凪の水帝   作:アサツラ

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第8話 水神流宗家

一

 

 水神流宗家の道場は思っていたよりも静かな場所だった。

 王城の丘の東側。第二の城壁の内側の、貴族の屋敷が並ぶ一角から少し外れたところに、古い石造りの門があった。門の上に掲げられた木の扁額には、流れる水を象った紋が彫られている。

 門をくぐると、白い砂利を敷き詰めた前庭があり、その奥に瓦屋根の大きな建物が見えた。

 

 木剣の音は聞こえなかった。

 ボレアス家の中庭では稽古の間じゅう、木剣の打ち合う音が響いていた。ベルンハルトの掛け声と、木剣が空気を裂く音と、踏み込む足音と。

 この道場にはそのどれもなかった。

 

「ようこそ、いらっしゃいました」

 

 建物の入り口で、一人の男が待っていた。

 三十手前くらいだろうか。細身で、背はそれほど高くない。穏やかな顔つきをしていて、道場の主というより、どこかの商家の番頭のように見えた。

 

「ボレアス家のエリック様でいらっしゃいますね。祖母から伺っております。タントリス・クルーエルと申します。この道場の雑務を預かっております」

 

 男は丁寧に頭を下げた。

 祖母。

 エリックはあの小さな老婆の顔を思い浮かべた。

 

「……エリックです。よろしくお願いします」

「こちらこそ。どうぞ、中へ」

 

 タントリスに案内されて、道場の中に入った。

 広い板張りの間だった。天井が高く、窓から差し込む光が、磨き込まれた床板に白く映っている。

 

 そこに、二十人ほどの門弟たちがいた。

 皆、木剣を手に二人一組で向かい合っていた。けれど誰も打ち合っていなかった。

 一人が、ゆっくりと木剣を振り下ろす。もう一人が、それをゆっくりと受け、流し、返す。本当に、ゆっくりと。まるで水の中で動いているかのように。

 

「受けの型の稽古です」

 

 タントリスが、小声で説明した。

 

「水神流は、まず受けることから覚えます。相手の剣の重さ、速さ、向き。それを身体で感じ取れるようになるまで、何百回、何千回と、ゆっくり繰り返すのです」

 

 エリックは門弟たちの動きを見つめた。

 ベルンハルトの稽古とは何もかもが逆だった。速く、鋭く、先に。そう教わってきた。ここでは遅く、柔らかく、後に。

 

「兄様」

 

 道場の奥から声がした。

 少女だった。

 エリックよりも三つか四つ年上だろうか。青みがかった黒髪を後ろでひとつに束ね、稽古着の袖をたすきで留めている。背筋がまっすぐに伸び、顔立ちは整っていたが、その目にはどこか人を値踏みするような光があった。

 

「その子が、おばあさまの拾ってきた子ですか」

「イゾルテ。言い方というものがあるでしょう」

 

 タントリスが困ったように眉を下げた。

 

「エリック様、妹のイゾルテです。祖母の直弟子で、この道場の門弟の中では、一番の腕前です」

「……エリックです」

「知っています」

 

 イゾルテはエリックの前まで歩いてきた。そして、頭のてっぺんから爪先まで、じろじろと眺めた。

 

「ボレアス家の、剣神流の子でしょう。武芸奉納の観覧席で、おばあさまの構えを真似していたとか」

「……はい」

「おばあさまは、面白い子を見つけたと言っていましたけれど」

 

 イゾルテは壁際に立てかけてあった木剣を二本手に取り、一本をエリックに放った。

 エリックはそれを受け止めた。

 

「見せてもらえますか。何が面白いのか」

 

 門弟たちが稽古の手を止め、二人の周りに輪を作った。

 

「イゾルテ、エリック様は今日が初日で」

「初日だからです、兄様。どれくらいできるのか、最初に知っておいた方がいいでしょう」

 

 イゾルテは道場の中央に立ち、木剣を構えた。

 あの老婆の構えだった。身体をわずかに斜めにし、木剣を胸の前で寝かせるように。

 けれど、あの老婆とは違った。老婆の構えが深い水の底なら、イゾルテの構えは張り詰めた水面だった。どこに石を投げ込んでも、一瞬で波紋が返ってくるような。

 

「どうぞ。好きに打ってきてください。私は受けるだけにしてあげます」

 

 エリックは木剣を構えた。

 ベルンハルトに六年間叩き込まれた、剣神流の構え。

 踏み込む。

 先に動いて、先に斬る。

 木剣が、イゾルテの肩口に向かって振り下ろされた。

 

 目は閉じなかった。

 だから見えた。

 イゾルテの木剣が、エリックの木剣の側面に、そっと添えられるのが。まるで、水面に落ちた木の葉を指先で押しやるような、軽い触れ方で。

 次の瞬間、エリックの身体は自分の踏み込みの勢いのまま、イゾルテの脇をすり抜けていた。止まろうとしても止まれなかった。足がもつれ、床板の上に派手に転がった。

 門弟たちの間から、忍び笑いが漏れた。

 

「……剣神流の踏み込みですね」

 

 イゾルテは一歩も動いていなかった。

 

「速いですけれど、真っ直ぐすぎます。どこに来るのか、構えた瞬間に分かります」

 

 エリックは床の上で身を起こした。

 受け流された。

 運河の岸壁で自分がやろうとしてできなかったことを、この少女は何でもないことのようにやってのけた。

 

「もう一回」

 

 エリックは立ち上がって言った。

 イゾルテの眉が、わずかに上がった。

 

「……どうぞ」

 

 踏み込む。振り下ろす。

 受け流される。転がる。

 

「もう一回」

 

 踏み込む。振り下ろす。

 受け流される。転がる。

 

「もう一回」

 

 十回を超えたあたりで、門弟たちの忍び笑いが消えた。

 二十回を超えたあたりで、イゾルテの顔から余裕の色が少しずつ消えていった。

 エリックはまだ一度もイゾルテに木剣を当てられていなかった。ただ転がされ、立ち上がり、また踏み込む。その繰り返しだった。

 

 けれど、転がされるたびに、少しずつ見えるものが増えていた。

 イゾルテの木剣が、どの瞬間に動き出すのか。どの角度で、自分の木剣に触れるのか。触れた瞬間、自分の力がどの方向に流されていくのか。

 

「もう一回」

 

 三十回目。

 エリックは踏み込みかけて、止まった。

 一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、踏み込む足を止めた。

 イゾルテの木剣が、エリックの踏み込みを迎えるために、わずかに動いた。

 その動きに合わせて、エリックは改めて踏み込んだ。

 イゾルテの木剣は空を撫でた。

 

 こつん、と。

 エリックの木剣の先が、イゾルテの肩に当たっていた。

 道場の中が、しんと静まり返った。

 

 イゾルテは肩に乗った木剣を見下ろした。それから、ゆっくりとエリックの顔を見た。

 

「……今の」

 

 イゾルテが、低い声で言った。

 

「わざと、止まりましたね。一度」

「……はい」

「私の受けを、先に動かすために」

「はい」

 

 エリックは木剣を下ろした。

 

「三十回転がされて分かりました。イゾルテさんの受けは、僕の踏み込みに合わせて動き出します。踏み込みが見えてから、動きます。だから踏み込むふりをすれば、受けが先に動くと思いました。先に動いた受けは、たぶん、もう受けではないので」

 

 門弟たちが、顔を見合わせた。

 

「でも、イゾルテさんは、まだ一度も打ってきていません。返しがあったら、今のは届かなかったと思います。次は、返しも使ってください。どこから来るのか、見たいので。手首からですか。それとも足の」

「……喋りすぎです」

 

 イゾルテが眉を寄せた。

 それから肩の木剣を、指先でつまんでどけた。

 

「……一本です。受けるだけと言ったのは、私ですから」

 

 イゾルテはしばらくエリックを見下ろしていた。

 

「……面白い、というのは、こういうことですか」

 

 その声は少しだけ悔しそうだった。

 

「兄様。この子、しつこいです。それに、剣の話になると、うるさいです」

「そうですね」

 

 タントリスが穏やかに笑った。

 

「イゾルテが三十回も相手をするのを、私は初めて見ました」

 

二

 

「その踏み込み、誰に教わった」

 

 午後の稽古で、レイダは開口一番にそう言った。

 道場の奥の小さな板の間だった。レイダは座布団の上にちょこんと座って、湯呑みの茶をすすっていた。エリックはその前に正座していた。

 

「ボレアス家の、剣術師範に。六年間」

「それだけかい」

 

 エリックは迷った。

 

「……それから、毎朝、素振りを」

「誰の素振りだい」

「ギレーヌ・デドルディアという剣士の。祖父の、剣士です」

 

 レイダの皺だらけの目が、わずかに細くなった。

 

「ああ。武芸奉納で、ノトスの聖級を一歩でのした、あの獣族の剣王かい」

「……はい」

「あの剣王に、素振りを習ってるのかい」

「毎年、祖父と一緒に武芸奉納に来る時に。一年分の素振りを、見てもらっています」

 

 レイダはしばらく黙って茶をすすっていた。

 それから湯呑みを置いた。

 

「朝の素振り、やめな」

 

 エリックは顔を上げた。

 

「剣神流の剣王の素振りなんぞ、毎朝やってたら、水神流の受けは身につかないよ。身体が、先に動くことを覚えちまう。今日、イゾルテに三十回転がされたのも、そのせいさ」

「……」

「あんたの剣は、待つ剣だ。それはあたしが保証する。でも、身体に染みついた剣神流の踏み込みが、それを邪魔してる。一から水神流を覚えたいなら、剣神流の素振りは、今日限りでやめな」

 

 エリックは膝の上で両手を握りしめた。

 やめる。

 ギレーヌの素振りを。

 

 ――毎日やれ。一日も休むな。

 ――来年、見る。

 

「……やめません」

 

 声が出ていた。

 レイダは眉ひとつ動かさなかった。

 エリックはレイダの目を真っ直ぐに見た。

 

「約束したんです。毎日振るって。来年、見てもらうって。だから、やめません」

「……そう言うと思ったよ」

 

 皺に埋もれた小さな目が、一度だけエリックから外れて、板の間の奥の古い棚へ流れた。

 それから、またエリックの顔に戻ってきた。

 

「……頑固だねえ、あんた」

「よく言われます」

「そうかい」

 

 レイダはくつくつと喉の奥で笑った。

 

「いいよ。じゃあ、やめなくていい」

「……いいんですか」

「その代わり、両方やりな。両方やって、どっちつかずになったら、それはあんたの負けだよ。あたしは責任取らないからね」

「はい」

「それと」

 

 レイダはまた湯呑みを手に取った。

 

「毎年、その剣王と手合わせしてるのかい」

「去年から、少しだけ」

「続けな」

 

 素振りはやめろと言った、同じ口だった。

 

「剣神流の剣王と打ち合えるなら、安いもんだよ。水神流の相手は、いつだって剣神流なんだからね。先に動いて先に斬る剣を、受けて流して返す。そのために水神流はあるんだ。剣王の剣を毎年受けられるなんて、うちの門弟の誰も、そんな贅沢はできやしないよ」

 

 レイダは茶を一口すすって、にやりと笑った。

 

「その剣王に、よろしく言っといとくれ。あんたの弟子は、あたしがもらったってね」

 

三

 

 夕方、稽古が終わった後の道場はがらんとしていた。

 門弟たちは帰り、窓から差し込む光は橙色に変わっていた。エリックは道場の隅で、今日教わった受けの型を、ひとりでゆっくりと繰り返していた。

 

「まだ、やっていたのですか」

 

 タントリスが雑巾を手に、床を拭きながら近づいてきた。

 

「……すみません。もう、帰ります」

「いえ、構いませんよ。私も昔はよく、こうして一人で残っていましたから」

 

 タントリスは雑巾を桶に浸して絞った。

 

「タントリスさんも、水神流の剣士なんですか」

「ええ。一応は」

 

 タントリスは照れたように笑った。

 

「上級です。それ以上には、どうしてもなれませんでした。妹は、十にならないうちに、私を追い抜いていきましたよ」

 

 エリックは手を止めた。

 

「……悔しく、なかったんですか」

「悔しかったですよ。とても」

 

 タントリスはあっさりと言った。

 

「毎日、血の滲むような稽古をしました。妹の倍は振ったと思います。それでも届かなかった。剣には、どうしても越えられない壁というものがあるのです。才能という壁が」

 

 タントリスは床を拭く手を止めずに続けた。

 

「祖母は、一度だけ、私に聖級の称号をくれようとしたことがあります。道場の経営を任せているのだから、肩書くらいあった方がいいだろう、と」

「断ったんですか」

「ええ。身の丈に合わない肩書は、要りませんから」

 

 タントリスは雑巾をもう一度絞った。

 

「剣の才はありませんでしたが、帳簿をつけるのと、門弟の顔と名前を覚えるのは得意でした。だから今は、こうして道場を回しています。妹が思う存分剣を振れるように。祖母が、剣のこと以外で煩わされないように」

 

 タントリスは道場の隅に目をやった。さっきまでエリックが型を繰り返していた場所だった。それから遠くを見た。

 

「……昔、私と同じ頃に入門した門弟がいましてね」

「はい」

「才はありました。私などとは比べものにならないほど。けれど、祖母と折り合いがつかなくて、この道場を出ていきました。今はもう、どこで何をしているのか」

 

 タントリスはそれきり、その話をしなかった。

 エリックも、訊かなかった。

 

「剣を、置こうと思ったことは、ありますか」

 

 エリックは尋ねた。

 タントリスは驚いたように顔を上げた。それから、エリックの顔をじっと見て、何かを察したように、柔らかく目を細めた。

 

「ありますよ。何度も」

「……それでも、置かなかったんですか」

「置きました」

 

 エリックは目を瞬いた。

 

「剣士として生きることは、とうの昔にやめました。今の私は、剣を持っていても、剣士ではありません。道場の番頭です」

 

 タントリスは微笑んだ。

 

「でもね、エリック様。剣を置いたからといって、剣から離れなければいけないわけではないのですよ。剣士でなくとも、剣のそばで生きることはできます。剣とは別の場所で、剣士を支えることもできます」

 

 タントリスは桶を持って立ち上がった。

 

「私は今の自分が、嫌いではありませんよ」

 

「兄様は、話が長いのです」

 

 道場の門を出たところで、声をかけられた。

 イゾルテだった。稽古着から普段着に着替え、門の柱にもたれかかっていた。

 

「……聞いてたんですか」

「聞こえたのです。あの道場は、声がよく響くので」

 

 イゾルテは柱から背を離して、エリックの隣に並んだ。

 夕暮れの道を、しばらく二人で黙って歩いた。

 

「あなた、いくつですか」

 

 唐突にイゾルテが言った。

 

「十一です」

「そう」

 

 イゾルテは得意げに顎を上げた。

 

「私の方が、年上ですね」

「……イゾルテさんは、いくつなんですか」

 

 イゾルテの足が、ぴたりと止まった。

 それから、ゆっくりとエリックの方を振り向いた。

 

「女性に、歳を訊くものではありません」

「……え。でも、今、僕に」

「私が訊くのはいいのです。あなたが訊くのはいけません」

 

 理屈になっていなかった。

 エリックが何か言う前に、イゾルテは人差し指を立てて、エリックの鼻先に突きつけた。

 

「いいですか。私の歳は、誰にも言ってはいけません。もし誰かに訊かれても、知らないと答えること」

「……どうしてですか」

「水神流の剣士というのは、謎めいているべきだからです」

 

 イゾルテは指を引っ込めて両手を腰に当て、胸を反らした。顎がまた上がっていた。

 

「おばあさまだって、本当の歳は誰も知らないのです。水神流の剣士の年齢は、秘密なのです。分かりましたか」

 

 エリックはイゾルテの顔を見た。

 夕日に照らされたその顔は道場で見た時の、人を値踏みするような顔とは違っていた。年相応の、少しだけ背伸びをした少女の顔だった。

 

「……分かりました」

「よろしい」

 

 イゾルテは満足げに頷いて、また歩き出した。

 

「それから、もうひとつ」

「はい」

「明日も、相手をしてあげます。返しも使って。三十回でも、五十回でも」

 

 イゾルテは振り返らずに言った。

 

「今日の最後の一回、あれは、まぐれではないと証明してください」

 

四

 

 屋敷に戻ると、エルヴィンが玄関の広間で待っていた。

 右手にはまだ添え木が当てられていた。けれど、顔色はずいぶん良くなっていた。

 

「兄上、おかえり! どうだった、すいしんりゅう」

「……転がされた」

「え?」

「三十回、転がされた」

 

 エルヴィンはきょとんとした。それから、ぷっと吹き出した。

 

「兄上が? さんじゅっかい?」

「笑うな」

「だって」

 

 エルヴィンは左手で口を押さえて笑っていた。久しぶりに見る、弟の笑顔だった。

 

「あのね、兄上」

 

 笑いが収まると、エルヴィンは声を潜めた。

 

「けさ、従兄上が、ベルンハルトの稽古に出てたよ」

 

「ユリウスが?」

「うん。兄上が、もう稽古に出ないから、って。ベルンハルトが、びっくりしてた」

 

 エルヴィンは首を傾げた。

 

「従兄上、なんか、へんだよ。このごろ」

「何が」

「わかんない。でも、ぼくのてを、よくみてる。ちらちらって。ぼくがみかえすと、すぐめをそらすけど」

 

 エリックはあの夜、弟の寝台の脇で、ユリウスが言いかけてやめた言葉を思い出していた。

 

「見られたら、見返してやれ」

「え?」

「目を逸らさなくなるまで。たぶん、従兄上は、それで少し楽になる」

 

 エルヴィンは首を傾げた。それから真面目な顔で頷いた。

 

「……わかった。みかえす」

 

五

 

 その冬の武芸奉納の朝は雨だった。

 夜明け前に目を覚ましたエリックが窓を開けると、冷たい雨が中庭の石畳を黒く濡らしていた。

 これでは素振りはできない。

 それでもエリックは上着を羽織って、廊下に下りた。

 

 中庭に面した回廊の端にギレーヌがいた。

 軒下に腰を下ろして雨を眺めていた。

 昨日の夕方に祖父と一緒に着いて、今朝も夜明け前から、ここにいたのだろう。

 

「……おはようございます」

「おはよう」

 

 エリックはギレーヌの隣に腰を下ろした。

 二人並んで、しばらく雨を見ていた。

 軒から落ちる雫が、石畳に小さな水たまりを作っている。中庭の隅の木が、雨に打たれて重そうに枝を垂らしていた。

 

「振れんな」

「はい」

「この雨じゃ、足が滑る」

「……はい」

 

 また沈黙が落ちた。

 毎年、二人が一緒にいる時間のほとんどは、剣を振っている時間だった。こうして、何もせずに並んで座っているのは、初めてかもしれなかった。

 

「……エリスは」

 

 エリックが訊いた。

 

「剣を習ってるんですよね」

「そうだ。三つの頃から、木の枝を振り回してる」

「強いですか」

「六つにしては、強い」

 

 ギレーヌは前を向いたまま言った。

 

「家庭教師を、三人辞めさせた」

「……剣で?」

「拳で」

 

 エリックは一拍黙った。

 

「……母上は」

「変わらん。よく編んでる」

「父上は」

「変わらん。理屈が長い」

 

 エリックは口の端が少し動きそうになるのを、抑えた。

 短すぎる報告だった。けれど、なぜか、よく分かった。

 

「そっちは」

 

 ギレーヌが言った。

 

「フィリップ様とヒルダ様に、様子を見てこいと言われてる。毎年。しつこく」

「……知ってます」

「なんで知ってる」

「毎年、背が伸びたかと、飯を食ってるかしか訊かないので」

「……それ以外、何を訊けばいい」

 

 ギレーヌの耳が、じりじりと後ろに倒れた。

 エリックは少し考えてから、話した。

 弟が攫われたこと。紋章の外套のこと。ユリウスの前に立って、その間に弟が連れていかれたこと。木剣一本で路地を追いかけたこと。

 運河の岸壁で、大人の男と斬り合ったこと。水神流の受けを真似して、木剣を折られたこと。水神に助けられたこと。

 弟の右手が、もう剣を強く握れないかもしれないこと。

 そして、水神流の道場に通い始めたこと。

 

 話しているうちに、雨の音が少しだけ強くなった。

 ギレーヌは何も言わずに聞いていた。相槌も打たず、ただ、雨の降る中庭を見ていた。

 エリックが話し終えても、しばらく何も言わなかった。

 やがてギレーヌはぽつりと言った。

 

「……お前それで、目はつぶらなかったか」

 

 エリックは顔を上げた。

 弟のことでも水神流のことでもなかった。

 去年の冬に、この人が教えたことだけを訊いた。

 

「……つぶりませんでした」

「そうか」

 

 ギレーヌはそれだけ言った。

 それから、また少し間を置いて、訊いた。

 

「……勝てると思ったか」

「……いえ」

「思わなかったのに、行ったか」

「はい」

 

 ギレーヌの獣の耳が、ぴくりと動いた。

 

「水神には、何と言われた」

「馬鹿だと」

「そうか」

 

 ギレーヌは頷いた。

 伯父にも、無謀にも程があると言われた。水神にも馬鹿だと言われた。

 振り返っていれば弟は踏まれなかった。

 だから、この人にも、そう言われるのだと思っていた。

 

 雨が軒を叩いていた。

 ギレーヌはしばらく黙っていた。

 

「それでこそ剣士だ」

 

 エリックはギレーヌを見た。

 ギレーヌは雨を見たままだった。

 

「剣の腕は後でどうにでもなる。上手い奴はいくらでもいる。でも、勝てないと分かってて前に出られる奴は、そういない」

 

 ギレーヌは剣だこだらけの掌を、膝の上で開いた。

 

「あたしの知ってる剣士で、本当に強かったのは、みんなそうだった。技じゃない。そこだ」

「……」

「技は教えられる。それは教えられん」

 

 剣王が、そう言った。

 エリックは自分の掌を見下ろした。

 小さなまめがあった。運河の岸壁で、折れた木剣の柄を、最後まで握っていた手だった。

 雨の音が遠くなった。

 エリックはその手を握った。握ったまま、しばらく開けなかった。

 

「……初めて、言われました」

「何をだ」

「剣士だと」

 

 ギレーヌは答えなかった。

 しばらくして、ぼそりと言った。

 

「なら、覚えとけ」

 

「……弟は、恨んでるか。お前を」

「いえ」

「そうか」

「兄上が来てくれた、と言っていました」

 

 ギレーヌは黙った。

 雨が軒を叩いていた。

 

「……あたしは、守れなかったことがある」

 

 唐突に、ギレーヌが言った。

 エリックは隣を見た。

 ギレーヌは雨を見たままだった。

 

「生まれは、大森林の、デドルディアの村だ。剣を覚える前の話だ」

 

 ギレーヌは膝の上に肘をついた。

 

「あたしは、村で一番の悪童だった。喧嘩っ早くて、口より先に手が出た。字も習わなかった。誰の言うことも聞かなかった」

「……」

「ある時、村の掟を破って、揉め事を起こした。あたしのせいで、庇ってくれた者が、村での居場所を失くした」

 

 ギレーヌはそこで一度、言葉を切った。

 

「あたしは、魔物がうろつく夜の森に放り出された。それきりだ」

 

 エリックは黙って聞いていた。口を挟む場所ではなかった。

 

「行くあてもなかった。字も読めん。獣族の小娘だ。野垂れ死ぬところだった」

 

 ギレーヌは雨に濡れた中庭の石畳を見ていた。

 

「剣に拾われた」

「……剣に?」

「剣の師匠に、だな。剣を覚えたら、飯が食えるようになった。強くなったら、誰も舐めなくなった。それで、ここまで来た」

 

 ギレーヌは自分の掌を見下ろした。剣だこだらけの、大きな手を。

 

「守れなかったことは消えない。強くなっても消えん」

 

 ギレーヌはエリックの方を見た。

 目が、まっすぐにこちらを見ていた。

 

「だから、次は守れるようになれ。消えないなら、それしかない」

 

 エリックはギレーヌの顔を見上げた。

 

 ――次は、両方守る。

 あの朝、誰もいない中庭で呟いた、自分だけの誓い。

 同じことを、この人はずっと前から知っていた。

 

「……はい」

 

 エリックは頷いた。

 

「そのために、水神流を習います」

「ああ」

「剣神流の素振りも、やめません」

 

 ギレーヌの獣の耳が、ぴくりと立った。

 

「……水神の婆さんに、怒られただろう」

「怒られてはいません。ただやめろと言われました」

「で?」

「やめませんと言いました」

 

 ギレーヌはしばらく黙っていた。

 それから、ふん、と鼻を鳴らした。

 

「……しつこいな、お前は」

「一昨年も、言われました」

 

 雨の音が少しだけ弱くなっていた。

 

 昼前には雨が上がった。

 武芸奉納は午後からだった。それまでに中庭の石畳はだいぶ乾いていた。

 

「振れるな」

 

 ギレーヌが木剣を手に取った。

 エリックも構えた。

 けれど、それはギレーヌの構えではなかった。

 身体をわずかに斜めにし、木剣を胸の前で寝かせるように。

 水神流の構えだった。

 

 ギレーヌの目が細くなった。

 獣の耳が、ぴくりと後ろに倒れた。

 

「……見せてみろ」

 

 その声は少しだけ低かった。

 ギレーヌは木剣を両手で握った。去年のように片手で無造作に構えるのではなかった。

 

「今年は、あたしから行く」

 

 速かった。

 去年の手合わせとは比べものにならなかった。本気ではない、と去年は言った。今年はそれを言わなかった。

 ギレーヌの木剣が、エリックの肩口に向かって振り下ろされる。

 

 目を開けていた。

 見えた。

 受ける。

 水神流の受け。イゾルテに何十回と転がされ、タントリスに型を教わり、秋から冬にかけて、毎日何百回と繰り返した受け。

 

 ギレーヌの木剣が、エリックの木剣に触れる。

 重かった。

 イゾルテの剣とはまるで違う重さだった。受け流そうとした瞬間、腕ごと持っていかれそうになった。

 それでも、受けた。

 

 一合。

 ギレーヌの木剣が、跳ね返るように引かれ、次の瞬間には別の角度から迫ってきた。

 受ける。

 二合。

 

 三合目で、エリックの木剣が弾き飛ばされた。

 ギレーヌの木剣の先が、エリックの額に、こつんと当たった。

 去年と同じ場所だった。

 けれど去年は一合ももたなかった。

 ギレーヌは木剣を下ろした。

 しばらく何も言わなかった。獣の耳はまだ後ろに倒れたままだった。

 

「……二合、受けたな。水神流で」

「……はい」

 

 ギレーヌはふいと顔を背けた。

 

「水神の婆さんから、伝言があります」

 

 エリックはおそるおそる言った。

 

「あんたの弟子は、あたしがもらった、と」

 

 ギレーヌの尻尾が、ばしっと地面を叩いた。

 

「……弟子にした覚えはない。素振りを見てやってるだけだ。弟子じゃない」

「はい」

 

 ギレーヌは苛立ったように頭を掻いた。

 それから、エリックの足元に転がっている木剣を、顎で指した。

 

「拾え」

 

 エリックは木剣を拾った。

 

「もう一回」

 

 エリックは目を瞬いた。

 

「今日はここまで、じゃないんですか」

「もう一回だ」

 

 ギレーヌは木剣を構えた。さっきよりも、さらに低く。

 

「水神流だか何だか知らんが、今度は一合で終わらせる」

 

 その日、エリックは十七回、額にこぶを作った。

 最後の一回だけ、三合受けた。

 

*

 

 祖父の一行が発つ時、ギレーヌはいつものように馬車の後ろを徒歩でついていった。

 門を出る直前、ギレーヌは一度だけ振り返った。

 

「素振りは、やめるな」

「やめません」

「弟に、よろしく言っとけ」

 

 ギレーヌはそれだけ言うと、また前を向いて歩き出した。

 獣の耳は後ろに倒れてはいなかった。

 

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