凪の水帝   作:アサツラ

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第9話 一人で来た剣王

一

 

 ロアの屋敷の書斎で、ギレーヌは眠気と戦っていた。

 

「――よって兄上の前では、まず右足を半歩引き、左手を胸に当て、それから腰を折る。角度はこれくらいだ。深すぎても浅すぎてもいけない」

「……ん」

「書状を渡す時は両手で。封蝋が兄上の側を向くように。受け取られるまで、手を離してはならない」

「……ん」

「退室する時は、背を向けずに三歩下がってから――ギレーヌ、聞いているか」

「聞いてる」

 

 聞いていなかった。

 フィリップの話はいつも長くて理屈が多い。右足がどうの、角度がどうの、封蝋がどうの。一つ一つは分かるのだが、三つ目あたりで、一つ目が頭から抜けていく。

 剣なら一度見れば覚えられるのに。

 

「……もう一度、最初から言ってくれ」

 

 フィリップはこめかみを指で押さえた。

 

「これで三度目だ」

「そうか」

「そうか、ではない」

 

 書斎の扉が勢いよく開いた。

 

「ギレーヌ!」

 

 赤い髪の少女が転がるように飛び込んできた。

 エリスだった。七つになったばかりの、この屋敷のお嬢様。ギレーヌが剣を教え、護衛をしている少女。

 

「王都に行くって本当!? ずるい! 私も行く!」

「駄目だ」

 

 答えたのはフィリップだった。

 

「エリス、お前は留守番だ」

「なんで! ギレーヌだけずるい! 私も王都見たい!」

「遊びに行くのではない」

「じゃあ何しに行くのよ!」

「おじい様の書状を、伯父上に届けに行くのだ」

「それなら私だって届けられるわ!」

 

 エリスはギレーヌの足にしがみついた。

 

「ギレーヌ、私も連れてって!」

「……フィリップ様が、駄目だと言ってる」

「ギレーヌまで!」

 

 エリスはギレーヌの足をぽかぽかと叩いた。七つの子供とは思えない力だった。ギレーヌは少しだけ誇らしく思った。自分が教えた成果だ。

 

「エリス。いい子にしていたら、ギレーヌが王都の土産を買ってきてくれる」

「……ほんと!?」

 

 エリスが、目を輝かせてギレーヌを見上げた。

 ギレーヌはフィリップを見た。フィリップは目で「頷け」と言っていた。

 

「……ああ。買ってくる」

「約束よ! 剣! 剣がいい! 王都の剣!」

「剣は土産じゃない」

「じゃあ何ならいいのよ!」

 

 エリスとギレーヌの押し問答を、フィリップは疲れたような顔で眺めていた。

 

*

 

 出発の前の晩、ギレーヌは屋敷の廊下で呼び止められた。

 

「ギレーヌ」

 

 ヒルダだった。

 燃えるような赤い髪。エリスとよく似た顔。けれど、エリスとは違って、どこか張り詰めた、細い糸のような印象の人だった。

 

「これを」

 

 ヒルダは二通の手紙を差し出した。どちらも封蝋はなく、丁寧に折り畳まれ、細い紐で結ばれている。

 

「エリックと、エルヴィンに」

 

 ギレーヌは手紙を受け取った。

 字は読めなかった。けれど、その手紙が、ただの手紙ではないことだけは分かった。ヒルダの指先が手紙を離すのを、ほんの一瞬だけためらったから。

 

「お義兄様の屋敷を通すと、届かないことが多いの。だから、あなたから直接」

「……分かった」

「……ねえ、ギレーヌ」

 

 ヒルダは不安そうに、下の方の手紙を見た。

 

「エルヴィンは、もう字が読めるかしら」

「六つだ。読めるだろう」

「でも、まだ六つよ。難しい字は」

「帳面を持ち歩いてる」

 

 ヒルダが顔を上げた。

 

「……帳面?」

「見たことを、何でも書き留めてるらしい。三冊目だと、去年の冬に自慢された」

「まあ」

 

 ヒルダは口元を押さえた。

 

「あの子が。……三冊も」

「何を書いているの? 誰のことを? 字は、どんな字?」

 

 ギレーヌはたじろいだ。

 

「……帳面の中身までは、見てない」

「そうよね。ごめんなさい」

 

 ヒルダは小さく笑った。それからもう一度、同じことを訊いた。

 

「……帳面、三冊なのね」

「三冊だ」

「そう。三冊」

 

 ヒルダはその言葉を何度も口の中で繰り返していた。

 

「ありがとう」

 

 ヒルダは何か言いたげに唇を動かしかけて、やめた。

 

「……あの子、元気かしら」

「毎年会ってる。元気だ」

「そう。そうよね。武芸奉納で」

 

 ヒルダはギレーヌの顔をじっと見つめた。

 

「剣を、見てあげているのよね。あの子の」

「素振りを、見てるだけだ」

「それでも」

 

 ヒルダはギレーヌの手を、両手で包み込んだ。細い冷たい指だった。

 

「ありがとう。あの子のそばに、あなたがいてくれて」

 

 ギレーヌは何と答えればいいのか分からなかった。

 ヒルダが去った後、今度はフィリップが、廊下の暗がりから現れた。

 

「ギレーヌ。作法の話は、もう忘れていい」

「……いいのか」

「どうせ覚えていないだろう」

 

 ギレーヌは黙った。図星だった。

 フィリップは壁にもたれて、腕を組んだ。

 

「兄上がお前を名指しで呼んだ。父上は、裏を読まずに行ってこいと言った。だが私は兄上を知っている。兄上が、ただ書状を届けさせるためだけに、父上の剣士を名指しするはずがない」

「……何か、あるのか」

「分からん。だから、ひとつだけ覚えておけ」

 

 フィリップはギレーヌの目を真っ直ぐに見た。

 

「兄上の屋敷で困ったら、私の長男を頼れ。エリックだ。あの屋敷のことは、あの子が一番よく知っている」

「……あいつを?」

「あれは私に似ている」

 

 フィリップはわずかに口の端を持ち上げた。

 

「それから」

 

 フィリップの声が、わずかに低くなった。

 

「息子の様子を、見てきてくれ。二人とも。どんな顔をしていたか。何を話したか。帰ってきたら、ヒルダに聞かせてやってほしい」

 

 ギレーヌはフィリップの顔を見た。

 いつも理屈ばかりで、何を考えているのか分からない男だった。けれど、今の顔は少しだけ分かる気がした。

 

「……分かった」

 

二

 

 道場から屋敷に戻ると、門の前に見覚えのある背中があった。

 褐色の肌。白い眼帯。獣の耳。

 エリックは足を止めた。

 春だった。武芸奉納は冬だ。ギレーヌが王都に来るはずがなかった。祖父の馬車もない。ギレーヌが、たった一人で門の前に立っていた。

 

「……ギレーヌ?」

 

 ギレーヌが振り向いた。

 

「おう」

「どうして」

「書状を届けに来た。サウロス様から、ジェイムズ様に」

 

 ギレーヌは懐から封書を取り出してみせた。ボレアス家の紋章の封蝋。

 

「門番に渡そうとしたら、ジェイムズ様に直接渡せと言われた。で、ジェイムズ様は留守だから、待てと」

 

 ギレーヌは門の中を顎で指した。

 

「中で待てと言われたが、広間は落ち着かん。だからここで待ってる」

 

 エリックはギレーヌの顔を見上げた。

 去年の冬、雨の軒下で並んで座った時から、まだ半年も経っていない。

 それなのに、ずいぶん久しぶりに会った気がした。

 

「……裏庭なら人が来ません」

 

 エリックは言った。

 

「僕の稽古場です。座るところもあります」

 

 裏庭の古い石のベンチにギレーヌは腰を下ろした。

 エリックはその隣に立ったまま、ギレーヌが懐から取り出したものを受け取った。

 手紙だった。封蝋はなく、細い紐で結ばれている。

 

「ヒルダ様からだ」

 

 エリックは手紙を両手で持った。

 母の字だった。少し右に傾いた、几帳面な文字。

 母からの手紙は年に一度届けばいい方だった。それも伯父の手を経て届くもので、封は必ず一度切られていた。

 この手紙は紐が結ばれたままだった。

 

「ジェイムズ様の屋敷を通すと、届かないことが多いと言ってた。だから、あたしが直接持ってきた」

「……ありがとうございます」

 

 エリックは手紙を胸に押し当てた。

 今は開けられなかった。一人になってから、ゆっくり読みたかった。

 

「それと、エルヴィンにも一通ある」

 

 ギレーヌはもう一通の手紙を、懐から半分だけ出してみせた。

 

「後で、本人に渡す」

「……はい」

「それから、フィリップ様からの伝言だ」

 

 ギレーヌは少し考えるように首を傾げた。

 

「困ったら、長男を頼れ。お前のことだ」

「……僕を?」

「あれは私に似ている、と言ってた」

 

 エリックは目を瞬いた。

 父がそんなことを。

 

「それと、息子の様子を見てこい、と」

 

 ギレーヌはエリックの顔をじろじろと眺めた。

 

「……背が伸びたな」

「去年の冬から、少し」

「顔は、あんまり変わらん」

「……そうですか」

「帰ったら、そう言っとく」

 

 ギレーヌは至極真面目な顔で頷いた。

 

「それだけですか」

「それだけだ」

「父上と母上に伝わるのが、それだけだと、少し困ります」

「……何を言えばいい」

「水神流の道場に、通い始めたこと。受けの型を、毎日三百回やっていること。イゾルテという姉弟子から、初日に一本取って、それきり一本も取れていないこと」

 

 エリックは指を折って数えた。

 

「それから、エルヴィンの字が、去年より上手くなったこと。これは、見れば分かります」

 

 ギレーヌはしばらく黙っていた。

 

「……三つ目あたりで、一つ目を忘れる」

「では、一つだけ。エルヴィンの字のことだけ、伝えてください」

「お前のことは、いいのか」

「僕のことは、背が伸びたで、たぶん足ります」

 

 ギレーヌはしばらく考えてから頷いた。

 

「分かった。エルヴィンの字と、背が伸びた、だな」

「エリスは」

「剣を振ってる。毎日」

「強くなりましたか」

「七つにしては、強い」

「兄上!」

 

 裏庭の入り口から、エルヴィンが駆けてきた。

 腕に分厚い帳面を抱えていた。この頃のエルヴィンはどこへ行くにも帳面を持ち歩いている。見たこと、聞いたことを、何でも書き留めているのだ。

 

「ギレーヌだ! どうしたの、ぶげいほうのうじゃないのに」

「書状を届けに来た」

「ふうん」

 

 エルヴィンはギレーヌの顔をじっと見た。それから兄の顔を見た。それから、また帳面を開いた。

 

「……兄上。ちょっと」

 

 エルヴィンはエリックの袖を引いて、ベンチから少し離れたところまで連れていった。

 そして声を潜めた。

 

「伯父上ね、明日の晩、お客さまをよぶんだって。料理長が、いつもよりごちそうをつくれって、いわれてた」

「……お客?」

「ノトスの、ピレモン様」

 

 エリックは眉をひそめた。

 ノトス家の当主。武芸奉納でギレーヌに自分の家の剣士を一歩でのされた家。

 

「それから」

 

 エルヴィンは帳面の頁をめくった。

 

「伯父上、料理長に、もうひとり分、席をよういしろって。『サウロス様の剣士の分だ』って」

 

 エリックはギレーヌの方を振り返った。

 ギレーヌはベンチに座ったまま、裏庭の木の枝に止まった小鳥を、ぼんやりと眺めていた。

 

「……エルヴィン。他に、何か」

「うん」

 

 エルヴィンは言いにくそうに帳面を閉じた。

 

「メイドたちが、はなしてた。ピレモン様は、女のひとの話ばっかりするって。それで、伯父上も」

 

 エルヴィンは言葉を探した。

 

「……伯父上も、じゅうぞくの剣士に、ずいぶん興味がおありのようで、って」

 

 エリックはしばらく黙っていた。

 伯父が父の剣士を名指しで呼んだ理由。

 書状を届けさせるためだけではない理由。

 

「……ありがとう、エルヴィン」

「うん」

 

 エルヴィンは帳面を胸に抱えた。

 二人が戻ると、ギレーヌは小鳥から目を離してエルヴィンを見た。

 

「……でかくなったな」

「六つです!」

「そうか」

 

 ギレーヌはエルヴィンの右手をちらりと見た。

 添え木はとっくに外れていた。見た目にはどこも悪くない手だった。

 

「手は」

「もう、いたくないです」

「そうか」

 

 ギレーヌはそれ以上訊かなかった。

 代わりに、エルヴィンの抱えている帳面を顎で指した。

 

「それは何だ」

「帳面です。ぼく、みたこととか、きいたこととか、ぜんぶ書いてるんです」

「全部か」

「ぜんぶ! きょうも、ギレーヌが来たって、書きました」

 

 エルヴィンは得意げに帳面を開いてみせた。

 まだ拙い字が、びっしりと並んでいた。

 

「……料理長の話も、そこに書いてあったのか」

「はい」

「メイドの話も」

「はい」

 

 ギレーヌはしばらく帳面を眺めていた。

 それから、ぽつりと言った。

 

「お前は、目がいい」

 

 エルヴィンが、きょとんとした。

 

「目?」

「人の顔を、よく見てる。人が言わないことを、拾ってる」

 

 ギレーヌはエルヴィンの頭に、ぽんと手を置いた。

 

「剣とは別の才能だ。大事にしろ」

 

 エルヴィンはしばらくぽかんとしていた。

 それから、じわじわと顔を赤くした。

 

「……ぼく、ほめられた?」

「褒めた」

「兄上! ぼく、ほめられた!」

「聞こえてる」

「書いていい!?」

「何を」

「ギレーヌに、目がいいってほめられたって!」

 

 エルヴィンは返事も待たずに帳面にペンを走らせ始めた。

 ギレーヌが、懐に手を入れた。

 

「……エルヴィン」

「はい?」

「これを」

 

 ギレーヌが差し出したのは、細い紐で結ばれた一通の手紙だった。

 エルヴィンはペンを止めた。

 

「……ぼくに?」

「ヒルダ様からだ」

 

 エルヴィンは帳面を石のベンチに置いて、両手で手紙を受け取った。

 それから、その場で紐を解いた。

 紙を広げる。

 六歳の弟は指で一文字ずつ追いながら、時間をかけて読んだ。時々読めない字があるのか、眉を寄せて止まった。それでも兄に訊こうとはしなかった。

 最後まで読み終えて、エルヴィンは顔を上げた。

 目が、赤くなっていた。

 

「……兄上」

「ん」

「母上、ぼくの字が読めるって」

「……そうか」

「ぼくが送った手紙、全部とってあるって。ぜんぶ、読めるって」

 

 エルヴィンは手紙を胸に抱きしめた。

 それから慌てて袖で目をこすって、帳面を拾い上げた。

 

「……書いとかなきゃ」

「何を」

「母上から、手紙が来た日」

 

 エルヴィンは鼻をすすりながら、ペンを握った。

 ギレーヌはその様子をしばらく見ていた。

 それから、ふいと顔を背けた。

 尻尾がゆっくりと一度だけ揺れた。

 

三

 

 伯父がギレーヌに告げたのは、エルヴィンが言った通りのことだった。

 

「書状、確かに受け取った。父上には返書を持たせる。準備に一日かかるゆえ、今夜と明日の晩は、この屋敷に泊まっていくといい」

 

 玄関の広間で、伯父はギレーヌにそう言った。

 

「明日の晩は、客人を招いている。ノトス家のピレモン殿だ。お前も同席しなさい。父上の自慢の剣士を、ピレモン殿もぜひ間近で見たいと仰せでな」

 

 ギレーヌは何も言わなかった。

 ただ獣の耳が、わずかに後ろに倒れた。

 

*

 

「行かない方がいいです」

 

 その夜、裏庭でエリックは言った。

 月が出ていた。石のベンチに腰掛けたギレーヌの顔が、白く照らされていた。

 

「断れん」

 

 ギレーヌは短く答えた。

 

「ジェイムズ様は、サウロス様の息子だ。あたしは、サウロス様の剣士だ。ジェイムズ様の誘いを断ったら、サウロス様の顔に泥を塗ることになる」

「でも」

「サウロス様に、迷惑はかけられん」

 

 ギレーヌの声は静かだった。けれど、そこには一歩も引かない硬さがあった。

 

「あたしは、サウロス様に拾われた。金もない、行くところもない、字も読めん獣族を、あの人は拾った」

 

 ギレーヌは夜空を見上げた。

 

「最初に会った時、あの人はこう言った。獣族だからどうこうではない、強いから雇う、とな。……あんな言い方をされたのは、初めてだった」

 

 エリックはギレーヌの横顔を見つめた。

 祖父の顔が頭に浮かんだ。屋敷中に響く大声。頭を鷲掴みにする大きな手。「恨むなら、わしを恨め」と言った夜の、低い声。

 

「その恩を、晩飯ひとつで仇にするわけにはいかん」

 

 止められない、と思った。

 この人は祖父のためなら何だってする。

 だったら。

 

「……分かりました」

 

 エリックは言った。

 

「じゃあ、明日の晩までに、練習しましょう」

「……練習?」

「作法です」

 

 ギレーヌの尻尾が、ばしっとベンチを叩いた。

 

「作法は、フィリップ様に習った」

「覚えてますか」

「……」

 

 ギレーヌは目を逸らした。

 

「右足を……半歩、引く。いや、左だったか」

「たぶん、右です」

「角度が、どうとか」

「はい」

「封蝋が……」

「書状はもう渡しましたから、それはいいです」

 

 ギレーヌは黙った。

 それから、観念したように溜息をついた。

 

「……三つ目あたりで、一つ目を忘れる」

「分かります」

「分かるのか」

「僕も、作法の授業は苦手です。先生の話が長くて」

 

 ギレーヌが、ちらりとエリックを見た。

 エリックは真面目な顔で頷いた。

 

「だから、父上の作法じゃなくて、僕のやり方で教えます」

 

 エリックはベンチの脇に落ちていた枝を拾った。

 

「いいですか。伯父上の食堂は、長い食卓の上座に伯父上が座ります。客人は、その右手。ギレーヌの席は、たぶん左手の、少し離れたところです」

 

 エリックは木の枝で地面に図を描いた。

 

「食堂に入ったら、まず、伯父上から三歩の距離で止まってください」

「三歩」

「それより近づくと、伯父上の後ろに控えている護衛が、剣に手をかけます。そういう決まりなんです。間合いだと思ってください」

 

 ギレーヌの耳が、ぴんと立った。

 

「……間合いか」

「間合いです」

「それなら分かる」

 

 ギレーヌはベンチから立ち上がった。そして、エリックが地面に描いた図の上で、三歩の距離を、足で確かめるように測った。

 

「ここだな」

「そこです」

 

「次」

「お辞儀です。これは、父上に習ったのと同じで、右足を半歩引きます」

「右足」

「それから腰を折る。でも目は伏せなくていいです。伯父上の手元を見ていてください」

「手元?」

「伯父上は何か企んでいる時、指で杯の縁をなぞる癖があります。それが見えたら気をつけてください」

 

 ギレーヌは右足を半歩引いた。そして腰を折った。

 ほとんど直角だった。

 

「……深すぎます」

「深い方が、礼儀正しいんじゃないのか」

「深すぎると、首の後ろががら空きになります」

 

 ギレーヌの動きが、ぴたりと止まった。

 それから、ゆっくりと顔を上げた。

 

「……それは、まずいな」

「まずいです」

「どれくらいだ」

 

 エリックはギレーヌの隣に立った。そして一瞬迷ってから、ギレーヌの背中に手を添えた。

 

「これくらいです。ここまで。これなら、いつでも起き上がって剣が抜けます」

 

 ギレーヌの背中は硬くて、温かかった。

 手を添えた瞬間、ギレーヌの尻尾が、ぴくりと跳ねた。

 

「……こうか」

「はい。そのまま、三つ数えて」

「一、二、三」

「起きてください」

 

 ギレーヌが身体を起こした。

 不格好ではなかった。完璧でもなかった。けれど隙はなかった。

 

 地面の図が、月明かりでは見えにくくなってきた。

 エリックは屋敷から紙とペンを持ってきて、ベンチの上に図を描き直した。食卓の配置。伯父の席。客人の席。ギレーヌの席。三歩の位置。

 

「これを持っていてください。明日の昼に、もう一度見て」

 

 ギレーヌは紙を受け取った。

 そして、しばらくそれを眺めてから、ぽつりと言った。

 

「……字は読めん」

 

 エリックは手を止めた。

 ギレーヌは紙から目を離さなかった。

 

「絵は分かる。ここが席で、ここが三歩だろう。でも、この字が何と書いてあるかは、分からん」

 

 エリックは自分が図に書き添えた文字を見た。

 

 「上座」「客人」「三歩」。何気なく書いた字だった。

「……すみません」

「謝ることじゃない」

 

 ギレーヌは紙を丁寧に折り畳んだ。

 

「読める必要がなかった。剣を振るのに、字は要らん」

 

 エリックは少し考えてから言った。

 

「教えましょうか」

 

 ギレーヌの手が止まった。

 

「……何をだ」

「字です。読み書き」

 

 沈黙が落ちた。

 月明かりの下で、ギレーヌの目がこちらを見ていた。

 

「……いや」

 

 ギレーヌは短く言った。

 

「いい」

「でも」

「今さら遅い」

 

 ギレーヌは折り畳んだ紙を懐にしまった。

 

「子供の頃に覚えなかった。村でも、教わる機会はあった。あたしが、要らんと言った。剣さえ振れればいいと思ってた」

 

 ギレーヌはベンチに座り直した。

 

「今になって困ってるのは、あの時のあたしのせいだ。自業自得だ」

「……」

「それに」

 

 ギレーヌはふいと顔を背けた。

 

「お前に教わるのは、なんか嫌だ」

「なんでですか」

「……なんとなくだ」

 

 エリックはそれ以上言わなかった。

 言っても無駄だと分かるくらいには、この人のことを知っていた。

 ただ胸の奥に、小さなしこりのようなものが残った。

 

「兄上! ギレーヌ!」

 

 植え込みの陰から声がした。

 エルヴィンが帳面を抱えて、こちらを覗いていた。

 

「エルヴィン。寝たんじゃなかったのか」

「ねてたけど、おきた。兄上がいないから」

 

 エルヴィンはとことことやってきて、石のベンチにちょこんと座った。

 

「ぼく、みてる。ギレーヌのおじぎ、へんだったら、いうから」

「……喧嘩を売ってるように見えたか」

 

 ギレーヌが、至極真面目な顔でエルヴィンに訊いた。

 

「うん。目がこわい」

「目は、生まれつきだ」

「じゃあ、ちょっとだけ、わらってみたら?」

 

 ギレーヌはエルヴィンの顔をじっと見た。

 それから口の端を、ぎこちなく持ち上げた。

 エルヴィンが、ひっと小さく悲鳴を上げた。

 

「……こわい」

「……そうか」

 

 ギレーヌの耳が、しょんぼりと垂れた。

 エリックは口元を手で覆った。

 

「……おい」

「すみません。面白かったので」

 

 ギレーヌの耳が、さらに垂れた。

 

「……正直に言うな」

「嘘は、つけないので」

「何やってるんだ、お前ら」

 

 今度は裏庭の反対側から声がした。

 ユリウスだった。寝間着の上に上着を羽織った、いつもの格好。

 ユリウスは月明かりの下で耳を垂らして立っているギレーヌを見て、それから、その隣のエリックを見て、それから、ベンチに座って帳面を抱えているエルヴィンを見た。

 

「……何やってるんだ、本当に」

「作法の練習です」

 

 エリックが答えた。

 

「明日の晩、伯父上が、ピレモン様を招いて食事をなさいます。ギレーヌも同席するように言われました」

「知ってる。僕も同席する」

 

 ユリウスはギレーヌの方をちらりと見た。それから、なぜか一歩後ずさった。

 

「……おい、エリック。その人、こっち見てるぞ」

「見てるだけです」

「目がこわい」

「生まれつきだそうです」

 

 ユリウスはしばらく三人の様子を眺めていた。それから、何かを考えるように、唇を噛んだ。

 

「……お前も、同席したいんだろ」

 

 エリックはユリウスを見た。

 

「明日の晩。その人のそばに、いたいんだろ」

「……伯父上が、お許しになりません」

「僕が言う」

 

 ユリウスはぶっきらぼうに言った。

 

「父上に僕から言っとく。エリックは、その人に剣を見てもらう約束をしてるから、同席させてやってほしいって」

「……従兄上」

「べ、別に、お前のためじゃない」

 

 ユリウスはそっぽを向いた。

 

「お前は僕の護衛だろ。だったら、護衛の剣の師匠をもてなすのは、主人の僕の役目だ。そういうことだ」

「ギレーヌは、僕の師匠では」

「弟子じゃない」

 

 ギレーヌが、すかさず言った。

 

「素振りを見てるだけだ」

「……そういうことにしておいてやる」

 

 ユリウスは踵を返した。

 

「おやすみ。早く寝ろよ、お前ら。特にエルヴィン。明日の授業、寝たら僕のせいにされる」

「従兄上がいつもねてるくせに」

「聞こえてるぞ!」

 

 ユリウスの足音が、廊下の向こうに遠ざかっていった。

 裏庭に、また三人が残された。

 

「……変わった奴だな、あれは」

 

 ギレーヌが、ぽつりと言った。

 

「前は、あんなじゃなかった気がする」

「このごろ、ちょっとかわったんだよ」

 

 エルヴィンが帳面に何かを書き込みながら言った。

 

「ぼくのてが、けがしてから」

 

 ギレーヌはエルヴィンの右手を見た。

 それからエリックの顔を見た。

 何も訊かなかった。

 

四

 

 夜明け前、エリックは中庭に下りた。

 ギレーヌはもうそこにいた。

 いつもの武芸奉納の朝と同じように。

 

「振ってみろ」

 

 エリックは振った。

 ギレーヌの構えで。去年の冬から一日も休まなかった素振りを。

 ギレーヌは十回ほど見て、腕をほどいた。

 

「……やめてないな」

「はい」

「構えろ」

 

 ギレーヌが木剣を手に取った。

 エリックも構えた。

 水神流の構えで。

 去年の冬、ギレーヌの耳を後ろに倒させた構え。

 今日のギレーヌの耳は倒れなかった。ただ、ぴんと立って、真っ直ぐにこちらを向いていた。

 

「来い」

 

 今日はギレーヌの方からではなかった。

 エリックは息を吸った。

 踏み込む――と、見せて。

 止まる。

 ギレーヌの木剣が、わずかに動いた。

 イゾルテの受けとは違った。ギレーヌの剣は受けるために動いたのではなかった。エリックの踏み込みを迎え撃つために、斬るために動いた。

 

 速い。

 目を、開けていた。

 見えた。

 ギレーヌの木剣が、自分の肩口に向かって振り下ろされる軌跡。

 

 受ける。

 水神流の受け。ギレーヌの剣の重さに、腕ごと持っていかれそうになる。去年の冬と同じだった。

 でも今年はそれを知っていた。

 持っていかれる方向に逆らわなかった。流されるまま身体を半回転させる。ギレーヌの剣の勢いを、そのまま自分の回転に変える。

 そして回転の終わりに、踏み込んだ。

 剣神流の踏み込みで。

 六年間、ベルンハルトに叩き込まれ、毎朝ギレーヌの構えで振り続けた、先に動いて先に斬る一歩で。

 

 木剣が伸びた。

 ギレーヌの脇腹に向かって。

 ギレーヌの身体が、ありえない速さで捻られた。

 エリックの木剣は空を切った。

 

 ――いや。

 

 かすかな手応えがあった。

 ギレーヌの袖が、ほんの少しだけ揺れていた。

 次の瞬間、エリックの額に、こつんと木剣が当たっていた。

 

 中庭が、しんと静まり返った。

 ギレーヌは木剣を下ろさなかった。

 エリックの額に木剣を当てたまま、自分の左の袖を見下ろしていた。

 袖の端に、ほんのわずかに、擦れた跡があった。

 

「……今の」

 

 ギレーヌが低い声で言った。

 

「何だ、今のは」

「……分かりません」

 

 エリックは正直に言った。

 自分でも何をしたのか分からなかった。受けて、流されて、回って、踏み込んだ。考えてやったのではなかった。身体が勝手に動いていた。

 

 ギレーヌはゆっくりと木剣を下ろした。

 

「踏み込むふりをして、あたしの剣を先に動かした。それを受けて、流して、その勢いで斬り込んできた」

 

 ギレーヌの目がエリックを見下ろした。

 

「今のは剣神流じゃない。水神流でもない。どっちでもない剣だ」

 

 エリックは額を押さえたまま、ギレーヌを見上げた。

 どっちでもない剣。

 怒られるのかと思った。自分の教えた剣でもなく、水神の教えた剣でもない、中途半端な剣だと。

 けれどギレーヌの声は怒っていなかった。

 

「……もう一回」

 

 エリックが言った。

 ギレーヌの眉が、ぴくりと上がった。

 

「今の、もう一回やらせてください。今度は袖じゃなくて、ちゃんと当てます。さっきは回転が半歩遅かったんです。受けた瞬間に回り始めれば、ギレーヌが身体を捻るより先に」

「……おい」

「もう一回お願いします。今のを身体に覚えさせたいんです。今度は」

「おい。お前」

 

 ギレーヌが、木剣の先でエリックの額を軽く小突いた。

 

「笑ってるぞ」

「……笑ってません」

「笑ってる。さっきの一合から、ずっと」

「気のせいです」

「耳がいいんだ、あたしは。お前の息が笑ってる」

 

 エリックは口元に手をやった。

 上がっていた。

 いつから。

 ギレーヌは木剣を構え直した。

 

「……もう一回だ」

「はい!」

「返事がでかい」

「すみません」

 

 夜明けの中庭に、木剣の音が響いた。

 一合。二合。三合。こつん。

 

「もう一回」

 

 一合。二合。こつん。

 

「もう一回」

 

 空が白み、金色に染まり、屋敷のどこかで朝の鐘が鳴った。

 その朝、エリックの木剣は二度とギレーヌの袖に届かなかった。

 けれどギレーヌの尻尾は最後の一合まで、ずっと左右に揺れていた。

 朝の鐘が鳴り終わると、ギレーヌは木剣を下ろした。

 

「……今夜だな」

 

 その声はいつもより低かった。

 エリックは額のこぶを押さえたまま、ギレーヌを見上げた。

 

「僕が、そばにいます」

 

 ギレーヌは何も言わなかった。

 ただエリックの頭に、ぽんと手を置いた。

 大きな手だった。硬くて温かかった。

 それから何も言わずに、回廊の方へ歩いていった。

 

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