一
ロアの屋敷の書斎で、ギレーヌは眠気と戦っていた。
「――よって兄上の前では、まず右足を半歩引き、左手を胸に当て、それから腰を折る。角度はこれくらいだ。深すぎても浅すぎてもいけない」
「……ん」
「書状を渡す時は両手で。封蝋が兄上の側を向くように。受け取られるまで、手を離してはならない」
「……ん」
「退室する時は、背を向けずに三歩下がってから――ギレーヌ、聞いているか」
「聞いてる」
聞いていなかった。
フィリップの話はいつも長くて理屈が多い。右足がどうの、角度がどうの、封蝋がどうの。一つ一つは分かるのだが、三つ目あたりで、一つ目が頭から抜けていく。
剣なら一度見れば覚えられるのに。
「……もう一度、最初から言ってくれ」
フィリップはこめかみを指で押さえた。
「これで三度目だ」
「そうか」
「そうか、ではない」
書斎の扉が勢いよく開いた。
「ギレーヌ!」
赤い髪の少女が転がるように飛び込んできた。
エリスだった。七つになったばかりの、この屋敷のお嬢様。ギレーヌが剣を教え、護衛をしている少女。
「王都に行くって本当!? ずるい! 私も行く!」
「駄目だ」
答えたのはフィリップだった。
「エリス、お前は留守番だ」
「なんで! ギレーヌだけずるい! 私も王都見たい!」
「遊びに行くのではない」
「じゃあ何しに行くのよ!」
「おじい様の書状を、伯父上に届けに行くのだ」
「それなら私だって届けられるわ!」
エリスはギレーヌの足にしがみついた。
「ギレーヌ、私も連れてって!」
「……フィリップ様が、駄目だと言ってる」
「ギレーヌまで!」
エリスはギレーヌの足をぽかぽかと叩いた。七つの子供とは思えない力だった。ギレーヌは少しだけ誇らしく思った。自分が教えた成果だ。
「エリス。いい子にしていたら、ギレーヌが王都の土産を買ってきてくれる」
「……ほんと!?」
エリスが、目を輝かせてギレーヌを見上げた。
ギレーヌはフィリップを見た。フィリップは目で「頷け」と言っていた。
「……ああ。買ってくる」
「約束よ! 剣! 剣がいい! 王都の剣!」
「剣は土産じゃない」
「じゃあ何ならいいのよ!」
エリスとギレーヌの押し問答を、フィリップは疲れたような顔で眺めていた。
出発の前の晩、ギレーヌは屋敷の廊下で呼び止められた。
「ギレーヌ」
ヒルダだった。
燃えるような赤い髪。エリスとよく似た顔。けれど、エリスとは違って、どこか張り詰めた、細い糸のような印象の人だった。
「これを」
ヒルダは二通の手紙を差し出した。どちらも封蝋はなく、丁寧に折り畳まれ、細い紐で結ばれている。
「エリックと、エルヴィンに」
ギレーヌは手紙を受け取った。
字は読めなかった。けれど、その手紙が、ただの手紙ではないことだけは分かった。ヒルダの指先が手紙を離すのを、ほんの一瞬だけためらったから。
「お義兄様の屋敷を通すと、届かないことが多いの。だから、あなたから直接」
「……分かった」
「……ねえ、ギレーヌ」
ヒルダは不安そうに、下の方の手紙を見た。
「エルヴィンは、もう字が読めるかしら」
「六つだ。読めるだろう」
「でも、まだ六つよ。難しい字は」
「帳面を持ち歩いてる」
ヒルダが顔を上げた。
「……帳面?」
「見たことを、何でも書き留めてるらしい。三冊目だと、去年の冬に自慢された」
「まあ」
ヒルダは口元を押さえた。
「あの子が。……三冊も」
「何を書いているの? 誰のことを? 字は、どんな字?」
ギレーヌはたじろいだ。
「……帳面の中身までは、見てない」
「そうよね。ごめんなさい」
ヒルダは小さく笑った。それからもう一度、同じことを訊いた。
「……帳面、三冊なのね」
「三冊だ」
「そう。三冊」
ヒルダはその言葉を何度も口の中で繰り返していた。
「ありがとう」
ヒルダは何か言いたげに唇を動かしかけて、やめた。
「……あの子、元気かしら」
「毎年会ってる。元気だ」
「そう。そうよね。武芸奉納で」
ヒルダはギレーヌの顔をじっと見つめた。
「剣を、見てあげているのよね。あの子の」
「素振りを、見てるだけだ」
「それでも」
ヒルダはギレーヌの手を、両手で包み込んだ。細い冷たい指だった。
「ありがとう。あの子のそばに、あなたがいてくれて」
ギレーヌは何と答えればいいのか分からなかった。
ヒルダが去った後、今度はフィリップが、廊下の暗がりから現れた。
「ギレーヌ。作法の話は、もう忘れていい」
「……いいのか」
「どうせ覚えていないだろう」
ギレーヌは黙った。図星だった。
フィリップは壁にもたれて、腕を組んだ。
「兄上がお前を名指しで呼んだ。父上は、裏を読まずに行ってこいと言った。だが私は兄上を知っている。兄上が、ただ書状を届けさせるためだけに、父上の剣士を名指しするはずがない」
「……何か、あるのか」
「分からん。だから、ひとつだけ覚えておけ」
フィリップはギレーヌの目を真っ直ぐに見た。
「兄上の屋敷で困ったら、私の長男を頼れ。エリックだ。あの屋敷のことは、あの子が一番よく知っている」
「……あいつを?」
「あれは私に似ている」
フィリップはわずかに口の端を持ち上げた。
「それから」
フィリップの声が、わずかに低くなった。
「息子の様子を、見てきてくれ。二人とも。どんな顔をしていたか。何を話したか。帰ってきたら、ヒルダに聞かせてやってほしい」
ギレーヌはフィリップの顔を見た。
いつも理屈ばかりで、何を考えているのか分からない男だった。けれど、今の顔は少しだけ分かる気がした。
「……分かった」
二
道場から屋敷に戻ると、門の前に見覚えのある背中があった。
褐色の肌。白い眼帯。獣の耳。
エリックは足を止めた。
春だった。武芸奉納は冬だ。ギレーヌが王都に来るはずがなかった。祖父の馬車もない。ギレーヌが、たった一人で門の前に立っていた。
「……ギレーヌ?」
ギレーヌが振り向いた。
「おう」
「どうして」
「書状を届けに来た。サウロス様から、ジェイムズ様に」
ギレーヌは懐から封書を取り出してみせた。ボレアス家の紋章の封蝋。
「門番に渡そうとしたら、ジェイムズ様に直接渡せと言われた。で、ジェイムズ様は留守だから、待てと」
ギレーヌは門の中を顎で指した。
「中で待てと言われたが、広間は落ち着かん。だからここで待ってる」
エリックはギレーヌの顔を見上げた。
去年の冬、雨の軒下で並んで座った時から、まだ半年も経っていない。
それなのに、ずいぶん久しぶりに会った気がした。
「……裏庭なら人が来ません」
エリックは言った。
「僕の稽古場です。座るところもあります」
裏庭の古い石のベンチにギレーヌは腰を下ろした。
エリックはその隣に立ったまま、ギレーヌが懐から取り出したものを受け取った。
手紙だった。封蝋はなく、細い紐で結ばれている。
「ヒルダ様からだ」
エリックは手紙を両手で持った。
母の字だった。少し右に傾いた、几帳面な文字。
母からの手紙は年に一度届けばいい方だった。それも伯父の手を経て届くもので、封は必ず一度切られていた。
この手紙は紐が結ばれたままだった。
「ジェイムズ様の屋敷を通すと、届かないことが多いと言ってた。だから、あたしが直接持ってきた」
「……ありがとうございます」
エリックは手紙を胸に押し当てた。
今は開けられなかった。一人になってから、ゆっくり読みたかった。
「それと、エルヴィンにも一通ある」
ギレーヌはもう一通の手紙を、懐から半分だけ出してみせた。
「後で、本人に渡す」
「……はい」
「それから、フィリップ様からの伝言だ」
ギレーヌは少し考えるように首を傾げた。
「困ったら、長男を頼れ。お前のことだ」
「……僕を?」
「あれは私に似ている、と言ってた」
エリックは目を瞬いた。
父がそんなことを。
「それと、息子の様子を見てこい、と」
ギレーヌはエリックの顔をじろじろと眺めた。
「……背が伸びたな」
「去年の冬から、少し」
「顔は、あんまり変わらん」
「……そうですか」
「帰ったら、そう言っとく」
ギレーヌは至極真面目な顔で頷いた。
「それだけですか」
「それだけだ」
「父上と母上に伝わるのが、それだけだと、少し困ります」
「……何を言えばいい」
「水神流の道場に、通い始めたこと。受けの型を、毎日三百回やっていること。イゾルテという姉弟子から、初日に一本取って、それきり一本も取れていないこと」
エリックは指を折って数えた。
「それから、エルヴィンの字が、去年より上手くなったこと。これは、見れば分かります」
ギレーヌはしばらく黙っていた。
「……三つ目あたりで、一つ目を忘れる」
「では、一つだけ。エルヴィンの字のことだけ、伝えてください」
「お前のことは、いいのか」
「僕のことは、背が伸びたで、たぶん足ります」
ギレーヌはしばらく考えてから頷いた。
「分かった。エルヴィンの字と、背が伸びた、だな」
「エリスは」
「剣を振ってる。毎日」
「強くなりましたか」
「七つにしては、強い」
「兄上!」
裏庭の入り口から、エルヴィンが駆けてきた。
腕に分厚い帳面を抱えていた。この頃のエルヴィンはどこへ行くにも帳面を持ち歩いている。見たこと、聞いたことを、何でも書き留めているのだ。
「ギレーヌだ! どうしたの、ぶげいほうのうじゃないのに」
「書状を届けに来た」
「ふうん」
エルヴィンはギレーヌの顔をじっと見た。それから兄の顔を見た。それから、また帳面を開いた。
「……兄上。ちょっと」
エルヴィンはエリックの袖を引いて、ベンチから少し離れたところまで連れていった。
そして声を潜めた。
「伯父上ね、明日の晩、お客さまをよぶんだって。料理長が、いつもよりごちそうをつくれって、いわれてた」
「……お客?」
「ノトスの、ピレモン様」
エリックは眉をひそめた。
ノトス家の当主。武芸奉納でギレーヌに自分の家の剣士を一歩でのされた家。
「それから」
エルヴィンは帳面の頁をめくった。
「伯父上、料理長に、もうひとり分、席をよういしろって。『サウロス様の剣士の分だ』って」
エリックはギレーヌの方を振り返った。
ギレーヌはベンチに座ったまま、裏庭の木の枝に止まった小鳥を、ぼんやりと眺めていた。
「……エルヴィン。他に、何か」
「うん」
エルヴィンは言いにくそうに帳面を閉じた。
「メイドたちが、はなしてた。ピレモン様は、女のひとの話ばっかりするって。それで、伯父上も」
エルヴィンは言葉を探した。
「……伯父上も、じゅうぞくの剣士に、ずいぶん興味がおありのようで、って」
エリックはしばらく黙っていた。
伯父が父の剣士を名指しで呼んだ理由。
書状を届けさせるためだけではない理由。
「……ありがとう、エルヴィン」
「うん」
エルヴィンは帳面を胸に抱えた。
二人が戻ると、ギレーヌは小鳥から目を離してエルヴィンを見た。
「……でかくなったな」
「六つです!」
「そうか」
ギレーヌはエルヴィンの右手をちらりと見た。
添え木はとっくに外れていた。見た目にはどこも悪くない手だった。
「手は」
「もう、いたくないです」
「そうか」
ギレーヌはそれ以上訊かなかった。
代わりに、エルヴィンの抱えている帳面を顎で指した。
「それは何だ」
「帳面です。ぼく、みたこととか、きいたこととか、ぜんぶ書いてるんです」
「全部か」
「ぜんぶ! きょうも、ギレーヌが来たって、書きました」
エルヴィンは得意げに帳面を開いてみせた。
まだ拙い字が、びっしりと並んでいた。
「……料理長の話も、そこに書いてあったのか」
「はい」
「メイドの話も」
「はい」
ギレーヌはしばらく帳面を眺めていた。
それから、ぽつりと言った。
「お前は、目がいい」
エルヴィンが、きょとんとした。
「目?」
「人の顔を、よく見てる。人が言わないことを、拾ってる」
ギレーヌはエルヴィンの頭に、ぽんと手を置いた。
「剣とは別の才能だ。大事にしろ」
エルヴィンはしばらくぽかんとしていた。
それから、じわじわと顔を赤くした。
「……ぼく、ほめられた?」
「褒めた」
「兄上! ぼく、ほめられた!」
「聞こえてる」
「書いていい!?」
「何を」
「ギレーヌに、目がいいってほめられたって!」
エルヴィンは返事も待たずに帳面にペンを走らせ始めた。
ギレーヌが、懐に手を入れた。
「……エルヴィン」
「はい?」
「これを」
ギレーヌが差し出したのは、細い紐で結ばれた一通の手紙だった。
エルヴィンはペンを止めた。
「……ぼくに?」
「ヒルダ様からだ」
エルヴィンは帳面を石のベンチに置いて、両手で手紙を受け取った。
それから、その場で紐を解いた。
紙を広げる。
六歳の弟は指で一文字ずつ追いながら、時間をかけて読んだ。時々読めない字があるのか、眉を寄せて止まった。それでも兄に訊こうとはしなかった。
最後まで読み終えて、エルヴィンは顔を上げた。
目が、赤くなっていた。
「……兄上」
「ん」
「母上、ぼくの字が読めるって」
「……そうか」
「ぼくが送った手紙、全部とってあるって。ぜんぶ、読めるって」
エルヴィンは手紙を胸に抱きしめた。
それから慌てて袖で目をこすって、帳面を拾い上げた。
「……書いとかなきゃ」
「何を」
「母上から、手紙が来た日」
エルヴィンは鼻をすすりながら、ペンを握った。
ギレーヌはその様子をしばらく見ていた。
それから、ふいと顔を背けた。
尻尾がゆっくりと一度だけ揺れた。
三
伯父がギレーヌに告げたのは、エルヴィンが言った通りのことだった。
「書状、確かに受け取った。父上には返書を持たせる。準備に一日かかるゆえ、今夜と明日の晩は、この屋敷に泊まっていくといい」
玄関の広間で、伯父はギレーヌにそう言った。
「明日の晩は、客人を招いている。ノトス家のピレモン殿だ。お前も同席しなさい。父上の自慢の剣士を、ピレモン殿もぜひ間近で見たいと仰せでな」
ギレーヌは何も言わなかった。
ただ獣の耳が、わずかに後ろに倒れた。
「行かない方がいいです」
その夜、裏庭でエリックは言った。
月が出ていた。石のベンチに腰掛けたギレーヌの顔が、白く照らされていた。
「断れん」
ギレーヌは短く答えた。
「ジェイムズ様は、サウロス様の息子だ。あたしは、サウロス様の剣士だ。ジェイムズ様の誘いを断ったら、サウロス様の顔に泥を塗ることになる」
「でも」
「サウロス様に、迷惑はかけられん」
ギレーヌの声は静かだった。けれど、そこには一歩も引かない硬さがあった。
「あたしは、サウロス様に拾われた。金もない、行くところもない、字も読めん獣族を、あの人は拾った」
ギレーヌは夜空を見上げた。
「最初に会った時、あの人はこう言った。獣族だからどうこうではない、強いから雇う、とな。……あんな言い方をされたのは、初めてだった」
エリックはギレーヌの横顔を見つめた。
祖父の顔が頭に浮かんだ。屋敷中に響く大声。頭を鷲掴みにする大きな手。「恨むなら、わしを恨め」と言った夜の、低い声。
「その恩を、晩飯ひとつで仇にするわけにはいかん」
止められない、と思った。
この人は祖父のためなら何だってする。
だったら。
「……分かりました」
エリックは言った。
「じゃあ、明日の晩までに、練習しましょう」
「……練習?」
「作法です」
ギレーヌの尻尾が、ばしっとベンチを叩いた。
「作法は、フィリップ様に習った」
「覚えてますか」
「……」
ギレーヌは目を逸らした。
「右足を……半歩、引く。いや、左だったか」
「たぶん、右です」
「角度が、どうとか」
「はい」
「封蝋が……」
「書状はもう渡しましたから、それはいいです」
ギレーヌは黙った。
それから、観念したように溜息をついた。
「……三つ目あたりで、一つ目を忘れる」
「分かります」
「分かるのか」
「僕も、作法の授業は苦手です。先生の話が長くて」
ギレーヌが、ちらりとエリックを見た。
エリックは真面目な顔で頷いた。
「だから、父上の作法じゃなくて、僕のやり方で教えます」
エリックはベンチの脇に落ちていた枝を拾った。
「いいですか。伯父上の食堂は、長い食卓の上座に伯父上が座ります。客人は、その右手。ギレーヌの席は、たぶん左手の、少し離れたところです」
エリックは木の枝で地面に図を描いた。
「食堂に入ったら、まず、伯父上から三歩の距離で止まってください」
「三歩」
「それより近づくと、伯父上の後ろに控えている護衛が、剣に手をかけます。そういう決まりなんです。間合いだと思ってください」
ギレーヌの耳が、ぴんと立った。
「……間合いか」
「間合いです」
「それなら分かる」
ギレーヌはベンチから立ち上がった。そして、エリックが地面に描いた図の上で、三歩の距離を、足で確かめるように測った。
「ここだな」
「そこです」
「次」
「お辞儀です。これは、父上に習ったのと同じで、右足を半歩引きます」
「右足」
「それから腰を折る。でも目は伏せなくていいです。伯父上の手元を見ていてください」
「手元?」
「伯父上は何か企んでいる時、指で杯の縁をなぞる癖があります。それが見えたら気をつけてください」
ギレーヌは右足を半歩引いた。そして腰を折った。
ほとんど直角だった。
「……深すぎます」
「深い方が、礼儀正しいんじゃないのか」
「深すぎると、首の後ろががら空きになります」
ギレーヌの動きが、ぴたりと止まった。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……それは、まずいな」
「まずいです」
「どれくらいだ」
エリックはギレーヌの隣に立った。そして一瞬迷ってから、ギレーヌの背中に手を添えた。
「これくらいです。ここまで。これなら、いつでも起き上がって剣が抜けます」
ギレーヌの背中は硬くて、温かかった。
手を添えた瞬間、ギレーヌの尻尾が、ぴくりと跳ねた。
「……こうか」
「はい。そのまま、三つ数えて」
「一、二、三」
「起きてください」
ギレーヌが身体を起こした。
不格好ではなかった。完璧でもなかった。けれど隙はなかった。
地面の図が、月明かりでは見えにくくなってきた。
エリックは屋敷から紙とペンを持ってきて、ベンチの上に図を描き直した。食卓の配置。伯父の席。客人の席。ギレーヌの席。三歩の位置。
「これを持っていてください。明日の昼に、もう一度見て」
ギレーヌは紙を受け取った。
そして、しばらくそれを眺めてから、ぽつりと言った。
「……字は読めん」
エリックは手を止めた。
ギレーヌは紙から目を離さなかった。
「絵は分かる。ここが席で、ここが三歩だろう。でも、この字が何と書いてあるかは、分からん」
エリックは自分が図に書き添えた文字を見た。
「上座」「客人」「三歩」。何気なく書いた字だった。
「……すみません」
「謝ることじゃない」
ギレーヌは紙を丁寧に折り畳んだ。
「読める必要がなかった。剣を振るのに、字は要らん」
エリックは少し考えてから言った。
「教えましょうか」
ギレーヌの手が止まった。
「……何をだ」
「字です。読み書き」
沈黙が落ちた。
月明かりの下で、ギレーヌの目がこちらを見ていた。
「……いや」
ギレーヌは短く言った。
「いい」
「でも」
「今さら遅い」
ギレーヌは折り畳んだ紙を懐にしまった。
「子供の頃に覚えなかった。村でも、教わる機会はあった。あたしが、要らんと言った。剣さえ振れればいいと思ってた」
ギレーヌはベンチに座り直した。
「今になって困ってるのは、あの時のあたしのせいだ。自業自得だ」
「……」
「それに」
ギレーヌはふいと顔を背けた。
「お前に教わるのは、なんか嫌だ」
「なんでですか」
「……なんとなくだ」
エリックはそれ以上言わなかった。
言っても無駄だと分かるくらいには、この人のことを知っていた。
ただ胸の奥に、小さなしこりのようなものが残った。
「兄上! ギレーヌ!」
植え込みの陰から声がした。
エルヴィンが帳面を抱えて、こちらを覗いていた。
「エルヴィン。寝たんじゃなかったのか」
「ねてたけど、おきた。兄上がいないから」
エルヴィンはとことことやってきて、石のベンチにちょこんと座った。
「ぼく、みてる。ギレーヌのおじぎ、へんだったら、いうから」
「……喧嘩を売ってるように見えたか」
ギレーヌが、至極真面目な顔でエルヴィンに訊いた。
「うん。目がこわい」
「目は、生まれつきだ」
「じゃあ、ちょっとだけ、わらってみたら?」
ギレーヌはエルヴィンの顔をじっと見た。
それから口の端を、ぎこちなく持ち上げた。
エルヴィンが、ひっと小さく悲鳴を上げた。
「……こわい」
「……そうか」
ギレーヌの耳が、しょんぼりと垂れた。
エリックは口元を手で覆った。
「……おい」
「すみません。面白かったので」
ギレーヌの耳が、さらに垂れた。
「……正直に言うな」
「嘘は、つけないので」
「何やってるんだ、お前ら」
今度は裏庭の反対側から声がした。
ユリウスだった。寝間着の上に上着を羽織った、いつもの格好。
ユリウスは月明かりの下で耳を垂らして立っているギレーヌを見て、それから、その隣のエリックを見て、それから、ベンチに座って帳面を抱えているエルヴィンを見た。
「……何やってるんだ、本当に」
「作法の練習です」
エリックが答えた。
「明日の晩、伯父上が、ピレモン様を招いて食事をなさいます。ギレーヌも同席するように言われました」
「知ってる。僕も同席する」
ユリウスはギレーヌの方をちらりと見た。それから、なぜか一歩後ずさった。
「……おい、エリック。その人、こっち見てるぞ」
「見てるだけです」
「目がこわい」
「生まれつきだそうです」
ユリウスはしばらく三人の様子を眺めていた。それから、何かを考えるように、唇を噛んだ。
「……お前も、同席したいんだろ」
エリックはユリウスを見た。
「明日の晩。その人のそばに、いたいんだろ」
「……伯父上が、お許しになりません」
「僕が言う」
ユリウスはぶっきらぼうに言った。
「父上に僕から言っとく。エリックは、その人に剣を見てもらう約束をしてるから、同席させてやってほしいって」
「……従兄上」
「べ、別に、お前のためじゃない」
ユリウスはそっぽを向いた。
「お前は僕の護衛だろ。だったら、護衛の剣の師匠をもてなすのは、主人の僕の役目だ。そういうことだ」
「ギレーヌは、僕の師匠では」
「弟子じゃない」
ギレーヌが、すかさず言った。
「素振りを見てるだけだ」
「……そういうことにしておいてやる」
ユリウスは踵を返した。
「おやすみ。早く寝ろよ、お前ら。特にエルヴィン。明日の授業、寝たら僕のせいにされる」
「従兄上がいつもねてるくせに」
「聞こえてるぞ!」
ユリウスの足音が、廊下の向こうに遠ざかっていった。
裏庭に、また三人が残された。
「……変わった奴だな、あれは」
ギレーヌが、ぽつりと言った。
「前は、あんなじゃなかった気がする」
「このごろ、ちょっとかわったんだよ」
エルヴィンが帳面に何かを書き込みながら言った。
「ぼくのてが、けがしてから」
ギレーヌはエルヴィンの右手を見た。
それからエリックの顔を見た。
何も訊かなかった。
四
夜明け前、エリックは中庭に下りた。
ギレーヌはもうそこにいた。
いつもの武芸奉納の朝と同じように。
「振ってみろ」
エリックは振った。
ギレーヌの構えで。去年の冬から一日も休まなかった素振りを。
ギレーヌは十回ほど見て、腕をほどいた。
「……やめてないな」
「はい」
「構えろ」
ギレーヌが木剣を手に取った。
エリックも構えた。
水神流の構えで。
去年の冬、ギレーヌの耳を後ろに倒させた構え。
今日のギレーヌの耳は倒れなかった。ただ、ぴんと立って、真っ直ぐにこちらを向いていた。
「来い」
今日はギレーヌの方からではなかった。
エリックは息を吸った。
踏み込む――と、見せて。
止まる。
ギレーヌの木剣が、わずかに動いた。
イゾルテの受けとは違った。ギレーヌの剣は受けるために動いたのではなかった。エリックの踏み込みを迎え撃つために、斬るために動いた。
速い。
目を、開けていた。
見えた。
ギレーヌの木剣が、自分の肩口に向かって振り下ろされる軌跡。
受ける。
水神流の受け。ギレーヌの剣の重さに、腕ごと持っていかれそうになる。去年の冬と同じだった。
でも今年はそれを知っていた。
持っていかれる方向に逆らわなかった。流されるまま身体を半回転させる。ギレーヌの剣の勢いを、そのまま自分の回転に変える。
そして回転の終わりに、踏み込んだ。
剣神流の踏み込みで。
六年間、ベルンハルトに叩き込まれ、毎朝ギレーヌの構えで振り続けた、先に動いて先に斬る一歩で。
木剣が伸びた。
ギレーヌの脇腹に向かって。
ギレーヌの身体が、ありえない速さで捻られた。
エリックの木剣は空を切った。
――いや。
かすかな手応えがあった。
ギレーヌの袖が、ほんの少しだけ揺れていた。
次の瞬間、エリックの額に、こつんと木剣が当たっていた。
中庭が、しんと静まり返った。
ギレーヌは木剣を下ろさなかった。
エリックの額に木剣を当てたまま、自分の左の袖を見下ろしていた。
袖の端に、ほんのわずかに、擦れた跡があった。
「……今の」
ギレーヌが低い声で言った。
「何だ、今のは」
「……分かりません」
エリックは正直に言った。
自分でも何をしたのか分からなかった。受けて、流されて、回って、踏み込んだ。考えてやったのではなかった。身体が勝手に動いていた。
ギレーヌはゆっくりと木剣を下ろした。
「踏み込むふりをして、あたしの剣を先に動かした。それを受けて、流して、その勢いで斬り込んできた」
ギレーヌの目がエリックを見下ろした。
「今のは剣神流じゃない。水神流でもない。どっちでもない剣だ」
エリックは額を押さえたまま、ギレーヌを見上げた。
どっちでもない剣。
怒られるのかと思った。自分の教えた剣でもなく、水神の教えた剣でもない、中途半端な剣だと。
けれどギレーヌの声は怒っていなかった。
「……もう一回」
エリックが言った。
ギレーヌの眉が、ぴくりと上がった。
「今の、もう一回やらせてください。今度は袖じゃなくて、ちゃんと当てます。さっきは回転が半歩遅かったんです。受けた瞬間に回り始めれば、ギレーヌが身体を捻るより先に」
「……おい」
「もう一回お願いします。今のを身体に覚えさせたいんです。今度は」
「おい。お前」
ギレーヌが、木剣の先でエリックの額を軽く小突いた。
「笑ってるぞ」
「……笑ってません」
「笑ってる。さっきの一合から、ずっと」
「気のせいです」
「耳がいいんだ、あたしは。お前の息が笑ってる」
エリックは口元に手をやった。
上がっていた。
いつから。
ギレーヌは木剣を構え直した。
「……もう一回だ」
「はい!」
「返事がでかい」
「すみません」
夜明けの中庭に、木剣の音が響いた。
一合。二合。三合。こつん。
「もう一回」
一合。二合。こつん。
「もう一回」
空が白み、金色に染まり、屋敷のどこかで朝の鐘が鳴った。
その朝、エリックの木剣は二度とギレーヌの袖に届かなかった。
けれどギレーヌの尻尾は最後の一合まで、ずっと左右に揺れていた。
朝の鐘が鳴り終わると、ギレーヌは木剣を下ろした。
「……今夜だな」
その声はいつもより低かった。
エリックは額のこぶを押さえたまま、ギレーヌを見上げた。
「僕が、そばにいます」
ギレーヌは何も言わなかった。
ただエリックの頭に、ぽんと手を置いた。
大きな手だった。硬くて温かかった。
それから何も言わずに、回廊の方へ歩いていった。