一
九歳の冬の朝も、中庭には木剣の音が響いていた。
「そこまで」
ベルンハルトの声で、エリックは木剣を下ろした。
九歳の身体に合わせて削り直された木剣は、四年前のものよりずっと長く、ずっと重い。それでも、振り終えた切っ先はもうぶれなかった。構えを解き、一礼する。
「よろしい。踏み込みの間合いが、昨日より半歩良くなりましたな」
「ありがとうございます」
褒められて嬉しくないわけではない。ただ顔には出なかった。出ないらしい、とエルマに言われる。
「あにうえ! あにうえ!」
中庭に面した回廊から、甲高い声が飛んできた。
三歳のエルヴィンが、乳母の手を振りほどいて、よちよちと駆けてくる。
「エルヴィン様、危のうございます!」
「ぼくも! ぼくもけん、やる!」
「エルヴィン様にはまだ早うございます」
「はやくない!」
エリックは木剣を下ろして、弟を受け止めた。
この一年で、エルヴィンは驚くほどよく喋るようになった。そして兄のすることは何でもやりたがる。
「エルヴィン。まだ早い」
「はやくない!」
「二年後だ」
「にねんご?」
「二年経ったら、教える」
エルヴィンは指を折って数えようとした。二本目で分からなくなり、両手を広げた。
「これくらい?」
「それは十だ」
「じゃあ、これ!」
エルヴィンは両手を頭の上でぶんぶん振り回した。
「……それは数じゃない」
「にねんご、はやくこないかなあ」
エルヴィンは兄の足に抱きついたまま中庭の石畳に座り込んだ。
エリックは弟の頭を軽く小突いた。
「邪魔だ」
「じゃましてない!」
「足に抱きついてる」
「これはね、あにうえがたおれないように、ささえてるの」
「支えなくても、倒れない」
「たおれるかもしれないでしょ」
「倒れたら、お前が下敷きになる」
「……じゃあ、たおれないで」
「それなら、支えなくていい」
「ささえるの!」
筋の通らない相手に、筋で勝つのは難しい。弟はいつもこうだった。
ふと、視線を感じて顔を上げた。
二階の露台に伯父の姿があった。
伯父はエリックを見ていた。
そして小さく頷くと、そのまま背を向けて屋敷の奥へ消えた。
足元の弟の方は一度も見なかった。
エルヴィンは気づいていないようだった。兄の足に抱きついたまま、上機嫌で何か歌っていた。
エリックは露台の方をしばらく見ていた。
それからまた木剣を構えた。
「従兄上、きょうもこないね」
乳母に引き取られながら、エルヴィンが言った。
「ユリウスは朝が弱い」
「ぼく、あさつよいよ」
「知ってる」
十歳になったユリウスは今では稽古に出てくるのは五日に一度くらいになっていた。それでも伯父は何も言わない。
二年前の手袋の一件以来、ユリウスはエリックの持ち物に手を出さなくなった。代わりに、あまり話しかけてこなくなった。廊下ですれ違う時、ちらりとこちらを見て、すぐに目を逸らす。
ただ時々、自室から木剣を振る音が聞こえてくることがあった。
エリックはそれについては何も言わないことにしていた。
二
知らせが来たのは、その日の昼過ぎだった。
「大旦那様が、王都にお越しになります」
老執事がそう告げると、屋敷の空気が変わった。使用人たちが顔を見合わせ、足早に廊下を行き来し始める。
「陛下の御前での武芸奉納に、ご出席なさるそうです。三日ほど、この屋敷にご滞在に」
「おじいさまが……」
エルヴィンが目を丸くした。
祖父。サウロス・ボレアス・グレイラット。
二年前ロアを訪れた時、祖父は屋敷にいなかった。領内の巡察に出ている、とアルフォンスは言った。けれど父は食卓でこう呟いた。
――今さらどんな顔で孫に会えばいいのか、分からんのだろうよ。
「おじいさまって、どんなひと?」
夕食の後、寝台に潜り込んでから、エルヴィンが訊いてきた。
「声の大きい人だと聞いた」
「それだけ?」
「それ以外は知らない」
「ロアにも、いなかったんでしょ」
「……覚えてるのか」
「おぼえてないよ。エルマがいってた」
エルヴィンは布団を鼻まで引き上げた。
「ぼくたちのこと、きらいなのかな」
「分からない」
正直に答えると、エルヴィンは布団を頭までかぶってしまった。
「でも」
エリックは布団の山に向かって続けた。
「嫌いな人の家に三日も泊まる人は、あまりいないと思う。嫌いなら宿を取る」
布団の端が持ち上がった。目だけが覗いていた。
「……ほんと?」
「たぶん。会ってみないと分からない」
目が、また布団の中に引っ込んだ。今度は頭まではかぶらなかった。
エリックは天井を見上げた。
祖父のことは知らない。けれど祖父の治める土地のことなら、少しは知っている。
緑の丘。夏には金色になるという麦畑。燃えるような赤い髪の母。髪を引っ張って笑う妹。
そして、裏庭で三つの構えを見せてくれた、あの男のこと。
パウロ。父の古い友人だという、剣士の男。
――いいか坊主。流派なんてもんはな、使えりゃいいんだよ、使えりゃ。
あの日以来、エリックは時々、ひとりで水神流の構えを真似てみることがあった。待って、受けて、返す。ベルンハルトに見つかると叱られるので、夜、寝室でこっそりと。
うまくはできなかった。けれど、あの構えを思い出すと、なぜか身体がしっくりくるような気がした。
――昔の仲間なんか、剣神流一本で剣王までいったからな。
――獣族の女剣士でな。これがまあ、おっかないのなんの。
――あいつの剣は、きれいだったよ。
剣が、きれい。
剣を強いと思ったことはある。速いと思ったことも、怖いと思ったこともある。けれど、きれいだと思ったことは一度もなかった。
どんな剣なのだろう、と思った。
「……あにうえ?」
布団の中から、エルヴィンのくぐもった声がした。
「何でもない。寝ろ、エルヴィン」
三
祖父の到着は門の外から聞こえてきた。
「ジェイムズはどこじゃ! 出迎えもせんとは何事か!」
屋敷中に響き渡る声だった。
玄関の広間で整列していた使用人たちが、一斉に背筋を伸ばす。伯父がわずかに眉をひそめたのを、エリックは見逃さなかった。
「父上。お声が大きゅうございます」
「大きくて何が悪い! 小さい声で話す男に碌な奴はおらん!」
扉が開いた。
入ってきたのは、白髪を振り乱した老人だった。背は伯父より高く肩幅は倍もある。年寄りのはずなのに、立っているだけで広間が狭く感じられた。
これが祖父。
エリックがそう思った時、祖父の目がこちらを向いた。
祖父の足が一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬だった。けれどエリックには分かった。この人は自分たちを見て、ためらった。
「……おう」
祖父は伯父を押しのけるようにして、真っ直ぐに歩いてきた。
そして、エリックとエルヴィンの前で足を止めると、大きな手で二人の頭をまとめて鷲掴みにした。
「お前らが、フィリップの倅どもか!」
痛い。
ぐしゃぐしゃと髪をかき回されながら、エリックはそう思った。エルヴィンは目を白黒させている。
「うむ。うむ! 兄の方はフィリップにそっくりじゃな! 弟は、ヒルダに似とる!」
祖父は笑っていた。
声は相変わらず大きかった。けれどその目の奥に、何か別のものがあるように見えた。
この人は今、その顔を必死で作っているのかもしれない。
「父上。子供らが怯えております」
「怯えとらん! なあ!」
「怯えてはいません」
エリックは髪をかき回されたまま答えた。
「いたいです」
エルヴィンが正直に言った。
祖父の手がぴたりと止まった。
それから大声で笑った。
「わはははは! そうかそうか、痛かったか! すまんすまん!」
祖父は今度はそっとエルヴィンの頭を撫でた。大きな手が、三歳の頭をすっぽり包んだ。
その時だった。
祖父の背後、開け放たれた扉の向こうに、もう一人、誰かが立っているのに気がついた。
広間に入ろうとせず、敷居の外に控えている。
背の高い女の人だった。
褐色の肌。片目を覆う白い眼帯。頭の上には人族にはない獣の耳。腰には一振りの剣を佩いていた。
場違いだ、と思った。
磨き上げられた大理石の床にも、壁に掛かった歴代当主の肖像画にも、整列した使用人たちのお仕着せにも、その人は何ひとつ馴染んでいなかった。本人もそれを分かっているのか、居心地悪そうに、肩をすぼめている。
なのに。
その人の立ち姿には一分の隙もなかった。
どこから斬りかかっても、届く前に斬られる。剣を習い始めて四年の子供にも、それだけは分かった。
「おお、そうじゃ!」
祖父が振り返り、その人を手招きした。
「何をしとる、入ってこんか!」
その人は困ったように眉を寄せた。それから足元の大理石をちらりと見下ろし、まるで氷の上を渡るような慎重さで、一歩だけ敷居をまたいだ。
使用人たちの間に、ひそひそと囁きが走った。
獣族。どうして、こんなところに。大旦那様の。
祖父はそれを一喝した。
「やかましい! 紹介しておこう。こいつはギレーヌじゃ。わしの自慢の剣士よ!」
広間が、しんと静まり返った。
「ギレーヌ・デドルディア。剣神流の剣王じゃ。わしが拾うた。今は孫娘の護衛をさせとる。こいつに勝てる者は、アスラ中を探してもそうはおらんぞ!」
祖父はまるで自分のことのように胸を張った。
獣族の女剣士はほんのわずかに頭を下げた。
その拍子に、眼帯のない方の目がエリックを捉えた。
一瞬だった。
あの男の話だ、と思った。
あの男が、きれいだと言った剣の持ち主が、今、目の前にいる。
「あにうえ」
エルヴィンが、兄の上着の裾をくいくいと引っ張った。
そして、まったく声を潜めずに言った。
「あのひと、みみがある。かっこいい」
「しっぽもある! すごい!」
「エルヴィン」
「あにうえ、さわってもいい?」
「よくない」
「なんで!」
祖父が腹を抱えて笑い出した。
そして、その笑い声の向こうで。
敷居のところに立っていたギレーヌの、後ろに倒れかけていた獣の耳が、ほんの少しだけ、ぴんと立った。
四
その夜、寝室の扉がノックもなしに開いた。
「起きとるか」
祖父だった。
燭台も持たず、廊下の薄明かりを背にして、扉の枠いっぱいに立っている。
エルヴィンはとっくに眠っていた。エリックは寝台の上で身を起こした。
「……はい」
「そうか」
祖父はどすどすと部屋に入ってきた。そして、エリックの寝台の端に、どっかりと腰を下ろした。寝台が、大きく軋んだ。
祖父はしばらく何も言わなかった。
暗がりの中で、エルヴィンの寝台の方を見ていた。
三歳の弟は布団を蹴飛ばして、大の字になって眠っていた。その足元に、白い毛糸の靴下が片方だけ引っかかっていた。二年前、ロアで母が編んで履かせてくれたもの。小さくなってもう履けないのに、エルヴィンは寝る時にだけ、それを足に引っかけている。
「……あれは、ヒルダが編んだものか」
「はい」
「そうか」
祖父はまた黙った。
エリックは寝台の脇の箱に目をやった。中には赤い手袋が入っている。九歳の手にはもう小さくなってしまった。片方しかない手袋も、二年前からそこに入っている。
「ロアでは、すまなんだ」
唐突に、祖父が言った。
昼間の、屋敷中に響き渡るような声ではなかった。低くざらついた声だった。
「お前らの顔を、見られんかった。見れば、何を言えばよいか分からんかった」
祖父は大きな手で、自分の膝を掴んだ。
「お前らを、フィリップとヒルダから取り上げたのは、ジェイムズではない。わしじゃ」
「……伯父上は、家の習いだと」
「そうじゃ。習いじゃ。ボレアスの家は、何代もそうやってきた。わしも、そうやって育てられた」
祖父は息を吐いた。
「じゃがな。習いに従うと決めたのは、当主のわしじゃ。やめると言えば、やめられた。やめんかったのは、わしじゃ」
祖父はエリックの方を向いた。
暗がりの中で、その目だけが、かすかに光っていた。
「ジェイムズは、恨むなら家の歴史を恨めと、お前に言うたそうじゃな」
エリックは頷いた。
「違う」
祖父ははっきりと言った。
「恨むなら、わしを恨め。家の歴史などという、顔のないものを恨んでも、どこにも行き場がない。恨むなら顔のある者を恨め。わしは、ここにおる」
エリックは少し考えた。
恨む、ということが、どういうことなのか。四年前に伯父の書斎を出てから、ずっと考えていた。今でも、よく分からない。
「恨んでは、いません」
「なぜじゃ」
「ロアでは、会えませんでした。でも、今日、来てくれました」
祖父は長いあいだ黙っていた。
「……そうか」
それから大きな手を伸ばして、エリックの頭をがしがしと撫でた。昼間よりも、少しだけ力が弱かった。
「顔はフィリップにそっくりじゃが、そういうところは似とらんな」
祖父の声がかすかに笑っていた。
「あれは、わしにそんなことを、一度も言わんかった」
祖父は寝台から立ち上がった。
「寝ろ。明日も剣を振るんじゃろう」
「……はい」
「ジェイムズの屋敷の師範は、剣神流じゃったな」
「はい」
「そうか」
祖父は扉の前で立ち止まった。そして振り返らずに言った。
「明日の朝、早う起きてみい。面白いものが見られるぞ」
五
夜明け前に目が覚めた。
祖父の言葉が、頭の隅に引っかかっていたのかもしれない。エリックはエルヴィンを起こさないようにそっと寝台を抜け出し、上着を羽織って廊下に出た。
屋敷はまだ眠っていた。
窓の外は薄い青色だった。夜と朝の境目の一番静かな時間。
中庭へ続く回廊に出たところで、エリックは足を止めた。
音が聞こえた。
剣が空気を裂く音。
ベルンハルトの木剣の音とはまるで違った。もっと鋭く、もっと短い。まるで、布を一息に裂くような。
エリックは柱の陰から中庭を覗いた。
そこにギレーヌがいた。
薄明の中で、ひとり、剣を振っていた。
木剣ではなかった。腰に佩いていた、本物の剣だった。
振り上げる。
振り下ろす。
ただ、それだけの動きだった。ベルンハルトに毎朝教わっている、一番基本の素振りと、何も変わらないはずだった。
なのに違った。
振り上げる時、剣の切っ先が、夜明けの空を一筋に切り取る。振り下ろす時、その軌跡が、空気の中に残像のように浮かぶ。一振りごとに、足の位置も、腰の高さも、剣の角度も、寸分も違わない。十回振っても、二十回振っても、まるで同じ一振りを繰り返しているかのように。
剣を振っているのではなかった。
剣と、身体と、呼吸とが、ひとつのものになって、そこにあった。
エリックは息をするのも忘れて、それを見ていた。
――あいつの剣は、きれいだったよ。
パウロの言葉の意味が、ようやく分かった。
強いとか、速いとか、怖いとか、そういうことではなかった。
ただ、きれいだった。
どれくらいの時間、そうしていたのか分からない。気がつくと、空の青は白に変わり始めていた。
剣の音が止んだ。
「……いつまで見てる」
ギレーヌが剣を下ろしたまま言った。
振り向きもしなかった。けれど、その声は間違いなくエリックに向けられていた。
エリックは柱の陰から出た。
気づかれていた。最初から、たぶん。
「……すみません」
「謝るな」
ギレーヌは剣を鞘に収めた。それから、ようやくこちらを振り向いた。
目がエリックを見下ろした。
近くで見ると、ギレーヌはとても背が高かった。見上げなければ、顔が見えないほどに。
「サウロス様の、孫か」
「はい。エリックです」
「ああ」
ギレーヌはそれだけ言うと回廊の方へ歩き出そうとした。
エリックは自分でも驚くほど素早く、その前に回り込んでいた。
「ギレーヌさん。剣を教えてください」
ギレーヌの足が止まった。
「……は?」
「剣を、教えてください」
エリックはもう一度言った。
「剣は、もう習ってるんだろう」
「はい」
「じゃあ、そいつに習え」
「あなたに、習いたいです」
「なんでだ」
なんで。
エリックは考えた。
剣王だから。祖父の自慢の剣士だから。パウロが話していた人だから。
どれも本当だった。けれど、どれも違った。
「……きれいだったから」
ギレーヌの目が、わずかに見開かれた。
「今の、素振り。きれいでした。あんな剣、見たことがありません」
ギレーヌは何も言わなかった。
獣の耳が、ぴくりと動いた。困っているように見えた。
「……教えるのは、下手だ」
「構いません」
「サウロス様の用で来てる。三日で帰る」
「三日で構いません」
「三日で覚えられることなんか、ない」
「ひとつでも構いません」
ギレーヌはまた黙った。
エリックは動かなかった。ギレーヌの前に立ったまま、ただ、じっとその顔を見上げていた。
どれくらい、そうしていただろう。
やがてギレーヌは大きく溜息をついた。
「……しつこいな、お前」
「よく言われます」
嘘だった。誰かにしつこいと言われたことなど、一度もなかった。何かを、こんなふうに欲しがったことが、今まで一度もなかったからだ。
ギレーヌはぽりぽりと頭を掻いた。
それから、中庭の隅に立てかけてあった、エリックの木剣を顎でしゃくった。
「持ってこい」
エリックは弾かれたように駆け出した。
木剣を抱えて戻ってくると、ギレーヌはまだそこに立っていた。
「それと」
ギレーヌが面倒そうに言った。
「さん、は要らん」
「……え?」
「ギレーヌでいい」
エリックは目を瞬いた。
「でも祖父の剣士の方に」
「いい」
ギレーヌははっきりと言った。
「呼ばれ慣れてない。むず痒い」
「……分かりました」
エリックは頷いた。
それから、もう一度言い直した。
「ギレーヌ。教えてください」
ギレーヌの尻尾が、ほんの少しだけ揺れた。
「構えてみろ」
言われた通りに構える。ベルンハルトに四年間、毎朝教わってきた構え。
ギレーヌはエリックの周りをゆっくりと一周した。そして背後で立ち止まると、エリックの肩に手を置いた。
大きな手だった。硬くて温かかった。
「力が入りすぎてる」
肩をぐっと押し下げられる。
「剣を握るな。剣に握らせろ」
「……剣に?」
「分からなくていい。そのうち分かる」
ギレーヌはエリックの前に回った。そして自分の剣を抜き、構えた。
さっき見た構えだった。
「一回だけ見せる。よく見てろ」
振り上げる。
振り下ろす。
近くで見ると、それはさっきよりも、もっときれいだった。
「これを、毎日やれ」
ギレーヌは剣を鞘に戻した。
「百回でも、千回でもいい。回数はどうでもいい。一回一回、今のを思い出しながら振れ。一日も休むな」
「毎日」
「毎日だ」
エリックは木剣を構えた。
肩の力を抜く。剣を握らずに、剣に握らせる。意味はまだ分からない。
振り上げる。
振り下ろす。
ギレーヌの一振りとは似ても似つかなかった。
「……もう一回」
ギレーヌが言った。
エリックはまた振った。
「もう一回」
また。
「もう一回」
また。
空が、白から淡い金色に変わっていった。王城の尖塔の向こうから、朝日が昇り始めていた。
その光の中で、エリックは何度も木剣を振った。
ギレーヌは腕を組んで、それをじっと見ていた。何も言わず、ただ「もう一回」とだけ繰り返しながら。
やがて、屋敷のどこかで朝の鐘が鳴った。
いつもの稽古の時間だった。
ギレーヌは組んでいた腕をほどいた。
「……明日も、この時間だ」
それだけ言うと、ギレーヌは踵を返し回廊の方へ歩いていった。
エリックは木剣を握ったまま、その背中を見送った。
息が上がっていた。腕が、じんじんと痺れていた。
なのに胸の奥が、妙に熱かった。