一
森は遠くから見るとただの黒い帯だった。
荒れ地の果てに地平線に沿って横たわっている。近づくにつれて、それが木の壁だと分かってくる。幹が太く、背が高く、枝が絡み合って日の光をほとんど通さない。
十二人は夜明け前に陣を出て昼過ぎに森の縁に着いた。
ギレーヌのほかは全員、ブローズの紋の入った胴当てを着ていた。
「ここからは隊列を崩すな」
ビゴが低い声で言った。
「先頭は俺だ。後ろから、ガスト、ザルク、ヨーク、マルコ、ダン、ルカ。伝令の二人は真ん中。レオン、お前は殿だ」
「はい!」
「返事がでかい。森では声も命取りだ」
「……はい」
レオンが慌てて口を押さえた。
「剣王殿は前でも後ろでも、好きなところに」
「前だ」
「水聖殿は」
「殿の少し前に」
ビゴが頷いた。
「行くぞ」
森に入った瞬間、音が変わった。
荒れ地では風の音しかしなかった。ここでは風が枝を鳴らし、落ち葉が足元で鳴り、遠くでどこかの鳥が鳴いている。
匂いも違った。
湿った土、腐った葉、苔。そしてその下から立ち上ってくる獣の臭い。
十歩ほど進んだところで、前方のギレーヌの足が止まった。
誰も気づいていなかった。ビゴも兵たちも先を見て歩いている。
エリックだけがその背中を見ていた。
獣の耳がぴんと立っている。尻尾がぶわりと膨らんでいた。
呼吸が浅くなっていた。
エリックは列を抜けて前へ出た。
「ギレーヌ」
ギレーヌが振り返った。
その目が一瞬、何も映していなかった。
「……エリック」
「はい」
「……ああ」
ギレーヌは何度か瞬きをした。それから自分の膨らんだ尻尾に気づいて苛立たしげに払った。
「匂いが同じだ。あの時と全部同じだ」
「はい」
ギレーヌは剣の柄を握りしめた。
「行くぞ」
「ギレーヌ。何かあったら名前を呼びます」
ギレーヌはしばらくエリックを見ていた。
それから前を向いた。耳だけが一度こちらを向いた。
エリックは列の後ろへ戻った。
ビゴが一度だけ振り返ってエリックの顔を見た。
何も言わなかった。
二
最初に来たのは、日が傾きかけた頃だった。
前方でビゴが手を上げた。
全員が足を止める。
風の音。葉のこすれる音。
その下に低い唸りがあった。一つではない。
左。右。後ろ。
「囲まれてる」
ガストが背中の戦斧を下ろして構えた。今日は刃に覆いがかかっていなかった。
茂みが揺れた。
跳び出してきたのは赤い獣だった。
体長は人ひとり分。四肢が太く背の毛が鮮やかな赤で、葉のように幾重にも重なっている。
「レッドリーフタイガーだ! 十……いや、もっと!」
最初の一頭が伝令の一人に跳びかかった。
伝令は剣も抜けていなかった。
エリックは動いていた。
伝令の前に身体を割り込ませ、道場の剣を抜きながら半歩踏み込むふりをする。
獣の跳躍がわずかに変わった。エリックに合わせて牙の向きを変えようとした。
その変わりかけた軌道を受ける。
流す。
獣の身体が空中で回転し、木の幹に叩きつけられた。
返す。
一頭目が動かなくなった。
「うわ、うわ、うわ!」
「僕の後ろに」
「は、はい!」
二頭目。右から受ける。流す。返す。
三頭目。左。受ける。流す。返す。
視界の端で戦況を見た。
前方ではビゴが二頭を相手にしている。剣神流の上級。踏み込みが速く無駄がない。二頭が同時に来れば一頭は防げない。
その一頭をギレーヌが斬っていた。
斬るという動作が見えなかった。ただ獣が倒れていく。
その脇でザルクが獣と組み合っていた。
剣はもう手になかった。獣の顎の下に左腕をねじ込み、右手の短刀を何度も脇腹に突き立てている。獣が暴れても離れなかった。自分の顔のすぐそばで牙が鳴っても、歯を剥いたまま刺し続けていた。
獣が動かなくなった。
ザルクは血まみれの顔で立ち上がり、転がっていた自分の剣を足で跳ね上げて掴んだ。
右翼ではガストが斧を振り回している。当たれば一撃だが振り切れば隙になる。その脇腹に獣が迫っていた。
エリックは駆けた。
ガストと獣の間に身体を入れて受ける。流す。獣の身体が横へ逸れる。
「おわっ!?」
「振ってください」
「お、おう!」
ガストの斧が逸れた獣の胴を捉えた。
鈍い音がして獣が吹き飛んだ。
「……やった!」
「後ろです」
「え!?」
エリックはガストの背後に回り込んだ獣を受けて、流して、返した。
それからレオンの方を見た。
殿のレオンは二頭に囲まれていた。腕の傷がまだ治りきっていない。動きが鈍い。
エリックが間に入った。
一頭目を受け、流し、その流した先にもう一頭が突っ込んできた。
二頭が絡まった。
その絡まった塊をまとめて返した。
獣の唸りが止まった。
森が静かになった。
全部で数十呼吸のことだった。
「死んだ者は」
ビゴが剣を下ろした。
「いません!」
「怪我人は」
「マルコが腕を。あとはかすり傷です」
「血の臭いが残る。移動する」
隊列が組み直された時、エリックの位置が変わっていた。
殿の少し前ではなく、列の中ほど。伝令の二人と、腕を斬られたマルコのすぐ隣だった。
誰が決めたわけでもなかった。兵たちが自然とそこを空けていた。
歩き出してすぐ、伝令の一人が無言で水袋を差し出してきた。
エリックは受け取った。
一口飲んで返した。
「ありがとうございます」
三
日が落ちる前に二度目の遭遇があった。
道の先にそれがいた。
緑だった。苔のような緑。体長は人の背丈の三倍ほど。巨大なトカゲが倒木の上に腹這いになっていた。
全員が足を止めた。
トカゲは動かなかった。小さな目がこちらを向いている。それだけだった。
「迂回する」
ビゴが言った。
「皮が厚い。前に一度やった。剣が通らん」
「俺の斧なら」
「潰れるのはお前の方だ」
その時ギレーヌが言った。
「斬るな。そいつは腹が減ってない」
ギレーヌはトカゲを見ていた。
「腹が減ってる奴は目が違う。そいつの目はこっちを喰う気がない」
ギレーヌは剣を鞘に収めたまま歩き出した。トカゲの十歩ほど脇を。
トカゲは動かなかった。
兵たちが息を殺してその後に続いた。
エリックは最後尾でトカゲの目を見た。確かに何の関心もなさそうだった。
通り過ぎてからガストが小声で言った。
「……なんで分かるんだ、あんなこと」
「獣だからだろ」
ザルクがぼそりと言った。
「腹が減ってるかどうかくらい目を見りゃ分かる。分からねえ奴から喰われる」
「お前も分かるのか、野良犬」
「分かる」
エリックは前を歩くギレーヌの背中を見た。
尻尾がずっとわずかに膨らんだままだった。
四
森の中ほどで道が二つに分かれた。
東は木がまばらで地面が見えている。西は人の背丈ほどの下草が道を塞いでいた。
「……本当に西でいいんだな」
ビゴがギレーヌに訊いた。
「西だ」
ビゴはしばらく東の道を見ていた。それから鉈を抜いた。
「西だ。藪を切れ」
進むのは遅かった。鉈で下草を切り開きながら一歩ずつ進む。
二刻ほど進んだ時、後方から音がした。
遠かった。けれどはっきりと聞こえた。
地面を揺らすような重い足音。そして木がへし折れる音。
全員が動きを止めた。
「……東だ」
ビゴが呟いた。
音は遠ざかっていった。しばらくして完全に消えた。
ビゴがゆっくりとギレーヌの方を見た。
ギレーヌは藪の先を見たまま、何も言わなかった。
「……ガスト」
「はい」
「拝んでいいぞ」
「はい!」
ガストがその場に膝をついた。
「やめろ」
「はい!」
ザルクがガストの尻を蹴った。
「進め、でくの坊」
五
それが来たのは森を抜ける手前、あと半刻という頃だった。
風向きが変わった。
ギレーヌの耳がぴんと立った。
「……止まれ。来る」
「どこからだ」
「……上だ」
次の瞬間、木が倒れた。
一本ではない。三本。四本。太い幹が内側から押し倒されるように、こちらへ向かって倒れ込んできた。
兵たちが散った。
倒れた木の向こうからそれが現れた。
トカゲだった。さっきの緑のものと同じ形をしている。けれど大きさが違った。頭だけで人ひとり分ある。鱗は濡れた鉄のような色をしていた。
そして目が違った。
喰う気のある目だった。
「カレントサウルスだ!」
「散れ! 一箇所に固まるな!」
ビゴが叫んだ。
その判断は正しかった。けれど間に合わなかった。
カレントサウルスが動いた。
あの巨体で馬よりも速かった。
尻尾の一撃で伝令の一人が吹き飛んだ。木にぶつかり動かなくなる。
二人目に顎が迫る。
エリックは走っていた。
距離が遠すぎる。
「伏せてください!」
兵がその場に突っ伏した。
顎がその頭上を通過した。
エリックが間に入った。
カレントサウルスの前足が横から薙いできた。人の胴ほどもある太さの腕が、丸太をへし折る速さで。
エリックは半歩内側へ入った。
逃げるのではない。当たる場所へ、自分から。
六年間道場で何千回と転がされながら、身体に叩き込んだことだった。
剣の腹を前足の付け根に当てる。
受ける。
重い。
狼とも、大人の男とも、ガストの斧とも、何もかもが違った。足の裏が地面をこすった。腕が軋んだ。肩の関節が外れそうになった。
それでも逸らした。
力の向きが横へ滑る。
前足が狙った場所から半歩外れて地面を抉った。土と石が爆ぜた。
その反動でエリックの身体が大きく後ろへよろめいた。
膝が折れる。脇腹のどこかが鈍い音を立てた。
剣を地面に突き立てて身体を支えた。
目は開けていた。
カレントサウルスの巨体が抉った地面に引きずられて、わずかに泳いだ。
その首が無防備に伸びていた。
その一瞬にもう一つの影が動いていた。
空気が変わった。
森の音が止まった。
風が止まり、鳥が鳴き止み、兵たちの悲鳴さえどこかへ吸い込まれた。
エリックはその感覚を知っていた。夜明けの中庭で、二度。
ギレーヌが立っていた。
腰だめの構え。抜刀の構え。
左肩を見た。
沈まなかった。
――消したのか。
十六の冬に読んだ癖がなかった。
次の瞬間。
カレントサウルスの首が、落ちた。
目は開けていたのに、見えなかった。
鉄色の巨体がゆっくりと横倒しになっていくのだけを見た。
地面が揺れた。
森が静かになった。
ギレーヌはその死骸の前に立っていた。
剣を下げたまま。肩が大きく上下していた。
「……女神様」
誰かが呟いた。
ギレーヌは振り返らなかった。
代わりにゆっくりと剣を持ち上げた。
もう一度、死骸に向かって。
斬った。
もう死んでいるものを、もう一度。
そして、また。
また。
「……おい」
ガストが一歩踏み出した。
「女神様? もう死んで――」
「下がれ!」
ビゴの声が飛んだ。ガストがその場で凍りついた。
ギレーヌが振り返った。
焦点が結んでいなかった。
森に入った時に一瞬だけ見たのと同じ目。けれど今度は戻ってこなかった。
ギレーヌが一歩こちらへ踏み出した。
兵たちが後ずさった。
剣を構えようとして、構えられない者。腰を抜かして動けない者。
ビゴが前に出ようとした。
その前にエリックが立ち上がっていた。
脇腹が痛かった。それでも立った。
そして剣を鞘に収めた。
「水聖殿!」
エリックは答えなかった。
ギレーヌの前まで歩いた。
血の臭いが濃かった。焦点の合わない目がこちらを向いた。
エリックはその両肩を掴んだ。
「ギレーヌ!」
揺さぶった。
返事はなかった。
「ギレーヌ!」
もう一度。強く。
夜明けの空き地で、この人が自分にしたのと同じように。
目が、揺れた。
「……エリック」
声が返ってきた。
焦点が戻っていた。
ギレーヌは自分の手の中の剣を、それから足元の死骸を、順に見下ろした。原型を留めていない鉄色の肉塊を。
「……あたしは」
「大丈夫です。誰も斬っていません」
ギレーヌはしばらく自分の手を見ていた。
震えていた。
それから乱暴に剣を鞘に収めた。
「……行くぞ」
それだけ言って歩き出した。
六
森を抜けたのは日が落ちきった後だった。
最後の木を抜けると視界が開けた。
眼下に灯りが見えた。
無数の焚き火。天幕の列。旗。
真下の森の裾にあるのはディクトの陣だった。一番大きな天幕が森の木々のすぐ下に張られていた。
その西、盆地の北の斜面をブローズ帝国の陣が埋めていた。こちらに横腹を晒していた。
篝火に照らされたディクトの柵は、盆地の真ん中を向いていなかった。ブローズの陣の方へ高く密に打ち込まれていた。
「……味方を見張る陣だな」
ビゴは小さく言ってから部隊を数えた。
「……十二人」
それからもう一度数えた。
「十二人だ」
吹き飛ばされた伝令は仲間に肩を借りて立っていた。
兵たちが顔を見合わせた。
誰も声を上げなかった。声を上げれば敵に届く距離だった。
ビゴは伝令の二人を呼んだ。
「本隊に知らせろ。三日後の夜明け、こちらから仕掛ける」
ビゴは盆地の西の縁を指でなぞった。篝火の列がまばらになるあたりで指が止まった。
「今夜のうちにあそこを抜けろ。見張りの間を縫っていけ。二人とも別々の道でだ。どちらか一人が着けばいい」
ビゴの目が、肩を借りていた方の伝令に止まった。
「歩けるか」
「歩けます」
「行け」
伝令の二人が別々の方へ闇の中に消えていった。
十二人で歩けば、見つかる道だった。二人なら、夜に紛れて抜けられるかもしれない道だった。
その夜は火を焚かずに野営した。
森の縁の窪地に身を寄せ合って。毛布にくるまり、冷えた干し肉を齧る。
エリックは脇腹を押さえて木の根元に座っていた。
息を吸うと、鈍い痛みが走った。
ガストが斧を担いで近づいてきた。
「おい、水聖。折れてんのか」
「たぶん、一本」
「馬鹿か。巻いとけ」
ガストは自分の服の裾を破ってエリックに押しつけた。
エリックは上着の下に布を回して脇腹に巻いた。自分で巻くのは初めてだった。締めると息が詰まって、結び目は緩いところで止まった。
「陣に戻ったら治癒の奴に診せろ。初級が二人だ。骨はつく。完全には戻らん」
ガストは自分の左肩を叩いた。
「俺のここも二年前に折れてな。雨の日は痛え」
それからガストは懐から何かを取り出した。
紺の布だった。
色褪せていて白い糸で三本の線が縫い込まれていた。
ガストは何も言わずにエリックの左腕を掴んだ。
布を巻いてきつく縛った。
「……これは」
「巻いとけ」
それだけだった。
ガストは離れたところに座って、干し肉を齧り始めた。
エリックは自分の左腕を見下ろした。
紺の布が闇の中で黒く見えた。
しばらくしてガストがもう一枚の布を手に立ち上がるのが見えた。
窪地の縁の岩にギレーヌが座っていた。
ガストはその岩の手前で立ち止まった。
一歩進んで、止まった。もう一歩進んで、また止まった。
兵たちが息を詰めて見ていた。
ガストは布を両手で差し出した。
拝む時と同じ姿勢だった。けれど頭は下げていなかった。
「……第三部隊の印です」
ギレーヌはその布を見た。
それからガストの顔を見た。
何も言わずに受け取った。
何も言わずに自分の左腕に巻いた。
尻尾が一度だけゆっくりと揺れた。
ガストはそのまま回れ右をして、窪地の底へ戻っていった。
ザルクがその背中に小声で言った。
「……でくの坊にしちゃ上出来だ」
「うるせえ」
水を汲みに行って戻ってくると、窪地の向こうで兵たちが小声で話していた。
エリックは足を止めた。
「……三日後にあれをやるのか」
「本気で言うが、森の方がましだったかもな。魔物は数が知れてる。人間は数が知れてねえ」
沈黙があった。
「……俺は今日、死ぬと思った」
兵士の一人がぽつりと言った。まだ声が震えていた。
「でかい顎が来た時だ。伏せてくださいって言われたんだよ。こんな時に丁寧にだぞ。伏せたら顔の上を顎が通っていった」
誰も笑わなかった。
「顔を上げたら、前に誰かが立ってた」
「伝令の奴も同じこと言ってたな。赤いのに跳びかかられて、気がついたら前にいたって」
風が木を鳴らした。
「三日後も、いてくれるかな」
答えはなかった。
エリックは水桶を持ったまま、少し遠回りをして窪地の反対側から戻った。
聞くべきではない話だった。
窪地の縁の、腰掛けるのにちょうどいい平たい岩にギレーヌが座っていた。
左腕に紺の布が巻かれていた。
エリックは水桶を置いてその隣に腰を下ろした。
脇腹が痛んだ。息を殺したつもりだったが、鼻から抜けた。
「……見せろ」
「え」
「脇腹だ」
エリックが答える前にギレーヌの手が伸びてきた。上着の裾を無造作にめくられる。
「待っ――」
「動くな」
冷たい指が巻いた布の下に滑り込んできた。
息が止まった。
ギレーヌの指は痛むあたりで止まった。押しもせず、離れもせず、ただ触れたままだった。
剣だこだらけの硬い手だった。なのに触れられている場所だけが妙に温かかった。
「……一本だな。ひびだ。折れきってはいない」
「分かるんですか」
「何度も折った」
ギレーヌは布の下から手を抜いた。それから結び目を見下ろした。
「緩い。これじゃ巻いてないのと同じだ」
ギレーヌは結び目をほどいて岩から下り、エリックの正面に膝をついた。
「裾を持ってろ」
エリックは上着の裾をたくし上げた。
ギレーヌは布を脇腹に当てた。端を持ったまま、腕を背中へ回した。
顔が近づいた。
革と汗と乾いた草の匂いがした。
ギレーヌの額が肩に触れそうな所にあった。白い眼帯の紐が目の下に見えた。
背中で反対側から回ってきた手が布の端を受け取った。
腕の輪の中にいた。
この人に襟首を掴まれて引き起こされたことは何度もあった。肩を掴んで揺さぶられたこともあった。そのどれとも違った。
上着の裾を握る手に力が入った。
「息を吐け」
耳のすぐ横で声がした。
吐いた。吐ききったところで布を強く引かれた。
腕がいったん離れてまた回ってきた。二周目は少し下を通った。
ギレーヌの手が背中で一度止まった。
脇で固く結ばれた。
ギレーヌはすぐには離れなかった。結び目に指を置いたまま一呼吸ぶんそこにいた。
それから身体を起こして岩に戻った。顔は灯りの方へ向けたままだった。
苦しくはなかった。痛みが遠のいた。
エリックは上着の裾を下ろした。顔が熱かった。夜でよかった、と思った。
「ほどくなよ。息をする時は浅く吸え。明日一日は剣を振るな」
「素振りもですか」
「素振りもだ」
「八年、転移の日しか休んでいません」
「知ってる」
ギレーヌは眼下の灯りを見たままだった。
「それでも休め。三日後に振れなくなる」
エリックは返事をしないことにした。
「森で魔物の首を落とした時、左肩が沈みませんでした」
エリックは言った。
「消したんですね」
ギレーヌの耳がぴくりと動いた。
「……見てたのか」
「見ていました。去年までは沈んでいました」
「一年かかった」
ギレーヌは灯りを見たまま言った。
「お前に読ませないためだ」
「では、また別のところを探します」
「探すな」
「探します」
ギレーヌの尻尾が岩をばしっと叩いた。
しばらく二人で敵陣の灯りを見ていた。
焚き火の数は数えきれなかった。あれだけの数があの盆地に集まっている。そして三日後にその真ん中へ突っ込む。
「……あたしは」
ギレーヌがぽつりと言った。
「お前が、死んだと思ってた」
エリックは隣を見た。
ギレーヌはこちらを見なかった。
「光に呑まれる前の日にヒルダ様が言ってた。明日の昼前には着くと。門の前で何度も何度も言ってた」
ギレーヌは膝の上で手を組んだ。
「だからお前はロアにいたと思ってた。あの光はロアの辺りを全部呑んだ。お前も呑まれたと思ってた」
「ロアの手前でした」
「……そうか」
風が木を鳴らした。
「光に呑まれてから、十日だ」
ギレーヌは短く言った。
「お前も、エリスお嬢様も、ヒルダ様も、フィリップ様も、サウロス様も。全部、生きてるか死んでるか分からんまま、十日だ」
ギレーヌの獣の耳がわずかに倒れた。
「あたしは剣しかない。考えるのは向いてない。だからその十日は、ずっと同じことばかり考えてた」
「同じこと」
「なぜあそこで手を取れなかったか」
ギレーヌは両手を見下ろした。
「お嬢様と少し距離があった。あの光が来る直前だ。もっと近くにいれば抱えて一緒に飛ばされたかもしれん。だがそうなれば二人とも魔物の森だ。どっちが良かったかなんて誰にも分からん」
ギレーヌは拳を握った。
「分からんが考える。十日考えた」
エリックはその手を見た。
エリスに届かなかった手だった。
「僕も考えました」
エリックは言った。
「早く発っていればロアに着いていた。母上に会えていた。一日早ければ両親と同じ場所に飛ばされたかもしれない」
エリックは自分の手を見下ろした。
「もっと言えば、五年前に一枚だけじゃなく、ちゃんと返事を書いていれば」
「……返事?」
「母上の手紙に。一枚だけ書き上げてギレーヌに預けました。残りは全部途中で止めたままです」
エリックは懐に手をやった。
「今も持っています。渡すつもりで」
「ヒルダ様はあの一枚を、ぼろぼろになるまで読んでたぞ」
「知っています。ギレーヌが手紙に書いてくれました。途中の手紙でも読んでくれますか」
「読むだろうな」
ギレーヌはあっさりと言った。
「あの人は読む」
エリックは懐の上から手紙の束に触れた。
「……ギレーヌ」
ギレーヌの耳がこちらを向いた。
「僕は母上に、何を言えばいいんでしょうか」
言ってから、この人に訊くことではなかった、と思った。
ギレーヌはしばらく黙っていた。
「何でもいい」
「何でも」
「あたしは母親を覚えてない。だから分からん。でもあの人はお前が何を言っても泣く。たぶん何も言わなくても泣く」
「それは困ります」
「困るのか」
「泣かれると、何も言えなくなるので」
ギレーヌが鼻を鳴らした。
笑ったのかもしれなかった。暗くて分からなかった。
「なら、泣かれる前に言え」
エリックは顔を上げた。
ギレーヌはもう立ち上がっていた。
「寝ろ」
「はい」
ギレーヌは立ち去らなかった。
代わりにエリックの頭に手を置いた。
いつものようにぐしゃぐしゃとかき回すのかと思った。
そうしなかった。ただ置いただけだった。
大きな手だった。硬くて、温かかった。
「……三日後、死ぬなよ」
「はい」
「お前が死んだら、あたしはまた十日考える」
手が離れた。
「今度は十日じゃ済まんかもしれん」
ギレーヌはそれだけ言うと窪地へ下りていった。
エリックはその場に座ったまま頭に手をやった。
まだ温かさが残っている気がした。
胸の奥が熱かった。
いつものむずむずする感じではなかった。もっとはっきりしたものだった。
毛布にくるまっても、なかなか寝つけなかった。
脇腹が痛んだ。それだけではなかった。
目を閉じると鉄色の巨体がこちらを向く瞬間が浮かんだ。
あの時、自分は受けて流した。それだけだった。あの一瞬がなければ、ギレーヌの剣も届かなかったかもしれない。けれどそれだけだった。
三日後、その先にいるのは魔物ではない。
剣士だ。自分と同じ水神流の。
――お前が死んだら、あたしはまた十日考える。
死ねないと思った。
はっきりとそう思った。