一
決戦前日の朝、盆地の西の丘に煙が一本上がった。
風のない空を真っ直ぐに昇ってやがて薄れた。
「本隊だ」
ビゴが目を細めた。
「伝令は着いた。明朝、夜明けと同時に本隊が盆地へ出る。俺たちは両軍が噛み合ってから側面だ」
出る前に団長と決めてあった合図だった。
「隊長。本隊は俺たちが見つかったことを」
ガストが言いかけた。
「知らん。知らせる手もない」
ビゴは頬の傷跡を掻いた。
「敵は俺たちが森から出ることを知っている。待ち伏せが出るぞ。それでもやるしかない。それ以外に手がない」
その日、部隊は動かなかった。
武器の手入れ。装備の確認。傷の縫い直し。
誰も大きな声を出さなかった。
エリックは窪地の隅で剣を研いでいた。
昨夜、クラインの剣を受けた時にできた刃こぼれを砥石で少しずつ落としていく。
七合。一度も届かなかった。
どうすれば勝てるのか。
答えは出なかった。
二
昼過ぎ、ビゴがエリックを呼んだ。
窪地の縁で敵陣を見下ろしながらビゴは言った。
「明日、あんたに何を期待しているか言っておく。あの水聖を止めてくれ」
「勝てとは言わないんですか」
「言わん」
ビゴはあっさりと言った。
「あの男が剣王殿の方へ行かなければ、それでいい。剣王殿は本陣へ向かう。誰にも邪魔されずにあそこへ届けば、この戦は終わる」
ビゴは丘の上の三本の旗を指した。それから指を下ろして窪地の真下に向けた。ディクトの陣の一番奥の大きな天幕だった。
「その前にあれを殴る。ディクトの王の天幕だ。森は通れんと思って背中を預けてる。そこを背中から殴られたら、王は誰に殴られたと思う」
エリックは自分の胸を見下ろした。ブローズの紋が焼き付けてあった。
「……ブローズに、ですか」
「柵の向きを見たろう。あれはとうに隣を疑ってる。疑ってる奴は殴られたら疑ってる方を見る」
ビゴは手を下ろした。
「作戦が噛み合えば皇帝の前が薄くなる。皇帝が落ちればブローズは引く。それでうちは生き延びる」
「分かりました」
「あんたが死んでも、それは変わらん。だから死ぬなとは言わん。止めてくれ。それだけだ」
エリックは頷いた。
「ひとつ伺っても」
「何だ」
「捕虜の柵は誰が守っていますか」
ビゴが顔を上げた。
「ああいう場所は、戦が始まるとまず放置される。使い道がない者は戦の後で始末する。戦の最中に柵が破られることもよくある」
ビゴは視線を戻した。
「俺は何も聞かなかったことにする」
「はい」
「だが、水聖殿」
ビゴの声が低くなった。
「順番を間違えるな。止めるのが先だ」
三
夕方、ギレーヌがエリックの前に立った。
「振るなと言ったのは、昨日までだ」
二人は窪地の外れの、木立の陰に移った。
ギレーヌは腰の剣を鞘ごと外した。
懐から細い革紐を出して鍔と鞘の口に二重に回した。固く結んで柄を一度引いた。抜けなかった。
「抜くな。鞘に入れたままだ」
ギレーヌがもう一本の紐を投げて寄越した。
エリックも道場の剣を鞘ごと腰から外して同じように縛った。
「昨日のをやってみろ。あの男との七合だ」
「はい」
「あたしは水神流は分からん。真似もできん。だがお前がどう動いたかは見てやる」
ギレーヌは無造作に立った。構えとも呼べない立ち方だった。
エリックは構えた。
踏み込む――と、見せて。
止まる。
ギレーヌは動かなかった。
エリックの誘いが空を切る。
そして次の瞬間。
エリックは自分で動きを止めた。
「……今のです」
「なんだ」
「今、僕が先に動きました」
エリックは剣を下ろした。自分の足元を見る。半歩前に出ていた。
「誘って相手が動かなくて、それで僕の方から次を取りに行きました。昨日も同じでした。七合とも」
「水神流は待つ剣だろう」
「はい。なのに一度も待っていませんでした」
木立の中が静かになった。
ギレーヌは鞘ごとの剣を肩に担いだ。
「……なら待てるか」
「無理です」
エリックは即答した。
「六年そうやってきました。一日では直りません」
「そうか」
ギレーヌはあっさりと頷いた。
それから鞘の先で地面を軽く叩いた。
「じゃあ訊くが。明日勝てと言われたか」
「……止めてくれ、と言われました」
「なら止めろ。斬らなくていい」
「どうやって」
「斬られるな」
ギレーヌは言った。
「それだけだ」
攻めるなではない。待てでもない。
ただ斬られるな。
「相手はお前を斬らなきゃ前に進めん。お前が立ってる限りあの男は止まったままだ」
ギレーヌは鞘の先でエリックの胸を軽く突いた。
「お前は昔から、斬るより先に生き残ろうとする奴だ」
「それは褒めていますか」
「事実だ」
ギレーヌはふいと顔を背けた。
「構えろ。日が落ちるまで打つ」
四
日が落ちても火は焚けなかった。
兵たちは窪地の底に寄り集まって毛布の端を引き寄せた。昨日と同じ冷えた干し肉を誰も文句を言わずに齧っていた。
ビゴが腰から水袋を一つ外した。
「団長からだ。明日の朝の分だが、朝は飲む暇がない」
水袋が手から手へ渡っていった。栓を抜く音がするたびに、暗がりに酒の匂いが立った。一人一口ずつ。それ以上飲む者はいなかった。
回ってきた水袋を隣の男が両手で差し出した。
「水聖殿、どうぞ」
妙に丁寧な言い方だった。周りで何人かが声を殺して笑った。
エリックは一口だけ飲んで次へ回した。喉が焼けた。
窪地の奥では毛布を頭までかぶった男が一人、もう眠っていた。寝息はすぐに大きないびきに変わった。
隣のレオンが肘でその脇腹を小突いた。いびきが止まった。
少ししてまた始まった。
レオンは諦めて空を仰いだ。
「――でな、帰ったら結婚するんだ」
暗がりで誰かが言った。
「その話三回目だ」
ザルクだった。
「三回でも言う。言わねえと忘れそうになる」
誰かが喉の奥で笑った。
笑いは途中で途切れた。
「……パン屋の娘だったか。名前は」
「……ミナ」
「そうか」
それだけだった。
誰も帰ったら祝おうとは言わなかった。
「俺は故郷に婆さんがいる」
腕に包帯を巻いた男が、その包帯を撫でながら言った。
「聞いてねえぞ」
「言ってねえからな。八十だ。もう耳も遠い。俺が死んでもたぶん分からねえ」
「それはそれで、いいんじゃねえか」
「……そうだな」
水袋が空になってビゴの手に戻った。
輪から少し離れた木の根元にザルクが来て座った。
「おい、水聖」
「はい」
「剣が折れたらどうする」
エリックが答える前にザルクが言った。
「剣が折れたら拳だ。拳が折れたら歯だ」
ザルクは歯を見せた。欠けた歯が暗がりで白く見えた。
「お前は」
「折られません」
ザルクは自分の拳を握って開いた。
「俺の村はディクトに焼かれた。その三年後にブローズにも焼かれた。二度目の時はもう焼くもんがほとんど残ってなかったけどな」
淡々とした声だった。
「剣なんか持ってなかった。持ってたのは拳と歯だけだ。それで生き残った」
明日の盆地にはその二つの国の旗が立っている。
エリックは村のことを訊かなかった。
ザルクが立ち上がった。
「明日折られんなよ。折られたら拳でいけ」
「はい」
「それもできなきゃ噛め」
「覚えておきます」
「覚えとけ」
ザルクは寝床の方へ戻っていった。
入れ替わりにガストがどすんと隣に腰を下ろした。
「あの野良犬、何話してた」
「村の話です」
「……あいつが村の話をしたのか」
ガストはしばらく黙っていた。
「三年一緒にいて一回も聞いたことがねえ」
それからエリックの方を向いた。
「明日、あの水聖とやるんだろ」
「はい」
「勝てるか」
「分かりません」
「そうか。俺はな、お前が勝つと思ってる。理由は訊くな。ねえからな」
ガストは声を殺して肩を揺すった。
「森で赤いのに囲まれた時、俺はお前に二回助けられた。二回とも死ぬと思った」
ガストは斧の柄を撫でた。
「だから明日はお前の心配はしねえ。自分の心配をする」
ガストは立ち上がった。
「それが一番お前の役に立つんだろ?」
「はい」
「だろうな」
兵たちが一人ずつ毛布にくるまっていった。
窪地が静かになった。いびきだけがまた聞こえていた。
暗がりのどこかで、さっきの声がもう一度小さくその名前を言った。
今度は誰も、何回目だとは言わなかった。
五
夜が更けて兵たちが眠り始めた頃。
エリックは窪地の縁を歩いていた。寝つけなかった。
縁の岩にギレーヌが座っていた。
眼下にディクトの陣の灯りが固まっている。盆地の北の斜面ではブローズの灯りが昨日より増えているように見えた。
「エリック」
ギレーヌは自分の隣の岩を掌でぽんぽんと叩いた。
エリックは黙って隣に座った。
しばらく二人で灯りを見ていた。
左腕の紺の布が月明かりでかすかに見えた。二人とも同じものを巻いていた。
「ギレーヌ」
「なんだ」
「明日ギレーヌは本陣へ向かいます。僕は水聖を止めます。別々です」
ギレーヌの獣の耳がぴくりと動いた。
「そうだな」
「森ではずっと一緒でした。ギレーヌが前で僕が後ろで。明日は一人です」
ギレーヌは答えなかった。膝を抱えて灯りを見ていた。
「……あたしは」
しばらくしてギレーヌが言った。
「本陣に行く。皇帝を斬る。それで戦は終わる。終われば南へ行ける。下顎の谷を抜けてアスラに帰れる」
エリックは頷いた。
「行ける奴が他にいない。だから行く。それは間違ってない」
「はい」
「だが」
ギレーヌの声が低くなった。
「あたしが本陣へ行けば、お前は一人であの男の前に立つ」
エリックは何も言わなかった。
「……あたしは、また選ぶんだな」
その言葉の重さをエリックは知っていた。
草原でエリスに届かなかった手。十日間考え続けた手。
「ギレーヌ」
ギレーヌは灯りを見たままだった。
「僕はあの人に勝てないかもしれません。でも止めます」
「……根拠は」
「ありません。でも止めるだけなら勝つより簡単です」
夕方、鞘の先で突かれた胸のあたりを、エリックは指で押さえた。
「あの人は僕を斬らないと前に進めません。僕が死ななければ、あの人は止まったままです」
ギレーヌが隣を見た。
「死ななければ、か」
「はい」
「死ぬかもしれん、ということか」
「そうなりますね」
ギレーヌはしばらく黙っていた。
それからエリックの頭を平手で叩いた。
軽くではなかった。
「痛いです」
「馬鹿が」
ギレーヌの声がかすかに震えていた。
「死ぬなと言った。一昨日も。死ぬかもしれん、なんて言い方をするな」
「はい」
「生きて止めろ。それができないならあたしは本陣へ行かん」
エリックは顔を上げた。
「それは困ります」
「困るのはこっちだ」
ギレーヌは立ち上がった。
それから眼下の灯りを見下ろしたまま、ぽつりと言った。
「……あたしの手の届かん所で、死ぬな」
エリックはその横顔を見た。
エリス。ルーデウス。ヒルダ。フィリップ。サウロス。
この人が生きているかどうかも分からないまま抱えている名前の数を、エリックは初めて数えた。
自分もそこに入れられかけたのだ。十日間。
「はい」
エリックは言った。
「死にません。ギレーヌが来るまで立っています」
ギレーヌは背を向けた。
窪地の方へ歩いていく。
その背中に向かってエリックは言った。
「ギレーヌ」
足が止まった。
「明日、全部終わったら」
言いたいことはたくさんあった。九つの冬から八年分。
その中から一つを選んだ。
「手合わせをしてください」
ギレーヌは振り返らなかった。
「……ロアでやる約束だった」
「忘れていません」
「一年遅れた」
「はい」
「もう一年待てるか」
「待てません」
「……そうか」
ギレーヌの尻尾がゆっくりと一度だけ揺れた。
「じゃあ明日、戦が終わってからだ」
それだけ言ってギレーヌは歩いていった。
夜明けまであと二刻ほどだった。
エリックは岩の上で剣を抜いた。
振らなかった。膝の上に置いて刃を見ていた。
柄巻きの下の握りは自分の手に合っていた。けれど最初から自分の手の形だったわけではない気がした。
クラインの目が三度、これに落ちた。
エリックは剣を膝に置いたまま目を閉じた。
六年かけて磨いてきた誘いは明日は使えない。あの男には通じない。
なら何が残る。
十一の秋、木剣一本で賊を追った。馬鹿だね、と水神の老婆に言われた。
十の冬、額にこぶを作りながら、斬られる瞬間まで目を開けておけと教わった。
九つの冬、夜明けの中庭できれいだと思った。
全部守るためだった。
両方守ると決めた。守れなかった。弟の右手は元に戻らなかった。
だから次は。
エリックは目を開けた。
東の空がわずかに白み始めていた。
西の丘で角笛が鳴った。
「――来たぞ」