一
路地は迷路だった。
職人街の裏側には表通りからは想像もつかないほど細い道が、蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。建物と建物の隙間。洗濯物の垂れ下がる軒下。崩れかけた石段。どこを曲がっても同じような薄暗い壁が続いている。
エリックは息を切らしながら走った。
二人の男の姿はもう見えなかった。
どっちだ。
分かれ道で足が止まる。右か左か。水の流れる音はどちらからも聞こえる気がした。
その時足元の石畳に、白いものが落ちているのに気がついた。
拾い上げる。
手袋だった。
白い毛糸の子供用の手袋。手の甲に小さな兎の模様が編み込まれている。
母の編んだ手袋だった。
エルヴィンが今年の誕生日にもらったもの。寒くなってから毎日のようにはめていたもの。
左の道の少し先に、もう片方が落ちていた。
――あいつ。
エリックは手袋を握りしめて、左の道へ走った。
口を塞がれて、声も出せないまま。それでも、エルヴィンは手袋を落としていった。
人の顔をよく見る弟だった。人が口に出さないことを、ちゃんと見ている弟だった。
道が急に開けた。
石造りの岸壁。その下を濁った水がゆっくりと流れていく。王都を東西に貫く運河だった。岸壁に沿って、古い倉庫がいくつも並んでいる。
その一番端の倉庫の前に、小舟が一艘繋がれていた。
舟の上に男が一人。そして岸壁の上に、茶色い上着の男と、灰色の外套の男。
灰色の外套の男はまだ紺色の外套の子供を抱えていた。
「急げ、舟を出せ」
「分かってる。そのガキを寄越せ」
舟の上の男が手を伸ばした。
その瞬間、抱えられていたエルヴィンが、自分の口を塞いでいた男の手に、思いきり噛みついた。
「ぐあっ!」
男の腕が緩む。エルヴィンの身体が、石畳の上に落ちる。
エルヴィンは転がるようにして立ち上がり、走り出そうとした。
「この、ガキが……ッ!」
灰色の外套の男が、噛まれた手を押さえながら、エルヴィンの背中を蹴り飛ばした。
エルヴィンが石畳の上に倒れ込む。とっさに右手をついた。
その右手を、男の靴が上から踏みつけた。
ぐしゃり、と。
嫌な音がした。
エルヴィンの悲鳴が、運河の水面に響いた。
エリックは迷わなかった。
木剣を振りかぶって、灰色の外套の男に向かって走っていた。
踏み込む。
剣神流の、先に動いて先に斬る一撃。
男はエルヴィンの手を踏みつけたまま、振り返りもしなかった。
木剣が男の肩に叩き込まれた。
鈍い手応え。男が呻き声を上げてよろめく。靴がエルヴィンの手から離れる。
「エルヴィン、逃げろ!」
「あ、兄上……っ」
エルヴィンは右手を胸に抱えるようにして、這うように男から離れた。
「何だ、こいつ!」
「さっきの、護衛のガキだ!」
茶色い上着の男が、腰から剣を抜いた。
木剣ではなかった。本物の鋼の剣だった。
エリックは弟の前に立ちはだかった。
木剣を構える。
茶色い上着の男が斬りかかってきた。
速かった。ベルンハルトよりも、ずっと。
剣がエリックの頭上に振り下ろされる。
目を――。
――目をつぶったら、何も見えない。
――斬られる瞬間まで、目を開けとけ。
開けていた。
見えた。
男の剣の軌跡が。振り下ろされる刃の、ぎらりとした光が。
エリックの身体が勝手に動いた。
踏み込むのではなかった。ほんのわずかに身体を斜めに傾けていた。木剣を胸の前で寝かせるように。
あの老婆の構えだった。
夜ごと、寝室でこっそり真似ていた構え。
男の剣がエリックの木剣に当たる。
受け流す、つもりだった。あの老婆がやっていたように。力の向きを変え、相手の剣を滑らせるように。
けれど、十一歳の腕では大人の男の剣の重さを受け流しきれなかった。
木剣が半ばから、ばきりと折れた。
衝撃でエリックの身体が後ろに吹き飛ぶ。背中が倉庫の石壁に叩きつけられた。息が止まる。
視界が揺れた。
茶色い上着の男が、剣を振りかぶって近づいてくる。
「手間かけさせやがって。お前も一緒に運んでやる」
エリックは折れた木剣を握りしめたまま、男を見上げていた。
目は閉じなかった。
閉じてたまるか、と思った。
最後まで見ていてやる。
男の剣が振り下ろされた。
その刃がエリックに届くことはなかった。
「おやまあ」
のんびりとした声がした。
「子供相手に、大の男が三人がかりかい。みっともないねえ」
男の剣が止まっていた。
エリックの目の前、ほんの手のひら一枚分の距離で。
その刃の横腹に、細い剣の切っ先が、そっと添えられていた。
まるで蝶が花に止まるような、軽い触れ方だった。なのに男がどれほど力を込めても、剣はそこから一寸も動かなかった。
剣の持ち主は小さな老婆だった。
皺だらけの顔。白髪をひっつめにした頭。
あの冬、武芸奉納の舞台の上で、三人の騎士を一歩も動かずに転がした、あの老婆。
「な、何だ、この婆……っ」
「婆とは失礼だね」
老婆――レイダ・リィアは剣の切っ先をわずかに捻った。
それだけだった。
なのに男の手から剣がもぎ取られ、宙を舞い、運河の水面にぽちゃりと落ちた。そして男の身体は自分で自分の足に引っかかったように前のめりに倒れ、岸壁の石畳に顔から突っ込んだ。
「こ、このっ!」
灰色の外套の男が、懐から短剣を抜いて飛びかかってきた。
レイダはそちらを見もしなかった。
ただ半歩だけ、足の位置をずらした。
男の短剣がレイダの脇をすり抜ける。勢い余った男の身体はそのまま岸壁の縁を越え、派手な水音を立てて運河に落ちていった。
舟の上の男が慌てて舫い綱を解き、竿を突いて逃げていく。
レイダはそれを追おうともしなかった。
「まあ、一人くらいは逃がしてやろうかね。誰に頼まれたか、雇い主に報告してもらわないと」
レイダは剣を鞘に収めた。
それから、石壁にもたれて座り込んでいるエリックを見下ろした。
「立てるかい、坊や」
エリックは震える膝に力を込めて、石壁を支えに立ち上がった。
レイダは皺に埋もれた小さな目で、エリックの顔をじっと見た。それからエリックの手に握られたままの、折れた木剣に目をやった。
「木剣一本で、真剣を持った大人に向かっていったのかい」
「……はい」
「馬鹿だね、あんた」
あっさりと言われた。
「大人の剣は重くて振れないから、と思ったんだろう。それは正しいよ。でもね、正しい判断をした上で、なお飛び込んでいくのは、ただの馬鹿さ」
「弟だったので」
エリックは正直に言った。
「理由になってないよ」
「僕には、なっています」
レイダはしばらくエリックの顔を見ていた。それから、喉の奥で、くつくつと笑った。
「……でも」
レイダは折れた木剣を指差した。
「さっきの一合。受け流そうとしたね。力が足りなくて折られたけど」
「……はい」
「それに、目をつぶらなかった。真剣が振り下ろされる最後の最後まで」
レイダは口の端をわずかに持ち上げた。
「あの歳で、それができる子供は、そう多くはないよ」
レイダは皺だらけの手で、エリックの額を、ぺしりと叩いた。
「馬鹿は馬鹿だけどね。悪い馬鹿じゃない」
運河の水面から、灰色の外套の男がもがく音が聞こえてきた。遠くから騎士たちの鎧の音と、誰かを呼ぶ声が近づいてくる。
「兄上……」
背後で、か細い声がした。
エリックは振り返った。
エルヴィンが倉庫の壁際にうずくまっていた。紺色の外套は泥にまみれ、右手を胸に抱えるようにして、小さく震えていた。
その右手の指が、おかしな方向に曲がっていた。
二
屋敷に戻ったのは、日が暮れてからだった。
医者が呼ばれた。治癒術師は呼ばれなかった。エルヴィンの右手に添え木が当てられた。人差し指と中指の骨が折れていた。
「骨は、つきましょう」
手当てを終えた医者はそう言った。それから、言い淀んだ。
「ただ、踏みつけられた時に、筋も痛めておられる。元通りに物を握れるようになるかどうかは、今の時点では何とも」
医者の言葉を、エリックは寝台の脇で聞いていた。
エルヴィンは寝台の上で、添え木を当てられた右手を見下ろしていた。痛み止めの薬が効いているのか、顔色は少しだけ戻っていた。
「……兄上、てぶくろ、みつけてくれた?」
エリックは上着の懐から、白い毛糸の手袋を取り出した。二つとも。
エルヴィンは左手でそれを受け取ると、ほっとしたように笑った。
「よかった。母上のだから」
「……わざと落としたのか」
「うん。兄上なら、みつけてくれるとおもった」
エルヴィンは手袋を胸に抱きしめた。
「兄上、きてくれた」
その声は少しも兄を責めていなかった。
「ごめん」
エリックは言った。
「なんで、兄上があやまるの?」
「荷車が倒れた時、僕は従兄上の前に立った。考えるより先に。お前の方を、振り返りもしなかった」
エルヴィンは兄の顔を見上げていた。
「その間に、お前は攫われた。手を踏まれた。僕が振り返っていれば、たぶん踏まれなかった」
「でも、きてくれたよ」
「来るのが、遅かった」
エルヴィンは首を傾げた。それから左手で、兄の指を一本、握った。
「おそくないよ」
弟は言った。
「てぶくろ、ふたつめで、まにあった」
エリックは弟の手を見下ろした。
握られた指を振りほどかなかった。
三
伯父の書斎に呼ばれたのは、その夜遅くのことだった。
伯父はいつものように執務机の向こうに座っていた。燭台の明かりが、その顔に深い影を落としていた。
エリックは机の前に立った。今夜は座れとは言われなかった。
「護衛の騎士から報告は聞いた」
伯父の声はいつもと同じように平坦だった。
「お前はユリウスのそばを離れた。騎士が止めるのも聞かずに。賊の仲間が、まだ近くに潜んでいたかもしれない状況で」
「……はい」
「しかも、木剣一本でだ」
伯父は机の上で指を組んだ。
「無謀にも程がある。お前が死ねばユリウスの護衛がいなくなる。それが分かっていたか」
「僕は見習いの付き添いだと、伯父上が仰いました。護衛は騎士が二人いました」
「見習いでもユリウスの剣だ」
伯父は平坦な声のまま言った。
「分かっていたか」
「……はい」
「分かっていて、行ったのか」
「はい」
伯父はしばらく黙っていた。
「護衛が主を置いて持ち場を離れる。それが何を意味するか、分かっているか」
「……エルヴィンが、攫われました」
「知っている」
「だから、行きました」
「そうか」
伯父は書類に視線を落とした。
「賊の狙いはボレアス家の子供だ。おそらくは身代金か、政の取引か。どちらにせよユリウスが本命だった」
伯父は一呼吸置いた。
「エルヴィンは、その役目を果たした」
書斎の中が、しんと静まり返った。
燭台の炎が小さく揺れた。
役目。
エリックはその言葉を頭の中で繰り返した。
紺色の外套。銀糸の、ボレアス家の紋章。
――エルヴィンも、連れて行きなさい。
――お前も、たまには外の空気を吸うといい。
胸の奥で、ずっと引っかかっていたものが、音を立てて形になった。
「……外套は」
声が震えた。
「あの外套は、そのためですか」
伯父は否定しなかった。
「ユリウスを狙う者がいる、という話は、以前から耳に入っていた」
伯父は平坦な声で続けた。
「紋章を付けた子供が二人いれば、賊は迷う。そして守りの薄い方を狙う。その間に本命は遠ざけられる」
「……エルヴィンは、五つです」
「知っている」
「五つの子供に、ボレアスの紋章を着せて、外に出したんですか」
「そうだ」
伯父はエリックの目を見た。
「そして、それは正しかった。ユリウスは無事だ」
エリックは自分の両手が固く握りしめられているのに気づいた。爪が掌に食い込んで痛かった。
伯父は知らないのかもしれない、と思った。知らないなら言わなければならない。
「伯父上」
声は震えなかった。震えないように、一つずつ並べた。
「エルヴィンは、あの外套を、見たこともないほど嬉しそうな顔で抱きしめていました。伯父上から、初めてもらったと言って。ボレアスの子だと、これで分かると言って、笑っていました」
伯父は黙って聞いていた。
「その外套を着て攫われました。右手を踏まれました。それでも、兄上が来てくれたと言って、笑っていました」
エリックは伯父の目を見た。
「それでも、正しかったと言いますか」
「言う」
伯父は即座に答えた。平坦な声だった。
エリックは息を吸った。
「エルヴィンの手は、元通りに、剣を握れないかもしれないそうです」
「聞いている」
伯父はまた書類に目を落とした。
「剣を握れずとも、務まる役目はある」
エリックの身体の中で、何かが、ぷつりと切れる音がした。
四年前、中庭で、ユリウスが母の手袋を泥に投げ込もうとした時と、同じ音だった。
一歩踏み出していた。
伯父の執務机に向かって。
伯父がゆっくりと顔を上げた。
その目はやはり静かだった。一歩踏み出した甥を、ただ見ていた。怯えも驚きもなく。
エリックはその目の前で動けなくなった。
伯父の目の奥に何かがあった。四年前、赤い手袋を見つめていた時と同じ、エリックには名前の分からない何かが。
「下がりなさい。処分は、追って伝える」
四
翌日の昼過ぎ、屋敷に客があった。
エリックは自室で謹慎を言い渡されていた。けれど玄関の広間の方から聞こえてきた、のんびりとした声には聞き覚えがあった。
「ボレアスの坊やはいるかい。水神が来たと伝えとくれ」
使用人たちの慌てふためく足音。老執事の上ずった声。
エリックは部屋の扉をそっと開けた。
伯父の書斎は廊下の突き当たりにあった。扉は閉じられていた。けれど分厚い扉の向こうから、二人の声がかすかに漏れ聞こえてきた。
「――昨日は、息子が世話になったそうで」
「あんたの息子の方は、何も世話しちゃいないよ。助けたのは、あんたの甥っ子たちさ」
「……それで、今日は何の御用でしょう」
「単刀直入に言おうかね」
のんびりとした声が、少しだけ低くなった。
「あの赤毛の坊やを、あたしに預けな」
エリックは扉の陰で息を呑んだ。
「……エリックを、ですか」
「あの坊やは、あんたの息子の護衛なんだろう。だったら、なおさらだよ」
「エリックの師範は、剣神流の上級剣士です。それなりの腕は」
「剣神流が悪いなんて言っちゃいないよ」
声が伯父の言葉を遮った。
「相手より先に動けりゃ、あれが一番速い。でもね、大人の剣士より先に動ける十一の子供なんか、いやしないよ。先に動けないなら、受けて返すしかない。あの坊やは昨日、教わってもいないのに、それをやろうとした」
伯父は何も答えなかった。
「それにね。昨日、一人逃がしてやった。今ごろは雇い主に話してる頃さ。ボレアスの子供の前に、水神が立ったってね。あの坊やがうちに通えば、その話は嘘じゃなくなる」
長い沈黙があった。
「……条件は」
ようやく伯父の声がした。
「条件なんかないよ。あたしが教えたいから教えるのさ。束脩も要らない」
「なぜ、そこまで」
「さあねえ」
のんびりとした声が、かすかに笑った。
「観覧席の上で、膝の上であたしの構えを真似してる子供を見つけたのは、三十年水神をやってきて、初めてだったからかねえ」
また沈黙。
それから伯父が言った。
「……分かりました。エリックを、お預けします」
「話が早くて助かるよ」
椅子の軋む音がした。
エリックは慌てて自室に戻り、扉を閉めた。
扉の向こうで足音が近づいてきた。そしてエリックの部屋の前で止まった。
「聞いてたんだろう、坊や」
扉越しに、のんびりとした声がした。
「明日の昼から道場においで。門番に水神に呼ばれたと言えば通してくれる」
足音が遠ざかっていく。
それから、ふと止まった。
「そうそう」
レイダの声が、廊下の向こうから聞こえてきた。
「あんたの伯父さん、あたしに坊や呼ばわりされても、眉ひとつ動かさなかったよ。なかなか肝の据わった男だね。五つの甥っ子に、紋章付きの外套を着せて表を歩かせるくらいには」
五
その夜、エリックはエルヴィンの寝台の脇にいた。
エルヴィンはもう眠っていた。添え木を当てられた右手を、白い毛糸の手袋と一緒に、胸の上に抱えるようにして。
扉が小さく軋んだ。
振り返るとユリウスが立っていた。
寝間着の上に上着を羽織っただけの姿。燭台も持たず、廊下の薄明かりを背にして、扉の枠に半分隠れるようにしている。
「……従兄上」
エリックが言うと、ユリウスはびくりと肩を揺らした。
しばらく何も言わなかった。
やがてユリウスは扉の枠から一歩だけ部屋に入った。そして寝台の上で眠るエルヴィンの右手を、じっと見つめた。
「……手、折れたんだってな」
「はい」
「剣、握れなくなるかもしれないって」
「……はい」
ユリウスは唇を噛んだ。
「……あの外套」
ユリウスの声はかすれていた。
「僕のと、同じ紋章だったよな」
エリックはユリウスの顔を見た。
燭台の明かりの届かない暗がりの中で、ユリウスの顔はよく見えなかった。けれどその声はエリックが今まで聞いたことのない声だった。
「父上が、あいつにも紋章付きを贈ったって聞いた時、変だなって思ったんだ。なんで五つのあいつにって。でも、深く考えなかった」
ユリウスは自分の寝間着の裾を、ぎゅっと握りしめた。
「……あいつが攫われたのって、僕のせいなんだろ」
「従兄上のせいでは、ありません」
エリックは言った。
「外套を選んだのは、従兄上ではないので」
ユリウスが、息を呑んだ。
それが誰なのかはエリックは言わなかった。言わなくても、ユリウスには分かっているようだった。
「……でも、僕が、あの外套を着てなかったら」
ユリウスは途中で言葉を切った。
それから首を振った。
「……何でもない」
ユリウスは踵を返した。
扉の前で一度だけ立ち止まった。
「昨日」
振り返らずに、ユリウスは言った。
「お前、僕の手を、指、一本ずつ外していったよな。すごく、ゆっくりだった」
ユリウスの肩が、少しだけ震えた。
「急いでたくせに。弟が攫われてたくせに。一本ずつ、ゆっくり外していった」
「覚えていません」
エリックは正直に言った。
「でも、従兄上は、強く掴んでいました。急いで外すと、また手首を痛めると思ったのかもしれません」
ユリウスの肩が、また震えた。
「……おやすみ」
ユリウスはそう言って、部屋を出ていった。
扉が静かに閉まった。
夜明け前、エリックは中庭に下りた。
手には新しい木剣。昨日折れたものの代わりに、ベルンハルトが用意してくれたものだった。
ベルンハルトは今日から稽古はなくなると伯父から聞かされた時、何も言わなかった。ただ、白い髭を撫でながら、新しい木剣をエリックに手渡し、「ご武運を」とだけ言った。
誰もいない中庭で、エリックは構えた。
ギレーヌの構えで。
振り上げる。振り下ろす。
もう一回。
振り上げる。振り下ろす。
――先に動けないなら、受けて返すしかない。
レイダの声が、耳の奥で響いた。
振り上げる。振り下ろす。
荷車の男より先には動けた。運河の岸壁では、大人の剣を受けきれずに木剣を折られた。
エリックは木剣を下ろした。
それから、身体をわずかに斜めに傾けた。木剣を、胸の前で寝かせるように。
あの老婆の構え。
待って、受けて、返す剣。
東の空が、白み始めていた。王城の尖塔の向こうが、淡い金色に染まっていく。
エリックはその光に向かって、小さく呟いた。
「次は、両方守る」
二階の窓は、まだ暗かった。エルヴィンの眠っている部屋だった。
エリックは老婆の構えのまま、その窓に日が当たるのを待った。