一
夜が明けても火は焚けなかった。
冷えた干し肉と、水袋に入れてある濁った水。それが朝飯だった。
「今日一日、動かん」
ビゴが低い声で言った。
「日が暮れてから俺が四人連れて出る。地形を見る。どこから入れば本陣に届くか目で確かめておかんと、明後日全員死ぬ」
「隊長、俺が行きます」
ガストが言った。
「お前は目立つ」
「……そうですね」
「俺が行く」
ザルクが言った。
「お前は見つかったら逃げずに噛みつく」
「……そうだな」
ザルクはあっさり引き下がった。
「行くのは俺と、ヨーク、ダン、レオン。それと」
ビゴはエリックの方を見た。
「水聖殿。肋骨は」
「動けます」
「どの程度だ」
「息を深く吸うと痛みますが、剣は振れます」
ビゴは少し離れた岩に座っていたギレーヌの方を見た。
「剣王殿。水聖殿を連れていっても構わんか」
「駄目だ」
即答だった。
「一日は振るなと言った。あたしが行く」
「剣王殿が出れば、見つかった時に騒ぎが大きくなる。敵も森の女神の噂は聞いている。獣族の女の剣士なら一目で分かる」
ギレーヌの獣の耳が後ろに倒れた。
「……ちっ」
「では水聖殿を」
「駄目だ」
「剣王殿」
「駄目なものは駄目だ」
その場が静まり返った。
ガストがこそこそとエリックの隣に寄ってきた。
「おい、水聖。お前母ちゃんいるのか」
「います。一人です」
「そういう意味じゃねえ。もう一人増えてんぞ、って意味だ」
ザルクが横を向いて肩を震わせていた。
結局、エリックは同行することになった。
ギレーヌを説得したのは、ビゴでも部隊の理屈でもなかった。
エリックは岩の上のギレーヌの前に立った。
「明後日、僕はクライン・ディノルタスと当たります。団長にそう頼まれました」
「知ってる」
「今日地形を見ておかないと、明後日どこで当たるかも分からないまま戦うことになります。足場が悪ければ受けも流しもできません。それを知らずに当たるのは」
エリックはそこで一度止めた。
「死にに行くのと同じです」
ギレーヌがエリックを見た。
その目はじっと動かなかった。
ギレーヌは大きく息を吐いた。
「……振るなよ」
「振りません」
「見るだけだ」
「見るだけです」
「約束だ」
「約束します」
ギレーヌはぷいと顔を背けた。
「……行け」
二
日が落ちてから五人は窪地を出た。
森の縁に沿って盆地の方へ。
ブローズ帝国の陣は盆地の北の斜面に広がっていた。天幕の数は数えきれない。焚き火の光が丘の斜面を星空のように埋めている。
東の森の裾にはディクトの灯りが固まっていた。昨夜、窪地から見下ろした陣だった。
ビゴが腹這いになったまま言った。
「北と東から盆地を挟んでる。真ん中がうちの本隊の出ていく場所だ。その奥の盆地の南の口が、赤竜の下顎へ抜ける街道だ」
エリックはその口を見た。
暗くて何も見えなかった。けれどそこにあるのは分かった。
「本陣はあの一番高いところだ。旗が三本立ってるのが見えるか」
「見えます」
「あそこに皇帝がいる。その手前、天幕が固まっているあたり。あれが親衛隊だ」
他の天幕より間隔が整っていた。杭の打ち方も、篝火の配置も。明らかに練度の違う部隊だった。
エリックはその手前の地面を見た。
斜面はなだらかだった。草が短い。石は少ない。天幕と天幕の間に踏み固められた通路がある。
それを頭に刻んだ。
「水聖殿。何を見てる」
「足場です。あの通路なら受けられます」
「……そうか」
ビゴはそれからもう一箇所を指した。
斜面の下の方。陣の外れに近い場所に粗末な柵で囲まれた区画があった。
「あれは捕虜だ。敵の兵。近隣の村から連れてきた者。間諜と疑われた余所者。全部まとめてあそこに入れられてる」
ビゴは淡々と言った。
「戦の後に使える者は売る。使えん者は始末する」
エリックはその柵を見つめた。
距離があって中の様子は分からない。人影が動いているのだけが、かろうじて見えた。
「何人くらいいるんですか」
「さあな。百はいるだろう」
――身元の知れん余所者は、みんなまず間諜を疑われる。
ヨナスの言葉が頭をかすめた。
エリックはそれ以上訊かなかった。
ただその場所も頭に刻んだ。
親衛隊の天幕は斜面の上。捕虜の柵は斜面の下。
本陣へ向かう道と捕虜へ向かう道は、途中で分かれる。
三
撤収しようとした時だった。
兵士の一人が鋭く息を呑んだ。
「隊長」
斜面の下、木立の陰から灯りが近づいてきていた。松明が十以上。
「……哨戒か。伏せろ」
五人は草に身を伏せた。
足音が近づいてくる。
二十人ほどの一隊だった。ブローズ帝国の紋章。槍と剣。統率が取れている。
通り過ぎる。
そう思った、その時。
先頭の兵が足を止めた。
「……おい。ここ、草が倒れてるぞ」
「誰か通ったな。最近だ。森の方からか?」
「森? あそこは通れんだろう」
「通れんはずだ。だが跡がある。辿れ。森の縁まで見てこい」
松明が二手に分かれた。半分が跡を辿って森の方へ。残りが跡の先を照らしながら斜面を探り始めた。
明かりが草の上を舐めていく。
五歩先。三歩先。
レオンの踵のすぐ横で、光が止まり、また動いた。
雲が月にかかった。
ビゴの指が動いた。横へ。
五人は跡から外れて背の高い草の中を這った。跡を辿る松明の列を大きく回り込み、森の縁へ。
木立の影に一人ずつ滑り込む。
最後の一人が入った。
斜面の上ではまだ松明がうろうろと草を照らしていた。こちらには気づいていない。
抜けた。
そう思った時、森の奥から話し声がした。
ビゴの足が止まった。
木々の間に灯りが揺れていた。松明が四つ、五つ。間を空けて一列に並び、森の中をなぞるように歩いてくる。
前には森の見張り。後ろの斜面には哨戒。
下がる場所がなかった。
ビゴが立ち上がった。剣は抜かなかった。胸の紋が灯りに向くように木立の陰から出ていった。
四人もそれに続いた。
「止まれ」
松明が一斉にこちらを向いた。灯りが五人の胸をなぞって、ブローズの紋の上で止まった。
「……なんだ、味方か。こんな所で何をしている」
「斥候だ。森の縁を見てこいと言われた」
ビゴの声は落ち着いていた。
列の後ろから年嵩の兵が出てきた。
「森の縁に斥候なんぞ聞いてない。貴様ら、どこに所属する部隊だ!」
ビゴは答えなかった。
答えられる名前を持っていなかった。
一呼吸ぶん、誰も動かなかった。
「……敵だ! いたぞ!」
森の中に叫び声が響いた。
四
最初の五人はビゴが斬った。
踏み込みに無駄がなく、一撃ごとに一人ずつ倒していく。
エリックは後方の哨戒に備えていた。
道場の剣を抜いていた。
槍が二本、同時に突き出された。
受ける。
流す。
二本の槍がエリックの剣の上で絡まった。穂先同士がぶつかり、持ち主同士が肩をぶつけてよろめいた。
三本目。受ける。流す。
槍の兵は突いた勢いのまま、仲間の方へ泳いでいった。
四本目。五本目。
突いても、突いても、エリックの前で槍が止まる。止まって、横へ逸れて、味方の方へ行く。
脇腹に痛みが走った。受けの動作は腰と脇腹で力を逃がす。そこが使えないと、受けが浅くなる。
それでも槍は止まった。
「――っ、なんだ、こいつ!」
兵の一人が叫んだ。
「あの赤毛の前に出るな! 槍が勝手に味方の方へ行くぞ!」
叫んだ兵は槍を構えたまま後ずさっていた。
エリックの前に半円の空白ができていた。
誰もそこへ踏み込もうとしなかった。
「若様!」
「大丈夫です」
大丈夫ではなかった。脇腹が焼けるように痛んだ。
「森へ!」
ビゴが叫んだ。
五人は後退した。木立へ。森の縁へ。
追ってくる敵は半分ほどに減っていた。
いける。
そう思った時。
斜面の上から新しい灯りが降りてきた。
騎馬が五騎。その後ろに徒歩の兵が二十人ほど。
整然としていた。哨戒の兵とは動きの質が違った。
先頭の騎馬が木立の手前で止まった。
男が馬から降りた。
背は高くない。痩せている。髪には白いものが混じっている。
着ているのは帝国親衛隊の胴当てだった。けれどその下の身のこなしを、エリックは知っていた。
男が剣を抜いた。
構えた。
身体をわずかに斜めに。剣を胸の前で寝かせるように。
エリックの足が止まった。
水神流の構えだった。
五
男の目が五人の胴当てを一巡りした。
「……森を抜けてきたのか」
男の声は静かだった。
「あの森を抜けてきた者がいると分かった以上、放ってはおけん」
ビゴが剣を構え直した。
「……クライン・ディノルタスか」
「知っているのか」
「あんたにうちの隊長が三人斬られた」
「そうか。覚えていない。すまんな」
ビゴの顎がわずかに動いた。
「隊長」
エリックは前に出た。
「殿を務めます。森の道が分かるのは隊長とギレーヌだけです。道を知らない者が残るのが一番いい」
ビゴはしばらく黙っていた。
「……死ぬなよ」
「はい」
「レオン、ダン、走れ。ヨーク、殿の殿だ」
足音が森の中へ遠ざかっていった。
エリックは一人、木立の手前に立った。
クラインは森へ消えた背中を追わせなかった。エリックだけを見ていた。
「水神流か。構えで分かる。誰に習った」
「レイダ・リィアに」
クラインの動きが止まった。
しばらく何も言わなかった。
その目が一度だけエリックの手の中の剣に落ちた。
それからすぐに戻った。
「……あの婆さんは、まだ生きているのか」
「生きています」
「そうか。級は」
「聖級です」
「若いな」
クラインの口元がわずかに歪んだ。
笑ったのだと、少し遅れて気づいた。
クラインは後ろへ手を上げた。
「手を出すな」
「隊長。二十人で掛かれば」
「水神流だ。打ち込めば打ち込んだ数だけ同士討ちが増える。さっきの槍を見なかったか」
「……は」
「下がっていろ」
兵たちが一斉に数歩下がった。
最初の一合はエリックから仕掛けた。
踏み込む――と、見せて。
止まる。
誘いだった。相手の受けを先に動かすための、六年間磨いてきた技術。
クラインは動かなかった。
微動だにしなかった。
エリックの誘いが空を切った。
――乗らない。
そう認識した時にはクラインの剣が動いていた。
速いとは思わなかった。ただ気がついたらそこにあった。
受ける。
受けた、と思った瞬間、剣が弾かれていた。
力の向きを逸らそうとした。逸らせなかった。逆に自分の力の向きを逸らされていた。
身体が泳いだ。
その泳いだ先にクラインの剣が待っていた。
エリックは無理やり身体を捻った。
肩口を刃がかすめた。革の胸当てが裂ける。
脇腹が悲鳴を上げた。
「……今のを避けたか」
クラインが初めて声を漏らした。
「もう一度来い」
行くしかなかった。
受けて、流す。今度は誘わない。真っ直ぐに。
クラインの剣が迎えに来る。
受ける。
流れない。
クラインの剣には力がなかった。添えているだけのような軽さ。逸らすべき力がそこになかった。
そして逸らそうとしたエリックの力だけが、そのまま流された。
身体がまた泳いだ。
二合目。三合目。四合目。
同じことの繰り返しだった。
避けるので精一杯だった。
七合目で脇腹が限界を迎えた。
踏み込みが半歩遅れた。
クラインの剣がエリックの剣を跳ね上げた。
手から剣が離れた。
道場の剣がくるくると宙を回って草の上に落ちた。
エリックの身体が止まった。
喉元に切っ先が来た。
「……終わりだ」
クラインは静かに言った。
エリックは動けなかった。
喉の皮膚に冷たい金属の感触があった。
七合。
クラインの目が草の上の剣に落ちた。
今度は少し長かった。
「あの婆さんがお前にその剣を渡すとはな、皮肉なもんだ」
クラインが言った。
「構えも受けも、形は間違っていない。あの道場のものだ」
切っ先は動かなかった。
「だが濁っている。踏み込みが混じっている。剣神流だな。それもかなり身体に染みついている」
責めるでもなく、嘲るでもなかった。事実を述べていた。
「水を濁らせて何になる。待てないなら、待つ剣を使うな」
クラインは剣に力を込め、声を一段落とした。
「……まあいい、死ね」
切っ先がわずかに沈み、喉の皮が裂けた。温かいものが首を伝った。
エリックは目を閉じなかった。
最後まで開けていた。
その時。
空気が、裂けた。
クラインの剣が弾かれていた。
男の身体が二歩、後ろへ下がった。
エリックとクラインの間に影が立っていた。
褐色の肌。白い眼帯。獣の耳。
「ギレーヌ……」
ギレーヌは答えなかった。
剣を構えたままクラインを見据えていた。息が荒かった。森を一人で走ってきたのだ。
ギレーヌはそのまま踏み込んだ。
一撃目をクラインは受けた。
受けて、流した。流しきれなかった。足が半歩、草の上を滑った。
二撃目も受けた。今度は一歩、下がらされた。
クラインの剣が三撃目を待って止まった。
三撃目は来なかった。
ギレーヌはクラインの脇を抜けていた。
後ろの兵たちの中へ。
松明が地面に落ちた。一本。二本。四本。誰かが悲鳴を上げ、馬が棹立ちになって嘶いた。火の粉が草の上に散ってすぐに踏み消された。
斜面が暗くなった。
「エリック!」
闇の中から声が飛んだ。
エリックはその声に弾かれたように草の上に手を伸ばした。指が柄に触れた。掴んだ。
顔を上げると、地面で消えかけた松明の明かりの中で、クラインがこちらを見ていた。
その目が一度エリックの手の中の剣に落ちた。
次の瞬間腕を掴まれた。
ギレーヌだった。そのまま木立の中へ引きずり込まれた。
「追え!」
「追うな」
兵の声をクラインの声が遮った。
「夜の森で剣王を追えば追った数だけ死ぬ」
枝が顔を打った。足元の根につまずいた。ギレーヌの手は腕を離さなかった。
背後からもう一度だけ声が届いた。
大きな声ではなかった。それでもよく通った。
「小僧。次は俺の前に立つな。今のままの剣で来れば死ぬ。俺は手加減ができる方ではない」
答える息は残っていなかった。
六
森の中を二人は走った。
エリックは途中で二度、膝をついた。
二度ともギレーヌが襟首を掴んで引き起こした。
握ったままの剣の柄巻きに土がついていた。三度巻き直した糸を走りながら指で払った。
窪地に戻ったのは、夜明け前だった。
ビゴたちは先に戻っていた。
「水聖殿。無事か」
ビゴの声は低かった。
「若様、肩! 誰か、治――」
ザルクの手がレオンの口を塞いだ。
レオンは目だけで何度も頷いた。手が離れてから、声を落として言い直した。
「……肩を斬られてます。誰か治癒を」
エリックは自分の肩を見た。布が裂けて血が滲んでいた。痛みはほとんどなかった。脇腹の方がずっと痛かった。喉の傷は浅く血はもう止まっていた。
治癒術師はいない。ガストがまた自分の服の裾を破った。
ギレーヌは少し離れたところに立ってこちらを見ていた。
何も言わなかった。
ただエリックの肩の布を一度だけ見て、それから目を逸らした。
ビゴが敵陣を見下ろしながら言った。
「森の中に目を置かれてるとは知らなかった。俺の落ち度だ」
ビゴは頬の傷跡を掻いた。
「ブローズは俺たちが森から来ると知った。胴当ても見られた。ディクトに教えてやるほど仲がいいとは思えんがな」
ビゴの目が森の裾の灯りへ動いた。ディクトの陣だった。昨夜と同じ場所に、同じだけの灯りが固まっていた。
「奇襲の効果は半分になる。それでもやるしかない。うちが横腹を突かなければ、本隊は挟まれて全滅だ」
兵たちは黙っていた。
昨日まで森を抜けた高揚があった。今夜はそれがなかった。
夜が明けるまでエリックは眠らなかった。
窪地の縁に座ってクラインの剣を思い出していた。
誘いに乗らない。
力を込めない。
こちらの力だけを流し、泳がせ、その先で待つ。
――待てないなら、待つ剣を使うな。
その通りだった。
自分は待っていなかった。
エリックは空を見上げた。
それからもうひとつのことを考えた。
クラインの目が三度、自分の剣に落ちたこと。
師の名を出した時。喉元に切っ先を置いた時。闇の中で拾い上げた時。
あの男はあの道場を知っている。レイダの名前を出した時の、あの間。
――あの婆さんは、まだ生きているのか。
知っているどころではない。
エリックは腰の剣の柄に手を置いた。
道場で渡された古い剣。誰が使っていたのかも、もう分からないと、レイダは言った。
柄巻きの下の手の形に馴染んだ握り。
自分の手の前に、誰の手がこれを握っていたのか。
考えるのはそこで止めた。
明日の夜が明ければ決戦だ。
残された時間は一日しかなかった。