一
水神流宗家の道場は思っていたよりも静かな場所だった。
王城の丘の東側。第二の城壁の内側の、貴族の屋敷が並ぶ一角から少し外れたところに、古い石造りの門があった。門の上に掲げられた木の扁額には、流れる水を象った紋が彫られている。
門をくぐると、白い砂利を敷き詰めた前庭があり、その奥に瓦屋根の大きな建物が見えた。
木剣の音は聞こえなかった。
ボレアス家の中庭では稽古の間じゅう、木剣の打ち合う音が響いていた。ベルンハルトの掛け声と、木剣が空気を裂く音と、踏み込む足音と。
この道場にはそのどれもなかった。
「ようこそ、いらっしゃいました」
建物の入り口で、一人の男が待っていた。
三十手前くらいだろうか。細身で、背はそれほど高くない。穏やかな顔つきをしていて、道場の主というより、どこかの商家の番頭のように見えた。
「ボレアス家のエリック様でいらっしゃいますね。祖母から伺っております。タントリス・クルーエルと申します。この道場の雑務を預かっております」
男は丁寧に頭を下げた。
祖母。
エリックはあの小さな老婆の顔を思い浮かべた。
「……エリックです。よろしくお願いします」
「こちらこそ。どうぞ、中へ」
タントリスに案内されて、道場の中に入った。
広い板張りの間だった。天井が高く、窓から差し込む光が、磨き込まれた床板に白く映っている。
そこに、二十人ほどの門弟たちがいた。
皆、木剣を手に二人一組で向かい合っていた。けれど誰も打ち合っていなかった。
一人が、ゆっくりと木剣を振り下ろす。もう一人が、それをゆっくりと受け、流し、返す。本当に、ゆっくりと。まるで水の中で動いているかのように。
「受けの型の稽古です」
タントリスが、小声で説明した。
「水神流は、まず受けることから覚えます。相手の剣の重さ、速さ、向き。それを身体で感じ取れるようになるまで、何百回、何千回と、ゆっくり繰り返すのです」
エリックは門弟たちの動きを見つめた。
ベルンハルトの稽古とは何もかもが逆だった。速く、鋭く、先に。そう教わってきた。ここでは遅く、柔らかく、後に。
「兄様」
道場の奥から声がした。
少女だった。
エリックよりも三つか四つ年上だろうか。青みがかった黒髪を後ろでひとつに束ね、稽古着の袖をたすきで留めている。背筋がまっすぐに伸び、顔立ちは整っていたが、その目にはどこか人を値踏みするような光があった。
「その子が、おばあさまの拾ってきた子ですか」
「イゾルテ。言い方というものがあるでしょう」
タントリスが困ったように眉を下げた。
「エリック様、妹のイゾルテです。祖母の直弟子で、この道場の門弟の中では、一番の腕前です」
「……エリックです」
「知っています」
イゾルテはエリックの前まで歩いてきた。そして、頭のてっぺんから爪先まで、じろじろと眺めた。
「ボレアス家の、剣神流の子でしょう。武芸奉納の観覧席で、おばあさまの構えを真似していたとか」
「……はい」
「おばあさまは、面白い子を見つけたと言っていましたけれど」
イゾルテは壁際に立てかけてあった木剣を二本手に取り、一本をエリックに放った。
エリックはそれを受け止めた。
「見せてもらえますか。何が面白いのか」
門弟たちが稽古の手を止め、二人の周りに輪を作った。
「イゾルテ、エリック様は今日が初日で」
「初日だからです、兄様。どれくらいできるのか、最初に知っておいた方がいいでしょう」
イゾルテは道場の中央に立ち、木剣を構えた。
あの老婆の構えだった。身体をわずかに斜めにし、木剣を胸の前で寝かせるように。
けれど、あの老婆とは違った。老婆の構えが深い水の底なら、イゾルテの構えは張り詰めた水面だった。どこに石を投げ込んでも、一瞬で波紋が返ってくるような。
「どうぞ。好きに打ってきてください。私は受けるだけにしてあげます」
エリックは木剣を構えた。
ベルンハルトに六年間叩き込まれた、剣神流の構え。
踏み込む。
先に動いて、先に斬る。
木剣が、イゾルテの肩口に向かって振り下ろされた。
目は閉じなかった。
だから見えた。
イゾルテの木剣が、エリックの木剣の側面に、そっと添えられるのが。まるで、水面に落ちた木の葉を指先で押しやるような、軽い触れ方で。
次の瞬間、エリックの身体は自分の踏み込みの勢いのまま、イゾルテの脇をすり抜けていた。止まろうとしても止まれなかった。足がもつれ、床板の上に派手に転がった。
門弟たちの間から、忍び笑いが漏れた。
「……剣神流の踏み込みですね」
イゾルテは一歩も動いていなかった。
「速いですけれど、真っ直ぐすぎます。どこに来るのか、構えた瞬間に分かります」
エリックは床の上で身を起こした。
受け流された。
運河の岸壁で自分がやろうとしてできなかったことを、この少女は何でもないことのようにやってのけた。
「もう一回」
エリックは立ち上がって言った。
イゾルテの眉が、わずかに上がった。
「……どうぞ」
踏み込む。振り下ろす。
受け流される。転がる。
「もう一回」
踏み込む。振り下ろす。
受け流される。転がる。
「もう一回」
十回を超えたあたりで、門弟たちの忍び笑いが消えた。
二十回を超えたあたりで、イゾルテの顔から余裕の色が少しずつ消えていった。
エリックはまだ一度もイゾルテに木剣を当てられていなかった。ただ転がされ、立ち上がり、また踏み込む。その繰り返しだった。
けれど、転がされるたびに、少しずつ見えるものが増えていた。
イゾルテの木剣が、どの瞬間に動き出すのか。どの角度で、自分の木剣に触れるのか。触れた瞬間、自分の力がどの方向に流されていくのか。
「もう一回」
三十回目。
エリックは踏み込みかけて、止まった。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、踏み込む足を止めた。
イゾルテの木剣が、エリックの踏み込みを迎えるために、わずかに動いた。
その動きに合わせて、エリックは改めて踏み込んだ。
イゾルテの木剣は空を撫でた。
こつん、と。
エリックの木剣の先が、イゾルテの肩に当たっていた。
道場の中が、しんと静まり返った。
イゾルテは肩に乗った木剣を見下ろした。それから、ゆっくりとエリックの顔を見た。
「……今の」
イゾルテが、低い声で言った。
「わざと、止まりましたね。一度」
「……はい」
「私の受けを、先に動かすために」
「はい」
エリックは木剣を下ろした。
「三十回転がされて分かりました。イゾルテさんの受けは、僕の踏み込みに合わせて動き出します。踏み込みが見えてから、動きます。だから踏み込むふりをすれば、受けが先に動くと思いました。先に動いた受けは、たぶん、もう受けではないので」
門弟たちが、顔を見合わせた。
「でも、イゾルテさんは、まだ一度も打ってきていません。返しがあったら、今のは届かなかったと思います。次は、返しも使ってください。どこから来るのか、見たいので。手首からですか。それとも足の」
「……喋りすぎです」
イゾルテが眉を寄せた。
それから肩の木剣を、指先でつまんでどけた。
「……一本です。受けるだけと言ったのは、私ですから」
イゾルテはしばらくエリックを見下ろしていた。
「……面白い、というのは、こういうことですか」
その声は少しだけ悔しそうだった。
「兄様。この子、しつこいです。それに、剣の話になると、うるさいです」
「そうですね」
タントリスが穏やかに笑った。
「イゾルテが三十回も相手をするのを、私は初めて見ました」
二
「その踏み込み、誰に教わった」
午後の稽古で、レイダは開口一番にそう言った。
道場の奥の小さな板の間だった。レイダは座布団の上にちょこんと座って、湯呑みの茶をすすっていた。エリックはその前に正座していた。
「ボレアス家の、剣術師範に。六年間」
「それだけかい」
エリックは迷った。
「……それから、毎朝、素振りを」
「誰の素振りだい」
「ギレーヌ・デドルディアという剣士の。祖父の、剣士です」
レイダの皺だらけの目が、わずかに細くなった。
「ああ。武芸奉納で、ノトスの聖級を一歩でのした、あの獣族の剣王かい」
「……はい」
「あの剣王に、素振りを習ってるのかい」
「毎年、祖父と一緒に武芸奉納に来る時に。一年分の素振りを、見てもらっています」
レイダはしばらく黙って茶をすすっていた。
それから湯呑みを置いた。
「朝の素振り、やめな」
エリックは顔を上げた。
「剣神流の剣王の素振りなんぞ、毎朝やってたら、水神流の受けは身につかないよ。身体が、先に動くことを覚えちまう。今日、イゾルテに三十回転がされたのも、そのせいさ」
「……」
「あんたの剣は、待つ剣だ。それはあたしが保証する。でも、身体に染みついた剣神流の踏み込みが、それを邪魔してる。一から水神流を覚えたいなら、剣神流の素振りは、今日限りでやめな」
エリックは膝の上で両手を握りしめた。
やめる。
ギレーヌの素振りを。
――毎日やれ。一日も休むな。
――来年、見る。
「……やめません」
声が出ていた。
レイダは眉ひとつ動かさなかった。
エリックはレイダの目を真っ直ぐに見た。
「約束したんです。毎日振るって。来年、見てもらうって。だから、やめません」
「……そう言うと思ったよ」
皺に埋もれた小さな目が、一度だけエリックから外れて、板の間の奥の古い棚へ流れた。
それから、またエリックの顔に戻ってきた。
「……頑固だねえ、あんた」
「よく言われます」
「そうかい」
レイダはくつくつと喉の奥で笑った。
「いいよ。じゃあ、やめなくていい」
「……いいんですか」
「その代わり、両方やりな。両方やって、どっちつかずになったら、それはあんたの負けだよ。あたしは責任取らないからね」
「はい」
「それと」
レイダはまた湯呑みを手に取った。
「毎年、その剣王と手合わせしてるのかい」
「去年から、少しだけ」
「続けな」
素振りはやめろと言った、同じ口だった。
「剣神流の剣王と打ち合えるなら、安いもんだよ。水神流の相手は、いつだって剣神流なんだからね。先に動いて先に斬る剣を、受けて流して返す。そのために水神流はあるんだ。剣王の剣を毎年受けられるなんて、うちの門弟の誰も、そんな贅沢はできやしないよ」
レイダは茶を一口すすって、にやりと笑った。
「その剣王に、よろしく言っといとくれ。あんたの弟子は、あたしがもらったってね」
三
夕方、稽古が終わった後の道場はがらんとしていた。
門弟たちは帰り、窓から差し込む光は橙色に変わっていた。エリックは道場の隅で、今日教わった受けの型を、ひとりでゆっくりと繰り返していた。
「まだ、やっていたのですか」
タントリスが雑巾を手に、床を拭きながら近づいてきた。
「……すみません。もう、帰ります」
「いえ、構いませんよ。私も昔はよく、こうして一人で残っていましたから」
タントリスは雑巾を桶に浸して絞った。
「タントリスさんも、水神流の剣士なんですか」
「ええ。一応は」
タントリスは照れたように笑った。
「上級です。それ以上には、どうしてもなれませんでした。妹は、十にならないうちに、私を追い抜いていきましたよ」
エリックは手を止めた。
「……悔しく、なかったんですか」
「悔しかったですよ。とても」
タントリスはあっさりと言った。
「毎日、血の滲むような稽古をしました。妹の倍は振ったと思います。それでも届かなかった。剣には、どうしても越えられない壁というものがあるのです。才能という壁が」
タントリスは床を拭く手を止めずに続けた。
「祖母は、一度だけ、私に聖級の称号をくれようとしたことがあります。道場の経営を任せているのだから、肩書くらいあった方がいいだろう、と」
「断ったんですか」
「ええ。身の丈に合わない肩書は、要りませんから」
タントリスは雑巾をもう一度絞った。
「剣の才はありませんでしたが、帳簿をつけるのと、門弟の顔と名前を覚えるのは得意でした。だから今は、こうして道場を回しています。妹が思う存分剣を振れるように。祖母が、剣のこと以外で煩わされないように」
タントリスは道場の隅に目をやった。さっきまでエリックが型を繰り返していた場所だった。それから遠くを見た。
「……昔、私と同じ頃に入門した門弟がいましてね」
「はい」
「才はありました。私などとは比べものにならないほど。けれど、祖母と折り合いがつかなくて、この道場を出ていきました。今はもう、どこで何をしているのか」
タントリスはそれきり、その話をしなかった。
エリックも、訊かなかった。
「剣を、置こうと思ったことは、ありますか」
エリックは尋ねた。
タントリスは驚いたように顔を上げた。それから、エリックの顔をじっと見て、何かを察したように、柔らかく目を細めた。
「ありますよ。何度も」
「……それでも、置かなかったんですか」
「置きました」
エリックは目を瞬いた。
「剣士として生きることは、とうの昔にやめました。今の私は、剣を持っていても、剣士ではありません。道場の番頭です」
タントリスは微笑んだ。
「でもね、エリック様。剣を置いたからといって、剣から離れなければいけないわけではないのですよ。剣士でなくとも、剣のそばで生きることはできます。剣とは別の場所で、剣士を支えることもできます」
タントリスは桶を持って立ち上がった。
「私は今の自分が、嫌いではありませんよ」
「兄様は、話が長いのです」
道場の門を出たところで、声をかけられた。
イゾルテだった。稽古着から普段着に着替え、門の柱にもたれかかっていた。
「……聞いてたんですか」
「聞こえたのです。あの道場は、声がよく響くので」
イゾルテは柱から背を離して、エリックの隣に並んだ。
夕暮れの道を、しばらく二人で黙って歩いた。
「あなた、いくつですか」
唐突にイゾルテが言った。
「十一です」
「そう」
イゾルテは得意げに顎を上げた。
「私の方が、年上ですね」
「……イゾルテさんは、いくつなんですか」
イゾルテの足が、ぴたりと止まった。
それから、ゆっくりとエリックの方を振り向いた。
「女性に、歳を訊くものではありません」
「……え。でも、今、僕に」
「私が訊くのはいいのです。あなたが訊くのはいけません」
理屈になっていなかった。
エリックが何か言う前に、イゾルテは人差し指を立てて、エリックの鼻先に突きつけた。
「いいですか。私の歳は、誰にも言ってはいけません。もし誰かに訊かれても、知らないと答えること」
「……どうしてですか」
「水神流の剣士というのは、謎めいているべきだからです」
イゾルテは指を引っ込めて両手を腰に当て、胸を反らした。顎がまた上がっていた。
「おばあさまだって、本当の歳は誰も知らないのです。水神流の剣士の年齢は、秘密なのです。分かりましたか」
エリックはイゾルテの顔を見た。
夕日に照らされたその顔は道場で見た時の、人を値踏みするような顔とは違っていた。年相応の、少しだけ背伸びをした少女の顔だった。
「……分かりました」
「よろしい」
イゾルテは満足げに頷いて、また歩き出した。
「それから、もうひとつ」
「はい」
「明日も、相手をしてあげます。返しも使って。三十回でも、五十回でも」
イゾルテは振り返らずに言った。
「今日の最後の一回、あれは、まぐれではないと証明してください」
四
屋敷に戻ると、エルヴィンが玄関の広間で待っていた。
右手にはまだ添え木が当てられていた。けれど、顔色はずいぶん良くなっていた。
「兄上、おかえり! どうだった、すいしんりゅう」
「……転がされた」
「え?」
「三十回、転がされた」
エルヴィンはきょとんとした。それから、ぷっと吹き出した。
「兄上が? さんじゅっかい?」
「笑うな」
「だって」
エルヴィンは左手で口を押さえて笑っていた。久しぶりに見る、弟の笑顔だった。
「あのね、兄上」
笑いが収まると、エルヴィンは声を潜めた。
「けさ、従兄上が、ベルンハルトの稽古に出てたよ」
「ユリウスが?」
「うん。兄上が、もう稽古に出ないから、って。ベルンハルトが、びっくりしてた」
エルヴィンは首を傾げた。
「従兄上、なんか、へんだよ。このごろ」
「何が」
「わかんない。でも、ぼくのてを、よくみてる。ちらちらって。ぼくがみかえすと、すぐめをそらすけど」
エリックはあの夜、弟の寝台の脇で、ユリウスが言いかけてやめた言葉を思い出していた。
「見られたら、見返してやれ」
「え?」
「目を逸らさなくなるまで。たぶん、従兄上は、それで少し楽になる」
エルヴィンは首を傾げた。それから真面目な顔で頷いた。
「……わかった。みかえす」
五
その冬の武芸奉納の朝は雨だった。
夜明け前に目を覚ましたエリックが窓を開けると、冷たい雨が中庭の石畳を黒く濡らしていた。
これでは素振りはできない。
それでもエリックは上着を羽織って、廊下に下りた。
中庭に面した回廊の端にギレーヌがいた。
軒下に腰を下ろして雨を眺めていた。
昨日の夕方に祖父と一緒に着いて、今朝も夜明け前から、ここにいたのだろう。
「……おはようございます」
「おはよう」
エリックはギレーヌの隣に腰を下ろした。
二人並んで、しばらく雨を見ていた。
軒から落ちる雫が、石畳に小さな水たまりを作っている。中庭の隅の木が、雨に打たれて重そうに枝を垂らしていた。
「振れんな」
「はい」
「この雨じゃ、足が滑る」
「……はい」
また沈黙が落ちた。
毎年、二人が一緒にいる時間のほとんどは、剣を振っている時間だった。こうして、何もせずに並んで座っているのは、初めてかもしれなかった。
「……エリスは」
エリックが訊いた。
「剣を習ってるんですよね」
「そうだ。三つの頃から、木の枝を振り回してる」
「強いですか」
「六つにしては、強い」
ギレーヌは前を向いたまま言った。
「家庭教師を、三人辞めさせた」
「……剣で?」
「拳で」
エリックは一拍黙った。
「……母上は」
「変わらん。よく編んでる」
「父上は」
「変わらん。理屈が長い」
エリックは口の端が少し動きそうになるのを、抑えた。
短すぎる報告だった。けれど、なぜか、よく分かった。
「そっちは」
ギレーヌが言った。
「フィリップ様とヒルダ様に、様子を見てこいと言われてる。毎年。しつこく」
「……知ってます」
「なんで知ってる」
「毎年、背が伸びたかと、飯を食ってるかしか訊かないので」
「……それ以外、何を訊けばいい」
ギレーヌの耳が、じりじりと後ろに倒れた。
エリックは少し考えてから、話した。
弟が攫われたこと。紋章の外套のこと。ユリウスの前に立って、その間に弟が連れていかれたこと。木剣一本で路地を追いかけたこと。
運河の岸壁で、大人の男と斬り合ったこと。水神流の受けを真似して、木剣を折られたこと。水神に助けられたこと。
弟の右手が、もう剣を強く握れないかもしれないこと。
そして、水神流の道場に通い始めたこと。
話しているうちに、雨の音が少しだけ強くなった。
ギレーヌは何も言わずに聞いていた。相槌も打たず、ただ、雨の降る中庭を見ていた。
エリックが話し終えても、しばらく何も言わなかった。
やがてギレーヌはぽつりと言った。
「……お前それで、目はつぶらなかったか」
エリックは顔を上げた。
弟のことでも水神流のことでもなかった。
去年の冬に、この人が教えたことだけを訊いた。
「……つぶりませんでした」
「そうか」
ギレーヌはそれだけ言った。
それから、また少し間を置いて、訊いた。
「……勝てると思ったか」
「……いえ」
「思わなかったのに、行ったか」
「はい」
ギレーヌの獣の耳が、ぴくりと動いた。
「水神には、何と言われた」
「馬鹿だと」
「そうか」
ギレーヌは頷いた。
伯父にも、無謀にも程があると言われた。水神にも馬鹿だと言われた。
振り返っていれば弟は踏まれなかった。
だから、この人にも、そう言われるのだと思っていた。
雨が軒を叩いていた。
ギレーヌはしばらく黙っていた。
「それでこそ剣士だ」
エリックはギレーヌを見た。
ギレーヌは雨を見たままだった。
「剣の腕は後でどうにでもなる。上手い奴はいくらでもいる。でも、勝てないと分かってて前に出られる奴は、そういない」
ギレーヌは剣だこだらけの掌を、膝の上で開いた。
「あたしの知ってる剣士で、本当に強かったのは、みんなそうだった。技じゃない。そこだ」
「……」
「技は教えられる。それは教えられん」
剣王が、そう言った。
エリックは自分の掌を見下ろした。
小さなまめがあった。運河の岸壁で、折れた木剣の柄を、最後まで握っていた手だった。
雨の音が遠くなった。
エリックはその手を握った。握ったまま、しばらく開けなかった。
「……初めて、言われました」
「何をだ」
「剣士だと」
ギレーヌは答えなかった。
しばらくして、ぼそりと言った。
「なら、覚えとけ」
「……弟は、恨んでるか。お前を」
「いえ」
「そうか」
「兄上が来てくれた、と言っていました」
ギレーヌは黙った。
雨が軒を叩いていた。
「……あたしは、守れなかったことがある」
唐突に、ギレーヌが言った。
エリックは隣を見た。
ギレーヌは雨を見たままだった。
「生まれは、大森林の、デドルディアの村だ。剣を覚える前の話だ」
ギレーヌは膝の上に肘をついた。
「あたしは、村で一番の悪童だった。喧嘩っ早くて、口より先に手が出た。字も習わなかった。誰の言うことも聞かなかった」
「……」
「ある時、村の掟を破って、揉め事を起こした。あたしのせいで、庇ってくれた者が、村での居場所を失くした」
ギレーヌはそこで一度、言葉を切った。
「あたしは、魔物がうろつく夜の森に放り出された。それきりだ」
エリックは黙って聞いていた。口を挟む場所ではなかった。
「行くあてもなかった。字も読めん。獣族の小娘だ。野垂れ死ぬところだった」
ギレーヌは雨に濡れた中庭の石畳を見ていた。
「剣に拾われた」
「……剣に?」
「剣の師匠に、だな。剣を覚えたら、飯が食えるようになった。強くなったら、誰も舐めなくなった。それで、ここまで来た」
ギレーヌは自分の掌を見下ろした。剣だこだらけの、大きな手を。
「守れなかったことは消えない。強くなっても消えん」
ギレーヌはエリックの方を見た。
目が、まっすぐにこちらを見ていた。
「だから、次は守れるようになれ。消えないなら、それしかない」
エリックはギレーヌの顔を見上げた。
――次は、両方守る。
あの朝、誰もいない中庭で呟いた、自分だけの誓い。
同じことを、この人はずっと前から知っていた。
「……はい」
エリックは頷いた。
「そのために、水神流を習います」
「ああ」
「剣神流の素振りも、やめません」
ギレーヌの獣の耳が、ぴくりと立った。
「……水神の婆さんに、怒られただろう」
「怒られてはいません。ただやめろと言われました」
「で?」
「やめませんと言いました」
ギレーヌはしばらく黙っていた。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「……しつこいな、お前は」
「一昨年も、言われました」
雨の音が少しだけ弱くなっていた。
昼前には雨が上がった。
武芸奉納は午後からだった。それまでに中庭の石畳はだいぶ乾いていた。
「振れるな」
ギレーヌが木剣を手に取った。
エリックも構えた。
けれど、それはギレーヌの構えではなかった。
身体をわずかに斜めにし、木剣を胸の前で寝かせるように。
水神流の構えだった。
ギレーヌの目が細くなった。
獣の耳が、ぴくりと後ろに倒れた。
「……見せてみろ」
その声は少しだけ低かった。
ギレーヌは木剣を両手で握った。去年のように片手で無造作に構えるのではなかった。
「今年は、あたしから行く」
速かった。
去年の手合わせとは比べものにならなかった。本気ではない、と去年は言った。今年はそれを言わなかった。
ギレーヌの木剣が、エリックの肩口に向かって振り下ろされる。
目を開けていた。
見えた。
受ける。
水神流の受け。イゾルテに何十回と転がされ、タントリスに型を教わり、秋から冬にかけて、毎日何百回と繰り返した受け。
ギレーヌの木剣が、エリックの木剣に触れる。
重かった。
イゾルテの剣とはまるで違う重さだった。受け流そうとした瞬間、腕ごと持っていかれそうになった。
それでも、受けた。
一合。
ギレーヌの木剣が、跳ね返るように引かれ、次の瞬間には別の角度から迫ってきた。
受ける。
二合。
三合目で、エリックの木剣が弾き飛ばされた。
ギレーヌの木剣の先が、エリックの額に、こつんと当たった。
去年と同じ場所だった。
けれど去年は一合ももたなかった。
ギレーヌは木剣を下ろした。
しばらく何も言わなかった。獣の耳はまだ後ろに倒れたままだった。
「……二合、受けたな。水神流で」
「……はい」
ギレーヌはふいと顔を背けた。
「水神の婆さんから、伝言があります」
エリックはおそるおそる言った。
「あんたの弟子は、あたしがもらった、と」
ギレーヌの尻尾が、ばしっと地面を叩いた。
「……弟子にした覚えはない。素振りを見てやってるだけだ。弟子じゃない」
「はい」
ギレーヌは苛立ったように頭を掻いた。
それから、エリックの足元に転がっている木剣を、顎で指した。
「拾え」
エリックは木剣を拾った。
「もう一回」
エリックは目を瞬いた。
「今日はここまで、じゃないんですか」
「もう一回だ」
ギレーヌは木剣を構えた。さっきよりも、さらに低く。
「水神流だか何だか知らんが、今度は一合で終わらせる」
その日、エリックは十七回、額にこぶを作った。
最後の一回だけ、三合受けた。
祖父の一行が発つ時、ギレーヌはいつものように馬車の後ろを徒歩でついていった。
門を出る直前、ギレーヌは一度だけ振り返った。
「素振りは、やめるな」
「やめません」
「弟に、よろしく言っとけ」
ギレーヌはそれだけ言うと、また前を向いて歩き出した。
獣の耳は後ろに倒れてはいなかった。