一
王都を出て四日目に、景色が変わった。
それまで窓の外を流れていたのは、石造りの町と、整えられた果樹園と、どこまでも続く街道の並木だった。それが、ある峠をひとつ越えたところで、ふっと途切れた。
代わりに現れたのは、緑の海だった。
なだらかな丘が幾重にも連なり、その全部が淡い緑に覆われている。まだ背の低い若い草のような緑が、丘の輪郭に沿って、どこまでも続いていた。ところどころに、小さな村の屋根が肩を寄せ合うように固まっていて、煙突から細い煙が立ち昇っていた。
「ここから先が、フィットア領でございます」
向かいの席で、アルフォンスが言った。
「……草原ですか」
「いいえ。すべて麦畑でございます」
アルフォンスは口元を緩めた。
「秋に蒔いた麦が、雪の下で冬を越し、春になって一斉に芽を出したのです。今はまだ、あれくらいの丈ですが」
アルフォンスは自分の膝のあたりに手をやった。
「夏には、人の腰の高さまで伸びて、見渡す限り一面の金色になります」
「金色」
「ええ。風が吹くと、金色の波が丘を越えて、どこまでも渡っていくのです。フィットアの者は皆、あの景色を見て育ちます」
エリックは窓の外の緑の丘を見た。
金色の波。想像しようとしたけれど、うまくいかなかった。目の前にあるのは、まだ若い、淡い緑の野原だけだった。
「……見てみたいです」
「いつか、ご覧になれますとも」
アルフォンスは穏やかに微笑んだ。
エリックの膝の上で、エルヴィンが眠っていた。
旅はゆっくりと進んでいた。日が高いうちに宿に入り、朝も遅く出る。
道中エルヴィンはよく泣いた。揺れが気に入らないのか、暑いのか、眠いのか。乳母が抱いても、なかなか泣き止まない時がある。
そういう時はエリックが膝を貸すことになっていた。
膝に乗せて、指を握らせると、なぜか泣き止む。
「エルヴィン様は、若様がお好きなのですね」
「好かれているかどうかは、分かりません。離してくれないのは、確かです」
エリックは自分の人差し指を見下ろした。
弟の小さな拳が、しっかりとそれを握っていた。眠っている間も離さない。
「四日間、ずっとです」
「それは、それは」
アルフォンスの髭が、小さく揺れた。
エリックはまた窓の外を見た。
緑の丘。まだ背の低い、夏には金色になるという麦。
ここで父と母は暮らしている。自分も本当なら、ここで育つはずだった。
膝の上の、この小さな弟も。
エリックは眠っている弟の顔を見下ろした。
――金色の波が、丘を越えて。
「春には、バティルスという花も咲きます」
アルフォンスが、ふと付け加えた。
「もうそろそろ、咲き始める頃でしょう。赤い花です。ちょうど若様の御髪のような」
エリックは窓の硝子に映る自分の髪を見た。
二
ロアの町に着いたのは、七日目の夕暮れだった。
城壁に囲まれた王都よりずっと小さな町。けれど門をくぐると、通りには人が溢れていた。荷車を引く商人、籠を背負った女たち、駆け回る子供たち。王都の人々よりも、声が大きくて、よく笑っているように見えた。
馬車は町の中心の丘を登っていった。
丘の上に屋敷があった。
王都の屋敷より少しだけ古くて、少しだけ無骨な造り。門の両脇に大きな篝火が焚かれていた。日はまだ落ちきっていないのに、もう火が入れられていた。
その篝火の間に二人の人影が立っていた。
馬車が停まる。アルフォンスが扉を開ける。
エリックは石畳の上に降り立った。後ろから乳母がエルヴィンを抱いて降りてくる。
最初に目に入ったのは男の方だった。
細身で背が高い。整えられた髪。切れ長の目。その目が真っ直ぐにエリックを見下ろしていた。
知っている顔だ、と思った。
会ったことはない。けれど毎朝、水桶に映る顔だった。二十年ほど歳を取らせて、髪の色を変えれば、きっとこうなる。
「……よく来た」
男は静かに言った。
「フィリップだ。お前たちの父だ」
エリックは何と答えればいいのか、迷った。
父上、と呼ぶべきなのだろうか。初めて会う人を。
迷っているうちに、男の隣にいた人影が動いた。
女の人だった。
夕日と篝火に照らされた髪が、燃えるように赤かった。
その人は何も言わずに駆けてきた。春の雨でぬかるんだ地面を、裾が汚れるのも構わずに。
そしてエリックの前で膝をつくと、両腕を伸ばしてエリックを抱きすくめた。
強い力だった。息が詰まるほどの。
その人の身体は震えていた。
エリックの頬に冷たいものが落ちてきた。
「エリック……」
その人はエリックの名前を、何度も何度も繰り返した。確かめるように。失くしたものを、ひとつずつ拾い集めるように。
それから、はっと顔を上げた。
乳母の腕の中の、白い毛糸の帽子を見た。
その人はエリックを抱いたまま、片方の手を乳母の方へ伸ばした。
「……エルヴィン」
乳母が、そっとエルヴィンを差し出した。
その人はエルヴィンを胸に抱き取った。エリックを片腕に、エルヴィンをもう片腕に。二人とも、離そうとしなかった。
「こんなに、重くなって」
声が、震えていた。
「あの時は、こんなに小さかったのに。この腕の中で、こんなに」
その人の腕が、確かめるように、もう一度二人を抱き寄せた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
何に謝っているのか、エリックには分からなかった。
エルヴィンは知らない女の人の腕の中で、きょとんとしていた。泣くかと思った。けれど、泣かなかった。
代わりに小さな手を伸ばして、その人の赤い髪をぎゅっと掴んだ。
兄の髪と同じ色の髪を。
「……っ」
その人が、泣きながら笑った。
「エルヴィン、あなた」
「あう」
「覚えているの? 覚えているはずないわよね。まだ、生まれたばかりだったもの。なのに」
エリックはその人の赤い髪を見た。自分と同じ、まっすぐな赤。弟が掴んでいる、赤。
答えは分かっていた。
「……母上」
口に出した瞬間、その人の腕の力が、さらに強くなった。
泣き声が春の夕暮れに響いた。
「ヒルダ」
フィリップが、そっとその人の肩に手を置いた。
「地面が濡れている。中へ入ろう」
「……ええ。ええ、そうね。ごめんなさい」
母はようやく腕を緩めた。そして、涙で濡れた顔のまま、エリックの頬を片手で包み込んだ。
三
屋敷の中は暖かかった。
広間の暖炉にはまだ火が入っていて、食卓には湯気の立つ料理が所狭しと並べられていた。王都の屋敷の夕食よりも、ずっと品数が多かった。
「全部、あなたの好きなものを、と思ったのだけれど」
母はエリックの皿に肉を取り分けながら言った。膝の上にはまだエルヴィンを抱いたままだった。
「何が好きなのか、分からなくて。だから全部作らせたの」
エリックは山盛りになった皿を見下ろした。
「……全部は、食べられないと思います」
「いいのよ。好きなものだけ食べて」
「どれが好きか、食べてみないと分かりません」
「じゃあ、全部少しずつ食べて」
「……全部少しずつでも、たぶん、多いです」
母はくすりと笑った。
「あなた、お父様に似ているのね。そういうところ」
「そういうところ、ですか」
「思ったことを、そのまま言うところ。お父様は、私の前でだけだけれど」
向かいの席で父がワインの杯を傾けていた。何も言わなかった。けれど、その口の端が、ほんのわずかに動いたように見えた。
食卓には空いた席がひとつあった。上座の一番大きな椅子。
「……祖父上は」
エリックが訊くと、母は困ったように父を見た。
「大旦那様は、領内の巡察に出ておられます」
答えたのは給仕をしていたアルフォンスだった。
「お戻りは、若様方がお発ちになった後になるかと」
「……父上は、会わぬ方が良いと思われたのだろう」
父が杯を置きながら、誰に言うともなく呟いた。
「習いを守らせたのは、当主である父上だ。今さらどんな顔で孫に会えばいいのか、分からんのだろうよ」
母がそっと父の袖を引いた。父はそれ以上何も言わなかった。
「あの子は、もう寝てしまったの」
食事の終わり頃、母が言った。
「明日の朝、会わせてあげるわね。エリス。あなたたちの妹よ」
その夜、エリックは客間の寝台で目を覚ました。
喉が渇いていた。隣の小さな寝台ではエルヴィンが満腹の顔で眠っている。乳母は隣の部屋にいるはずだった。
水差しを探して部屋を出ると、廊下の先に細い明かりが漏れていた。
小さな居間だった。暖炉の火は落とされ、卓上の燭台だけが灯っている。
その明かりの中に、母が座っていた。
膝の上に籠を置いていた。籠の中には毛糸の玉がいくつも入っている。
白い毛糸と、赤い毛糸だった。
母は編み棒を動かしていた。手元を見つめる目は夕食の時のように泣き腫らしてはいなかった。ただ静かで、ひたむきだった。
エリックは扉の陰で立ち尽くした。
赤い毛糸と、白い毛糸。
「……エリック?」
母が顔を上げた。
「どうしたの。眠れないの?」
エリックは答えなかった。
代わりに部屋に戻った。寝台の脇に置いた荷物の中から、それを取り出した。そしてもう一度居間に戻り、母の前に立った。
両手に赤い手袋をはめていた。
母の手から編み棒が落ちた。
「……それ」
「毎年、届いていました」
声が震えた。震えるとは思っていなかった。
「帽子も、襟巻きも。全部持っています。エルヴィンの帽子も」
母は口元を両手で覆った。
「いつも、少しだけ大きかった」
エリックは手袋をはめた自分の手を見下ろした。
「来年になると、ちょうどよくなりました。毎年」
「……だって」
母の声がかすれた。
「だって、分からなかったんだもの。あなたが、どれくらい大きくなっているのか。どんな手をしているのか。何も、分からなかったから」
母は震える手を伸ばした。エリックの手を、手袋ごと、そっと包み込んだ。
「だから、少しだけ大きく編んだの。来年まで使えるように。それまでに、あなたが大きくなっても、大丈夫なように」
「今年のも、来年、ちょうどよくなります」
エリックは言った。
「来年のは、再来年に。だから、大丈夫です」
何が大丈夫なのか、自分でもよく分からなかった。分からないまま、目の奥が熱くなった。
泣くつもりはなかった。泣いたことなど、ほとんどなかった。なのに、頬を伝うものを、どうしても止められなかった。
ありがとう、とは言わなかった。会いたかった、とも言わなかった。
手袋をはめて、ここに立っている。それで、全部伝わっていると思った。
涙がぽたぽたと赤い手袋の上に落ちていった。
母は何も言わずに、エリックを抱きしめた。
門の前での抱擁とは違っていた。強くも、苦しくもなかった。ただ温かかった。
しばらくして、母は膝の上の籠に目をやった。
編みかけのものが一つ入っていた。白い毛糸の小さな小さな靴下だった。片方は編み上がっていて、もう片方はまだ半分だった。
「……エルヴィンの誕生日の分、届かなかったでしょう」
エリックは顔を上げた。
「はい。エルマが、今年は届きませんねえ、と」
母は編みかけの靴下を手に取った。
「あなたたちが来ると分かっていたから。今年だけは、この手で渡したくて」
母はそれを籠に戻して、そっと撫でた。
「今夜中に編み上げるわ。明日の朝、あの子の足に履かせるの。初めて」
エリックはその手元を見ていた。
毎年、どれくらい大きく編めばいいのか分からないまま編まれてきた贈り物。
今年の分だけは大きさを間違えない。
「……手伝います」
「え?」
「毛糸を、持っておきます。絡まると、編みにくいので」
母は笑って、毛糸玉をひとつ、エリックの手に乗せた。
夜更けまで、小さな居間には編み棒の音だけが響いていた。
四
「この子が、エリスよ」
翌朝、母が連れてきたのは赤い髪の小さな女の子だった。
「お父様はまだ寝ているの。機嫌が悪いから、朝は誰も近づかないのよ」
母は困った顔で笑った。
「僕も、起こされるとエルマにひどいことを言います」
母の笑顔が止まった。
それから口元を押さえて、肩を震わせた。
「……やっぱり、あの人の子だわ」
二歳になったばかりの妹は母の腕の中で、じっと兄を睨みつけていた。睨む、という言葉がぴったりだった。大きな目を吊り上げ、口をへの字に曲げて、見知らぬ者を警戒する小さな獣のように。
「エリス、お兄様よ。ご挨拶して」
「……やー」
「やー、じゃないの」
「やー!」
エリスは母の胸に顔を埋めてしまった。
母は苦笑しながら、エリスを床に下ろした。
エリスはとことこと数歩歩いて、それからくるりと振り返った。
その目が、エリックの髪に止まった。
自分と同じ赤い髪。
エリスは首を傾げた。それから、何かを確かめるように、エリックの方へ近づいてきた。
エリックはしゃがみ込んだ。
妹の目線に自分の目線を合わせる。
エリスはエリックの顔をじっと見つめた。そして、いきなり両手を伸ばすと、エリックの前髪を鷲掴みにした。
「……痛い」
「あか! あか!」
「そうだ。赤だ」
エリスは掴んだ髪をぐいぐいと引っ張りながら、きゃっきゃっと笑い出した。
「エリス!」
母が慌てて声を上げたが、エリックは首を振った。
「大丈夫です。エルヴィンで、慣れているので」
「……慣れて?」
「エルヴィンも、掴むと離さないので」
エリックは髪を引っ張られたまま、妹の脇の下に手を差し入れた。
そっと、持ち上げる。
思っていたよりも、ずっと軽かった。そして、ずっと温かかった。
エリスは突然の高さに一瞬きょとんとして、それからまた笑った。
「エルヴィン。おいで」
母が、絨毯の上にエルヴィンを下ろした。
一歳になったばかりの弟はまだ歩くのが危なっかしい。二、三歩進んでは尻もちをつく。それでも機嫌よく立ち上がっては、また歩き出す。
母はエルヴィンの前に膝をついた。
そして、昨夜編み上がったばかりの、白い毛糸の靴下を取り出した。
「お誕生日、おめでとう」
母は弟の小さな足に、それを履かせた。
片方。もう片方。
ぴったりだった。
「……大きさ、合いましたね」
「そうね」
母は履かせ終えた足を、両手でそっと包んだ。
「初めてよ。ちょうどの大きさに編めたの」
母の声が、揺れた。
「あう?」
エルヴィンは自分の足を不思議そうに見下ろした。
それから、片方の靴下を、ぐいと引っ張って脱いだ。
「……エルヴィン」
エリックが言う間もなく、脱げた靴下は絨毯の上に転がった。
そこへ、妹が歩み寄ってきた。
エリスは転がっている白い靴下を拾い上げた。
そして、それを頭にかぶった。
「……」
場が、静まり返った。
エリスは白い靴下を頭にのせたまま、得意げに胸を張った。
「ぼうし!」
「違います。靴下です。足に履くものを頭に乗せると、足が冷えます」
エリックが言った。
「ぼうし!」
「靴下です」
「ぼうし!」
「……靴下の、ぼうし」
エリックが妥協案を出している間に、エルヴィンが動いた。
よちよちと妹に近づき、その頭から白い靴下を奪い取ろうと、両手を伸ばした。
エリスが、それを避けた。
エルヴィンが、体勢を崩して尻もちをついた。
「あー!」
「やー!」
泣き出した弟と、靴下を頭に乗せたまま逃げ回る妹。
エリックはその間でどうすればいいのか分からずに立っていた。
「エリス、返してあげなさい!」
「やー!」
「エルヴィン、泣かないの!」
「あー!」
母が二人を追いかけ回す。
乳母が慌ててエルヴィンを抱き上げる。
絨毯の上を、赤い髪の妹が白い靴下を頭に乗せて、きゃあきゃあと走り回る。
エリックはその様子をしばらく眺めていた。
それからしゃがみ込んで、妹が走ってくる進路の先に、手を差し出した。
エリスがそこに突っ込んできた。
エリックは妹を抱き止めた。そして頭の上の靴下を、そっと取り返した。
「やー!」
「エルヴィンのです」
「やー!」
「エリスのは、これです」
エリックは自分の右手の赤い手袋を外して、妹の頭に乗せた。
エリスの動きが、止まった。
頭の上の、赤い毛糸。自分の髪と、兄の髪と、同じ色。
「……あか」
「赤です」
「あか!」
エリスは両手で手袋を押さえて、満足げに笑った。
そしてそのまま、母の方へ走っていった。頭に赤い手袋を乗せたまま。
「……お母様! あか!」
母は走ってくる娘を受け止めて、その頭の赤い手袋を見た。
それからエリックを見た。
エリックは乳母の腕の中のエルヴィンに、白い靴下を履かせ直しているところだった。
母は口元を押さえていた。
とうとう堪えきれずに、笑い出した。
「二人とも同じなんだもの。掴んだら離さないのね。二人とも」
エリックは目を瞬いた。
それから自分の手を見下ろした。
昨夜、母の手を。手袋ごと包まれた手を思い出した。
自分も離したくない。
「……僕もそうかもしれません」
エリックが言うと、母はまた笑った。
その日、ロアの屋敷の居間にはずっと笑い声が響いていた。
五
その男がやってきたのは、ロアに来て四日目の昼下がりだった。
エリックは屋敷の裏庭にいた。伯父に言い渡された稽古の禁止は、とっくに明けていた。庭木の手入れで切り落とされた枝を拾って、ひとりで素振りをしていた。
「おっ」
背後で声がした。
「なかなかいい振りしてるじゃねえか、坊主」
振り向くと、見知らぬ男が庭の垣根に肘をついてこちらを見ていた。
旅装束の男だった。腰に剣を佩いている。明るい茶色の髪に、どこか人好きのする顔。けれど、その身のこなしにはベルンハルトにも似た、剣士特有の隙のなさがあった。
「……誰ですか」
「おう、そうか。名乗ってなかったな」
男は垣根をひょいと乗り越えて、庭に入ってきた。
「パウロだ。フィリップの昔馴染みでな。ちょいと頼み事があって来たんだが、あいつ、今来客中らしくてよ。待ってる間、暇でな」
パウロと名乗った男はエリックの前にしゃがみ込み、その顔をしげしげと覗き込んだ。
「お前、フィリップの倅か」
「……はい」
「だろうな。あいつの子供の頃にそっくりだ。何考えてるか分かんねえ顔なんか、特に」
パウロはからからと笑った。
「考えていることは、あります」
「おう、何考えてた」
「知らない人が垣根を越えてきたので、大声を出すか、枝で叩くか、考えていました」
「物騒だな!」
「まだ、決めていません」
「決めなくていい! 決めなくていいからな!」
パウロは両手を上げて一歩下がった。それから腹を抱えて笑った。
「そういうとこだよ! 真顔でとんでもねえこと言うの、フィリップそっくりだ!」
「父上も、枝で叩くんですか」
「あいつは口で叩くんだよ。もっとタチが悪い」
「で? 剣、習ってんのか」
「王都で。剣神流を」
「へえ。師匠は誰だ」
「ベルンハルトという騎士です」
「知らねえな。まあいいや」
パウロは立ち上がると、エリックの手から枝を取り上げた。
「ちょっと見てろよ」
枝を構える。
その瞬間、パウロの纏う空気が変わった。
だらしなく垣根に肘をついていた男と、同じ人間だとは思えなかった。背筋が伸び、重心が低く沈み、枝の切っ先がぴたりと一点で止まる。
「これが剣神流の構えだ」
パウロの声はさっきまでと同じ軽い調子だった。
「先に動いて、先に斬る。相手が何かする前に終わらせる。お前が習ってるやつだな」
パウロは枝を下ろした。そして今度は身体をわずかに斜めにし、枝を胸の前で寝かせるように構えた。
「こっちは水神流。剣神流の逆だ。待って、受けて、返す。相手に先に動かせて、その力を利用する」
エリックは息を呑んだ。
同じ枝なのに、まるで違うものに見えた。さっきの構えが、放たれる寸前の矢だとすれば、今の構えは深い水の底のようだった。どこから打ち込んでも、呑み込まれてしまいそうな。
「で、最後が」
パウロはまた構えを変えた。
今度はよく分からなかった。攻めるのか、待つのか。枝を持つ手の位置も、足の開き方も、どこか奇妙で、つかみどころがない。
「北神流。これはまあ、何でもありだ」
パウロは枝の先をふらりと揺らした。右に打ち込むと見せて左に抜ける。抜けたと見せてまた戻る。
「こうやって、相手を誘うんだ。こっちに来いってな。ただし」
パウロは枝を止めて、にやりと笑った。
「誘う奴は誘われるのに弱い。自分が仕掛けてるつもりの時が、一番隙だらけなんだよ。覚えとけ、坊主」
パウロは枝をエリックに返した。
「どうだ。面白いだろ」
「……三つとも、使えるんですか」
「おう。どれも上級止まりだけどな」
「……もう一回、見せてください」
「お?」
「さっきの二番目のを。もう一回」
パウロは目を瞬いた。それからにやっと笑った。
「水神流か。お前、そっちが気になるのか」
「分かりません。でもさっきのは、待っていたのに、一番先に斬れそうでした。どうしてそう見えたのか、もう一回見たら分かるかもしれません」
「いいぜ。何回でも見せてやる」
パウロはまた枝を受け取って、水神流の構えを取った。
エリックはそれを食い入るように見つめた。
身体の傾き。枝の角度。重心の位置。
なぜか胸の奥が、ざわざわした。
「どれが一番強いんですか」
しばらくして尋ねると、パウロはぽりぽりと頭を掻いた。
「さあな。どれも強いし、どれも弱い」
「それは、答えになっていません」
「なってねえな。俺も、お前くらいの頃は分かんなかった」
パウロはまた垣根に肘をついた。
「いいか坊主。流派なんてもんはな、使えりゃいいんだよ、使えりゃ。剣神流の奴は剣神流が一番だって言うし、水神流の奴は水神流が一番だって言う。でも、実際に斬り合う時にはな、相手は流派なんか気にしちゃくれねえ。生き残った方が強い。それだけだ」
使えればいい。
エリックはその言葉を、胸の中で繰り返した。
「まあ、俺みたいに中途半端に三つかじるのはおすすめしねえけどな。どれか一個、極めた方がいい。俺の昔の仲間なんか、剣神流一本で剣王までいったからな」
「剣王?」
「おう。獣族の女剣士でな。これがまあ、おっかないのなんの」
パウロは何かを思い出したように顔をしかめた。
「喧嘩っ早いし、字は読めねえし、飯はよく食うし。でも、剣だけは本物だった。あいつの剣は、きれいだったよ」
パウロは遠い目をした。
「どうしてっかな、あいつ」
「パウロ」
屋敷の方から父の声がした。
振り向くと、父が裏口の扉のところに立っていた。
「待たせたな。中で話そう」
「おう、フィリップ。久しぶりじゃねえか」
パウロはエリックの頭を乱暴にぐしゃぐしゃと撫でてから、父の方へ歩いていった。
そして父の前で立ち止まると、珍しく神妙な顔になった。
「……悪いな。急に押しかけて」
「構わない。手紙は読んだ」
「ああ。それでな、その……」
パウロは言い淀んだ。
「嫁がな、腹に子供がいるんだ」
父の眉が、わずかに動いた。
「冒険者稼業じゃ、もう養っていけねえ。どこか、腰を落ち着けられる場所が欲しい。お前の親父さんのところで、何か仕事がないかと思ってな」
「……そうか。お前が、父親に」
「笑うなよ」
「笑っていない」
父はほんのわずかに口の端を持ち上げた。
「中で話そう。父上には私から話を通しておく」
二人は屋敷の中へ入っていった。
扉が閉まる直前、パウロが、ちらりとこちらを振り返った。
「坊主。お前、親父のところに、いつまでいられるんだ」
「あと、三日です。今日を入れると三日と半分です」
「そうか」
パウロは何かを言いかけて、やめた。
それから、ふっと笑った。さっきまでの軽い笑い方とは違った。
「会えるうちに、ちゃんと会っとけよ。親父ってのはな、後になって、話しとけばよかったって思うもんだからな」
扉が、閉まった。
エリックは手の中の枝を、しばらく握りしめたまま立っていた。
六
父と二人きりで話したのは、ロアを発つ前の晩だった。
父の書斎は伯父の書斎に似ていた。壁一面の書棚と、大きな執務机。けれど、窓の外に見えるのは白銀の王城ではなく、緑の丘に囲まれたロアの町の屋根だった。
「座りなさい」
父の口調は伯父にそっくりだった。
エリックは机の前の椅子に座った。今度は足がちゃんと床に届いた。
「兄上の屋敷での暮らしは、どうだ」
父はいくつかのことを尋ねた。
伯父は普段どんな様子か。ユリウスとはどう過ごしているか。屋敷にはどんな客が来るか。剣術師範はどんな人物か。
エリックは訊かれるままに答えた。
答えながら、少しずつ違和感を覚えていった。
父の質問はエリックのことを訊いているようで、訊いていなかった。伯父のこと、ユリウスのこと、屋敷のこと。まるで、エリックの目を通して、王都の屋敷の中を覗き込もうとしているかのように。
「……父上」
「何だ」
「どうして、そんなことを訊くのですか」
父の手が止まった。
切れ長の目が、じっとエリックを見つめた。値踏みするような目だった。そして、その目の奥で、何かがわずかに揺れた。
「……賢いな、お前は」
父は机の上で指を組んだ。
「兄上に似たのか、私に似たのか」
「伯父上は、僕が父上に似ていると言いました。母上も」
「そうか」
父は目を伏せた。
「なら、私に似たのだろう。残念ながら」
残念ながら、という言葉の意味が、エリックには分からなかった。
「エリック」
父は顔を上げた。
「お前たちがここに来られたのは、私が兄上に頭を下げたからだ。それは、もう聞いているな」
「……はい。一度きりだと」
「そうだ。頭を下げる代わりに、私は兄上に、あるものを差し出した」
エリックは息を詰めた。
「何を、ですか」
「それは、お前が知る必要のないことだ」
父の声は静かだった。けれど、それ以上の問いを許さない響きがあった。
「ただ、ひとつだけ覚えておきなさい。私は、それを差し出したことを、後悔していない」
父は窓の外に目を向けた。
「ヒルダは、お前を取り上げられてから、ずっと眠れずにいた。エリスが生まれて、少しは落ち着くかと思った。だが、一年あまりで、今度はエルヴィンを取り上げられた。それからヒルダは、ほとんど眠らなくなった」
エリックは膝の上で拳を握った。
「この数日、ヒルダは毎晩よく眠っている。お前たちが来てから、一度も夜中に起きていない」
父はエリックの方に向き直った。
「それだけで十分だ」
エリックは父の顔を見つめた。
この人のことが、よく分からなかった。伯父と同じように、何を考えているのか読めない人だった。
けれど今、母のことを話す時の声だけは伯父の声とはまるで違っていた。
「父上は、剣は振りますか」
父が目を瞬いた。
「……なぜ、それを」
「伯父上は、振らないと言いました。剣を持つ者を、使う側だと。父上は、どちらですか」
父はしばらくエリックの顔を見ていた。
それから、窓の外に目をやった。
「昔は少しだけな。兄上より少しだけ上手かった」
「今は」
「今は振らない。振るより振る者を見る方が得意になった」
父はエリックに視線を戻した。
「だが、お前の素振りは裏庭から見ていた。パウロが垣根を越える前からな」
「……見ていたんですか」
「右の肘が、少し下がる」
「ベルンハルトにも言われます」
「なら直しなさい。お前の師範は正しい」
エリックは頷いた。
頷いてから少しだけ、口の端が上がった。
父はそれを見ていた。何も言わなかった。
七
ロアを発つ朝はよく晴れていた。
門の前に、来た時と同じ馬車が停まっていた。アルフォンスと、四人の騎士。石畳が朝日に光っていた。
門の脇の植え込みに、赤い花がいくつか咲いていた。バティルス。アルフォンスが言っていた、エリックの髪と同じ色の花。
母は門の前で、二人を抱きしめた。
エリックと、乳母から抱き取ったエルヴィンを。来た日の夕暮れのように、強く。苦しいほどに。
「手紙を書くわ」
母はエリックの耳元で囁いた。
「毎年……ううん。書ける時に、いつでも。だから」
母の声が、途切れた。
だから、返事をちょうだい。
その続きを、母は言わなかった。けれど、エリックには聞こえた。
エリックは頷いた。
書きます、とは言わなかった。
母は何かを待つように、エリックの顔を見ていた。
それから微笑んだ。
それからエルヴィンの足元を見た。
白い毛糸の靴下が、ちゃんと両足に履かれていた。
「エルヴィン。お兄様の言うことを、よく聞くのよ」
「あう」
「……それから」
母はエリックの顔を見た。
「エルヴィンのこと、お願いね」
「はい」
エリックは言った。
「毎晩指を貸します。離さないので、たぶん朝までです」
母は目を見開いた。それから泣きそうな顔で笑った。
母の後ろで、父に抱かれたエリスが、じっとこちらを見ていた。この一週間で、エリスはずいぶん兄に慣れた。兄の髪を掴んで遊ぶのが、すっかりお気に入りになっていた。エルヴィンとは相変わらず顔を合わせるたびに何かを奪い合っていたが。
「エリス。お兄様たちに、ばいばいして」
「……ばいばい、やー」
「やー、じゃないの」
「やー!」
エリスはまた父の胸に顔を埋めてしまった。
それでも馬車に乗り込む直前、エリックが振り返ると、エリスは父の肩越しに、小さな手をひらひらと振っていた。
その手には赤い手袋が握られていた。
あの朝から、どうしても返してくれなかった片方だった。
「片方だけ、持っていかれました。取り返すと、泣くと思ったので、取り返しませんでした」
エリックがアルフォンスに報告すると、アルフォンスは真面目な顔で頷いた。
「では、来年は、片方だけ編んでいただくことになりますな」
「それは困ります。片手だけ冬に冷えます」
「ご安心を。お母上は両方お編みになるでしょう」
アルフォンスは髭の奥で小さく笑った。
馬車の扉が閉まる。
車輪が石畳を噛んで動き出す。
窓の外をロアの町並みが流れていった。
門を出ると、またあの緑の丘が広がっていた。
七日前に通った時よりも、麦の丈が伸びているように見えた。ほんのわずかに。気のせいかもしれなかった。
「麦は、これから一気に伸びます」
アルフォンスが言った。
「今年は、よく育ちそうです」
エリックは窓の外の緑の海を見つめた。
夏には金色になる。風が吹くと波になって、丘を越えていく。
それから、乳母の腕の中の弟を見た。
エルヴィンはまた兄の方に手を伸ばしていた。
エリックは残った片方の手袋を外して、人差し指を差し出した。弟が、それをぎゅっと握った。
「……エルヴィン」
「あう」
「いつか、見せてやる」
エルヴィンはきょとんと兄を見上げていた。
何のことか、分かるはずもなかった。今日のことも、この一週間のことも、きっと何ひとつ覚えていないだろう。母に抱かれたことも。母が編んだ靴下を履かせてもらったことも。妹に靴下を頭にかぶられたことも。
だから、いつか、兄が見せてやるのだ。
「金色の麦畑を」
エルヴィンが、兄の指を握ったまま、あう、と言った。
エリックは窓の外に目を戻した。
緑の丘。遠ざかっていく、丘の上の屋敷。
来た時にはよそよそしいと思った景色だった。
今は少しだけ違って見えた。