、干し肉を齧り始めた。

 エリックは自分の左腕を見下ろした。

 紺の布が闇の中で黒く見えた。

 

 しばらくしてガストがもう一枚の布を手に立ち上がるのが見えた。

 窪地の縁の岩にギレーヌが座っていた。

 ガストはその岩の手前で立ち止まった。

 一歩進んで、止まった。もう一歩進んで、また止まった。

 兵たちが息を詰めて見ていた。

 ガストは布を両手で差し出した。

 拝む時と同じ姿勢だった。けれど頭は下げていなかった。

 

「……第三部隊の印です」

 

 ギレーヌはその布を見た。

 それからガストの顔を見た。

 何も言わずに受け取った。

 何も言わずに自分の左腕に巻いた。

 尻尾が一度だけゆっくりと揺れた。

 ガストはそのまま回れ右をして、窪地の底へ戻っていった。

 ザルクがその背中に小声で言った。

 

「……でくの坊にしちゃ上出来だ」

「うるせえ」

 

 水を汲みに行って戻ってくると、窪地の向こうで兵たちが小声で話していた。

 エリックは足を止めた。

 

「……三日後にあれをやるのか」

「本気で言うが、森の方がましだったかもな。魔物は数が知れてる。人間は数が知れてねえ」

 

 沈黙があった。

 

「……俺は今日、死ぬと思った」

 

 兵士の一人がぽつりと言った。まだ声が震えていた。

 

「でかい顎が来た時だ。伏せてくださいって言われたんだよ。こんな時に丁寧にだぞ。伏せたら顔の上を顎が通っていった」

 

 誰も笑わなかった。

 

「顔を上げたら、前に誰かが立ってた」

「伝令の奴も同じこと言ってたな。赤いのに跳びかかられて、気がついたら前にいたって」

 

 風が木を鳴らした。

 

「三日後も、いてくれるかな」

 

 答えはなかった。

 エリックは水桶を持ったまま、少し遠回りをして窪地の反対側から戻った。

 聞くべきではない話だった。

 

 窪地の縁の、腰掛けるのにちょうどいい平たい岩にギレーヌが座っていた。

 左腕に紺の布が巻かれていた。

 エリックは水桶を置いてその隣に腰を下ろした。

 脇腹が痛んだ。息を殺したつもりだったが、鼻から抜けた。

 

「……見せろ」

「え」

「脇腹だ」

 

 エリックが答える前にギレーヌの手が伸びてきた。上着の裾を無造作にめくられる。

 

「待っ――」

「動くな」

 

 冷たい指が巻いた布の下に滑り込んできた。

 息が止まった。

 ギレーヌの指は痛むあたりで止まった。押しもせず、離れもせず、ただ触れたままだった。

 剣だこだらけの硬い手だった。なのに触れられている場所だけが妙に温かかった。

 

「……一本だな。ひびだ。折れきってはいない」

「分かるんですか」

「何度も折った」

 

 ギレーヌは布の下から手を抜いた。それから結び目を見下ろした。

 

「緩い。これじゃ巻いてないのと同じだ」

 

 ギレーヌは結び目をほどいて岩から下り、エリックの正面に膝をついた。

 

「裾を持ってろ」

 

 エリックは上着の裾をたくし上げた。

 ギレーヌは布を脇腹に当てた。端を持ったまま、腕を背中へ回した。

 顔が近づいた。

 革と汗と乾いた草の匂いがした。

 ギレーヌの額が肩に触れそうな所にあった。白い眼帯の紐が目の下に見えた。

 背中で反対側から回ってきた手が布の端を受け取った。

 腕の輪の中にいた。

 この人に襟首を掴まれて引き起こされたことは何度もあった。肩を掴んで揺さぶられたこともあった。そのどれとも違った。

 上着の裾を握る手に力が入った。

 

「息を吐け」

 

 耳のすぐ横で声がした。

 吐いた。吐ききったところで布を強く引かれた。

 腕がいったん離れてまた回ってきた。二周目は少し下を通った。

 ギレーヌの手が背中で一度止まった。

 脇で固く結ばれた。

 ギレーヌはすぐには離れなかった。結び目に指を置いたまま一呼吸ぶんそこにいた。

 それから身体を起こして岩に戻った。顔は灯りの方へ向けたままだった。

 苦しくはなかった。痛みが遠のいた。

 エリックは上着の裾を下ろした。顔が熱かった。夜でよかった、と思った。

 

「ほどくなよ。息をする時は浅く吸え。明日一日は剣を振るな」

「素振りもですか」

「素振りもだ」

「八年、転移の日しか休んでいません」

「知ってる」

 

 ギレーヌは眼下の灯りを見たままだった。

 

「それでも休め。三日後に振れなくなる」

 

 エリックは返事をしないことにした。

 

「森で魔物の首を落とした時、左肩が沈みませんでした」

 

 エリックは言った。

 

「消したんですね」

 

 ギレーヌの耳がぴくりと動いた。

 

「……見てたのか」

「見ていました。去年までは沈んでいました」

「一年かかった」

 

 ギレーヌは灯りを見たまま言った。

 

「お前に読ませないためだ」

「では、また別のところを探します」

「探すな」

「探します」

 

 ギレーヌの尻尾が岩をばしっと叩いた。

 しばらく二人で敵陣の灯りを見ていた。

 焚き火の数は数えきれなかった。あれだけの数があの盆地に集まっている。そして三日後にその真ん中へ突っ込む。

 

「……あたしは」

 

 ギレーヌがぽつりと言った。

 

「お前が、死んだと思ってた」

 

 エリックは隣を見た。

 ギレーヌはこちらを見なかった。

 

「光に呑まれる前の日にヒルダ様が言ってた。明日の昼前には着くと。門の前で何度も何度も言ってた」

 

 ギレーヌは膝の上で手を組んだ。

 

「だからお前はロアにいたと思ってた。あの光はロアの辺りを全部呑んだ。お前も呑まれたと思ってた」

「ロアの手前でした」

「……そうか」

 

 風が木を鳴らした。

 

「光に呑まれてから、十日だ」

 

 ギレーヌは短く言った。

 

「お前も、エリスお嬢様も、ヒルダ様も、フィリップ様も、サウロス様も。全部、生きてるか死んでるか分からんまま、十日だ」

 

 ギレーヌの獣の耳がわずかに倒れた。

 

「あたしは剣しかない。考えるのは向いてない。だからその十日は、ずっと同じことばかり考えてた」

「同じこと」

「なぜあそこで手を取れなかったか」

 

 ギレーヌは両手を見下ろした。

 

「お嬢様と少し距離があった。あの光が来る直前だ。もっと近くにいれば抱えて一緒に飛ばされたかもしれん。だがそうなれば二人とも魔物の森だ。どっちが良かったかなんて誰にも分からん」

 

 ギレーヌは拳を握った。

 

「分からんが考える。十日考えた」

 

 エリックはその手を見た。

 エリスに届かなかった手だった。

 

「僕も考えました」

 

 エリックは言った。

 

「早く発っていればロアに着いていた。母上に会えていた。一日早ければ両親と同じ場所に飛ばされたかもしれない」

 

 エリックは自分の手を見下ろした。

 

「もっと言えば、五年前に一枚だけじゃなく、ちゃんと返事を書いていれば」

「……返事?」

「母上の手紙に。一枚だけ書き上げてギレーヌに預けました。残りは全部途中で止めたままです」

 

 エリックは懐に手をやった。

 

「今も持っています。渡すつもりで」

「ヒルダ様はあの一枚を、ぼろぼろになるまで読んでたぞ」

「知っています。ギレーヌが手紙に書いてくれました。途中の手紙でも読んでくれますか」

「読むだろうな」

 

 ギレーヌはあっさりと言った。

 

「あの人は読む」

 

 エリックは懐の上から手紙の束に触れた。

 

「……ギレーヌ」

 

 ギレーヌの耳がこちらを向いた。

 

「僕は母上に、何を言えばいいんでしょうか」

 

 言ってから、この人に訊くことではなかった、と思った。

 ギレーヌはしばらく黙っていた。

 

「何でもいい」

「何でも」

「あたしは母親を覚えてない。だから分からん。でもあの人はお前が何を言っても泣く。たぶん何も言わなくても泣く」

「それは困ります」

「困るのか」

「泣かれると、何も言えなくなるので」

 

 ギレーヌが鼻を鳴らした。

 笑ったのかもしれなかった。暗くて分からなかった。

 

「なら、泣かれる前に言え」

 

 エリックは顔を上げた。

 ギレーヌはもう立ち上がっていた。

 

「寝ろ」

「はい」

 

 ギレーヌは立ち去らなかった。

 代わりにエリックの頭に手を置いた。

 いつものようにぐしゃぐしゃとかき回すのかと思った。

 そうしなかった。ただ置いただけだった。

 大きな手だった。硬くて、温かかった。

 

「……三日後、死ぬなよ」

「はい」

「お前が死んだら、あたしはまた十日考える」

 

 手が離れた。

 

「今度は十日じゃ済まんかもしれん」

 

 ギレーヌはそれだけ言うと窪地へ下りていった。

 エリックはその場に座ったまま頭に手をやった。

 まだ温かさが残っている気がした。

 胸の奥が熱かった。

 いつものむずむずする感じではなかった。もっとはっきりしたものだった。

 

 毛布にくるまっても、なかなか寝つけなかった。

 脇腹が痛んだ。それだけではなかった。

 目を閉じると鉄色の巨体がこちらを向く瞬間が浮かんだ。

 あの時、自分は受けて流した。それだけだった。あの一瞬がなければ、ギレーヌの剣も届かなかったかもしれない。けれどそれだけだった。

 

 三日後、その先にいるのは魔物ではない。

 剣士だ。自分と同じ水神流の。

 ――お前が死んだら、あたしはまた十日考える。

 死ねないと思った。

 はっきりとそう思った。

 

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二十一歳で死んだ大学生は、異世界で二度目の人生を始めた。▼魔法がある。▼魔物がいる。▼迷宮がある。▼大好きだった『マギ』の世界だと思った。▼……ところが。▼ジンがいない。▼金属器もない。▼ーーどうやら俺は、世界を間違えたらしい。▼これは、勘違いから始まる二度目の異世界人生。


総合評価:3240/評価:8.09/連載:29話/更新日時:2026年10月21日(水) 21:33 小説情報

狂龍王転生 ~死にたくないので龍神と協力する~(作者:谷氏)(原作:無職転生)

病弱な人生を終えた青年が転生したのは、狂龍王カオス。▼転生した彼を待っていたのは、いずれ龍神オルステッドによって命を奪われるという過酷な運命だった。▼生き残るためにオルステッドと協力関係を結んだカオスは、龍神と共に歩みながら未来を切り拓いていく。▼■■■▼初代狂龍王じゃなくて自動人形作ったりシャリーアの家に住んでた狂龍王(原作時点で死んでいる)に成り代わり転…


総合評価:583/評価:7.47/連載:27話/更新日時:2026年11月01日(日) 19:26 小説情報


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