一
十歳の冬、祖父は約束通り、また王都にやってきた。
今年は一晩だけの滞在だった。
「去年は孫の顔を見に来たんじゃ。今年は奉納だけじゃ」
祖父はそう言って、伯父の渋い顔を笑い飛ばした。それでも到着したその足で子供部屋に顔を出し、エリックとエルヴィンの頭をまとめて鷲掴みにしていくところは、去年と何も変わらなかった。
ギレーヌも変わらなかった。
褐色の肌。白い眼帯。獣の耳。玄関の広間の敷居の外に、居心地悪そうに控えている姿まで、一年前とそっくり同じだった。
ただ一瞬だけ、エリックと目が合った。
ギレーヌは何も言わなかった。
エリックも何も言わなかった。
けれど、それで十分だった。
その背後で四歳のエルヴィンが「しっぽ!」と叫びながら突撃していき、乳母に捕まえられていた。
夜明け前の中庭に下りると、ギレーヌはもうそこにいた。
「振ってみろ」
挨拶もなかった。
エリックは木剣を構えた。
一年間、一日も休まなかった。雨の日も、熱を出した日も、ベルンハルトの稽古で腕が上がらなくなった日も。夜明け前に起きて、誰もいない中庭で、あの日の一振りを思い出しながら振り続けた。
振り上げる。振り下ろす。
ギレーヌは腕を組んだまま、黙って見ていた。
「もう一回」
振り上げる。振り下ろす。
「もう一回」
十回ほど振ったところで、ギレーヌが腕をほどいた。
「……一年、振ったな」
それだけだった。
褒められたのかどうか、分からなかった。けれど、その声は去年の最後の朝に聞いた「悪くなかった」と、同じ温度をしていた。
ギレーヌは中庭の隅に立てかけてあった木剣を一本、手に取った。ベルンハルトが稽古に使っている大人用の木剣だった。
「構えろ」
「……え?」
「素振りは、もう分かった。次は打ち合う」
エリックは自分の木剣を握り直した。
打ち合う。ギレーヌと。
武芸奉納の日の、あの一歩が頭をよぎった。影すら見えなかった、あの一歩。
「心配するな。本気ではやらん」
ギレーヌは木剣を片手で無造作に構えた。
「来い」
エリックは息を吸った。
ベルンハルトに教わった通りに、踏み込む。剣神流の、先に動いて先に斬る一撃。
木剣が、ギレーヌの肩口に向かって振り下ろされる。
その瞬間、エリックは目を閉じていた。
自分では閉じたつもりはなかった。けれど気がついた時には目の前が真っ暗で、そして次の瞬間、額にこつんと硬いものが当たっていた。
目を開ける。
ギレーヌの木剣の先が、エリックの額に軽く触れていた。
エリックの木剣はどこにも当たっていなかった。いつの間にか、手の中から消えていた。後ろの方で、からんと乾いた音がした。
「……目をつぶったな」
ギレーヌが言った。
「振り下ろす時。あたしの剣が動いた瞬間に、目をつぶった」
「……すみません」
「謝るな。誰でもそうなる。最初は」
ギレーヌは木剣を下ろした。
「剣が向かってくると、目は勝手に閉じる。怖いからだ。身体が、斬られるのを見たくないと思う」
ギレーヌはエリックの落とした木剣を拾い上げ、差し出した。
「でも、目をつぶったら、何も見えない。何も見えなかったら、避けられないし、受けられない。斬られる瞬間まで目を開けとけ。それができなきゃ剣士じゃない」
エリックは木剣を受け取った。
手が震えていた。
「もう一回」
エリックは構えた。
踏み込む。振り下ろす。
ギレーヌの剣が動く。
目を、開けて――。
額に、こつん。
また、閉じていた。
「もう一回」
踏み込む。振り下ろす。
こつん。
「もう一回」
こつん。
何度やっても同じだった。ギレーヌの剣が動いた瞬間、瞼が勝手に落ちる。開けていようと思えば思うほど、身体が言うことを聞かない。
二十回を超えたあたりで、エリックは額の痛みよりも、自分の身体への苛立ちで泣きそうになっていた。
「……もう一回」
今度はギレーヌではなく、エリックが言った。
ギレーヌの獣の耳が、ぴくりと動いた。
エリックは構えた。
目を閉じるな。
目を閉じるな。
目を閉じるな。
踏み込む。振り下ろす。
ギレーヌの剣が、動いた。
見えた。
ほんの一瞬だけ。ギレーヌの木剣が、自分の木剣の下をくぐり、斜めに跳ね上がってくる軌跡が。
そして、額に、こつん。
当たったことに変わりはなかった。
けれど見えた。
「……今の」
ギレーヌが、少しだけ目を細めた。
「開いてたな」
「……はい」
「最後まで、開いてた」
ギレーヌは木剣を肩に担いだ。
空が白み始めていた。
「今日は、ここまでだ」
「……はい」
「来年も打ち合う。それまでに目を開けとけるようにしとけ」
ギレーヌはそれだけ言うと回廊の方へ歩き出した。
エリックは額に手を当てた。
小さなこぶが、いくつもできていた。
痛かった。
その日の武芸奉納でギレーヌはまた、一歩で相手の剣を宙に飛ばした。
今年はエリックにも、その一歩の始まりだけが見えた気がした。
二
レイダ・リィアという名前を、エリックはその年、何度も耳にした。
王都の水神流宗家の道場主。アスラ王国の元剣術指南役。三十年以上も水神の座にあり、王宮には今も彼女を慕う者が多いのだという。
去年の武芸奉納で見た、あの小さな老婆。
三人の騎士の剣を、一歩も動かずに受け流した、あの剣。
「水神流の道場を、覗いてみたい、と?」
ある日、稽古の後で思い切って尋ねると、ベルンハルトは白い髭を撫でながら、困ったように眉を下げた。
「エリック様は、剣神流の門下でございますからな。他流の道場に出入りするのは、あまり褒められたことではございません」
「……そうですか」
「それに、旦那様のお許しも要りましょう。エリック様は、ユリウス様の」
「護衛ですから」
ベルンハルトが言い終わる前に、エリックは言った。
ベルンハルトは何か言いたげに口を開きかけて、結局何も言わなかった。
それ以上、エリックもその話はしなかった。
ただ、夜、寝室でこっそりと、あの老婆の構えを真似るだけだった。
そして夜明け前にはギレーヌの構えで木剣を振った。
目を閉じるな、と自分に言い聞かせながら。
三
秋の終わりに、ユリウスの誕生日が近づいていた。
「十二になったら、真剣を持たせる」
夕食の席で伯父がそう言った。
「王都一の刀匠にユリウスの剣を打たせてある。来週受け取りに行く。ユリウス、お前が自分で受け取りに行きなさい」
「本当ですか、父上!」
ユリウスが目を輝かせた。
「エリック」
伯父がこちらを向いた。
「お前も同行しなさい。護衛は騎士を二人つける。お前は見習いとして、ユリウスに付き添え」
「はい」
「それと」
伯父は茶器を置いた。
「ついでに、刀匠にお前の腕を測らせる。来年の分だ。今使っている木剣を持っていけ」
エリックは伯父の顔を見た。
「僕の分も、ですか」
「十二になれば、持たせる。家の決まりだ」
ユリウスが、面白くなさそうに唇を尖らせた。
「……なんでエリックまで」
「決まりだと言った」
伯父はそれ以上何も言わなかった。
「ありがとうございます」
エリックが言うと、伯父の指が一度だけ卓を叩いた。
「それから」
伯父の目がエルヴィンの方に動いた。
珍しいことだった。伯父が食卓でエルヴィンを見るのは。
「エルヴィンも、連れて行きなさい」
エルヴィンが目を丸くした。
「ぼ、ぼくも、ですか」
「そうだ。お前も、たまには外の空気を吸うといい」
伯父はそれだけ言うと、また茶に口をつけた。
エルヴィンはしばらくぽかんとしていた。それから兄の方を見て、口の形だけで「やった」と言った。
五歳の弟にとって、馬車を降りて町を歩くのは、初めてのことだった。
外出の日の朝、エルヴィンの部屋に包みがひとつ届けられた。
伯父からだった。
中には外套が入っていた。深い紺色の上等な毛織物の外套。襟元に銀糸でボレアス家の紋章が刺繍されている。
「……これ、伯父上から?」
エルヴィンは外套を両手で広げたまま、しばらく動かなかった。
「伯父上から、何かもらうの、はじめてだ」
声が少しだけ震えていた。
伯父がエルヴィンに贈り物をする。食卓でエルヴィンを見る。どちらも、この五年で一度もなかったことだった。
一度もなかったことが、同じ週に二つ起きた。胸の奥に、小さく引っかかるものがあった。
けれど理由は見つからなかった。見つからない引っかかりを口にすれば、外套を胸に抱きしめて、見たこともないほど嬉しそうな顔をしている弟から、その顔を取り上げることになる。
エリックは言わなかった。
「……似合うと思う」
「ほんと?」
「ああ」
エルヴィンは外套を羽織って、くるりと一回転してみせた。裾が床に着きそうだった。
「大きい」
「ぼくが大きくなればいいの」
エルヴィンはそう言って両手で外套の前を握りしめた。
「これ、ボレアスの紋章でしょ。ぼく、ボレアスの子だって、これでわかるね」
エリックは弟の襟元の銀糸を見た。
ボレアス家の紋章。
この屋敷で、エルヴィンがその紋章を身に着けるのは、初めてだった。
玄関の広間に下りると、ユリウスが待っていた。
ユリウスも、外套を羽織っていた。
黒に近い濃い灰色の外套。襟元の紋章は金糸だった。
「なんだ、お前も父上にもらったのか」
ユリウスはエルヴィンの外套をじろじろと見た。
「……色が違う」
「紺色です」
「僕のは灰色だ。金の糸だし」
ユリウスは得意げに胸を張った。
それから、何かに気づいたように眉をひそめた。
「……でも、なんでお前にも紋章付きなんだ?」
「え?」
「いや、別に。何でもない」
エリックは二人の襟元を見比べた。
金糸と銀糸。灰色と紺色。
遠目にはどちらも同じに見えた。
ボレアス家の紋章を付けた、上等な外套を着た、小さな貴族の子供。
二人が並ぶと、背丈の違いははっきりと分かる。十二歳のユリウスと、五歳のエルヴィン。取り違えるような差ではなかった。
けれど。
エリックはまた胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。
今度は溶けて消えなかった。
四
刀匠の工房は王都の職人街にあった。
第三の城壁の内側、石畳の坂道の両側に、鍛冶屋や細工師の工房がひしめき合っている。どこからか槌を打つ音が絶え間なく響き、煙突から上がる煙で空気は少し焦げ臭かった。
ボレアス家の馬車は坂道の入り口で止まった。
「ここから先は、道が狭くて馬車が入れません」
御者が言った。
護衛の騎士は二人。どちらもボレアス家に長く仕える、腕の立つ騎士だった。一人が先頭に立ち、一人が後ろにつく。その間をユリウスとエルヴィンが並んで歩き、エリックはユリウスのすぐ斜め後ろについた。
見習いの付き添いの位置だった。腰には刀匠に見せるための木剣を差していた。毎朝振り続けて、柄の革が手の形に擦り減った木剣だった。
坂道を上りながら、エリックは周囲に目を配った。
ベルンハルトに教わった通りに。人の動き。建物の陰。屋根の上。道の曲がり角。
何もおかしなところはなかった。職人たちが槌を振るい、徒弟たちが荷を運び、客らしい男たちが店先を覗いている。いつもの王都の昼下がりだった。
「……兄上」
エルヴィンが、歩きながら小さな声で言った。
「ん」
「あのひとたち、さっきから、ずっとついてきてる」
エリックは振り返らなかった。振り返れば相手に気づかれる。ベルンハルトにそう教わっていた。
「どの人だ」
「うしろの、茶色い上着のひとと、そのとなりのひと。坂のしたから、ずっと」
エリックは道端の工房の磨かれた金物の看板に目をやった。
看板の表面に、坂道の後ろの方が、歪んで映り込んでいた。
茶色い上着の男。その隣に灰色の外套の男。二人とも何を見るでもなく、ぶらぶらと坂を上ってきている。職人街の客のようにも見えた。
「……気のせいじゃないのか」
「わかんない。でも、なんか、へん」
「何が」
「……みんな店をみてるのに、あのひとたちだけ店をみてない」
エリックはもう一度看板に映る二人を見た。
言われてみれば、そうだった。坂を上る他の客たちは皆、両側の工房の店先に目をやっている。けれど、あの二人だけは店には一度も目を向けていない。
ずっと前を見ている。
前を歩く二人の子供を。
エリックは後ろの騎士に目配せをしようとした。
その時だった。
前方の曲がり角から、荷車が一台飛び出してきた。
山と積まれた木箱。それを押していた男が、石畳の段差に車輪を取られたのか、荷車が大きく傾いた。木箱が崩れ落ち、坂道いっぱいに散らばる。
「おい、危ない!」
先頭の騎士が、ユリウスとエルヴィンの前に腕を広げた。
荷車を押していた男が、よろめきながら、こちらに倒れ込んでくる。
その手に何かが光った。
短剣だった。
「――ッ」
エリックの身体が動いた。
考えるより先に。
ユリウスの腕を掴み、自分の背後に引き倒す。そのままユリウスと男の間に身体を割り込ませる。腰の木剣を抜き、男の短剣を持つ手首を、横から打ち払う。
六年間、毎朝叩き込まれてきた動きだった。
――お前の務めは、ユリウスを守ることだ。
――お前はその剣となれ。
男の短剣が石畳の上を滑っていった。
先頭の騎士が、男に飛びかかり押さえ込む。
「ユリウス様、ご無事で!」
「な、な、何だ、今の……っ」
ユリウスが、エリックの背後で尻もちをついたまま、真っ青な顔で震えていた。
エリックは木剣を構えたまま、周囲を見回した。
他に、敵は。
後ろの騎士は。
――後ろ。
振り返った。
後ろの騎士は石畳の上に倒れていた。
茶色い上着の男と、灰色の外套の男が、そこにいた。
灰色の外套の男が、紺色の外套を着た小さな子供を、小脇に抱えていた。
子供は声も上げられずに、手足をばたつかせていた。口を男の大きな手で塞がれて。
紺色の外套。銀糸のボレアス家の紋章。
「エルヴィン!」
叫んだ時には二人の男はもう坂道の脇の細い路地に飛び込んでいた。
五
全部でほんの数呼吸の出来事だった。
荷車が倒れ、短剣が光り、エリックがユリウスの前に立った。その間に後ろの二人がエルヴィンを攫っていった。
エリックがユリウスを守っている間に。
「エリック様、動かないでください!」
男を押さえ込んだまま、先頭の騎士が叫んだ。
「まだ仲間がいるかもしれません! ユリウス様のおそばを、絶対に離れないでください!」
エリックは騎士の方を見た。
騎士は男を押さえつけるので精一杯だった。後ろの騎士は石畳の上に倒れたまま、動かない。周囲の職人たちは悲鳴を上げて工房の中に逃げ込んでいく。
ユリウスを守れる者は今、自分しかいなかった。
――お前の務めは、ユリウスを守ることだ。
伯父の声が頭の中で響いた。
六年間、毎日のように聞かされてきた声だった。身体の芯まで染みついた声だった。
エリックは倒れた騎士の方を見た。
騎士の腰から剣が半分ほど鞘から抜け出て、石畳の上に投げ出されていた。
本物の剣。鋼の剣。
エリックは一瞬それを見た。
拾えば。
いや。
あれは大人の剣だ。長さも重さも、十一歳の腕では扱えない。ベルンハルトに一度だけ持たせてもらったことがある。構えることすら、まともにできなかった。
持っていっても振れない。振れない剣は無いのと同じだ。
エリックは木剣を握り直した。
ユリウスが石畳の上に座り込んだまま、エリックの上着の裾を握りしめていた。震える手で、しがみつくように。
「……い、行くな」
ユリウスの声はかすれていた。
「行くなよ、エリック。お前、僕の、護衛だろ……っ」
エリックは路地の方を見た。
細い暗い路地。二人の男とエルヴィンが消えていった路地。
あの外套。
伯父が初めてエルヴィンに贈った外套。
ボレアス家の紋章を付けた、上等な外套。
――エルヴィンも連れて行きなさい。
――お前も、たまには外の空気を吸うといい。
――僕、ボレアスの子だって、これでわかるね。
エリックは息を吸った。
胸の奥の引っかかりが、今はっきりと形になっていた。
紋章を付けた子供が二人いれば、賊はどちらかを狙う。
守りの薄い方を。小さい方を。
そして、その間に、もう一方は安全になる。
「従兄上。騎士が、すぐそばにいます。賊は押さえられています」
エリックはユリウスの手を、自分の上着の裾から、ひとつひとつ指を剥がすようにして外した。
「従兄上の前には、もう危ないものはありません。エルヴィンの前には、あります」
ユリウスの手が宙で止まった。
「すみません。行きます」
「エリック様!」
騎士の声が背中に突き刺さった。
「なりません! 旦那様のご命令です! 木剣一本で、何ができるのです!」
エリックは振り返らなかった。
木剣を握りしめ、路地に向かって走り出した。
背後でユリウスが何か叫んでいた。騎士が何か叫んでいた。何を言っているのか、もう聞こえなかった。
暗い路地に飛び込む。
石畳が濡れていた。どこかで水の流れる音がした。
その音のする方へ。
弟の消えた方へ。
エリックは伯父の命令に背いて走った。