凪の水帝   作:アサツラ

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第23話 凪

一

 

 夜明けと同時に地鳴りが始まった。

 盆地の西からマルキエンの本隊が出た。

 窪地の縁から見下ろすと、黒い塊が斜面を下っていくのが見えた。旗が揺れている。色褪せた紺色に、交差する二本の剣。

 その黒い塊に向かって東と北から二つの軍が動き出した。

 ディクト王国とブローズ帝国。どちらもマルキエンの三倍はあった。

 

「……始まったな」

 

 ガストが低く言った。

 

「まだだ。噛み合うまで待つ」

 

 ビゴは盆地から目を離さなかった。

 

 盆地の中央で三つの軍が接触した。

 音は少し遅れて届いた。

 鉄がぶつかる音。人の叫び。馬の悲鳴。それが一つに混ざって腹に響く低い唸りになった。

 人が木の葉のように死んでいた。

 ひと塊ごと、数十人ずつ、ぶつかった場所から消えていく。

 ――数が多い。味方がいる。地面が悪い。疲れる。腹が減る。誰かが叫んでる。誰かが死んでる。

 ギレーヌの言葉の通りだった。そしてその全部を合わせても、足りなかった。

 

「行くぞ」

 

 ビゴが剣を抜いた。

 

「斜面を一気に下る。止まるな。振り返るな」

 

 部隊が立ち上がった。

 ギレーヌのほかは全員の胸にブローズの紋があった。左腕には紺の布があった。

 ギレーヌが先頭に立った。エリックはその隣に並んだ。

 

「ギレーヌ。気をつけてください」

 

 ギレーヌがちらりとこちらを見た。

 

「お前もだ」

 

 それだけだった。

 斜面を駆け下りた。

 

二

 

 斜面の途中の岩陰に伏兵がいた。ブローズの槍兵が三十人ほど。一昨日の夜に見つかった以上、当然の配置だった。

 ギレーヌがそこへ真っ先に突っ込んだ。

 速度を落とさずに斜面を駆け下り、伏兵の列に正面からぶつかった。

 槍が何本も突き出された。一本も当たらなかった。

 ギレーヌの身体が槍の間を縫っていく。すり抜けながら、すれ違いざまに斬っていく。三十人の壁がギレーヌの通った所だけ割れた。

 

 エリックはその後ろを走った。

 ギレーヌが開けた穴に部隊を通す。

 左右から槍が来る。受ける。流す。

 槍が止まる。横へ逸れて隣の兵の方へ行く。

 背後でガストの斧が唸った。

 視界の端にザルクが見えた。剣はもう手になかった。槍の柄を掴んで引き寄せ、兵の顔に拳を叩き込んでいた。倒れた兵の剣を拾ってそのまま走り出した。

 

「進め! 止まるなよ!」

 

 ビゴが叫んだ。

 部隊が伏兵の列を抜けた。

 抜けた時、一人減っていた。

 後ろで聞こえていた声が一つ、途切れていた。確かめる時間はなかった。

 

 斜面を下りきると、ディクトの陣の背中だった。

 こちら側には柵がなかった。杭はみんな北の斜面の方へ向けて打たれていた。

 前の兵はもう盆地の真ん中へ出ていた。残っているのは、一番大きな天幕を囲む兵だけだった。どの顔も斜面を駆け下りてくる一団を見ていた。

 ギレーヌは速度を落とさなかった。一番大きな天幕へ、まっすぐに。

 天幕の前で、痩せた背の高い男が振り返った。銀の冠を載せていた。

 男の目がこちらの胸の紋に止まった。

 

「ブローズだ!」

 

 男が叫んだ。

 

「ブローズが裏切った! 角笛を吹け! 前方の兵を戻してブローズを討て!」

 

 角笛が鳴った。

 男は護衛に囲まれて馬の方へ下がっていった。

 鐙に足がかかった時、ギレーヌはもう護衛の列を抜けていた。

 銀の冠が地面に転がった。

 角笛はまだ鳴っていた。吹いている兵は振り返っていなかった。

 盆地の真ん中で、ディクトの列の後ろ半分が向きを変えた。槍の穂先が北の斜面へ傾いていった。

 北の斜面からも角笛が鳴り返した。

 

「散開しろ! 混乱を広げろ! 天幕を焼け!」

 

 兵たちが散った。

 篝火が蹴倒され、燃えさしが天幕に投げ込まれる。悲鳴が上がる。王の天幕から火の手が上がった。

 エリックはギレーヌと並んで走っていた。

 ディクトの陣を抜けて、北の斜面へ。

 斜面の裾ではもう斬り合いが始まっていた。ディクトの兵とブローズの兵が、同じ言葉を叫んでいた。

 裏切りだ、と。

 ギレーヌはディクトの槍の列を横から裂いた。三人。四人。

 ブローズの兵が一人、こちらを見て槍を上げた。

 

「そこの傭兵、助かる! こっちだ!」

 

 ブローズの列が割れて道が空いた。

 ブローズの兵が見ていたのは胸の紋だけだった。腕の紺の布を見ている者はいなかった。

 ギレーヌは空いた道へ飛び込んだ。エリックも続いた。

 後ろでザルクの声がした。

 

「……礼を言われたぞ」

 

 振り返る時間はなかった。

 斜面を登る。本陣の方角へ。

 三本の旗が丘の上に見えていた。

 その手前に整然と並んだ天幕の列があった。親衛隊の陣だった。

 天幕の間に踏み固められた通路がある。一昨日の夜、ここなら受けられると頭に刻んだ場所だった。

 

 そして、その通路に。

 人が立っていた。

 周りの兵が右往左往する中で、その男だけが動かずにこちらを見ていた。

 クライン・ディノルタスだった。

 

三

 

 ギレーヌの足が止まった。エリックも止まった。

 距離は二十歩ほど。

 クラインの剣はもう抜かれていた。抜き身を右手に下げ、切っ先を地面に向けていた。刃は乾いていた。

 クラインの背後に親衛隊が扇形に展開していた。数十人。

 

「陛下より剣王を討てと命を受けている」

 

 クラインの声は静かだった。

 

「本陣には誰も通さん」

「どけ」

「どかん」

 

 ギレーヌが一歩踏み出した。親衛隊が一斉に槍を構えた。

 

「……剣王。時間が惜しいのは貴様の方だろう。ここで俺とこいつら全員を斬るのに、どれだけかかる。その間に本陣の守りは固まる」

 

 ギレーヌの獣の耳が後ろに倒れた。

 その通りだった。

 エリックは左手をギレーヌの肩に置いた。右手の剣の切っ先はクラインに向けたままだった。

 

「行ってください」

「……お前」

「僕の相手はここにいます。約束通り止めます」

 

 ギレーヌは動かなかった。

 その目がエリックを見ていた。尻尾が力なく垂れていた。

 

「戦が終わったら手合わせです。昨夜、そう決めました」

 

 しばらく返事はなかった。

 それから足音が動いた。

 斜面を駆け上がっていく。親衛隊の列の脇を抜けて。

 

 クラインの踵が浮いた。

 身体が斜面の方へ開きかけた。下げていた切っ先がギレーヌの背を追って持ち上がった。

 エリックは一歩前へ出た。

 剣先を開きかけたクラインの脇腹の高さに置いた。斬りかかりはしなかった。

 クラインの踵が地面に戻った。

 

 クラインが半歩横へ出た。斜面へ抜けられる位置へ。

 エリックも半歩出た。剣先は同じ高さのままついていった。

 クラインの目が一度だけ斜面へ流れた。

 すぐに戻った。エリックの剣先へ。

 

 斜面を駆け上がる足音が遠くなっていった。

 クラインの切っ先が、ゆっくりと地面へ戻った。

 

 親衛隊が追おうとした。

 

「追うな」

 

 クラインはエリックから目を離さずに言った。

 

「お前らが追っても死ぬだけだ。本陣の三隊に任せる。それからこいつには手を出すな」

 

 親衛隊が数歩下がった。

 槍の穂先が一斉にこちらを向いた。

 エリックの周囲に円形の空白ができた。その縁を穂先がぐるりと埋めていた。

 誰も声を出さなかった。この男の前に場所を空けるのに、慣れた動きだった。

 どこへ下がっても穂先があった。

 周りでは天幕が燃えていた。兵が走り、叫び、倒れていた。

 その喧騒の真ん中に二人だけの空白があった。

 

 エリックは剣を構え直した。

 道場の剣を。

 クラインの目がそれに落ちた。

 四度目だった。

 今度は戻らなかった。

 

「……その剣は」

 

 クラインがふっと笑った。

 

「俺のものだった」

 

 エリックは動かなかった。

 

「水聖になった日にあの婆さんから渡され、国を出る時、道場に置いてきた」

「誰が使っていたのかも、もう分からない、と言われました」

「あの婆さんがそう言ったか」

「はい」

 

 クラインはしばらく黙っていた。

 

「……嘘の下手な婆さんだ」

 

 それから下げていた剣を握り直した。

 

「来い小僧。その剣で」

 

四

 

 クラインが構えた。

 水神流の構え。力の入っていない、あの構え。

 エリックは動かなかった。

 構えたまま立っていた。

 クラインの眉がわずかに動いた。

 

「……来ないのか」

 

 クラインはしばらく黙っていた。

 それからゆっくりと足の位置を変えた。

 

「……なるほどな」

 

 二人とも動かなかった。

 周囲では戦が続いていた。

 右手で燃えた天幕が崩れ落ちた。火の粉が二人の間を流れていった。

 左手をブローズの兵が三人、悲鳴を上げて走り抜けた。追っているのはディクトの兵だった。追う方も逃げる方も、裏切り者と叫んでいた。

 流れ矢がエリックの足元の土に突き立った。

 円の外で鉄が鳴った。

 斜面の下から紺の布を巻いた一団が駆け上がってきていた。先頭に戦斧が見えた。

 

「水聖!」

 

 ガストの声だった。

 斧が円の外側に並んだ背中へ叩き込まれた。その脇で耳の欠けた男が兵の兜に頭突きを入れていた。

 

「円に入るな! 外から剥がせ!」

 

 ビゴの声だった。

 親衛隊の外側の列が振り返った。穂先が斜面の下へ向き、槍と斧がぶつかった。

 内側の列はこちらを向いたままだった。

 縁のあちこちで、兵が一人、また一人と外へ抜けていった。倒れた者がいて加勢に走った者がいた。そのたびに穂先の列が欠けた。

 縁に穴が空いた。

 穴の向こうに燃える天幕と斜面が見えた。

 エリックはそちらを見なかった。

 穴はすぐに埋まった。両隣の兵が半歩ずつ詰めて、円の大きさは変わらなかった。

 円の外は、ずっと騒がしかった。

 円の中は、静かだった。

 二人とも視線を動かさなかった。

 

「……凪いでやがる」

 

 穂先を向けたまま、親衛隊の年嵩の兵が呟いた。

 エリックの脇腹が最初に音を上げた。

 構えを保っているだけで呼吸が浅くなる。浅い呼吸は身体を冷やす。冷えた身体は動きが鈍る。

 汗が顎から落ちた。

 

 斜面の上から兵が転がるように駆け下りてきた。

 

「ディノルタス殿! 本陣に獣族の女が! 天幕の列を三つ抜かれています!」

 

 穂先の列が揺れた。

 縁の一角で、組頭らしい兵が槍を短く持ち替えた。

 その目が左右の兵へ一度ずつ動いた。

 声はなかった。

 右から槍。左から剣。同じ拍子で来た。

 エリックはクラインから目を離さなかった。

 右の穂先を剣の腹で受ける。流す。槍の兵が自分の勢いのまま円の中を泳いだ。

 左の剣は半歩ずれるだけで空を切った。剣の兵が前のめりにたたらを踏んだ。

 泳いだ二人の行く先に、クラインがいた。

 クラインは一歩も動かなかった。剣先だけをわずかに傾けた。槍の兵がその刃の脇をかすめて土に転がった。

 

「下がれと言った」

 

 クラインは兵の方を見もしなかった。

 

「……ですが、本陣が」

 

 組頭の声だった。

 

「分かっている。入った数だけこいつの剣が増える。円を保て」

 

 二人は這うようにして縁へ戻った。組頭が槍を構え直した。穂先の列が元の高さに揃った。

 また静かになった。

 クラインの顔には汗がなかった。呼吸も乱れていない。

 

 ――待てる。この人はいつまででも。

 立て。

 立ち続けろ。

 もう少し。

 あともう少しだけ。

 

 斜面の上で、鬨とも悲鳴ともつかない声が上がった。

 斜面の下からも鬨が上がってきた。盆地の真ん中にいたはずの本隊の声が、もう陣の外縁まで来ていた。

 円の縁で親衛隊の兵がまた一人倒れた。

 クラインの剣先がわずかに動いた。

 それまで微動だにしなかった剣先が。

 

 ――焦れている。

 待てないのはこの男の方だ。

 

「……小僧」

 

 クラインが言った。

 その目が一度、斜面の上へ動いた。本陣の方へ。旗はまだ三本立っていた。

 それからエリックの足元に戻った。最初の位置から一歩も動いていない足に。

 

「……そうか。時間か」

 

 クラインは腰を落とした。構えが変わった。

 

「ならばその時間を奪う」

 

五

 

 最初の一合が来た。

 速かった。一昨日の七合のどれよりも。

 受ける。

 流れない。力が込められている。本気で斬りに来ている。

 弾かれた。

 二合目。三合目。

 受ける。受ける。

 腕が痺れた。脇腹が悲鳴を上げた。

 

 四合目で、クラインの剣がエリックの手首を打った。

 指が柄から離れかけた。

 

 道場では剣が飛んだら、そこで止める。

 身体がそう言った。

 止まらなかった。

 離れかけた指を柄に食い込ませた。握り直すより先に足を動かした。

 五合目で膝が地面についた。

 六合目をかろうじて頭上で受けた。

 

 エリックはその時、はっきりと理解した。

 止められない。

 この男は自分が死ぬまで止まらない。立っているだけではもう止められない。

 止めるには。

 

 ――殺すしかない。

 その考えが頭の中に降りてきた。

 斬ろう、と思った。

 初めてだった。

 

 七合目。

 エリックは受けなかった。半歩下がった。

 クラインの剣が空を切る。わずかに泳いだ。

 八合目。また下がった。

 九合目。十合目。

 剣が届かないぎりぎりの距離を、後ろへ、横へ。背中に穂先の気配が来るたびに円をなぞるように回った。

 斬らせない。当たらせない。ただ生きている。

 クラインの剣が空を切り続ける。

 

「……小賢しい」

 

 クラインの息が初めて乱れた。

 クラインは追うのをやめた。

 剣を振らずに、一歩横へ出た。エリックが回ろうとしていた先だった。

 逆へ回った。クラインがまた一歩そちらへ出た。

 クラインが動くたびに穂先の列が一歩ずつ詰めた。声はかからなかった。

 円が小さくなっていた。

 ――この円は、この男の道場だ。

 三歩目で踵が土の盛り上がりに当たった。

 背中に穂先が触れた。

 

 エリックは静かになった。

 呼吸を止めた。

 円の縁で年嵩の兵が穂先を一歩引いたのが見えた。

 その向こう、斜面の下の陣の外れで一隊だけが向きを変えていた。腕の布が灰色に見えた。隊列を崩さずに下がっていった。

 斜面の上からまた声が降ってきた。

 

「ディノルタス殿! 陛下が――」

 

 クラインは見なかった。

 目はエリックの胸元に置いたままだった。

 腰が沈んだ。剣が肩の上に引かれた。全身の重さを一太刀に乗せる構えだった。

 待つ剣の男が、待たずに打つ構えだった。

 受ければ剣ごと押し潰される。流そうにも流れる重さではなかった。下がる場所はもうなかった。

 水神流の剣士に残っている手はなかった。

 クラインが踏み込んだ。

 

 ――もたない。

 野盗の時は斬ろうと思ってはいなかった。目の前のものを止めるために身体が動いただけだった。

 今は違う。

 この男を、殺す。

 そう決めた。

 

 エリックの身体が動いた。

 下がるのではなく、前へ。

 剣神流の踏み込み。

 ベルンハルトに叩き込まれ、ギレーヌの素振りを八年間なぞり続けた、先に動いて先に斬る一歩。

 水神流の剣士にはない一歩だった。

 その剣で、と言った男の目が、見開かれた。

 

 剣が交錯した。

 音はひとつだけだった。

 エリックの剣がクラインの胸に入っていた。

 クラインの剣はエリックの左肩を斬り裂いていた。

 深くはなかった。振り下ろしきる前の刃の根元だった。

 二人はそのまま立っていた。息がかかるほどの距離で。

 

「……ああ」

 

 クラインが小さく声を漏らした。

 それから胸に入った剣を見下ろした。

 

 クラインの膝が折れた。

 エリックは剣を抜いた。

 血が噴き出した。

 クラインが地面に倒れた。

 

 エリックはその場に立っていた。

 左肩から血が流れていた。痛みは感じなかった。

 自分の手を見た。剣を握った手を。

 

 ――殺した。

 野盗の時のような吐き気はなかった。

 震えもなかった。

 指が柄から離れなかった。

 

六

 

 クラインはまだ生きていた。

 仰向けに倒れて空を見上げていた。

 エリックはその傍らにいた。

 

「……小僧。俺は待てたはずだった。昨日まではいつまででも待てた」

 

 血が口の端から流れた。

 

「今日は待てなかった。守るものができたからだ」

 

 エリックは何も言わなかった。

 クラインはかすかに笑った。

 

「……婆さんに言われたことがある。守るもののない剣だと。二十年かかって今、分かった」

 

 クラインは目を閉じかけて、また開けた。

 

「いつか、貴様にも守るものができる。その時、貴様も待てなくなる」

 

 その声は静かだった。

 

「どうするかは、自分で考えろ」

 

 クラインの手から力が抜けた。

 目は開いたままだった。

 エリックはその瞼を指で閉じた。

 

 戦場の音が遠くで続いていた。

 円の縁の槍はいつの間にかなくなっていた。

 斜面の上からどよめきが降ってきた。

 本陣の三本の旗のうち、一本目が倒れていくのが見えた。

 

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