一
次の朝も、その次の朝も、夜明け前の中庭に二つの影があった。
「もう一回」
振り上げる。振り下ろす。
「もう一回」
振り上げる。振り下ろす。
ギレーヌはほとんど何も教えなかった。構えを直すことも、足の位置を正すことも、滅多にない。ただ腕を組んで、エリックの素振りを見ている。そして一振りごとに、「もう一回」とだけ言う。
二日目の朝、エリックは気づいた。
ギレーヌの「もう一回」には二つの種類があった。
ひとつはすぐに返ってくる「もう一回」。もうひとつはほんの少しだけ間の空く「もう一回」。
間が空くのはエリックの一振りが、いつもより良かった時だった。
それに気づいてから、エリックはその間を待つようになった。一振りごとにギレーヌの声が返ってくるまでの、ほんの一瞬の沈黙を。
「……剣に握らせろ、と言った」
二日目の朝の終わりに、ギレーヌが初めて、「もう一回」以外の言葉を口にした。
「今の一回は、少しだけ、そうなってた」
エリックは木剣を握った自分の手を見下ろした。
何が違ったのか、自分では分からなかった。ただ、今の一振りだけ、腕が軽かった。剣を振ったのではなく、剣が勝手に落ちていったような。
「今のを、覚えとけ」
「……はい」
「もう一回」
その朝の「もう一回」は少しだけ、間が空いていた。
「あにうえー」
三日目の朝、中庭に、寝ぼけ眼の弟が現れた。
寝間着のまま、裸足で、毛布を引きずっている。
「エルヴィン。まだ暗い」
「おきたら、いなかったから」
エルヴィンは毛布を引きずったまま、とことこと中庭に下りてきた。そして、ギレーヌの前で立ち止まり、思いきり見上げた。
「おはようございます」
「……ああ」
「あのね」
エルヴィンは毛布を落とした。
それから、両手をギレーヌに向かって差し出した。
「しっぽ、さわってもいい?」
エリックは木剣を取り落としそうになった。
「エルヴィン」
「だめ?」
ギレーヌはしばらく黙っていた。
獣の耳が、ぴくりと動いた。それから、もう一度。
やがて、ギレーヌは何も言わずにその場にしゃがみ込んだ。
尻尾が、ゆっくりと、エルヴィンの方へ回された。
「……いいの?」
「……ん」
エルヴィンは両手で、そっと尻尾に触れた。
そして目を丸くした。
「ふわふわだ」
エルヴィンはしばらく尻尾を撫でていた。
それから満足したように、ギレーヌを見上げた。
「ありがとうございます」
「……ん」
「ギレーヌさんって、やさしいね」
ギレーヌの尻尾が、びくりと跳ねた。
それから、ふいと引っ込められた。
「……そんなことはない」
「やさしいよ」
「ない」
「あるよ」
「……ない。それと、ギレーヌでいい」
「……ギレーヌ?」
「ああ」
ギレーヌは立ち上がって、そっぽを向いた。
エルヴィンはきょとんとしていた。それから毛布を拾って、中庭の隅の石段にちょこんと座った。
「ぼく、ここでみてる」
「……寒いぞ」
「へいき」
エルヴィンは毛布にくるまって、兄と剣士を交互に見比べた。
ギレーヌはしばらく弟の方を見ていた。
それから、また腕を組んだ。
「……もう一回」
エリックは木剣を構えた。
その日の夕食に、ギレーヌの席はなかった。
食堂の長い食卓に並んだのは、伯父と、祖父と、ユリウスと、エリックとエルヴィン。いつもの配置に、祖父が加わっただけだった。
「おじいさま。ギレーヌは?」
エルヴィンが訊くと、祖父は肉を頬張りながら、当たり前のように答えた。
「厨房じゃ。あれは、食卓が嫌いでな」
「きらい?」
「わしは何度も誘っとるんじゃ。じゃが、来ん」
祖父は酒の杯を傾けた。
「ロアでも同じでな。わしの隣に座らせようとすると、逃げよる。勿体ないことじゃ。あれと飲むと、酒がうまいのに」
「……父上。獣族の剣士を客と同じ卓に着かせるのは、外聞が」
「外聞など知るか! わしの自慢の剣士じゃぞ!」
祖父の声が食堂の窓を震わせた。
伯父はこめかみを押さえた。
その伯父が、ふと、思い出したように言った。
「……もっとも、あの剣士を卓に着かせれば、客が放っておかないでしょうな。獣族の剣王など、王都では見物ですから」
「見物とは何じゃ、見物とは」
「事実です。先日も王宮から問い合わせがありました。あの獣族はどこで手に入れたのか、と」
「手に入れたのではない。雇うたのじゃ」
祖父は不機嫌そうに肉を噛みちぎった。
エリックはその会話を黙って聞いていた。
食事の後、エリックは厨房へ向かった。
皿に、自分の分の肉を少し残して、持っていった。
厨房の扉を開けると、熱気と湯気が顔に当たった。竈の火はまだ落とされておらず、料理人たちが後片付けをしている。
厨房の奥に、使用人たちが食事をとる長い卓があった。粗い木の卓に背のない長椅子が二脚。夕食の片付けを終えた下働きの娘たちと、馬番の男が、端の方で賑やかに喋りながら食べていた。
その反対の端にギレーヌがいた。
長椅子に腰かけて、大きな皿を前に食べていた。皿の上には山のような肉が盛られている。屋敷の食卓に出たものより、明らかに量が多かった。
「おう、エリック様!」
料理長が、汗を拭きながら声を上げた。
「どうしました、何か足りませんでしたかね」
「いえ」
「あ、あの方のことですか。いやあ大したもんですよ。うちの厨房に来た客で、鍋ひとつ空けたのは初めてだ」
料理長は心底楽しそうに笑った。
「剣王様だってのに、奥の客間じゃなくて、ここがいいって言うんですよ。こっちの方が落ち着くんだそうで。うちの連中も、最初はおっかながってたんですがね。今じゃ、あの通りで」
料理長が顎でしゃくった先で、下働きの娘の一人が、ギレーヌの皿に黙って芋を足していた。ギレーヌは黙ってそれを食べた。娘たちが、くすくすと笑った。
ギレーヌは肉を口に運ぶ手を止めずに、ちらりとエリックを見た。
「……何か用か」
「いえ」
エリックは皿を持ったまま、長椅子のギレーヌの隣に座った。
下働きの娘たちの話し声が、ぴたりと止んだ。馬番の男が、匙を持ったまま固まった。
ギレーヌの手も止まった。
「……おい」
「はい」
「そこ、使用人の席だぞ」
「知ってます」
「お前は貴族の子だろう」
「今は、食べてるだけです」
エリックは皿の肉を口に運んだ。
ギレーヌはしばらくエリックを見ていた。
それから、また肉を食べ始めた。
卓の向こうの端で、娘たちが顔を見合わせた。それから少しずつ、また喋り始めた。さっきより声が小さかった。ときどき、こちらを見てはまた笑った。
二人とも何も喋らなかった。
料理人たちが鍋を洗い、竈の火を落とし、明日の仕込みの話をしている。その音の中で、ただ黙って食べていた。
「……なんで来た」
しばらくして、ギレーヌが訊いた。
「食堂に、いなかったので」
「それだけか」
「それだけです」
「何も訊かんのか」
エリックは肉を噛みながら少し考えた。
「何を訊くんですか」
「……いつもは訊かれる」
ギレーヌは皿の縁を見ていた。
「獣族は、何を食うのか。耳は聞こえるのか。尻尾は何のためにあるのか。獣族は力が強いのか」
ギレーヌの獣の耳が、わずかに後ろに倒れた。
「悪気はない。物珍しいだけだ。……分かってる」
エリックは少し考えた。
「僕が訊きたいのは、別のことです。毎朝の素振りで、ギレーヌは、最後の一回だけ、息の吐き方が違います。長く吐きます。どうしてですか」
ギレーヌの手が止まった。
ギレーヌがエリックを見た。長いあいだ見ていた。
「……気づいたのか」
「三日とも、そうでした」
「……知らん。癖だ」
「癖なら、真似してもいいですか」
「……勝手にしろ」
後ろに倒れていた耳が、少しずつ、元の位置に戻っていった。
エリックは皿に残っていた肉を、ギレーヌの皿に移した。
「……何だ」
「残してきました」
「……いいのか」
「はい」
ギレーヌはしばらくその肉を見下ろしていた。
それから、無言で食べた。
長椅子の後ろで、尻尾が、ゆっくりと一度だけ揺れた。
「……明日も、夜明け前だ」
「はい」
「寝坊するなよ」
「しません」
厨房の隅で、料理長が「エリック様、もっと食べます?」と笑いながら鍋を差し出してきた。
二
武芸奉納の日は朝から空が高かった。
王城シルバーパレス。丘の上にそびえる白銀の城は屋敷の窓から毎日見上げていた。けれど、その門をくぐるのは、エリックにとって初めてのことだった。
ボレアス家の馬車が、城門の前で止まる。
祖父が真っ先に飛び降り、伯父がそれに続いた。ユリウスが気取った足取りで降り、エリックと、乳母に手を引かれたエルヴィンが最後に降りた。
ギレーヌは馬車の後ろから、徒歩でついてきていた。
「これは、ボレアス様」
城門の脇に控えていた衛兵が、槍を立てて礼をした。
その隣に、もう一人門番が立っていた。
大きかった。
ギレーヌよりも、祖父よりも、さらに頭ひとつ大きい。肩幅はエリックが両腕を広げたよりも広い。まだ若いのか、顔つきにはどこか幼さが残っていたが、その身体は城門の柱の一本がそのまま人の形になったかのようだった。
エルヴィンが、ひっ、と小さく息を呑んで、兄の背中に隠れた。
大きな門番はそれに気づいたようだった。
そして、少し困ったように眉を下げると、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その場に片膝をついた。そうすると、ようやく目の高さが、立っているエルヴィンと同じくらいになった。
「……こわく、ない」
低い、ゆっくりとした声だった。
「ここは、おれが、まもってる。だから、だいじょうぶ」
エルヴィンは兄の背中から顔を半分だけ出して、大きな門番を見つめた。
門番はにかっと笑った。不器用な笑い方だった。けれど、その笑顔には少しも怖いところがなかった。
エルヴィンは兄の背中から出てきた。
そして門番の前まで歩いていくと、じっとその顔を見上げた。
「おにいさん、おおきいね」
「……うん」
「ぼくも、おおきくなる?」
「なる。たぶん」
「たぶん?」
「……おれは、なりすぎた」
エルヴィンが、けらけらと笑った。
門番も困ったように笑った。
「おい、ドーガ! 何をしとる、持ち場を離れるな!」
衛兵の上役らしい男が、苛立った声を上げた。
「……うす」
ドーガと呼ばれた門番はのっそりと立ち上がった。そして、エリックとエルヴィンに、もう一度だけ小さく頷いてから、城門の脇の持ち場に戻っていった。
「……あのひと、やさしかった」
城の中へ歩きながら、エルヴィンが言った。
「大きかったな」
「うん。でも、やさしかった」
エリックは振り返った。
城門の脇で大きな門番はもう槍を立てて前を向いていた。まるで最初から、そこに置かれた柱の一本であるかのように。
三
武芸奉納の舞台は王城の中庭だった。
白い石畳の広場を、三方から観覧席が囲んでいる。正面の一段高い席には国王陛下。その左右に、王族と大臣たち。そして観覧席の最前列に、四つの家の旗が並んでいた。
北のボレアス。南のノトス。東のエウロス。西のゼピュロス。
アスラ王国の四方を守る、グレイラットの四家。
「今日はな、四家がそれぞれ、抱えとる剣士を陛下にお見せするんじゃ」
ボレアスの旗の下の席で、祖父がエリックの耳元で言った。声を潜めているつもりらしかったが、周囲の席の貴族たちが何人も振り返った。
「昔はな、四家の当主が自ら剣を振ったもんじゃ。わしも若い頃は、この石畳の上で三人抜いたぞ。今はどこも雇うた剣士に任せとるがな」
祖父はつまらなそうに鼻を鳴らした。
それから、胸を張った。
「じゃが、今年はわしの勝ちじゃ。見とれ」
最初に舞台に上がったのは、ノトス家の剣士だった。
鎧を着込んだ屈強な騎士。剣神流の聖級だと周囲の囁きが教えてくれた。騎士は陛下に一礼し、見事な型をいくつか披露した。観覧席から控えめな拍手が起こる。
エウロス家の剣士は水神流の使い手だった。ゼピュロス家は北神流。どちらも見事な腕前で、どちらにも拍手が送られた。
エリックはその全部を食い入るように見ていた。
ベルンハルト以外の剣士の剣を、こんなに間近で見るのは初めてだった。どの剣もベルンハルトの剣よりずっと速く、ずっと鋭かった。
けれど、どの剣も、夜明けの中庭で見たあの剣とは違っていた。
「ボレアス家」
呼び出しの声が中庭に響いた。
ギレーヌが、ボレアスの旗の下から石畳の上へ歩み出た。
観覧席がざわめいた。
獣族。女。眼帯。ひそひそと交わされる声はエリックの耳にも届いた。好奇の目。蔑むような目。面白がるような目。
ギレーヌはそのどれにも反応しなかった。
ただ石畳の中央に立ち、陛下の方を向いて、ぎこちなく頭を下げた。作法を知らない者の、不格好な礼だった。観覧席のどこかで忍び笑いが漏れた。
エルヴィンが隣の席で、ぷくっと頬を膨らませた。
「……わらうの、へんだよ」
「静かに」
「だって」
エリックは弟の口を手で塞いだ。
「ボレアス家の剣士には、先ほどのノトス家の剣士と、立ち合いを所望する」
祖父が観覧席から大声で言った。
ざわめきが、さらに大きくなった。
型の披露ではなく立ち合い。しかも剣神流の聖級の騎士と。
ノトス家の当主らしい男が露骨に眉をひそめた。けれど陛下が小さく頷いたので、断ることはできなかった。
鎧の騎士が再び舞台に上がった。
ギレーヌと向かい合う。
騎士は剣を構えた。さっきの型の披露と同じ、隙のない構え。
ギレーヌも剣を抜いた。
夜明けの中庭で三日間見ていた構えだった。
審判役の騎士が手を上げた。
「始め」
その声が終わるよりも早かった。
エリックには何が起きたのか、見えなかった。
ギレーヌが一歩踏み込んだ。それだけは分かった。そして次の瞬間には騎士の剣が、くるくると宙を舞っていた。
騎士の喉元に、ギレーヌの剣の切っ先が、ぴたりと止まっていた。
からん、と。
騎士の剣が石畳に落ちる音が、静まり返った中庭に響いた。
誰も、何も言わなかった。
拍手すら起きなかった。
その沈黙を破ったのは、祖父の笑い声だった。
「わはははは! 見たか! 見たか、今のを!」
祖父は席から立ち上がって、手を叩いていた。
「わしの自慢の剣士じゃ! 誰ぞ文句のある者はおるか!」
陛下が小さく笑ったのが見えた。
そして、ゆっくりと手を叩き始めた。陛下が手を叩けば、他の者も叩かないわけにはいかない。まばらな拍手が、やがて中庭全体に広がっていった。
ギレーヌは剣を鞘に収め、また不格好に頭を下げた。
今度は誰も笑わなかった。
エリックは拍手をするのも忘れていた。
見えなかった。
夜明けの中庭で、毎朝あんなに近くで見ていたのに。今の一歩は影すら見えなかった。
あれが、本物の剣王の剣なのだ。
胸の奥が、どくどくと鳴っていた。怖いのではなかった。悔しいのでもなかった。
ただ、あそこに行きたい、と思った。
隣でエルヴィンが、小さな手を懸命に叩いていた。
四
四家の剣士の披露が終わると、客分の剣士たちの演武が始まった。
「王国が招いておる剣客じゃ。四家の剣士とは、格が違うぞ」
祖父が、珍しく真面目な声で言った。
最初に現れたのは、奇妙な男だった。
派手な色の衣装。人目を引くための飾りが、これでもかというほど付いている。剣士というより、旅芸人か道化のように見えた。
「北王、オーベール・コルベット」
呼び出しの声に、観覧席がどよめいた。
北王。北神流の、王級。まだ二十歳そこそこだと、隣の席の貴族が囁いていた。
男は大げさな身振りで陛下に一礼すると、剣を抜いた。
そして踊り始めた。
そうとしか言いようがなかった。
くるりと回る。跳ぶ。しゃがむ。剣を左手に持ち替え、また右手に戻す。一瞬、剣を手放したかと思えば、足で蹴り上げて空中で掴み直す。どこから攻めてくるのか、まったく読めない。動きのひとつひとつが、見る者の目を欺くためにあるかのようだった。
――北神流。これはまあ、何でもありだ。
パウロの声が耳の奥で聞こえた。
あの時パウロが見せてくれた、つかみどころのない三つ目の構え。それを王級の剣士がやると、こうなるのだ。
演武が終わると観覧席から大きな拍手と笑い声が起きた。オーベールはまるで道化のように何度もお辞儀をして、舞台を下りていった。
「……あにうえ、いまのひと、おもしろかった」
エルヴィンが目を丸くしていた。
「ああ」
「でも、ちょっとこわかった」
「……ああ」
エリックも同じことを思っていた。
あの剣と真正面から向き合ったら、どこを見ればいいのか分からない。
「水神、レイダ・リィア」
次の呼び出しの声に、観覧席が、しんと静まり返った。
舞台に上がってきたのは、小さな老婆だった。
皺だらけの顔。白髪をひっつめにした頭。背はエリックとそう変わらないのではないかと思えるほど小さい。杖でもついていそうな足取りで、よちよちと石畳の中央まで歩いてくる。
剣士には見えなかった。
縁側で編み物でもしていそうな、どこにでもいる老婆にしか見えなかった。
けれど、観覧席の誰も、笑わなかった。ノトス家の当主も、大臣たちも、陛下ですら、背筋を伸ばしてその老婆を見つめていた。
「さて、今日は何を見せようかねえ」
老婆は観覧席を見回して、のんびりとした声で言った。
「レイダ殿! 今年も頼むぞ!」
ボレアスの旗の下で、祖父が立ち上がって叫んだ。
老婆は声の方を見た。見て、皺だらけの顔をしかめた。
「ボレアスの爺さんは今年もうるさいねえ。観覧席で一番うるさいのは、毎年あんただよ」
観覧席のあちこちで笑いが起きた。祖父はまったく気にせずに笑っていた。
「型なんぞ見せても退屈だろう。そこの坊やたち」
老婆は舞台の脇に控えていた王宮騎士たちを、皺だらけの指で差した。
「三人まとめてかかっておいで。遠慮はいらないよ」
騎士たちは顔を見合わせた。
それから上役らしい騎士が頷き、三人の騎士が剣を抜いて舞台に上がった。いずれも王宮に仕える腕利きの騎士たちだった。
三人が老婆を囲む。
老婆は剣を抜いた。
そして構えた。
エリックは息を呑んだ。
その構えを知っていた。
身体をわずかに斜めにして、剣を胸の前で寝かせるように。
――こっちは、水神流。剣神流の逆だ。待って、受けて、返す。
パウロが裏庭で枝を使って見せてくれた構え。あの時、深い水の底のようだと思った構え。
それが今、目の前で本当に水の底になっていた。
三人の騎士が、同時に斬りかかった。
老婆は動かなかった。
いや、動いていた。ほんの少しだけ。足の位置をわずかにずらし、剣の角度をわずかに変え、身体をわずかに傾けた。それだけだった。
なのに三人の騎士の剣はひとつも老婆に届かなかった。
届く寸前で、まるで水面に落ちた石が波紋に呑まれるように、力の向きを変えられていた。一人目の剣が二人目の剣を弾き、二人目の身体が三人目の足をもつれさせ、そして次の瞬間には三人とも石畳の上に転がっていた。
老婆は一歩も動いていなかった。
「ほら立ちな。まだ終わってないよ」
のんびりとした声だった。
エリックは自分の身体が勝手に動いているのに気づいた。
観覧席の上で腰がわずかに斜めに傾いていた。膝の上に置いた両手が、見えない剣を胸の前で寝かせるように構えていた。
知らず知らずのうちに、あの老婆の構えを真似ていた。
しっくりきた。
夜中に寝室でこっそり真似ていた時よりも、もっとずっと。まるで、ずっと前からこの構えを知っていたかのように。
ふと、視線を感じた。
舞台の上で、老婆がこちらを見ていた。
皺に埋もれた小さな目が、観覧席の上の赤い髪の子供を捉えていた。
老婆は口の端をかすかに持ち上げた。
面白いものを見つけた、とでも言うように。
それから、また倒れた騎士たちの方に向き直り、「ほら、次」と言って、剣を構え直した。
エリックは慌てて両手を膝の上に戻した。
「あにうえ、なにしてたの?」
隣で、エルヴィンが首を傾げていた。
「……してた」
嘘はつけなかった。
「てを、こうしてた」
エルヴィンが、兄の真似をして、小さな両手を胸の前で構えてみせた。
「してた。忘れろ」
「なんで?」
「恥ずかしいからだ」
「はずかしいの?」
「……たぶん」
エリックは前を向いた。耳が熱かった。
心臓が、さっきギレーヌの剣を見た時とは違う音で鳴っていた。
五
祖父たちがロアへ発つ日の朝も、ギレーヌは中庭にいた。
最後の夜明けだった。
「もう一回」
振り上げる。振り下ろす。
「もう一回」
振り上げる。振り下ろす。
百回を超えたあたりで、ギレーヌが「もういい」と言った。
エリックは木剣を下ろした。息が上がっていた。腕がじんじんと痺れていた。
ギレーヌは腕をほどいて、エリックの前に立った。
「……武芸奉納の日」
ギレーヌが、ぽつりと言った。
「観覧席で、水神の構えを真似してたな」
エリックは固まった。
見られていた。舞台の上の老婆だけでなく、ギレーヌにも。
「……すみません」
「別に謝らなくていい」
ギレーヌは首を傾げた。
「お前の剣は、待つ剣だ」
「待つ、剣」
「振る前に、相手を見てる。相手が動くのを待ってる。剣神流の剣じゃない」
エリックは木剣を見下ろした。
ギレーヌの剣に憧れて、ギレーヌに剣を教わった。なのに、自分の剣はギレーヌの剣とは違うのだと言われた。
「僕は、ギレーヌの剣が、きれいだと思って習いました。違うなら、僕は、あなたの剣は」
「知らん」
ギレーヌはあっさりと言った。
「あたしは教えるのは下手だと言った。お前の剣が何なのかなんて分からん。ただ」
ギレーヌはエリックの手の中の木剣を、顎で指した。
「今の素振りは、悪くなかった。毎日やれ。一日も休むな」
「……はい」
「来年、見る」
エリックは顔を上げた。
来年。
「サウロス様は、毎年武芸奉納に来る。あたしも来る。だから来年見る。一年分、ちゃんと振ったかどうか」
ギレーヌはそれだけ言うと踵を返した。
「……毎日、振ります」
その背中に向かって、エリックは言った。
「一日も休みません。来年、見てください」
ギレーヌは振り返らなかった。
ただ回廊に入る直前で、獣の耳がこちらを向いた。
昼前、祖父の一行は屋敷を発った。
「また来年じゃ!」
馬車の窓から身を乗り出して、祖父が大声で叫んだ。
「エリック! エルヴィン! 来年も、顔を見せに来るぞ! 大きゅうなっとれよ!」
伯父が門の前で眉間を押さえていた。
エルヴィンは兄の隣でちぎれんばかりに手を振っていた。
「ギレーヌー! またね!」
馬車の後ろをギレーヌが徒歩でついていく。
その足が一瞬だけ止まった。
そして振り返らないまま、片手が小さく上がった。
それだけだった。すぐにまた歩き出した。
「……あにうえ」
馬車が見えなくなってから、エルヴィンが袖を引いた。
「ギレーヌ、てをふってくれた」
「ああ」
「やっぱり、やさしいね」
「……ああ」
エリックは角を曲がって見えなくなった方を、しばらく見ていた。
その夜、エリックは寝台の中で、あの老婆の構えを思い出していた。
待って、受けて、返す。
お前の剣は待つ剣だ。
ギレーヌの言葉と、観覧席で自分の身体が勝手に取った構えと、舞台の上の老婆の小さな笑みとが、頭の中でぐるぐると回っていた。
そして翌朝も、夜明け前に目を覚ました。
誰もいない中庭で、エリックは木剣を構えた。
ギレーヌの構えで。
振り上げる。振り下ろす。
もう一回。
ギレーヌの声はもう聞こえなかった。けれどエリックの耳の奥ではほんの少しだけ間の空いた「もう一回」が、ずっと響いていた。