一
夜明けと同時に地鳴りが始まった。
盆地の西からマルキエンの本隊が出た。
窪地の縁から見下ろすと、黒い塊が斜面を下っていくのが見えた。旗が揺れている。色褪せた紺色に、交差する二本の剣。
その黒い塊に向かって東と北から二つの軍が動き出した。
ディクト王国とブローズ帝国。どちらもマルキエンの三倍はあった。
「……始まったな」
ガストが低く言った。
「まだだ。噛み合うまで待つ」
ビゴは盆地から目を離さなかった。
盆地の中央で三つの軍が接触した。
音は少し遅れて届いた。
鉄がぶつかる音。人の叫び。馬の悲鳴。それが一つに混ざって腹に響く低い唸りになった。
人が木の葉のように死んでいた。
ひと塊ごと、数十人ずつ、ぶつかった場所から消えていく。
――数が多い。味方がいる。地面が悪い。疲れる。腹が減る。誰かが叫んでる。誰かが死んでる。
ギレーヌの言葉の通りだった。そしてその全部を合わせても、足りなかった。
「行くぞ」
ビゴが剣を抜いた。
「斜面を一気に下る。止まるな。振り返るな」
部隊が立ち上がった。
ギレーヌのほかは全員の胸にブローズの紋があった。左腕には紺の布があった。
ギレーヌが先頭に立った。エリックはその隣に並んだ。
「ギレーヌ。気をつけてください」
ギレーヌがちらりとこちらを見た。
「お前もだ」
それだけだった。
斜面を駆け下りた。
二
斜面の途中の岩陰に伏兵がいた。ブローズの槍兵が三十人ほど。一昨日の夜に見つかった以上、当然の配置だった。
ギレーヌがそこへ真っ先に突っ込んだ。
速度を落とさずに斜面を駆け下り、伏兵の列に正面からぶつかった。
槍が何本も突き出された。一本も当たらなかった。
ギレーヌの身体が槍の間を縫っていく。すり抜けながら、すれ違いざまに斬っていく。三十人の壁がギレーヌの通った所だけ割れた。
エリックはその後ろを走った。
ギレーヌが開けた穴に部隊を通す。
左右から槍が来る。受ける。流す。
槍が止まる。横へ逸れて隣の兵の方へ行く。
背後でガストの斧が唸った。
視界の端にザルクが見えた。剣はもう手になかった。槍の柄を掴んで引き寄せ、兵の顔に拳を叩き込んでいた。倒れた兵の剣を拾ってそのまま走り出した。
「進め! 止まるなよ!」
ビゴが叫んだ。
部隊が伏兵の列を抜けた。
抜けた時、一人減っていた。
後ろで聞こえていた声が一つ、途切れていた。確かめる時間はなかった。
斜面を下りきると、ディクトの陣の背中だった。
こちら側には柵がなかった。杭はみんな北の斜面の方へ向けて打たれていた。
前の兵はもう盆地の真ん中へ出ていた。残っているのは、一番大きな天幕を囲む兵だけだった。どの顔も斜面を駆け下りてくる一団を見ていた。
ギレーヌは速度を落とさなかった。一番大きな天幕へ、まっすぐに。
天幕の前で、痩せた背の高い男が振り返った。銀の冠を載せていた。
男の目がこちらの胸の紋に止まった。
「ブローズだ!」
男が叫んだ。
「ブローズが裏切った! 角笛を吹け! 前方の兵を戻してブローズを討て!」
角笛が鳴った。
男は護衛に囲まれて馬の方へ下がっていった。
鐙に足がかかった時、ギレーヌはもう護衛の列を抜けていた。
銀の冠が地面に転がった。
角笛はまだ鳴っていた。吹いている兵は振り返っていなかった。
盆地の真ん中で、ディクトの列の後ろ半分が向きを変えた。槍の穂先が北の斜面へ傾いていった。
北の斜面からも角笛が鳴り返した。
「散開しろ! 混乱を広げろ! 天幕を焼け!」
兵たちが散った。
篝火が蹴倒され、燃えさしが天幕に投げ込まれる。悲鳴が上がる。王の天幕から火の手が上がった。
エリックはギレーヌと並んで走っていた。
ディクトの陣を抜けて、北の斜面へ。
斜面の裾ではもう斬り合いが始まっていた。ディクトの兵とブローズの兵が、同じ言葉を叫んでいた。
裏切りだ、と。
ギレーヌはディクトの槍の列を横から裂いた。三人。四人。
ブローズの兵が一人、こちらを見て槍を上げた。
「そこの傭兵、助かる! こっちだ!」
ブローズの列が割れて道が空いた。
ブローズの兵が見ていたのは胸の紋だけだった。腕の紺の布を見ている者はいなかった。
ギレーヌは空いた道へ飛び込んだ。エリックも続いた。
後ろでザルクの声がした。
「……礼を言われたぞ」
振り返る時間はなかった。
斜面を登る。本陣の方角へ。
三本の旗が丘の上に見えていた。
その手前に整然と並んだ天幕の列があった。親衛隊の陣だった。
天幕の間に踏み固められた通路がある。一昨日の夜、ここなら受けられると頭に刻んだ場所だった。
そして、その通路に。
人が立っていた。
周りの兵が右往左往する中で、その男だけが動かずにこちらを見ていた。
クライン・ディノルタスだった。
三
ギレーヌの足が止まった。エリックも止まった。
距離は二十歩ほど。
クラインの剣はもう抜かれていた。抜き身を右手に下げ、切っ先を地面に向けていた。刃は乾いていた。
クラインの背後に親衛隊が扇形に展開していた。数十人。
「陛下より剣王を討てと命を受けている」
クラインの声は静かだった。
「本陣には誰も通さん」
「どけ」
「どかん」
ギレーヌが一歩踏み出した。親衛隊が一斉に槍を構えた。
「……剣王。時間が惜しいのは貴様の方だろう。ここで俺とこいつら全員を斬るのに、どれだけかかる。その間に本陣の守りは固まる」
ギレーヌの獣の耳が後ろに倒れた。
その通りだった。
エリックは左手をギレーヌの肩に置いた。右手の剣の切っ先はクラインに向けたままだった。
「行ってください」
「……お前」
「僕の相手はここにいます。約束通り止めます」
ギレーヌは動かなかった。
その目がエリックを見ていた。尻尾が力なく垂れていた。
「戦が終わったら手合わせです。昨夜、そう決めました」
しばらく返事はなかった。
それから足音が動いた。
斜面を駆け上がっていく。親衛隊の列の脇を抜けて。
クラインの踵が浮いた。
身体が斜面の方へ開きかけた。下げていた切っ先がギレーヌの背を追って持ち上がった。
エリックは一歩前へ出た。
剣先を開きかけたクラインの脇腹の高さに置いた。斬りかかりはしなかった。
クラインの踵が地面に戻った。
クラインが半歩横へ出た。斜面へ抜けられる位置へ。
エリックも半歩出た。剣先は同じ高さのままついていった。
クラインの目が一度だけ斜面へ流れた。
すぐに戻った。エリックの剣先へ。
斜面を駆け上がる足音が遠くなっていった。
クラインの切っ先が、ゆっくりと地面へ戻った。
親衛隊が追おうとした。
「追うな」
クラインはエリックから目を離さずに言った。
「お前らが追っても死ぬだけだ。本陣の三隊に任せる。それからこいつには手を出すな」
親衛隊が数歩下がった。
槍の穂先が一斉にこちらを向いた。
エリックの周囲に円形の空白ができた。その縁を穂先がぐるりと埋めていた。
誰も声を出さなかった。この男の前に場所を空けるのに、慣れた動きだった。
どこへ下がっても穂先があった。
周りでは天幕が燃えていた。兵が走り、叫び、倒れていた。
その喧騒の真ん中に二人だけの空白があった。
エリックは剣を構え直した。
道場の剣を。
クラインの目がそれに落ちた。
四度目だった。
今度は戻らなかった。
「……その剣は」
クラインがふっと笑った。
「俺のものだった」
エリックは動かなかった。
「水聖になった日にあの婆さんから渡され、国を出る時、道場に置いてきた」
「誰が使っていたのかも、もう分からない、と言われました」
「あの婆さんがそう言ったか」
「はい」
クラインはしばらく黙っていた。
「……嘘の下手な婆さんだ」
それから下げていた剣を握り直した。
「来い小僧。その剣で」
四
クラインが構えた。
水神流の構え。力の入っていない、あの構え。
エリックは動かなかった。
構えたまま立っていた。
クラインの眉がわずかに動いた。
「……来ないのか」
クラインはしばらく黙っていた。
それからゆっくりと足の位置を変えた。
「……なるほどな」
二人とも動かなかった。
周囲では戦が続いていた。
右手で燃えた天幕が崩れ落ちた。火の粉が二人の間を流れていった。
左手をブローズの兵が三人、悲鳴を上げて走り抜けた。追っているのはディクトの兵だった。追う方も逃げる方も、裏切り者と叫んでいた。
流れ矢がエリックの足元の土に突き立った。
円の外で鉄が鳴った。
斜面の下から紺の布を巻いた一団が駆け上がってきていた。先頭に戦斧が見えた。
「水聖!」
ガストの声だった。
斧が円の外側に並んだ背中へ叩き込まれた。その脇で耳の欠けた男が兵の兜に頭突きを入れていた。
「円に入るな! 外から剥がせ!」
ビゴの声だった。
親衛隊の外側の列が振り返った。穂先が斜面の下へ向き、槍と斧がぶつかった。
内側の列はこちらを向いたままだった。
縁のあちこちで、兵が一人、また一人と外へ抜けていった。倒れた者がいて加勢に走った者がいた。そのたびに穂先の列が欠けた。
縁に穴が空いた。
穴の向こうに燃える天幕と斜面が見えた。
エリックはそちらを見なかった。
穴はすぐに埋まった。両隣の兵が半歩ずつ詰めて、円の大きさは変わらなかった。
円の外は、ずっと騒がしかった。
円の中は、静かだった。
二人とも視線を動かさなかった。
「……凪いでやがる」
穂先を向けたまま、親衛隊の年嵩の兵が呟いた。
エリックの脇腹が最初に音を上げた。
構えを保っているだけで呼吸が浅くなる。浅い呼吸は身体を冷やす。冷えた身体は動きが鈍る。
汗が顎から落ちた。
斜面の上から兵が転がるように駆け下りてきた。
「ディノルタス殿! 本陣に獣族の女が! 天幕の列を三つ抜かれています!」
穂先の列が揺れた。
縁の一角で、組頭らしい兵が槍を短く持ち替えた。
その目が左右の兵へ一度ずつ動いた。
声はなかった。
右から槍。左から剣。同じ拍子で来た。
エリックはクラインから目を離さなかった。
右の穂先を剣の腹で受ける。流す。槍の兵が自分の勢いのまま円の中を泳いだ。
左の剣は半歩ずれるだけで空を切った。剣の兵が前のめりにたたらを踏んだ。
泳いだ二人の行く先に、クラインがいた。
クラインは一歩も動かなかった。剣先だけをわずかに傾けた。槍の兵がその刃の脇をかすめて土に転がった。
「下がれと言った」
クラインは兵の方を見もしなかった。
「……ですが、本陣が」
組頭の声だった。
「分かっている。入った数だけこいつの剣が増える。円を保て」
二人は這うようにして縁へ戻った。組頭が槍を構え直した。穂先の列が元の高さに揃った。
また静かになった。
クラインの顔には汗がなかった。呼吸も乱れていない。
――待てる。この人はいつまででも。
立て。
立ち続けろ。
もう少し。
あともう少しだけ。
斜面の上で、鬨とも悲鳴ともつかない声が上がった。
斜面の下からも鬨が上がってきた。盆地の真ん中にいたはずの本隊の声が、もう陣の外縁まで来ていた。
円の縁で親衛隊の兵がまた一人倒れた。
クラインの剣先がわずかに動いた。
それまで微動だにしなかった剣先が。
――焦れている。
待てないのはこの男の方だ。
「……小僧」
クラインが言った。
その目が一度、斜面の上へ動いた。本陣の方へ。旗はまだ三本立っていた。
それからエリックの足元に戻った。最初の位置から一歩も動いていない足に。
「……そうか。時間か」
クラインは腰を落とした。構えが変わった。
「ならばその時間を奪う」
五
最初の一合が来た。
速かった。一昨日の七合のどれよりも。
受ける。
流れない。力が込められている。本気で斬りに来ている。
弾かれた。
二合目。三合目。
受ける。受ける。
腕が痺れた。脇腹が悲鳴を上げた。
四合目で、クラインの剣がエリックの手首を打った。
指が柄から離れかけた。
道場では剣が飛んだら、そこで止める。
身体がそう言った。
止まらなかった。
離れかけた指を柄に食い込ませた。握り直すより先に足を動かした。
五合目で膝が地面についた。
六合目をかろうじて頭上で受けた。
エリックはその時、はっきりと理解した。
止められない。
この男は自分が死ぬまで止まらない。立っているだけではもう止められない。
止めるには。
――殺すしかない。
その考えが頭の中に降りてきた。
斬ろう、と思った。
初めてだった。
七合目。
エリックは受けなかった。半歩下がった。
クラインの剣が空を切る。わずかに泳いだ。
八合目。また下がった。
九合目。十合目。
剣が届かないぎりぎりの距離を、後ろへ、横へ。背中に穂先の気配が来るたびに円をなぞるように回った。
斬らせない。当たらせない。ただ生きている。
クラインの剣が空を切り続ける。
「……小賢しい」
クラインの息が初めて乱れた。
クラインは追うのをやめた。
剣を振らずに、一歩横へ出た。エリックが回ろうとしていた先だった。
逆へ回った。クラインがまた一歩そちらへ出た。
クラインが動くたびに穂先の列が一歩ずつ詰めた。声はかからなかった。
円が小さくなっていた。
――この円は、この男の道場だ。
三歩目で踵が土の盛り上がりに当たった。
背中に穂先が触れた。
エリックは静かになった。
呼吸を止めた。
円の縁で年嵩の兵が穂先を一歩引いたのが見えた。
その向こう、斜面の下の陣の外れで一隊だけが向きを変えていた。腕の布が灰色に見えた。隊列を崩さずに下がっていった。
斜面の上からまた声が降ってきた。
「ディノルタス殿! 陛下が――」
クラインは見なかった。
目はエリックの胸元に置いたままだった。
腰が沈んだ。剣が肩の上に引かれた。全身の重さを一太刀に乗せる構えだった。
待つ剣の男が、待たずに打つ構えだった。
受ければ剣ごと押し潰される。流そうにも流れる重さではなかった。下がる場所はもうなかった。
水神流の剣士に残っている手はなかった。
クラインが踏み込んだ。
――もたない。
野盗の時は斬ろうと思ってはいなかった。目の前のものを止めるために身体が動いただけだった。
今は違う。
この男を、殺す。
そう決めた。
エリックの身体が動いた。
下がるのではなく、前へ。
剣神流の踏み込み。
ベルンハルトに叩き込まれ、ギレーヌの素振りを八年間なぞり続けた、先に動いて先に斬る一歩。
水神流の剣士にはない一歩だった。
その剣で、と言った男の目が、見開かれた。
剣が交錯した。
音はひとつだけだった。
エリックの剣がクラインの胸に入っていた。
クラインの剣はエリックの左肩を斬り裂いていた。
深くはなかった。振り下ろしきる前の刃の根元だった。
二人はそのまま立っていた。息がかかるほどの距離で。
「……ああ」
クラインが小さく声を漏らした。
それから胸に入った剣を見下ろした。
クラインの膝が折れた。
エリックは剣を抜いた。
血が噴き出した。
クラインが地面に倒れた。
エリックはその場に立っていた。
左肩から血が流れていた。痛みは感じなかった。
自分の手を見た。剣を握った手を。
――殺した。
野盗の時のような吐き気はなかった。
震えもなかった。
指が柄から離れなかった。
六
クラインはまだ生きていた。
仰向けに倒れて空を見上げていた。
エリックはその傍らにいた。
「……小僧。俺は待てたはずだった。昨日まではいつまででも待てた」
血が口の端から流れた。
「今日は待てなかった。守るものができたからだ」
エリックは何も言わなかった。
クラインはかすかに笑った。
「……婆さんに言われたことがある。守るもののない剣だと。二十年かかって今、分かった」
クラインは目を閉じかけて、また開けた。
「いつか、貴様にも守るものができる。その時、貴様も待てなくなる」
その声は静かだった。
「どうするかは、自分で考えろ」
クラインの手から力が抜けた。
目は開いたままだった。
エリックはその瞼を指で閉じた。
戦場の音が遠くで続いていた。
円の縁の槍はいつの間にかなくなっていた。
斜面の上からどよめきが降ってきた。
本陣の三本の旗のうち、一本目が倒れていくのが見えた。